私の指には、指紋がない。
眼鏡の枠を磨く仕事に就いて三年で、右手の親指と人差し指の腹が、つるりと平らになった。
バフの布に研磨剤を付けて、チタンの枠を押しつける。
一日で三百本。
熱くなった枠を素手で持つから、指の皮は薄くなっていくばかりだ。
生活のなかで困ることは、ほとんどない。
ただ、猫の背中を撫でたとき、毛の感じがよくわからなくなった。
それだけが、いまも少し悔しい。
この仕事に就いた春、先輩に言われたことがある。
「指紋なんか、また生えるわ」
「生えますか」
「三ヶ月休んだら生えるらしい。休まんけどな」
みんな笑った。
笑って、その日も三百本磨いた。
※
越前のこの町は、眼鏡の枠を作る町だ。
川沿いに小さな工場が並んでいて、朝はどの窓からも、研磨の音がしている。
低い、うなるような音だ。
高校を出て、私はその中の一つに入った。
寮はなく、実家から自転車で二十分。
冬は雪で自転車が使えないので、歩いて帰ることになる。
雪の夜道は、街灯の下だけが妙に明るい。
用水路の蓋の上は、雪がすぐに溶けるから、そこを歩くと早い。
町の子はみな、そうやって近道をする。
用水路の水は、冬だけ音が変わる。
雪を流すために堰を上げるので、蓋の下で低く鳴るのだ。
ごう、という音でもなく、しゅう、という音でもない。
蓋の上に立つと、足の裏から伝わってくる種類の音だった。
子どものころ、私はその音が好きだった。
好きだったというより、慣れていた。
慣れているというのは、たぶん、いちばん危ない。
※
ハクを拾ったのは、小学四年の秋だった。
祖母の家の裏の、柿の木の下に、痩せた子猫がうずくまっていた。
背中だけが白くて、耳の先と尾の先が、煤をつけたように黒かった。
母は最初、飼うのを嫌がった。
「猫は帰ってこんようになるで」
「かえってくる」
「なんでわかるん」
「わたしがかえってくるから」
四年生の理屈だが、母はそれで折れた。
ハクは太った。
半年で、抱くと腕が下がるくらいになった。
そして、学校から帰る私を、途中まで迎えに来るようになった。
迎えに来る場所は、決まっていた。
用水路にかかる小さな橋の、たもとだ。
そこで座って待っていて、私を見つけると、まず一度だけ振り返る。
私が来た方向ではなく、家の方向を振り返るのだ。
それから、左の前足で自分の顔をこする。
顔をこすってから、歩きはじめる。
猫の癖というのは、どうしてあんなに決まった順番なのだろう。
私は毎日、その順番を見ていた。
雨の日は、ハクは橋の下にいた。
私が傘を傾けると、濡れた背中を傘の内側に入れてきた。
それでも、抱かせてはくれない。
抱こうとすると、するりと出ていって、また少し前を歩く。
「だっこは、あかんのか」
ハクは前を向いたまま、尾だけを一度、ぱたんと落とした。
それが返事だと、私は勝手に決めていた。
祖母はハクを気に入っていた。
「この猫は、耳がええ」
「みみ?」
「音の変わるのがわかる猫や」
祖母は縁側で、柿の皮をむきながらそう言った。
「水でも風でも、変わったら、先に動く」
「なんでわかるん」
「わしらの町の猫は、みんなそうやった」
祖母は昔の話をするとき、いつも「わしら」と言った。
見ていたのに、意味を考えたことは一度もなかった。
※
六年生の冬、祖母が入院した。
母が付き添うことになり、私も一週間、隣の市の祖母の家から学校に通った。
その一週間の、四日目だった。
母から電話があって、ハクが用水路に落ちたと言われた。
雪の日で、蓋の継ぎ目の隙間が、雪の下で見えなかったのだそうだ。
用水路は、冬のあいだ雪を流すために、水を強くしてある。
見つかったのは、二百メートル下の格子の前だった。
私は泣かなかった。
泣かなかったというより、その場で泣く順番がわからなかった。
帰ってきてから、母に一つだけ訊いた。
