兄の遺したハーモニカに吹き込まれていたもの

遠景の山

兄が死んだのは、去年の冬だった。

四十一歳。膵臓がんだった。

私が知ったのは、兄が逝って三日が経ってからだった。

山間の村にある実家から、母の声で電話がかかってきた夜のことは、今でも鮮明に覚えている。

「お兄ちゃんが、ね……」

それだけ言って、母は泣き崩れた。

私は看護師だ。病院で働いて十二年になる。

毎日のように、誰かの死に立ち合う。感情を切り離して働くことには慣れているつもりだった。

でも、その夜は違った。受話器を持ったまま、廊下に座り込んで、声も出なかった。

兄は三年前から、膵臓がんを患っていたらしい。

「らしい」というのは、私が知らされていなかったからだ。

兄は私に黙っていた。母にも、「妹には言わないでくれ」と口止めしていたという。

理由は後から聞いた。

兄は、私が心配するのを嫌がっていた。

看護師として忙しく働いている私に、余計な荷物を背負わせたくなかったと。

「不器用な子でしょう。あなたへの遠慮が、あの子の愛情表現だったと思うよ」

母はそう言って、また泣いた。

私は怒っていた。悲しむより先に、怒りが来た。

三年間、何も知らなかった。正月に帰省して顔を合わせていたのに、一度も気づかなかった。

兄はずっと、笑っていた。

「元気そうでよかった」と言うたびに、兄は「そりゃそうだよ」と笑っていた。

あの笑顔の裏に、何があったのか。私には想像するしかない。

葬儀が終わり、遺品の整理をした。

兄は実家近くの古い一軒家で一人暮らしをしていた。山と田畑に囲まれた、静かな家だった。

荷物の少ない部屋だった。本棚、作業机、古いラジオ。

押し入れを開けると、段ボール箱がいくつか積まれていた。

一番上の箱を開けたとき、懐かしいものが出てきた。

幼い頃から兄が吹いていた、銀色のハーモニカだった。

小学生の頃、兄は毎晩縁側でハーモニカを吹いていた。夕暮れの山に音が溶けていく感じが好きで、私はよくそばで聞いていた。

中学に上がると吹かなくなった。受験、就職、それぞれの生活。いつの間にか、あのハーモニカのことも忘れていた。

手に取ると、ずっしりと重かった。大事にしまってあったのだろう、金属の部分が丁寧に磨かれていた。

口当ての部分をよく見ると、小さな紙片が差し込まれていた。

「スマホで再生して」とだけ書かれていた。兄の字だった。

紙片の裏に、短いURLが記されていた。

震える手でスマホに打ち込む。

音声ファイルのページが開いた。

再生ボタンを押したとき、最初に聞こえてきたのは、ハーモニカの音だった。

昔と同じ、あの曲だった。夕方になると縁側で吹いていた、名前も知らない穏やかなメロディ。

しばらくして、音が止んだ。

そして兄の声が聞こえた。

「咲、聞いてるか。俺が死んだあとに聞かせたくて、録音した」

その声は、静かだった。おびえてもいなかった。ただ、少しだけ、はにかんでいるように聞こえた。

「黙ってたことは謝る。怒ってるだろうけど、怒ってくれ。でも少し聞いてくれ」

兄は続けた。

「お前が看護師になって、毎日一生懸命働いてるのを、俺はずっと誇りに思ってた。病気のことを話したら、お前は仕事を休んで俺のそばにいようとする。それがわかってたから、言えなかった」

「迷惑かけたくなかったとか、そういうんじゃない。ただ、お前には患者さんのそばにいてほしかった。俺の代わりに、誰かを助けてくれ。それだけ頼む」

録音は、そこで終わりではなかった。

もう一度、ハーモニカが鳴り始めた。

今度は短く、三小節だけ。子供の頃に二人でよく歌った、あの夕焼けの歌だった。

私は縁側に出た。山の稜線が夕日で橙に染まっていた。

スマホを握ったまま、ずっと泣いた。

声を出して泣いたのは、いつぶりだったか。記憶にないくらい久しぶりだった。

春になって、仕事に戻った。

病室に入るたび、兄の声を思い出す。

「俺の代わりに、誰かを助けてくれ。」

私はあの録音を、今でも時々再生する。

兄の声を聞くたびに、泣く。でも、不思議と前に進める。

ハーモニカは今、私の部屋の棚に置いてある。吹けないけれど、吹けるようになりたいと思っている。

いつか縁側で、兄が吹いていたあの曲を、私が吹く日が来たら。

そのとき、約束が果たせた気がするから。

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