
カメラを現像に出したのは、それから二十年ぶりだった。
封を破った紙袋から転がり落ちた使い切りカメラは、真ん中で半分に折れそうなくらい、薄汚れていた。
それが、私の人生で最も怖くて、最も大事なフィルムになるとは、あの時の私は、知らなかった。
私は凪という。
日本海側の北の町で、親から継いだ小さな写真館を、一人で営んでいる。
三十歳。独身。
店は祖父が戦後に建てたもので、看板は木で、冬になると潮で錆びる。
客足はもう、ずいぶん前から遠い。
七五三と、成人式と、ごくたまの遺影の撮影だけで、なんとか光熱費が賄えている。
瑛子は、私の幼馴染だった。
家が三軒隣で、母親同士が仲が良くて、生まれたときからずっと一緒だった。
彼女の家は代々、昆布漁の漁師で、父親は沖に出ては、帰ってきては、よく笑っていた。
私の家は、町でたった一軒の写真館だった。
彼女の家族写真はすべて、私の父が撮ってきた。
家族が一人増えるたびに、一人減るたびに、瑛子の一家は、うちの店で肩を並べた。
瑛子は、よく泣く子だった。
学校で転んでも、テストで間違えても、犬に吠えられても、すぐに泣いた。
私はその逆で、ほとんど泣かない子だった。
だから瑛子は、私のことを「凪のくせに風みたい」と言ってからかった。
代わりに、私の前では、よく声を出して笑ってくれた。
小学六年の卒業遠足で、私たちは使い切りカメラを、たった一本だけ買った。
二十四枚。
二人で半分ずつ、帰るまでに撮り切るのがルールだった。
カメラの裏には、文字を切り抜いたシールを貼った。
凪という私の名前の「凪」と、瑛子の「瑛」を、それぞれのレンズの横に並べた。
二人で撮り切れなかった。
遠足の帰りのバスで、瑛子が先に寝てしまって、残り五枚が撮れないまま、カメラは彼女のランドセルの中にしまわれた。
次に撮ろうねと、私たちは約束した。
でも、その次は、来なかった。
中学を卒業した春、瑛子は家族で本州に引っ越した。
お父さんの漁船が、借金のせいで差し押さえられたからだった。
引っ越しのトラックが町を出ていく朝、私は彼女を見送らなかった。
見送ったら、泣いてしまうのがわかっていたからだ。
そんな顔を、あの子に見せたくなかった。
手紙のやり取りは、それでも十年以上続いた。
便箋の色、使うペン、折り方で、私は彼女の今を読み取った。
赤いペンの月は、仕事で疲れているとき。
青いペンの月は、娘さんと動物園に行った月。
折り方が雑な便箋は、だいたい旦那さんとの口喧嘩のあとだった。
便箋の下の方に、小さな丸いシミがある月は、泣きながら書いた月だった。
私はその年月の分だけ、彼女の手元にも、私の便箋の癖を、たぶん、残していた。
喧嘩をしたのは、七年前のことだった。
瑛子が、一度こっちに帰りたいと言い出した。
旦那さんを亡くしたあとで、娘と二人で、しばらくこの町で暮らせないかと、手紙で聞いてきた。
私は、返事を三週間も放っておいた。
そして、ひどい言葉を書いて送った。
あんたは故郷を捨てた人なんだから、もう戻ってくるな、と。
私は、彼女が羨ましかったのだ。
町を出ていって、結婚して、子どもを産んで、私の知らない景色を見ているあの子が、ただ、怖かった。
私はこの町で、父と母の写真館を一人で守っているのに、と、心のどこかで拗ねていた。
それ以来、文通は途絶えた。
七年間、一度も。
私は、あの手紙のことを思い出さないようにして生きてきた。
思い出すと、自分が嫌になったからだ。
先月、厚手の封筒が店に届いた。
差出人の名前を見て、心臓が跳ねた。
北浦ゆり。
瑛子の、娘の名前だった。
便箋には、細い鉛筆の字で、母の訃報が書かれていた。
交通事故だった。
右折するタクシーに、自転車ごと巻き込まれたと、書いてあった。
痛みを感じる間もなく、すぐにと、お医者さんは言ってくれましたと、ゆりさんは、まるで自分に言い聞かせるように、何度も書いていた。
私はその一行を、何度読み返したか、憶えていない。
封筒の中には、薄いピンクの紙袋が、もう一つ入っていた。
中身は、使い切りカメラだった。
赤と黒のプラスチックの外装は、端が割れていた。
カメラの両側に、色褪せたシールが貼ってあった。
凪、と、瑛。
二十四年前の、あのカメラだった。
ゆりさんの手紙には、こう書かれていた。
母は、このカメラを、いつか凪おばさんに返しに行くと、ずっと言っていました。
でも、それが叶わなくなってしまったので、代わりに、私が送りました。