「どこの蓋」
「橋の、たもとのとこ」
待っていた場所だった。
私は、その日から猫を飼わないと決めた。
決めた、というほど固い気持ちではない。
ただ、あの一週間の四日目のことを思い出すのがいやだった。
ハクは、祖母の家の裏の柿の木の下に埋めた。
拾った場所だった。
母が掘って、私は上から土をかけた。
手が冷たくて、土の粒がいちいち痛かった。
埋めたあと、母が一度だけ言った。
「この子は、あんたの帰り道の番をしとった猫やわ」
私は返事をしなかった。
番、という言い方が、そのときは大げさに聞こえた。
中学に上がってから、私は柿の木の下へ行かなくなった。
行かなくなった理由は、はっきりしている。
忘れたいというより、思い出すと足の裏の音を思い出すのだ。
あの蓋の上の、しゅう、という音を。
※
就職して二年目の秋から、仕事がうまくいかなくなった。
研磨の工程は、班長の検品を通らないと次に進めない。
その年に来た班長は、通す基準がその日によって変わる人だった。
朝は通ったものが、夕方には戻ってくる。
「昼から手が荒れとるやろ」
「同じように磨いてます」
「同じにできとらんから戻ってきとるんやろ」
言い返せなかった。
言い返せない理由が自分にもあることが、いちばんつらかった。
残業して、九時前にタイムカードを押す。
帰り道の最初の五十メートルは、工場の窓の音がまだ聞こえている。
その音が聞こえなくなったあたりで、いつも涙が出た。
我慢していたものが、音が消えた瞬間に出てくるらしい。
辞めようかと思っていた。
辞めて、どこへ行くのかは考えていなかった。
研磨は、力ではなく角度の仕事だ。
当てる角度が一度ずれると、光の伸び方が変わる。
それを目で見て覚えるまでに、人によっては何年もかかる。
私は覚えるのが遅かった。
遅い人間が数で追いつこうとすると、手が荒れる。
手が荒れると、指の湿りが変わって、また戻される。
戻された枠を持って作業台に帰る二十歩が、いちばん長かった。
「すみません」
「謝らんでええから、直せ」
班長の言い方は、たぶん正しかった。
正しいものに、いちばん傷つくときがある。
十一月のはじめに、私は一度、辞表を書いた。
便箋がなかったので、枠の検品票の裏に書いた。
「一身上の都合により」
そこまで書いて、次の行が出てこなかった。
都合など、一つもなかった。
あるのは、手が痛いことと、朝が来るのが嫌なことだけだった。
書きかけの紙は、鞄の内側のポケットに入れたままにした。
入れたままにして、そのあと二ヶ月、出さなかった。
※
その白い猫を見たのは、十一月の終わりの晩だった。
川沿いの道を歩いていると、二十メートルほど先に、白い塊が座っている。
街灯の真下だった。
私が近づくと、猫は立ち上がって、ゆっくり歩きはじめた。
距離を保ったまま、私の前を行く。
私が止まると止まり、歩き出すと歩く。
野良猫にしては、痩せていなかった。
角を曲がるとき、猫は坂のほうへ入った。
私は少し迷った。
坂は遠回りだ。
用水路の蓋を歩けば、五分は短い。
それでも、なんとなく猫のほうへついていった。
その晩は、涙が止まっていた。
泣きながら歩くと足元を見るが、猫を見ていると、少し先を見ることになる。
それだけの違いだったのかもしれない。
家に帰って、私は久しぶりに米を炊いた。
泣いた日は、コンビニのパンで済ませていた。
炊けるまでのあいだ、玄関の三和土に座って、外の雪を見ていた。
猫のことを考えていた。
考えていたというより、明日もいるだろうかと思っていた。
※
翌日も、猫はいた。
その次の日も、次の日もいた。
いつも同じ街灯の下で座っていて、私が来ると歩き出す。
そして、必ず坂を上がる。
用水路沿いの近道は、一度も通らなかった。
私は、その猫が近道の水音を嫌っているのだと思った。
