
活版印刷の工房というのは、夕方になると、インクと油の匂いがいっそう濃くなります。
日が傾くにつれて室温が下がり、機械の鉄が静かに匂いを放ちはじめるのです。
私はその匂いの中で、もう十年近く活字を拾ってきました。
鉛でできた小さな文字を、一本ずつ指先で選び取り、版に組んでいく仕事です。
一日の終わりには、指の腹がいつも黒く染まっています。
いまも私の台所には、空き缶の活字がひとつ置いてあります。
妻が声を失っていた一年のあいだ、私が組んだ言葉を、彼女が一本ずつ集めた缶です。
その缶を、彼女は蓋をする前に、必ず一度だけ振りました。
かしゃり、と鉛の鳴る音がして、それから蓋が閉まる。
その音を、私は一年間、ただの癖だと思っていました。
私はもともと、声の大きい人間ではありませんでした。
言葉というのは紙の上で組み立てるもので、口から出すものではない。
そんなふうに思い込んで生きてきた、不器用な男でした。
人と話すより、活字の棚の前に立っているほうが、ずっと気楽だったのです。
文字はこちらが選ばないかぎり、勝手に何かを言い出したりしません。
その静けさが、私には合っていたのだと思います。
彼女と出会ったのは、町外れの古い図書館でした。
私が納めた活版の蔵書票を、彼女が一枚ずつ、机の上に並べて点検していたのです。
「この字、少しだけ沈んでいますね」
そう言って彼女は、刷り上がりの黒の濃淡を、細い指でそっとなぞりました。
素人にはまず気づかない、わずかな圧の違いでした。
私は驚いて、思わず彼女の横顔を見つめてしまいました。
司書をしている彼女は、紙と文字のことになると、人が変わったように饒舌になりました。
普段は物静かなのに、好きなものの話になると、声がいきいきと弾むのです。
棚の間を歩きながら、彼女はよく喋りました。
古い物語の結末のこと。雨の日にだけ来る常連の老人のこと。
返却が一日遅れる人の言い訳が、毎回同じだということ。
私は相槌を返すばかりでしたが、その声を聞いているのが、何より好きでした。
低くて、少しかすれていて、けれど芯のある声でした。
聞いていると、胸のあたりが静かに温まりました。
「あなたは、聞くのが上手ですね」
ある日、彼女がそう言って笑いました。
私はうまく言葉を返せず、刷ったばかりの栞を一枚、黙って差し出しました。
インクがまだ乾ききっていない、活版の栞でした。
彼女はそれを胸の前で、両手で受け取りました。
そして長いあいだ、初めて文字を見る子どものように、じっと眺めていました。
蔵書票の黒の濃淡
付き合いはじめてからも、私たちはよく図書館で時間を過ごしました。
閉館後の、人のいない静かな館内で、彼女が本を朗読してくれることもありました。
私はその声を、活字を拾うときと同じ集中で聞きました。
一語ずつ、こぼさないように、心の中の版に組んでいくつもりで聞いていたのです。
声というものに、こんなにも体温があるのだと、その頃に初めて知りました。
休みの日には、海の見える坂を二人で上りました。
彼女は歩きながらも喋り、私はやはり聞いていました。
潮の匂いと、彼女の声と、自分の靴音。
それだけで満ち足りた時間でした。
「いつか、あなたの組んだ字だけで、一冊の本を作ってみたい」
坂の途中で彼女がそう言ったとき、私は本気で、その本のことを考えはじめました。
表紙の紙の厚み。扉の一文字目の大きさ。
眠れない夜に、頭の中で何度も版を組みました。
結婚の話も、自然と出るようになっていました。
春になったら式を挙げよう。
二人でそう決めていた、その矢先のことです。
彼女の父親が、急に倒れて亡くなりました。
長く床に就いていた人ではなく、本当に、ある朝突然のことでした。
彼女は気丈に喪主の役を務め、四十九日が過ぎるまで、一度も人前で涙を見せませんでした。
私はそのことが、かえって心配でなりませんでした。
泣けない悲しみのほうが、ずっと深いところに溜まっていくものだからです。
いま思えば、あの四十九日のあいだに、彼女は一度だけ私の工房へ来ています。
