運転手に渡すつもりの通帳と手紙

親子

引き出しの奥に、通帳と手紙をひとまとめにしてしまってあります。

通帳の名義は、私ではありません。

手紙の束も、私が望んで受け取ったものではありません。

けれど私は、この二つを、ある青年に渡す日まで預かると決めました。

家内を奪った、トラックの運転手です。

どうしてそんな気持ちになったのか、自分でもうまく説明できません。

ただ、あの朝からの出来事を順に辿れば、少しだけ分かる気がします。

今日は、その話を書いておきます。

白菜と青い傘

その朝も、家内は玄関まで見送ってくれました。

二人目の子を授かって、六か月目に入ったところでした。

お腹は目に見えて丸くなり、靴べらを使うのにも一苦労の様子でした。

「今夜は鍋にしようね。白菜は、帰りに買ってくる」

そう言って、彼女は青い傘を持ち上げて笑いました。

空は曇っていましたが、雨の予報ではありませんでした。

「降るかもしれないでしょう」

備えを欠かさない人でした。

冷蔵庫には、買い物のメモがマグネットで留めてありました。

家内の丸い字で、白菜、豆腐、長ねぎ、と並んでいました。

その日は健診の日で、昼前にタクシーで病院へ向かう予定でした。

私は会社へ行き、午前の会議の途中で、携帯電話が震えました。

知らない番号でした。

廊下に出て応じると、警察署の者だと名乗る男性の声でした。

国道の交差点で事故があったこと。

家内の乗ったタクシーに、対向車線からトラックが突っ込んだこと。

搬送先の病院の名前を、彼は二度繰り返しました。

悪い冗談だと思いました。

今朝もあんなに笑っていたのだから、と。

病院の廊下は、消毒液の匂いがしました。

長男は保育園にいて、義母が迎えに行ってくれたと、あとで聞きました。

対面した家内は、眠っているようでした。

けれど手に触れると、もう冷たくなっていました。

青い傘はタクシーの座席に残されていて、柄の先が少し曲がっていました。

お腹の子のことは、医師が静かに告げてくれました。

私は何も答えられず、ただ頷くばかりでした。

その夜、台所の冷蔵庫のメモが目に入りました。

白菜、豆腐、長ねぎ。

その三つの文字が、いつまでも目の奥から消えませんでした。

玄関先の土下座

二日後の夕方、チャイムが鳴りました。

玄関先には、初老の男性と、若い女性が立っていました。

男性は、トラックを運転していた青年の父親だと名乗りました。

女性は、その青年の婚約者でした。

私が何か言う前に、男性は三和土に膝をつきました。

「申し訳ありません」

「本来なら、私と家内が代わりに償うべきところです」

「ですが、どうか息子には、生きて償う時間をください」

額が、冷たいタイルに触れていました。

隣の女性も、同じように両手をついていました。

その手に、目が止まりました。

指の関節はひび割れ、爪の間には、洗っても落ちない黒い汚れが残っていました。

あとで警察の方から聞きました。

青年の母親は、長く入院していたそうです。

治療費のために、彼は夜勤と日勤を重ねていました。

婚約者の彼女も、式を先延ばしにして、工場で働いていたそうです。

事故の日の青年は、ほとんど眠らないまま、三十時間近く働いていました。

居眠りの末の事故でした。

理由を知ってしまったことが、いちばん苦しかったのです。

欲しかったのは、憎める相手でした。

怠けて、酒を飲んで、遊び回った末の事故であったなら、どれだけ楽だったでしょう。

けれど目の前にいるのは、擦り切れた手をした二人の家族でした。

「顔を上げてください」

やっと、それだけ言いました。

言ったあとで、自分の声が震えていることに気づきました。

葬儀の日、青年は警察官に付き添われて参列しました。

受付の前で、彼は深く頭を下げたまま、動きませんでした。

会場へ入る前、私は決めていました。

一生、この男を許さずにいよう、と。

怒鳴りつけてやる、とも思っていました。

けれど、顔を上げた彼を見て、言葉が消えました。

唇は色を失い、目の下には深い影がありました。

震える手で、数珠を握りしめていました。

私の顔を見ることが、どうしてもできないようでした。

その姿を見て、ふと、こう思ってしまったのです。

この人も、これから長い間、この日を背負って生きていくのだ、と。

「家内を、つまらない人間のために失ったとは思いたくありません」

「罪は、罪として償ってください」

「ただ、そのあとは、どうかきちんと生きてください」

自分の口から出た言葉に、自分でも驚きました。

