兄の遺したハーモニカに吹き込まれていたもの

遠景の山

兄が死んだのは、去年の冬だった。

四十一歳。膵臓がんだった。

私が知ったのは、兄が逝って三日が経ってからだった。

山間の村にある実家から、母の声で電話がかかってきた夜のことは、今でも鮮明に覚えている。

「お兄ちゃんが、ね……」

それだけ言って、母は泣き崩れた。

私は看護師だ。病院で働いて十二年になる。

毎日のように、誰かの死に立ち合う。感情を切り離して働くことには慣れているつもりだった。

でも、その夜は違った。受話器を持ったまま、廊下に座り込んで、声も出なかった。

※

兄は三年前から、膵臓がんを患っていたらしい。

「らしい」というのは、私が知らされていなかったからだ。

兄は私に黙っていた。母にも、「妹には言わないでくれ」と口止めしていたという。

理由は後から聞いた。

兄は、私が心配するのを嫌がっていた。

看護師として忙しく働いている私に、余計な荷物を背負わせたくなかったと。

「不器用な子でしょう。あなたへの遠慮が、あの子の愛情表現だったと思うよ」

母はそう言って、また泣いた。

私は怒っていた。悲しむより先に、怒りが来た。

三年間、何も知らなかった。正月に帰省して顔を合わせていたのに、一度も気づかなかった。

兄はずっと、笑っていた。

「元気そうでよかった」と言うたびに、兄は「そりゃそうだよ」と笑っていた。

あの笑顔の裏に、何があったのか。私には想像するしかない。

※

葬儀が終わり、遺品の整理をした。

兄は実家近くの古い一軒家で一人暮らしをしていた。山と田畑に囲まれた、静かな家だった。

荷物の少ない部屋だった。本棚、作業机、古いラジオ。

押し入れを開けると、段ボール箱がいくつか積まれていた。

一番上の箱を開けたとき、懐かしいものが出てきた。

幼い頃から兄が吹いていた、銀色のハーモニカだった。

小学生の頃、兄は毎晩縁側でハーモニカを吹いていた。夕暮れの山に音が溶けていく感じが好きで、私はよくそばで聞いていた。

中学に上がると吹かなくなった。受験、就職、それぞれの生活。いつの間にか、あのハーモニカのことも忘れていた。

手に取ると、ずっしりと重かった。大事にしまってあったのだろう、金属の部分が丁寧に磨かれていた。

口当ての部分をよく見ると、小さな紙片が差し込まれていた。

「スマホで再生して」とだけ書かれていた。兄の字だった。

※

紙片の裏に、短いURLが記されていた。

震える手でスマホに打ち込む。

音声ファイルのページが開いた。

再生ボタンを押したとき、最初に聞こえてきたのは、ハーモニカの音だった。

昔と同じ、あの曲だった。夕方になると縁側で吹いていた、名前も知らない穏やかなメロディ。

しばらくして、音が止んだ。

そして兄の声が聞こえた。

「咲、聞いてるか。俺が死んだあとに聞かせたくて、録音した」

その声は、静かだった。おびえてもいなかった。ただ、少しだけ、はにかんでいるように聞こえた。

「黙ってたことは謝る。怒ってるだろうけど、怒ってくれ。でも少し聞いてくれ」

兄は続けた。

「お前が看護師になって、毎日一生懸命働いてるのを、俺はずっと誇りに思ってた。病気のことを話したら、お前は仕事を休んで俺のそばにいようとする。それがわかってたから、言えなかった」

「迷惑かけたくなかったとか、そういうんじゃない。ただ、お前には患者さんのそばにいてほしかった。俺の代わりに、誰かを助けてくれ。それだけ頼む」

録音は、そこで終わりではなかった。

もう一度、ハーモニカが鳴り始めた。

今度は短く、三小節だけ。子供の頃に二人でよく歌った、あの夕焼けの歌だった。

私は縁側に出た。山の稜線が夕日で橙に染まっていた。

スマホを握ったまま、ずっと泣いた。

声を出して泣いたのは、いつぶりだったか。記憶にないくらい久しぶりだった。

※

春になって、仕事に戻った。

病室に入るたび、兄の声を思い出す。

「俺の代わりに、誰かを助けてくれ。」

私はあの録音を、今でも時々再生する。

兄の声を聞くたびに、泣く。でも、不思議と前に進める。

ハーモニカは今、私の部屋の棚に置いてある。吹けないけれど、吹けるようになりたいと思っている。

いつか縁側で、兄が吹いていたあの曲を、私が吹く日が来たら。

そのとき、約束が果たせた気がするから。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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