猫は水を嫌うと聞いていたからだ。
家の前に出る最後の曲がり角を曲がると、猫の姿はもうない。
曲がるまでは、いる。
曲がったら、いない。
母にその話をしたら、笑われた。
「ようできた猫やね」
「まいばん、おるんやよ」
「餌でもやったんやろ」
「やってない」
やっていない。
手を出そうとすると、猫はきっちり一メートル、離れるのだ。
一週間ほどで、私は坂の道に慣れた。
坂の途中に、古い井戸のポンプがある家がある。
その前を通ると、犬が二回だけ吠える。
必ず二回だ。
三回吠えないところが、私はおかしかった。
猫が前を歩いているあいだ、私は工場のことを考えていなかった。
猫がどこで曲がるか、それだけを見ていた。
人間は、見るものが変わると、少し楽になるらしい。
※
十二月の、雪の降り出した晩だった。
街灯の下に、いつものように白い猫がいた。
私が近づくと、猫は立ち上がって、家の方向を一度だけ振り返った。
そのあと、左の前足で顔をこすった。
順番が、同じだった。
振り返ってから、顔をこする。
それは、ハクの順番だった。
私は名前を呼んだ。
「ハク」
猫は、少しだけ耳を動かした。
それから、いつもの坂を上がりはじめた。
私はその後ろを、声を出さずに歩いた。
涙が出ていたが、その晩のは、工場の涙ではなかった。
「あんた、ずっと待っとったんか」
猫は答えない。
「もう、待たんでええよ」
言ってから、自分の言葉が薄いことに気づいた。
待っていたのは、私のほうだったのかもしれない。
最後の曲がり角の手前で、猫は立ち止まって、はじめてこちらを見た。
撫でたかった。
けれど、近寄ったら消えてしまいそうで、動けなかった。
指紋のない指では、どうせ毛の感じもわからない。
そう思って、私は手を握った。
「ありがとうね」
「もう、だいじょうぶやから」
猫は角を曲がった。
曲がったあと、私はなぜか後ろが気になって、振り返った。
川沿いの道の、用水路の蓋の上に、白い小さな塊がふっと消えるところだった。
あの子が落ちた蓋の上を、私は毎晩、平気で歩いていた。
家に入って、私は台所の椅子に座った。
座ってから、手が震えていることに気づいた。
寒さではなかった。
母が茶を出して、向かいに座った。
「白い猫、見たんやろ」
「なんで」
「顔に出とるわ」
母は、その晩は何も訊かなかった。
訊かずに、湯呑みを両手で持って、しばらく黙っていた。
翌朝、鞄を開けたとき、あの検品票が出てきた。
「一身上の都合により」の続きは、まだ白いままだった。
私はそれを、破らずに畳んで、机の抽斗に入れた。
破らなかったのは、また書くかもしれないと思ったからだ。
結局、書かなかった。
抽斗の底に、いまも入っている。
※
年が明けて、一月の半ばに、町内で事故があった。
用水路の蓋が、雪の重みで抜けたのだ。
私が近道にしていた、あの区間だった。
落ちたのは、工場の先輩の男の人だった。
腰と足を打って、二ヶ月ほど休んだが、無事だった。
抜けたのは夜の九時ごろだったと、あとで聞いた。
私が、毎晩そこを歩いていた時刻だ。
抜けたのは、蓋の継ぎ目だった。
六年生の冬に、ハクが落ちたのと同じ継ぎ目だ。
町の記録では、その区間の蓋は、四十年替えられていなかった。
そして、その二ヶ月ほど、私は一度もその蓋を歩いていなかった。
白い猫が、毎晩、坂のほうへ入っていったからだ。
猫は水を嫌っていたのではなかった。
私を、あの蓋の上を歩かせないでいたのだ。
送ってもらっていたのではなかった。
通らせないでもらっていた。
「うちの子は、賢い猫やったからね」
母は、そう言っただけだった。
母がその話をしたのは、その一度きりだ。
※
三月に、私は祖母の施設へ行った。
祖母は九十を過ぎて、もう私の名前を間違える。
それでも、猫の話をすると顔が動いた。