喪服のまま、棚の前に立って、活字の並びをじっと見ていました。
「字って、こんなふうに、しまってあるんやね」
そのときの彼女は、まだ、はっきりと声を出していました。
異変が起きたのは、その少しあとのことでした。
いつものように工房へ電話をかけてきた彼女の声が、話している途中で、ふっと途切れたのです。
「もしもし」
私が呼びかけても、受話器の向こうは静かなままでした。
息の音だけが、かすかに、震えるように聞こえていました。
嫌な予感がして、私は組みかけの版をそのままに、彼女の部屋へ走りました。
鍵を開けて出てきた彼女は、口を動かしているのに、声がまったく出ていませんでした。
喉に手を当て、必死に何かを言おうとして、できずにいました。
目だけが、助けを求めるように、まっすぐ私を見ていました。
私はとっさに、ポケットの刷り損じの紙と、鉛筆を渡しました。
職業柄、紙と筆記具だけはいつも持ち歩いていたのです。
彼女はそこに、震える字でこう書きました。
『こえが でない』
その四文字を見たとき、私の頭の中も、一瞬まっしろになりました。
何を書こうとしても、活字が一本も見つからない。あの感覚に似ていました。
病院での診断は、心因性発声障害というものでした。
父親を見送ったことを境に、彼女の喉は、声を失ってしまっていたのです。
体に異常はない、心が落ち着けば、いつかきっと戻る。
医師はそう言いました。
けれど、その「いつか」がいつなのかは、誰にもわからないのだと、付け加えました。
声を失った彼女は、みるみるうちに、元気をなくしていきました。
あれほど物語を愛していた人が、本の背表紙を見るのもつらそうにして、ページを開かなくなりました。
図書館の仕事も、しばらく休むことになりました。
私が訪ねていっても、彼女は窓のほうを向いたまま、膝の上のノートに短い字を書くだけでした。
『ごめんね』
その三文字を、彼女は何度も、何度も書きました。
それしか言える言葉が残っていないかのようでした。
私は何と返していいのかわからず、ただ隣に座って、同じ窓の外を見ていました。
台所に立つ背中
沈黙は、二人のあいだに少しずつ積もっていきました。
私はその沈黙の重さを、活字の鉛の重さのように、手のひらで量っていました。
年が明けて、初めての正月も、私たちは二人で静かに迎えました。
彼女は声が出せないぶん、料理に手をかけました。
煮物の味付けを、私に味見させては、ノートで感想を求めるのです。
『どう?』
私が「うまい」と言うと、彼女は安心したように、また鍋に向かいました。
台所に立つ彼女の背中は、出会った頃より少しだけ細くなっていました。
それでも、その手つきには、確かな張りが戻りつつありました。
少しずつ、彼女は外へ出るようになりました。
最初は近所の散歩から。やがて、休んでいた図書館へも顔を出すようになりました。
声は出せなくても、本の場所を指で示し、メモで案内する。
常連の老人たちは、誰ひとりそれを気にせず、以前と同じように彼女を頼りにしました。
「あんたが選んでくれる本は、はずれがないからね」
耳の遠い老人が、大きな声でそう言いました。
彼女は笑って、ノートに『またどうぞ』と書いて見せました。
ある晩、彼女から珍しく、呼び出しのメモが届きました。
行ってみると、テーブルの上に、一通の便箋が置いてありました。
そこには、いつもより時間をかけて書いたとわかる、丁寧な字が並んでいました。
読み進めるうちに、私の指のほうが冷たくなっていきました。
『あなたには、ちゃんと話せる人と、一緒になってほしい』
『声の出ない女と暮らすなんて、つらいだけだと思う』
『だから、どうか、別れてください』
彼女は俯いたまま、膝の上で指を固く握っていました。
その指の関節が、白くなっていました。
これを書くために、何日もかけて覚悟を決めたのでしょう。
私は、その便箋を静かにテーブルへ戻しました。
そして、彼女の手からノートと鉛筆を、そっと取り上げました。
