夏祭りの金魚すくいの店を、私はもう四十年も続けてきました。来る年も来る年も、同じ古い神社の境内に屋台を組み、同じ赤い金魚を浅い水槽に放ってきたのです。数えきれないほどの子どもたちの顔が、線香花火の煙のように、私の前を通り過ぎていきました。けれど、たった一組の兄妹のことだけは、どうしても忘れることができません。あれはちょうど、十年前の夏の夜のことでした。
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私がこの稼業を継いだのには、わけがあります。私には、幼いころに流行り病で亡くした、二つ下の弟がおりました。
家はひどく貧しく、米びつの底が見える月も珍しくありませんでした。父は早くに体を壊して床に伏せ、母が朝から晩まで働きづめでした。
弟は体の弱い子で、外で遊ぶこともままならず、いつも布団の中から、窓の外をうらやましそうに眺めていました。
たった一度だけ、町の夏祭りに、弟を連れていってやったことがあります。なけなしの小遣いで、金魚すくいを一回だけさせてやりました。
弟は、たった一匹すくえただけで、頬を真っ赤にして、それはそれは嬉しそうに笑いました。
「兄ちゃん、おれ、この金魚、一生大事にする」
その金魚が死んでしまった翌年の冬に、弟もまた、静かに息を引き取りました。あの夜のはしゃいだ顔だけが、今も私の胸の奥に、焼きついて離れません。
小さな棺に納めるとき、母は、弟がすくったあの金魚を入れてやろうと言いました。すでに死んで、新聞紙にくるんでとってあったものです。
「あの子、これを一番の宝物にしてたから」と、母は涙をこらえて言いました。
その日から、私の中で、金魚というものは、ただの祭りの遊びではなくなりました。誰かの、かけがえのない夏の記憶そのものになったのです。
だから私は、子どもが金魚をすくう、あの夢中な一瞬を、いつまでもそばで見ていたかったのかもしれません。それが、弟への、せめてもの供養のような気がしていたのです。
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その晩も、境内は身動きが取れないほどの人で溢れていました。焼きそばのソースが鉄板で焦げる匂いと、たこ焼きの白い湯気。べっこう飴の甘い香り。
遠くで打たれる太鼓の音が、地面を伝って、夏の夜の熱気を、いっそう濃いものにしていました。裸電球に照らされた水槽の中で、金魚たちが赤い尾を、ひらひらと躍らせていました。
そこへ、七歳くらいの女の子と、十歳くらいの男の子が、しっかりと手をつないで、やって来ました。ひと目で、兄と妹だと分かりました。
二人の身なりは、正直に言えば、決して裕福そうには見えませんでした。色のあせたシャツに、丈の合わない半ズボン。サンダルの片方は、鼻緒が切れかけていました。
けれど、その目だけは、屋台の灯りを映して、きらきらと輝いていたのです。
妹のほうは、ほかの子どもたちが金魚をすくうのを、飽きもせずに、長いあいだ見つめていました。やがて、何かをねだるように、そっと兄のシャツの裾を引きました。
男の子は、『一回三百円』と書かれた木の札を、なんとも言えない顔つきで、しばらく見つめていました。それから、もう一度妹の顔をのぞきこんで、こくりと小さくうなずきました。
「おじさん、一回」
そう言って、彼は固く握りしめていた手を、私の前にそっと差し出しました。
開かれた手のひらの上には、百円硬貨が三枚。よほど長いあいだ大事に握っていたのでしょう、その硬貨は、汗で湿って、しっとりと温かくなっていました。
私は、その温かさに、不意に胸を突かれました。これはきっと、この子が何かを我慢して、少しずつためてきたお金なのだと、すぐに分かったからです。
おそらく、自分の分は端から、はじめから数に入れていなかったのでしょう。
「ありがとうな。よし、いい紙を選んでやるからな」
私がそう言うと、男の子は、ほっとしたように肩の力を抜きました。
妹は、満面の笑みを浮かべて、私から受け取ったポイを、こわれものでも扱うように、両手で握りました。そして水槽の前にしゃがみこむと、夢中で金魚を追い始めました。
「お兄ちゃん、見て! 赤いのがいる!」
「ああ、ゆっくりやれよ。あわてると破れるからな」
兄は、まるで自分のことのように、真剣な顔で、妹に声をかけていました。
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男の子は、妹が楽しそうにしているのを、少し離れたところから、満足そうに眺めていました。けれど、やはり自分も、一度はすくってみたいのでしょう。妹のそばに身を乗り出しては、そわそわと、落ち着かない様子でした。
そういう子を、私はこれまで、何人も見てきました。こんなとき、私はいつも、わざと手をすべらせることにしているのです。
「あーあ、しまった。手がすべって、紙を水に落としちまった。せっかくだ、もったいないから、ぼうず、これ使いな」
そう言って、わざと水につけただけの、まだ破れていないポイを、男の子のほうへ差し出しました。
男の子は、ぱっと顔を輝かせました。
