母の常連ノート

静かな海辺のカフェ風夜景

母が亡くなって、四十九日が過ぎた頃のことだった。

食堂の解体が来週に決まったという連絡が、不動産屋から届いた。

私は出版社に三日間の休みを願い出て、福井へ帰ることにした。

※

東京駅から金沢、そこから北陸線で小浜へ。

ホームに降りると、潮の匂いが立ちのぼってきた。

子どもの頃と、何も変わらない匂いだった。

ただ、迎えに来る人は、もう誰もいない。

改札を抜け、駅前のロータリーに立つと、五月の風が、まだ少し冷たかった。

タクシーには乗らず、私は港の方角へ、ゆっくりと歩き出した。

※

母の店「めぐみ食堂」は、小浜の漁港の脇に、慎ましく構えていた。

カウンター七席と、奥に座敷が一卓。

それだけの店を、母は十五年、ひとりで守り続けてきた。

私が中学のとき、父が肝臓を悪くして急に逝った。

四十九歳だった。

そのときから、母は黙々と店を続けてきた。

店の引き戸は、いつものように、少し力を入れないと開かなかった。

祖父の代から続く、この戸の建てつけの悪さも、もう来週には、なくなってしまう。

カウンターの板は、長年の魚の脂で、深い飴色に光っていた。

壁には、母が書いた「本日の一品」の紙が、まだ残っていた。

そこには「あおさのおみそ汁」とだけ、書かれていた。

母が、最後の日に出していた一品だった。

※

店の鍵を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

カウンターの上に、うっすらと埃が積もっている。

母がいなくなったのは、ほんの三ヶ月前のことなのに、店はもう、誰もいない時間の匂いをまとっていた。

胃癌だった。

見つかったときには、もう、できることが少なかった。

最後の三週間だけ、私は東京から戻り、母の枕元で過ごした。

最後まで、母はあまり喋らなかった。

「あんた、東京に戻りなさい」とだけ、何度も繰り返した。

それが、母の最後の言葉だった。

※

母は、無口な人だった。

私が小さい頃から、必要以上のことは言わない人だった。

朝、目を覚ますと、台所で味噌汁の匂いがしていた。

学校から帰ると、おやつが座卓に置いてあった。

「食べなさい」とも「お疲れさま」とも言わない。

ただ、そこに、置いてあった。

小学校の参観日のとき、私はそっと教室の後ろを振り返ったことがある。

母は来てくれていた。

ただ、誰とも話さず、廊下側の窓際に立って、ただ、私を見ていた。

他のお母さんたちが連れ立って話しているなか、母はひとり、何も言わずに、立っていた。

帰り道、私は「なんで誰とも話さないの」と訊いた。

母は「見にきたから」とだけ答えた。

それ以上のことは、何も言わなかった。

私は、その答えが、長いあいだ、不器用な言い訳だと思っていた。

※

店に立つようになってからも、母はそうだった。

カウンター越しに客の話を聞きはするけれど、自分から話しかけることはなかった。

私はずっと、母をそういう人だと思っていた。

愛情を表現するのが下手なだけではない──たぶん、人にあまり興味のない人なのだろうと。

中学に上がる頃には、もう諦めていた。

母から温かい言葉を引き出そうとするのを。

東京の大学に出てからは、帰省するのも、年に数回になった。

電話をしても、母は「うん」「ああ」と返すだけだった。

私は、そういう距離を、いつしか心地よく感じていた。

近くにいると、母の沈黙が、私を責めているように思える日があったからだ。

※

店の片付けは、ひとりでやることにした。

業者を頼むほどの家財はなかったし、何より、母の遺したものを、見知らぬ誰かに触られたくなかった。

割烹着、菜箸、年季の入った中華鍋、欠けた湯呑み。

ひとつずつ、段ボールに入れていく。

母が触れていたものが、ひとつずつ、消えていく。

その作業を、私はなぜか急いでやっていた。

ゆっくりやると、何かに飲まれそうな気がした。

※

カウンターの下の、いちばん奥の引き出しを開けたのは、二日目の夕方だった。

奥に、紐で十字に縛られた、ノートの束があった。

埃が積もっていて、布巾でひと拭いすると、紺色の表紙が現れた。

大学ノートが、十二冊。

いちばん上のノートを取り上げると、表紙に母の几帳面な字で、こう書かれていた。