彼女がはっとして、顔を上げました。
「嫌だ」
私は、自分でも驚くほど、はっきりとそう言いました。
普段、声を出すのがあれほど苦手な私が、その時だけは、迷いなく声を出せました。
「君が話せなくて苦しいなら、僕も話さない」
「もともと僕は、口より、手のほうがずっと正直な人間だ」
彼女が、目を見開いて私を見上げました。
その瞳が、みるみる潤んでいきました。
「声がなくても、君のことは全部聞こえていた」
「結婚しよう。春になったらって、二人で決めてたじゃないか」
言い終えたとき、彼女の目から、ためこんでいたものが一気に溢れ出しました。
声のない泣き声は、肩の震えと、漏れる息だけで伝わってきました。
父親を見送った日にも泣かなかった彼女が、その夜、初めて私の前で泣きました。
私はその背中に、そっと手を回しました。
しばらくして、彼女はノートを引き寄せ、にじむ字でこう書きました。
『ありがとう』
空き缶の活字の音
それから私たちは、一緒に暮らしはじめました。
会話のほとんどは、筆談と、身ぶり手ぶりでした。
私は工房から、組み損ねて使えなくなった活字を、少しずつ持ち帰りました。
夜になると、その鉛の文字を食卓に並べ、彼女に短い言葉を組んでみせるのが習慣になりました。
「おはよう」「いってきます」「ただいま」。
たった一語を組むのにも、棚から探すように、箱の中の文字を選び出さなければなりません。
指はまた、真っ黒になりました。
彼女はそれを毎晩、小さな宝物のように、空き缶の活字に加えていきました。
組んだ言葉を私が崩そうとすると、慌てて手で押さえるのです。
『もう少し、置いといて』
そう書いて、彼女は組まれたままの「おやすみ」を、明日まで残しておきたがりました。
缶に入れるのは、いつも寝る前でした。
一本ずつ落とし、蓋をする前に、缶を一度だけ振る。
かしゃり、と鳴ってから、蓋が閉まる。
私は、缶の中で活字が散らばるのを確かめているのだと思っていました。
私は、彼女のいない昼間の工房で、こっそり練習をしていました。
彼女がよく口にしていた言葉を、活字でなめらかに組めるように、何度も並べ替えるのです。
指が文字の位置を覚えるまで、休み時間をそれに費やしました。
いちばん時間をかけたのは、「あいしてる」という五文字でした。
たった五文字なのに、棚の前で何度も手が止まりました。
口で言うのは照れくさく、けれど活字でなら、まっすぐに渡せる気がしたのです。
ある夜、私はその五文字を組んで、彼女の湯呑みの横に、そっと置きました。
彼女は気づくと、しばらく動きを止め、それから両手で顔を覆いました。
声のない肩が、小さく揺れていました。
『ずるい』
目もとを拭いてから、彼女はそう書いて、私の腕を軽くたたきました。
それでも、その五文字を、いちばん大事そうに缶へしまったのは、彼女自身でした。
あのとき彼女は、缶を振りませんでした。
蓋を閉める音だけが、やけに短く聞こえたのを覚えています。
私たちのあいだに積もっていた沈黙は、いつのまにか、やわらかいものへ変わっていました。
言葉が少ないぶん、相手の表情を、前よりずっと丁寧に見るようになっていたのです。
彼女が眉を少し動かせば、何を考えているのか、だいたいわかりました。
私が肩を落とせば、彼女はすぐにノートを差し出して、『どうしたの』と書いてくれました。
うまく伝わらなくて、もどかしい日もありました。
買い物の途中で人混みにはぐれ、声で呼べない彼女が、泣きそうな顔で立ち尽くしていたこともあります。
それでも私たちは、よく笑いました。
声のない家の中で、笑い声だけは、不思議と確かに音を立てていました。
式次第を配る朝
一年が過ぎ、私たちは小さな結婚式を挙げることにしました。
図書館の常連だった老人たちや、工房の職人仲間が、こぢんまりと集まってくれました。
彼女は白い服を着て、手にはいつものノートを持って、静かに微笑んでいました。
私は、彼女のために組んだ活版の式次第を、参列者ひとりひとりに手渡しました。
式は、つつがなく進みました。