「いいの? おじさん、ありがとう!」
彼は目をきらきらさせて、ポイを受け取り、いざ金魚をすくおうと、おそるおそる水面に手を伸ばしました。その横顔の、なんと嬉しそうだったことか。私はその顔を見て、また弟のことを思い出していました。
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ところが、ちょうどそのときでした。妹が、兄のそばに寄ろうとして、足をもつれさせたのです。
その拍子に、二人の体が軽くぶつかり、妹の持っていたポイの紙が、あっけなく、ぴりっと破れてしまいました。
すくいかけていた金魚が、するりと水の中へ逃げていきます。妹の顔が、みるみるうちに、泣きそうにゆがみました。
男の子は、その妹の顔を見て、しばらくのあいだ、自分の手の中の、まだ無事なポイを、じっと見つめていました。
それから、私のほうを見上げて、おずおずと言いました。
「これ……妹に、あげてもいい?」
私が黙ってうなずくと、男の子はにっこりと笑って、自分の濡れていないポイを、妹の小さな手に、そっと握らせました。
「ほら、お前がやれよ。おれは、見てるから」
そして、妹にも私にも、これ以上気を遣わせまいとしたのでしょうか。彼は立ち上がると、わざと明るい声で言いました。
「おれ、ちょっと向こうの店、見てくるから。ここで遊んでろよ」
そう言い残すと、人混みの中へ、駆けていってしまいました。その小さな背中が、夏の夜の雑踏に紛れて、すぐに見えなくなりました。
妹は、しばらく困ったように立ちすくんでいましたが、やがて意を決したように、もう一度、金魚すくいを始めました。
屋台の灯りの届かない、少し離れたところで、男の子は立ち止まりました。私はその姿を、水槽ごしに、そっと目で追っていました。
わたあめの店の前で、彼はしばらく、楽しそうに頬張る子どもたちを眺めていました。けれど、自分のために何かを買うことは、とうとう一度もありませんでした。
ポケットに手を入れたまま、ただ、ぶらぶらと夜店を見て歩く。その背中が、妹のはしゃぐ声が聞こえてくるたびに、ほんの少しだけ、嬉しそうに揺れるのです。
私は、その光景を見ながら、たまらない気持ちになりました。気づけば、私の目の縁は、じんわりと熱くなっていました。
せめてもの心づくしに、私は妹に気づかれないよう、袋の中へ、こっそりと金魚をもう二匹、すべりこませてやりました。兄の分まで、と思ったのです。
思えば、私自身の子ども時代も、あの兄妹と、少しも変わらないものでした。欲しいものを我慢して、弟に譲ってばかりいた、あのころ。
だからこそ、握りしめられて温かくなった三枚の硬貨の意味が、痛いほど分かってしまったのです。
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妹が遊び終えるころ、まるで物陰から、ずっと様子をうかがっていたかのように、ちょうどよく兄が戻ってきました。
袋の中で、思ったよりたくさん泳いでいる金魚を見て、彼は驚いたような、それでいて、心からほっとしたような顔をしました。
「おじさん、ありがとう」
男の子は、もう一度そう言って、深く頭を下げました。それから妹のほうを向いて、
「ほら、お前もちゃんと、お礼を言いな」
とうながしました。妹は恥ずかしそうに、けれど一生懸命に、「ありがとう」と頭を下げました。
男の子は、妹の手をしっかりと引いて、夜店の灯りの中へ、帰っていきました。寄り添うように遠ざかっていく、二つの小さな背中を、私はいつまでも、いつまでも見送っていました。
その夜、店じまいをしながら、私は、あの兄妹がどんな家で、どんなふうに暮らしているのだろうと、ぼんやり考えていました。来年もまた、来てくれるだろうかと。
※
それから、八年ほどが過ぎた、ある夏の夜のことです。いつものように屋台を出していると、一人の青年が、私の店の前で、ふと足を止めました。
背が高く、よく日に焼けた、まっすぐな目をした若者でした。作業着のような、汗のしみた服を着ていました。
「おじさん。まだ、やってたんだね、この店」
私は、すぐには思い出せませんでした。けれど、その人懐っこい、はにかむような笑い方に、遠い夏の記憶が、ふいによみがえったのです。あの夜の、男の子でした。
「あのとき、本当は、わざと紙を濡らしてくれてたんでしょう。子どもながらに、なんとなく、分かってたんだ」
青年は、照れくさそうに、頭をかきながら言いました。
「妹に、いいところを見せられた。兄ちゃんって顔が、できた。あれがあったから、おれは今でも、ちゃんと兄貴をやれてる気がするんだよ」
聞けば、二人は早くに両親を亡くし、親戚の家を転々としながら、身を寄せ合って育ってきたのだそうです。
彼は中学を出るとすぐに働きに出て、妹を高校まで通わせたのだと、何でもないことのように話しました。
「金魚すくいなんて、贅沢、あの一回きりだったよ。だからずっと、忘れられなくてさ」
金魚は、二匹とも、ずいぶん長生きしたのだと、青年は教えてくれました。
「あいつが毎日、餌をやってさ。学校から帰ると、まず水槽をのぞくんだ。あの金魚が、おれたちの、最初の家族みたいなもんだった」
