車椅子の席と運転手さんの一言

バスの車内(フリー写真)

十歳の息子は、車椅子で暮らしている。

病気のせいだけでなく、薬の副作用で、体は丸くふくらんでいる。

耳も聞こえにくいので、声が大きい。

知能は年齢のとおりだから、周りの視線の意味が、全部分かってしまう。

そんな息子と私が、月に二度、バスに乗る。

バスの車椅子の席は、私たちにとって、外の世界でいちばん安全な場所のはずだった。

雨の通院日の朝

通院の日の朝は、いつも早い。

薬を飲ませ、体温を測り、リュックに連絡帳とタオルを詰める。

薬は、朝に三種類、夜に二種類。

苦い粉薬を、息子は何も言わずに飲み干す。

空になったコップを私に見せて、「ほら」と得意げに笑う。

そのたびに、私のほうが泣きそうになる。

着替えは、息子が自分でやりたがる。

袖に腕を通すだけで、五分かかる。

手伝おうとすると、息子は必ず言う。

「お母さん、自分でやる」

その声はやっぱり大きくて、朝の台所にまっすぐ響く。

私は手を引っこめて、お茶を入れ直す。

去年の春、スーパーの入口で、見知らぬ男の人に言われたことがある。

「そんな体で、よく外に出られるね」

あの日から、息子は人混みでは、私の後ろに隠れるようになった。

学校でも、同じだった。

同級生の何人かは、息子を「ダルマ」とあだ名で呼んだ。

息子はそれを、親しみだと思おうとしていた。

「みんな、ぼくのことを覚えてくれてるんだよ」

そう言って笑う顔を見るたび、私は台所で声を殺した。

親子の迷いに寄り添う話を読み返す夜もある。たとえば二十個目の錫の湯呑みの物語が、そうだった。

息子のリュックには、バスの絵が貼ってある。

路線番号と、運転手さんの似顔絵だ。

松岡さんの似顔絵は、帽子がやけに大きい。

出かける前に、私はいつも天気予報を見る。

雨の日は、車椅子の車輪が濡れる。

濡れた車輪は、エレベーターの床を汚す。

それを嫌がる視線に、何度も出会ってきた。

どこへ行くにも、まずトイレの場所を調べる。

エレベーターの有無を調べる。

そんなことが、いつの間にか、私の癖になっていた。

その日は朝から雨だった。

県立病院へ向かう路線バスは、駅前のロータリーから出る。

車椅子の席の前

運転席のすぐ後ろに、車椅子の席がある。

折りたたみ式の座席を上げると、息子の車椅子がちょうど収まる。

いつも声をかけてくれる運転手さんが、今日も立ち上がって、手伝ってくれた。

「おはよう。今日は雨だね。足元、気をつけて」

五十代くらいの、少し白髪まじりの運転手さんだ。

ネームプレートには「松岡」とあった。

松岡さんと初めて話したのは、去年の秋だった。

息子の車椅子の固定ベルトが、うまく留まらなかった日だ。

後ろには、発車を待つ乗客が並んでいた。

私が焦っていると、運転手さんは時計も見ずに言った。

「急がなくていいですよ。バスは、お客さんが乗ってから出るものですから」

その一言で、肩の力が抜けた。

息子は嬉しそうに、運転席のほうへ身を乗り出した。

「松岡さん、おはようございます!」

車内に響いた声に、何人かの乗客が振り返った。

息子は、降りるときにも大きな声で言う。

「ありがとうございました!」

すると運転手さんの帽子が、一度だけ小さく揺れる。

それが、二人だけの挨拶だった。

私は毎回、その数秒に救われてきた。

病院のある日の私は、息を詰めて過ごしている。

でもバスの運転席の後ろだけは、少しだけ息ができた。

その日、車椅子の席の近くで、立たされた人たちがいた。

運転手さんが「車椅子のお客様がいらっしゃいますので」と声をかけて、席を空けてもらったのだ。

空いた席に座っていたのは、小さな子連れの母親たちのグループだった。

子どもを抱いた人も、畳んだベビーカーを立てかけた人もいる。

その人たちが露骨に顔をしかめたのが、背中越しに分かった。

バスが動き出してしばらくすると、後ろから声が聞こえた。

私に向けた声ではない。

雑談のふりをした、聞こえよがしの声だった。

「あんなに太って、見ていて嫌になる」

「税金で暮らしてるのに、席まで取るんだね」

「ああいう子は、外に出てこなければいいのに」

笑い声が、小さく重なった。

私は前を向いたまま、手すりを握りしめた。

指の関節が、白くなっていくのが分かった。

言い返せば、息子に聞かせることになる。

黙っていても、息子には聞こえている。

どちらを選んでも、息子が傷つく。

そんな場所に、私たちは何度も立たされてきた。

息子が、ふと私を見上げた。

「お母さん、降りようか?」

声の大きさは、いつもと同じだった。

聞こえていないはずがなかった。