そして終わりに、二人で挨拶をする段になりました。
私が代わりに礼を述べ、彼女は隣で頭を下げる。
あらかじめ、そう決めてありました。
ところが、私が話している途中のことです。
隣から、ひゅっと、息を呑むような音が聞こえました。
見ると、彼女の喉が、小さく上下に動いていました。
何かを言おうとして、必死に、声を探しているようでした。
私は挨拶を途中でやめ、参列者に一礼してから、彼女の前にしゃがみました。
マイクを、そっと彼女の口元へ向けました。
「どうした」
小さく名前を呼んで、私は耳を近づけました。
会場の誰もが、息を止めて見守っていました。
絞り出すような、けれど確かな声で、彼女は言いました。
「……ありがとう」
一年ぶりに聞く、あの低くてかすれた、芯のある声でした。
間違いなく、坂の途中で本のことを語った、あの人の声でした。
会場が、一瞬、しんと静まり返りました。
次の瞬間、最前列の老人が声をあげて泣き、それが波のように、部屋じゅうへ広がっていきました。
締めの挨拶など、もう誰ひとりとして、求めてはいませんでした。
彼女がもう一度、私の耳元で、小さく言いました。
「ずっと、聞こえてたよ。あなたの声」
私はうなずくのが精いっぱいで、ただ、彼女の手を強く握り返しました。
缶の底の五本
空き缶の活字を、私が最後まで数えなかったのには、理由があります。
数えてしまえば、あの一年が終わってしまう気がしていたのです。
缶の中を空けたのは、それから何年も経った、引っ越しの日でした。
彼女の声はすっかり戻り、図書館の棚の間で、また人が変わったように喋っています。
新聞紙を敷いた床に、私は缶を傾けました。
上から順に、私が組んだ言葉が、崩れながら出てきます。
「おはよう」「いってきます」「ただいま」「おやすみ」。
指で拾い上げるたび、あの一年の台所の匂いが戻ってくるようでした。
そして最後に、缶の底から、五本だけ、色の違う活字が出てきました。
ほかの活字は、私が使い込んだぶん、字面が鈍く光っています。
その五本だけが、まだ角の立った、新しい鉛の色をしていました。
並べてみると、「あいしてる」でした。
私が湯呑みの横に置いた、あの五文字です。
けれど、私が組んだ五本は、使い古しの活字でした。
角はとうに丸まり、「い」の腹には、私がつけた小さな傷まであったのです。
手のひらの五本には、その傷がありませんでした。
缶の底の五本は、私が組むより先に、彼女が拾っていた活字でした。
喪服のまま工房へ来た、あの日のことを、私はようやく思い出しました。
棚の前に立って、活字の並びをじっと見ていた彼女。
あのとき彼女は、声を出せていました。
出せていたのに、言わずに帰ったのです。
父親を見送ったばかりで、幸せそうな言葉を口にするのが、後ろめたかったのでしょう。
だから、春になってから渡すつもりで、五本だけ持ち帰った。
その春が来る前に、彼女の喉は閉じてしまいました。
缶を振っていたのは、中で活字が散らばるのを確かめるためではありませんでした。
底の五本が、いちばん下に沈んだままかどうかを、音で確かめていたのです。
私が「あいしてる」を湯呑みの横に置いた夜、彼女が缶を振らなかった理由も、それでわかりました。
確かめるまでもなかったのです。
同じ言葉が、もう底にあったのですから。
私は五本を握ったまま、しばらく床に座り込んでいました。
台所から、彼女が何か言っているのが聞こえます。
その声を、私は今でも、活字を拾うときと同じ集中で聞いています。
缶は、空にせずに元へ戻しました。
底の五本だけは、いまも崩さずに、そのまま置いてあります。
言葉が少なかったあの一年に、いちばん長く伏せられていた言葉だからです。
似た沈黙のことは、言えないまま缶にしまった初恋の話や、書けないまま終わった便箋の話にも書き残しています。
いつか、彼女の言った一冊の本を、私の組んだ活字だけで作るつもりです。
最初のページには、あの五本を、いちばん大きな活字で組もうと決めています。