狭いアパートの、小さな金魚鉢。寄り添って暮らす兄妹と、赤い二匹の金魚。その光景を思い浮かべると、私はまた、目の奥が熱くなりました。
いちばんつらかったのは、最初の冬だったと、彼はぽつりと言いました。仕事もまだ少なく、二人で、一個のおにぎりを分け合った夜もあったそうです。
「おれが先に食えって言っても、あいつ、半分こにしようって、きかなくてさ」
そう話す青年の声は、不思議と、暗くありませんでした。むしろ、その日々を、誇りに思っているようにさえ聞こえました。
そう言って、彼は財布から、三百円を取り出しました。
「今日は、おれの分。ちゃんと払うから、すくわせてよ」
差し出されたその硬貨もまた、あの夜と同じように、手のひらの熱で、ほんのりと温かいものでした。私は、何も言えずに、ただ「おう」とだけ返すのが、精いっぱいでした。
青年は、子どものころとまったく同じように、ポイを片手に、真剣な顔で水面をのぞきこみました。その横顔は、もう立派な大人のものでしたが、金魚を追うまなざしだけは、あの夜の少年と、少しも変わっていませんでした。
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妹さんは、来月、嫁いでいくのだと、彼は嬉しそうに、けれど少しさみしそうに、教えてくれました。
「式に着ていく服がないって言うからさ。おれが、初めて、ちゃんとしたワンピース、買ってやったんだ」
そう話す彼の目が、夜店の灯りで、きらりと光ったように見えました。
「あいつのこと、おれがずっと守ってきたつもりだったんだ。でも、本当は、おれのほうが、あいつに守られてたのかもしれないな」
そう言って笑った顔は、あの夜、妹に自分のポイを渡したときの、あの満足そうな笑顔と、少しも変わっていませんでした。
そして、その翌年の夏のことでした。青年が、若い女性を一人連れて、私の屋台にやって来たのです。
白いワンピースを着た、はにかみ屋の女性でした。あの夜の、妹さんでした。もうお腹が、少しふっくらとしていました。
「おじさん、覚えてますか。わたし、あの金魚すくいの」
私は、胸がいっぱいになって、ただ何度もうなずくことしかできませんでした。
「兄が、どうしても、おじさんに会わせたいって。わたしの結婚を、報告したいって」
妹さんは、そう言って、深く頭を下げました。その隣で、青年は、照れくさそうに、夜空を見上げていました。
すくった金魚を一匹だけ袋に入れて、青年は、夜の境内へ帰っていきました。その背中を見送りながら、私は、天国の弟に、そっと話しかけました。いい兄妹に会えたよ、と。
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もう十年も前の、いいえ、もっと昔から続いている話です。けれど私は、今もあの夜の、汗で温かかった三枚の百円硬貨の、あの感触を、この手のひらに、はっきりと覚えています。
妹さんが嫁いだあと、青年は、毎年この祭りに、一人で来てくれるようになりました。
そして決まって、三百円を払い、真剣な顔で金魚をすくっていくのです。すくった一匹を、彼は、町を離れて暮らす妹さんに生まれた、姪っ子のために持ち帰るのだと言います。
温もりは、こうして、また次の小さな手のひらへと、受け継がれていくのでしょう。
考えてみれば、私がこの屋台を四十年も続けてこられたのは、お金のためでも、義理のためでもありませんでした。
あの兄妹のように、ささやかな一回の金魚すくいに、心の底から夢中になってくれる子どもの顔を、もう一度見たかった。ただ、それだけのことだったのです。
亡くした弟が、私にくれた最後の笑顔。あの笑顔を、私はこの屋台の前で、形を変えて、何度も何度も、見せてもらってきたのだと思います。
あの夜、男の子が妹に紙を渡したとき、彼は何かを失ったわけではありませんでした。むしろ、いちばん大切なものを、その小さな手で、しっかりと守ったのだと思います。
妹の笑顔を守るためなら、自分が遊べないことなど、何でもない。十歳の彼は、もうそのことを、ちゃんと知っていました。私は、その小さな背中から、人として大事なことを、教わった気がしています。
水槽の水を換え、金魚たちに餌をやりながら、私はときどき、空に向かって弟に話しかけます。今日も、いい子が来てくれたよ、と。
返事はありません。けれど、夜風に揺れる裸電球の灯りが、ふっと優しくまたたくたびに、弟が笑ってくれているような、そんな気がするのです。
人が人を思う気持ちというのは、きっと、ああして手から手へ、その温もりごと、静かに受け渡されていくものなのでしょう。
金魚すくいの紙は、すぐに破れてしまう、頼りないものです。けれど、あの夜あの子が見せてくれた優しさだけは、十年たった今も、少しも破れずに、私の胸に残り続けています。
だから私は、来年もまた、この古びた屋台に、灯りをともすのです。どこかにいるはずの、次の誰かの、まだ見ぬ忘れられない夏の夜のために。そして、もう会えない弟に、その嬉しそうな顔を、もう一度見せてもらうために。