「あの白いの、まだおるか」
「もう、おらんよ」
「ほうか」
祖母はそう言って、しばらく窓を見ていた。
それから、はっきりした声でこう言った。
「水の音が変わるとな、猫は道を変えるんや」
「うん」
「猫が道を変えたら、人も変えたらええ」
祖母がその日、まともに話したのは、その二言だけだった。
帰りのバスで、私は少し泣いた。
泣きながら、蓋の音のことを考えていた。
あの晩、蓋の下の音は、たしかに少し変わっていた気がする。
気がするだけだ。
私には、聞き分ける耳がなかった。
※
事故のあと、町は蓋を新しくした。
厚い鉄板になって、継ぎ目が溶接された。
私は仕事の帰りに、そこで立ち止まってみた。
雪が溶けて、鉄板が黒く濡れていた。
指紋のない指で、その鉄をなでた。
毛の感じはわからない指でも、冷たさだけは、はっきりわかった。
それから私は、工場を辞めなかった。
班長は次の春に配置が変わり、私は検品の側に回った。
戻ってきた枠を突き返すのではなく、どこが甘いのかを紙に書いて返す。
新しく入ってきた子が、それを見て泣いていたときは、外に出て一緒に歩いた。
帰り道を一緒に歩くくらいのことしか、私にはできない。
それでも、あの晩の私には、それがいちばん効いたのだ。
落ちた先輩は、松葉杖で復帰した日に、私にこう言った。
「お前、十二月から坂まわりで帰っとったやろ」
「はい」
「声かけたのに、いっぺんも気づかんかったな」
「すみません」
「なんで坂にしたんや」
私は少し考えて、正直に答えた。
「猫が、そっち行くんです」
先輩は笑わなかった。
「そうか」
それだけ言って、松葉杖で先に行った。
この町の人は、猫の話を笑わない。
※
あれから十四年になる。
いまは自分の班を持って、若い子に研磨を教えている。
若い子に教えるとき、私は必ず角度の話から始める。
「力で押したら、光が伸びません」
「はい」
「急いだ分は、二本めで戻ってきますから」
自分の口から出る言葉に、毎回、少し笑ってしまう。
私は結局、近道の話しかしていない。
猫は、まだ飼っていない。
飼わないと決めたわけではない。
ただ、私の家に迎えに来る猫は、もう決まっている気がしている。
冬の夜、坂を上がるとき、私はときどき少し前を見る。
白いものはいない。
いなくていい。
あの子は、あの晩に、ちゃんと帰ったのだ。
あの晩のあと、白い猫は来なくなった。
翌日も、その次の日も、街灯の下には何もいなかった。
私は三日ほど、同じ時刻に同じ道を歩いた。
四日目に、坂の途中の犬が二回吠えた。
それを聞いて、なぜか、もういいのだとわかった。
来なくなったことが、いちばんはっきりした返事だった。
それでも私は、いまでも坂の道で帰る。
雪のない季節も、遠回りのほうを歩く。
近道は、五分早いだけだ。
五分のために、あの子はもう一度、待たなくていい。
祖母の家は、いまは空き家になっている。
柿の木だけは残っていて、去年もよく実った。
秋になると、私はそこへ行って、実を二つ、根元に置く。
墓ではないから、花は置かない。
あの子は花より、日の当たる土が好きだった。
根元の土は、いつも少し掘り返した跡がある。
はじめは動物が来ているのだと思っていた。
去年の秋、空き家の鍵を返しに来た母と、そこで鉢合わせた。
母の手には、柿が二つあった。
「お母さんも、置いとったんか」
「毎年やわ」
「なんで言わんの」
「あんたが、行かんようになってたから」
母は柿を置いて、手をぱんぱんと払った。
「言うたら、行かなあかん気になるやろ」
二十年、母は一人で来ていたことになる。
番をしていたのは、猫だけではなかった。
土の上にしゃがむと、いまでも指が土の粒を痛がる。
指紋のない指は、痛みだけは、よく拾う。
ハク。
わたしは、あの蓋を、もう歩いていません。