よかったら、現像してあげてください。
母は、残りの五枚を、ちゃんと埋めたと、言っていましたから。
その夜、私は店の奥の暗室に入った。
祖父が残した現像タンクを、もう何年も使っていなかった。
指が震えて、何度もフィルムを落とした。
薬品の匂いが、目にしみた。
それが、涙のせいだとは、自分では、わからなかった。
赤いランプの下で、像が浮かび上がってきた。
一枚目。
私と瑛子が、遠足のバス停の前で、ピースをしている写真だった。
二人とも、前歯が抜けていて、同じ色の水筒を首から下げていた。
二枚目は、昆布干し場の影の中を走る私だった。
三枚目は、赤い灯台の下で膝を抱えて笑っている瑛子だった。
四枚目は、帆立貝の殻を耳に当てた二人の自撮りだった。
五枚目、六枚目、七枚目。
ぶれた海、白い雲、給食袋を振り回す女の子。
十二枚目には、磯の岩陰に隠れる私の足首が写っていた。
十六枚目には、飴の銀紙を口に入れた瑛子のアップが写っていた。
すべて、十二歳の、あの日の私たちだった。
十九枚目まで、順番に像が浮かんだ。
その次の写真で、私は息を止めた。
二十枚目。
白い天井の下、ベッドに横になった、痩せた瑛子の顔が写っていた。
病院のガウンを着て、左腕には点滴の管が繋がれていた。
頭には、髪が、ほとんどなかった。
それでも、彼女は、笑っていた。
カメラの前で、あの頃と同じように、ピースをしていた。
私は、この写真を、知らなかった。
瑛子の病気のことを、私は、何も、知らなかった。
二十一枚目。
同じ病室で、まだ小学生のゆりさんが、母の手を握っている写真だった。
瑛子の手は、骨張っていた。
ゆりさんの小さな手が、その上に、重ねられていた。
二十二枚目。
瑛子が、窓の外を見ている横顔だった。
窓の向こうには、街路樹と、高い建物の影が見えた。
本州の街並みだった。
海は、写っていなかった。
二十三枚目。
瑛子の手のひらが、カメラの前に、差し出されていた。
その手のひらに、油性ペンで、短い文字が書かれていた。
凪、ごめんね、と。
二十四枚目。
最後の一枚だった。
それは、私たちの町の、冬の海の写真だった。
利尻富士が、霞んだ水平線の向こうに、うっすらと写っていた。
見慣れた、私の町の、見慣れた海だった。
焼き込まれた日付は、ちょうど一年前、瑛子が亡くなる、半年前の、十二月二日だった。
私は、暗室の床に、座り込んだ。
海の写真の裏に、細いマジックで書かれたメッセージが、薬品に濡れて、にじんでいた。
二十四枚、一緒に撮り切れなくて、ごめんね。
私、こっそり、戻ったことがあるよ。
誰にも会わずに、あの町の海だけを、撮りに。
帰るな、って言われたとき、本当は、悲しかった。
でも、あの町はずっと、あんたの場所だったから、私は、遠慮した。
遠くから、あの場所を守ってくれているあんたを、私は、ずっと羨ましかった。
また、いつか、一緒に。
二本目の使い切りカメラを、買いに行きたかったよ。
私は、自分の口から、ひどい音が出ていることに、気がついた。
暗室の壁に、背中を預けて、声を殺すことも、できなかった。
瑛子、と、私は、声に出して呼んだ。
瑛子、瑛子、ごめん、ごめんね、と、何度も、呼んだ。
返事は、もう、返ってこなかった。
薬品の匂いの中で、私は、赤いランプの下に蹲っていた。
翌朝、机の上には、湿ったプリントが二十四枚、並んでいた。
最後の海の写真は、一番大きな額に入れた。
写真館の入口の、父の昔の白黒写真の横に、私は、その一枚を、飾った。
日付の欄には、瑛子の名前だけを、小さく書いた。
それから、私は、ゆりさんに返事を書いた。
お母さんが、私に返してくれたカメラには、まだ、続きがあります。
二十四枚では、終わらないフィルムでした。
よかったら、今年の冬、この町に来てくれませんか。
新しい使い切りカメラを、二人で、一本だけ買いましょう。
二十四枚を、二人で撮り切る決まりです。
ピースをする場所なら、お母さんの代わりに、私が、いくらでも教えます。
手紙を封筒に入れて、切手を貼った。
窓の外で、その冬初めての雪が、斜めに降り始めていた。
瑛子、と、私は、もう一度、声に出して呼んだ。
二十四枚、一緒に撮り切れなくて、こちらこそ、ごめんね。
でも、続きは、あんたの娘と、ちゃんと撮るからね。
窓の硝子に、自分の顔が映っていた。
泣きはらした目の奥で、ほんの少しだけ、私は、笑っていた。