それが正しい言葉だったのかは、今も分かりません。

彼は小さな、けれどはっきりした声で「はい」と答えました。

夜更けの三歳の声

その夜、ようやく家に私一人になりました。

いえ、正確には、長男と二人でした。

義母が気を遣って、隣の部屋で休んでくれていました。

私は台所の椅子に座り、棚の奥にあった安いウイスキーをなめていました。

酔いたかったわけではありません。

何かを口に入れていないと、息の仕方を忘れてしまいそうだったのです。

冷蔵庫の白いメモが、また目に入りました。

そこへ、廊下から小さな足音が近づいてきました。

パジャマ姿の三歳の長男が、目をこすりながら立っていました。

彼は何も言わず、私の隣の椅子によじ登りました。

足が床に届かず、ぶらぶらと揺れていました。

しばらく二人で、蛍光灯の低い音を聞いていました。

やがて、息子が言いました。

「お母さん、だいすきだったんでしょ」

「いなくなって、かなしいんでしょ」

「かなしいときは、ないていいんだよ」

私は、息子の前でも、家内への気持ちを隠したことがありませんでした。

「好きな人と暮らせるのは、幸せなことなんだぞ」

そんなことを、よく食卓で話していたのです。

息子は、それをちゃんと覚えていたのでしょう。

私は息子を膝に乗せて、話しました。

お母さんと初めて会った日のこと。

駅前の古本屋で、同じ本に手を伸ばしたこと。

お前が生まれた朝、お母さんが「ありがとう」を何度も言ったこと。

話しているうちに、声が出なくなりました。

喉の奥で凍っていたものが、音を立てて割れました。

一度崩れると、止まりませんでした。

息子の小さな手が、私の背中を、とん、とん、と叩いていました。

家内が、息子を寝かしつけるときの叩き方でした。

たぶんあの夜、私はやっと、家内がいない朝を受け入れたのだと思います。

お腹の子が、もう来ないことも。

情けない父親で、ごめんな。

でも、ちゃんと悲しめたよ。

預かった通帳と手紙

あの日から、二年が経ちました。

青年は裁判を経て、刑務所に入りました。

月に一度、私のもとへ手紙が届きます。

白い封筒に、定規で引いたようにまっすぐな字が並んでいます。

便箋のほとんどは、詫びの言葉です。

毎回、最後の行に、母親の容体が少しずつ書き添えられています。

病院の面会に行けないことを、彼はずっと気にしているようでした。

けれど行間から、別のものも滲んできます。

「人の命を奪った自分が、生きていていいのでしょうか」

その一文を、彼は何度も書いてきました。

私は返事を書きません。

ただ、読み終えるたびに、封筒を引き出しにしまいます。

引き出しを開けるたび、家内の使っていた万年筆や母子手帳の隣に、もう一つ分厚い束が増えていることに気づきます。

あの束が、いつか通帳と手紙として彼の手に渡るのだと思うと、不思議と胸が静まるのです。

突然の別れのあとに残された側の時間については、残された人にできることという記事にも書いたことがあります。

同じ月に、もう一通届くものがあります。

婚約者だった女性からの、現金書留です。

手紙と一緒に、毎月、決まった額が入っています。

最初の月は、受け取れないと思いました。

送り返そうと、封筒を持って玄関まで出ました。

けれど、靴を履く手が止まりました。

あの日見た、ひび割れた指先を思い出したのです。

これを突き返せば、彼女は別の形で、償いを探し続けるでしょう。

その探し方まで、私が奪ってはいけない気がしました。

別れの痛みの受け止め方は人それぞれで、愛する人への別れのような話を読んで気持ちが軽くなる夜もありました。

私は新しい口座を作りました。

彼女が送ってくれたお金は、一円も使わず、そこへ預けています。

通帳には、毎月同じ日付と、少しずつ増える数字が並びます。

彼が刑期を終えた日に、この通帳と手紙の束を、ひとまとめにして渡すつもりです。

そのとき、こう言うと決めています。

「この重さを背負って、きちんと生きてください」

息子と鍋を囲んだのは、先週の日曜のことです。

買い物の帰り道、私は白菜を一玉、買って帰りました。

二年のあいだ、あの朝の約束だけは、果たせないままだったのです。

「お母さんの鍋と、ちょっと違う」

息子は笑いながら、二杯目をよそいました。

青い傘は、玄関の傘立てで、今も雨の日を待っています。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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