「お客さんノート 平成二十三年 春」

私は、その文字を、しばらく、じっと見つめた。

母が、ノートをつけていたなんて、聞いたこともなかった。

※

紐をほどいて、いちばん古いノートを開いた。

最初のページには、店の見取り図と、テーブルごとの席番号が書かれていた。

次のページから、客の名前が並んでいた。

「中谷源造さん 六十三歳 漁師 松鶴丸の船長」

「焼き魚定食 ぶり大根 日本酒『梵』のお燗 甘いものは食べない 奥さんが糖尿病」

母の字で、淡々と、書かれていた。

私は、ページをめくる手が、止まらなくなった。

※

「鈴木フミさん 七十二歳 近所 夫の鈴木幸夫さん七十四歳と来店」

「おでん 大根とこんにゃくを大きめに切ること 鈴木さんは入れ歯」

「フミさん、孫の話をよくする。長男の娘の結衣ちゃん(小四)と、次男の息子の慎之介くん(小一)」

「平成二十三年六月、フミさんの夫、入院。一人で来るようになる。話し相手になってほしいような顔をしている。とくに何も訊かないようにする」

母は、何も訊かなかった。

そう、書いてあった。

訊かないことが、母の優しさだったのだ。

※

ノートをめくっていくうちに、私は、母の店の十五年が、ゆっくりと立ち上がってくるのを感じた。

中谷さんは平成二十六年に船を譲り、引退した。

「中谷さん、最後の漁の話を一度だけした。それから一度もしない。話したくないのかもしれない」

鈴木さんの夫は、平成二十五年に亡くなった。

「フミさん、葬式の翌週から、また来てくれた。おでんを一品多く出す。お代はいただかない」

そうやって、母は、自分の店に来てくれる一人ひとりを、書き留めていた。

※

四冊目のページに、もう一人、印象に残る名前があった。

「谷口康子さん 六十八歳 近所のクリーニング屋」

「うどん(柔らかめ) 卵を落とす 味は薄め お父さんの介護で疲れている」

「谷口さん、最近、髪を染めるのをやめた。何も訊かない。お代わりをそっと出す」

「平成三十年十二月、谷口さんのお父さん、亡くなる。葬式の翌日も来てくれた。湯豆腐を作った。何も訊かなかった」

ページの隅に、走り書きで、こうあった。

「谷口さん、たぶん、自分のことを話してくれる人を、もう亡くしたのだろう」

母は、客のために、ノートを書いていただけではなかった。

書くことで、彼らの孤独に、寄り添っていた。

※

ノートには、客の好物だけでなく、顔色や、足取りや、季節ごとの体調のことまで、細かく書かれていた。

「岡村さん、今日は咳がひどい。雑炊にして塩を少し控えた」

「井上さんの奥さん、お腹が大きくなってきた。塩を抜いた味噌汁を出した。出汁を多めに」

「岩崎さん、今日は息子と来た。久しぶりに笑っていた。煮魚、いつもより骨を丁寧に取った」

「井上さんの息子さん、中学に上がったらしい。眉毛が父親に似ている、と奥さんが嬉しそうだった」

「岩崎さんの娘さん、結婚したらしい。お酒を一杯多く頼んだ。注がずに、自分で注がせた」

「中谷さん、奥さんを亡くした。一人で来るようになる。話すことが少ない。ぶり大根を作って待つ」

ひとつひとつのページに、人の人生の節目が、淡々と書き込まれていた。

母は、客の顔を、見ていたのだった。

何も言わずに。

ただ、見て、書いて、料理に込めていた。

私は、カウンターの椅子に座り込んで、しばらく、ノートを撫でていた。

※

七冊目を開いたとき、見覚えのある名前が出てきた。

「林辰雄」──父の名前だった。

亡くなる前の年、父がまだ少しは元気だった頃の記述だった。

「辰雄さん、店に顔を出してくれた。久しぶりに『うまい』と言ってくれた。寡黙な人だけれど、料理を残したことは一度もない」

私は、はっとした。

母は、夫である父のことすら、客と同じノートに書いていたのだ。

それは、冷たいことではなかった。

たぶん、母にとって、「書く」ということは、その人を見続けることだった。

書くことでしか、関わり方を知らなかったのかもしれない。

父が亡くなった月のページには、こう書かれていた。

「辰雄さん、来なくなった。もう、来てくれない」

それだけだった。

けれど、その一行のあとに、小さな丸が一つ、ボールペンで打たれていた。