聞こえているのに、私を守ろうとして言ったのだ。

その一言で、私の中の何かが切れた。

振り返って、できるだけ静かに言った。

「あの、息子が何かご迷惑をおかけしましたか」

返ってきたのは、笑い声だった。

「何か? だって(笑)。うける」

「うちは娘だから、ああいうのに目をつけられたくないよね」

誰かが吐き捨てるように「きも」と言った。

息子の肩が、小さく震えた。

思い出したくない言葉が、次々と胸に浮かんだ。

娘のいる母親が、娘のいない母親を見下ろしている。

それがどれほど愚かな比べ方か、あの人たちは分かっていない。

けれど、分かってほしいとも、もう思えなかった。

目の前が、すっと暗くなった。

降りるのはどちらか

もう降りよう、と思った。

この路線は、二度と使わない。

苦情だけを入れて、病院へはタクシーで通えばいい。

そう決めて、車椅子の固定ベルトに手をかけた。

そのとき、バスが次の停留所に、ゆっくりと止まった。

運転手さんが、マイクを握った。

「えー、奥さん。ここで降りてください」

血の気が引いた。

やっぱり、私たちが悪者なのか。

息子も、不安そうに運転席を見つめていた。

「あ、お母さんじゃなくて」

運転手さんは、バックミラー越しに後ろを見て、続けた。

「後ろにいらっしゃる、お子さん連れの奥様方です」

「他のお客様のご迷惑になりますので、こちらで降りてください」

車内が、静まり返った。

私は息子と顔を見合わせた。

息子はぽかんと口を開けていた。

指された母親たちも、ぽかんとしていた。

次の瞬間、後ろの座席から声が上がった。

「さっさと降りろ。うるさいんだよ」

「食べこぼしぐらい、片付けて行きなさいよ」

「ほら、行きなさい」

ずっと黙っていた乗客たちの声だった。

スーツ姿の男の人。

買い物袋を抱えたおばあさん。

制服の高校生まで、小さく頷いていた。

母親たちは、顔を赤くして立ち上がった。

降りる間際、一人が運転手さんを睨んで言った。

「クレーム入れてやる。覚えてなさいよ」

「はい、どうぞ。運賃は結構ですから、早くお降りください」

運転手さんは、顔色ひとつ変えなかった。

ドアが閉まって、バスが再び動き出す。

バスは、予定より二分遅れて走り出した。

運転手さんは、マイクでひとこと「お急ぎのところ、失礼しました」と詫びた。

誰一人、舌打ちをしなかった。

ワイパーの音だけが、規則正しく窓を拭いていた。

車内の後ろのほうで、誰かが小さく拍手をした。

それが、少しずつ広がった。

私は、座席の背に額を押し当てた。

涙が、止まらなかった。

隣の席のおばあさんが、そっと袋を差し出した。

「これ、よかったら」

みかん飴が、二つ入っていた。

「ごめんなさいね。もっと早く、何か言えればよかったのに」

「いえ。ありがとうございます」

息子は飴を受け取って、ささやいたつもりの声で言った。

「ありがとうございます」

ささやき声は、やっぱり車内に響いた。

バスの中の空気が、ほんの少しだけ軽くなった。

人の悪意と同じ数だけ、人の善意もここにあるのだと、私はそのとき初めて思った。

あの日のことは、父の柄杓に残る十八の刻みのような静かな愛情の物語と一緒に、今も胸の引き出しにしまってある。

帽子が揺れた終点

窓の外では、病院の灰色の建物が、雨の向こうに近づいてきた。

息子は膝の上で、バスの絵のリュックを抱きしめていた。

「お母さん、松岡さん、かっこよかったね」

「うん。かっこよかったね」

私は、息子の頭をそっと撫でた。

雨は、いつの間にか小降りになっていた。

終点の病院前で、私は運転手さんに頭を下げた。

「ありがとうございました。本当に……」

言葉が、続かなかった。

運転手さんは帽子の庇に指を添えて、少し照れたように笑った。

「迷惑行為をお断りするのは、私たちの仕事ですから」

「それに」

彼は息子のほうを、ちらりと見た。

「毎日あんなに大きな声で挨拶してくれる坊ちゃんに、こっちが助けられてるんです」

息子は目を丸くしてから、いつもよりさらに大きな声で言った。

「ありがとうございました!」

運転手さんの帽子が、一度だけ、小さく揺れた。

帰りのバスで、息子が言った。

「お母さん、あの人たち、おなかすいてたのかな」

「どうして?」

「だって、お菓子をいっぱいこぼしてたから」

私は笑って、少しだけ、また泣いた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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