句点でも、文字でもない、ただの、丸だった。

私は、その丸を、長いあいだ、見つめていた。

※

夜になっていた。

外で、潮の匂いが濃くなっていた。

私は、最後の一冊を、いちばん最後に手に取った。

表紙には「お客さんノート 令和八年」とあった。

母が亡くなる年の、最後のノートだった。

開く前に、私は、深く息を吸った。

ここに、何が書かれているのか。

それを見ることが、怖いような気がしていた。

※

表紙の裏に、母の字で、こう書かれていた。

「林 涼子」

私の、名前だった。

息が、止まった。

その下に、年表のように、文字が並んでいた。

※

「平成二十二年四月 涼子、東京の出版社に就職。本当は近くにいてほしかったけれど、言わなかった」

「平成二十六年八月 涼子、髪を短くして帰省。何かあったのかもしれない。訊かなかった」

「平成三十年正月 涼子、男の人を連れてきた。優しそうな人だった。あとから、別れたと聞いた」

「令和三年五月 涼子、コロナで帰れず。電話の声が痩せていた。本を一冊送った」

「令和五年お盆 涼子、少し痩せた。仕事が忙しいのかもしれない。何も言わなかった」

「令和七年八月 涼子、父の十五回忌。何も訊かなかった。涼子も、何も話さなかった」

ひとつひとつの記述の合間に、小さな空白の行があった。

そこに、書かなかった言葉が、母には、たくさんあったのだろう。

※

ページを、めくった。

「令和八年一月 胃の検査の結果が出た。涼子には言わない」

「令和八年二月 涼子に電話。声が震えた。気づかれなかったかもしれない」

「令和八年三月 涼子、東京から戻ってきた。三週間休みを取ったらしい。やっぱり、話したい話なんて、ない」

そして、最後のページ。

書いたボールペンの色が、違っていた。

最後の三行は、震えるような、薄い字だった。

※

「令和八年三月十五日 涼子、お粥を作ってくれた。久しぶりに、よく食べた」

「ありがとう、とは言えなかった」

「明日もまた、来てくれるかもしれない」

※

母は、その翌日──三月十六日の朝、息を引き取った。

私は、最後の三行を、何度も、何度も、読んだ。

ボールペンの跡が、ノートの紙を、わずかに凹ませていた。

母は、痩せ細った指で、それでも、書こうとしていたのだった。

私のことを。

書き続けてきた、十五年間と、同じように。

※

涙は、すぐには出てこなかった。

私はノートを閉じて、しばらく、店の窓から外を見ていた。

海が、月明かりで、銀色に光っていた。

潮の音が、店の壁を撫でるように、聞こえていた。

母は、ここで、毎日、この音を聞いていたのだろう。

そして、客の顔を見て、彼らの暮らしを、書き続けていた。

ひとりで。

誰にも、見せずに。

そのなかに、私もいた。

※

母は、無口な人だった。

何も訊かない人だった。

愛情を表現するのが下手な人だと、私はずっと思ってきた。

違ったのだ。

母は、書いていた。

書くことが、母の話し方だったのだ。

そう気づいたとき、ようやく、頬に温かいものが落ちた。

「お母さん」と、私は、誰もいない店に向かって、小さく呼んだ。

返事は、なかった。

けれど、返事がないことが、母らしい答えのような気がした。

※

私は、ノートを胸に抱いて、店の電気を消した。

「明日もまた、来てくれるかもしれない」

その一行を、私は、自分のなかにずっと持っていようと思った。

母の店は、来週、なくなる。

けれど、母の言葉は、私のなかに、残った。

ずっと、書かれていた。

私は、ずっと、見られていた。

※

東京に戻る列車のなかで、私はノートを膝に乗せ、また最初から開いた。

中谷さんのページに、鈴木さんのページに、谷口さんのページに、岡村さんのページに、岩崎さんのページに。

母の十五年が、潮の匂いと一緒に、よみがえってきた。

母は、店をやっていたのではない。

母は、見ていた人を、ずっと忘れないように、書き続けていたのだった。

そのなかに、私もいた。

それで、十分すぎた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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