紺のワンピースと百円玉

駅のホームに座る女性(フリー写真)

姉がその紺のワンピースを着て駅へ向かったのは、事故から一年と四か月が過ぎた、十月の朝だった。

これは、姉から聞いた話と、私がこの目で見たことを合わせて書いたものだ。

どちらがどちらなのかは、最後まで読めばわかると思う。

姉には、親がいなかった。

物心ついたときには、県北の山あいにある児童養護施設で暮らしていた。

親が今どこにいるのかも、元気でいるのかどうかも知らない。

施設の玄関には、子どもの数だけ下駄箱が並んでいた。

それでも姉は、ひねくれずに育った。

朝は誰より早く起きて、年下の子の靴を揃えた。

かかとを揃えて、つま先を外に向ける。

園長先生に一度教わっただけのことを、姉は十八歳で施設を出るまで続けた。

同じ施設に、三つ年上の彼がいた。

彼は、幼いころから姉の隣にいた人だった。

姉がはじめて自転車に乗れた日も、後ろで荷台を押していたのは彼だった。

「離すぞ、もう離すぞ」

そう言いながら、彼は坂の下まで一度も手を離さなかったという。

姉が振り返ったとき、彼は息を切らして笑っていた。

高校を出て、二人とも働きはじめた。

彼は国道沿いの自動車整備工場に、姉は駅前の弁当屋に勤めた。

彼の爪の際には、いつも落ちきらない油が黒く残っていた。

姉はそれが好きだった。

中学生のころ、施設の自転車のチェーンが外れたことがあった。

彼は工具箱も使わず、指先だけでそれを掛け直した。

「ほら、手ぇ黒くなった」

そう言って、姉の頬に油の指を押しつけた。

姉は怒って追いかけ、彼は笑いながら中庭を三周した。

紺のワンピースを買ってもらった日のことも、姉はよく覚えている。

駅裏の古着屋の、いちばん奥のラックに掛かっていた。

値札には、手書きで二千八百円とあった。

彼は財布の中身を二回数えてから、レジへ持っていった。

「給料日に買うって決めてたんだ」

店を出たところで、彼は紙袋を姉に押しつけた。

包装紙もリボンもない、薄茶色の紙袋だった。

姉はその晩、施設の小さな鏡の前で、何度も袖を通しては脱いだ。

同じ部屋の年下の子が、布団の中からくすくす笑っていた。

「お姉ちゃん、それ、お嫁さんみたい」

姉はその子の布団を、上から軽く叩いた。

休みの日が重なると、二人は決まって遠出をした。

そのたびに姉が着ていったのが、紺のワンピースだった。

彼が古着屋で見つけて、はじめての給料日に買ってくれたものだ。

膝下まである、襟の白い、少し古風な形だった。

「それ着てると、姉ちゃんって感じじゃなくなるな」

彼はそう言って笑ったそうだ。

「明日も着てきて」

次のデートの前の晩には、決まって同じことを言った。

姉は同じ服ばかり着るのが恥ずかしくて、何度も首を振った。

それでも、結局いつもそれを着ていった。

二人は、翌年の春に籍を入れる約束をしていた。

姉にとって彼は、恋人である前に、たった一人の家族だった。

病院の平行棒

その日も、二人は遠出の帰りだった。

彼の運転する軽自動車が、夜の国道で信号待ちをしていた。

後ろから来た大型トラックが、止まらなかった。

彼と、トラックの運転手は、その夜のうちに戻らぬ人となった。

姉は助手席で、右脚の膝から下を失った。

右半身の感覚も、半分ほど持っていかれた。

病院で目を覚ましたとき、姉は最初に彼の名前を呼んだ。

看護師さんは、答えずに姉の手を握ったという。

それからの姉は、ほとんど何もしゃべらなかった。

食事は、半分以上を残した。

窓の外の給水塔を見ている時間だけが長かった。

同じ病室の年配の女性が、みかんを剥いて枕元に置いてくれた。

姉はそれにも手をつけなかった。

乾いていくみかんの皮の匂いだけを、今もよく覚えているという。

施設の園長先生が、三日に一度は見舞いに来た。

園長先生は何も聞かず、洗濯物を持って帰り、畳んで持ってきた。

その繰り返しが、半年続いた。

同じ病室の年配の女性は、ある晩、姉のカーテンの向こうから話しかけてきた。

「あんた、ずっと窓ばっかり見てるね」

姉は返事をしなかった。

「見てるうちはまだいいのよ。見なくなったら、心配だけど」

女性はそれだけ言って、ラジオの音を少しだけ小さくした。

彼の勤めていた整備工場の社長も、一度だけ見舞いに来た。

社長は紙袋から、名前の縫いつけられた作業着を出した。

胸のところに、彼の名字が白い糸で刺繍されていた。

「ロッカーに残ってたんだ。あんたが持ってるのがいいと思って」

姉はそれを受け取って、膝の上で長いあいだ撫でていた。

袖口には、落ちきらない油の染みがあった。

姉はその染みを、爪の先で何度もこすった。

こすっても、落ちなかった。

落ちないことに、なぜか少しだけ安心したのだという。

その作業着は今も、姉の部屋の押し入れの、いちばん上の段にある。

ところが、ある日を境に、姉は急にリハビリに打ち込むようになった。

平行棒の間を、何度も何度も往復した。

朝九時と午後二時、一日二回の枠を、姉は一度も休まなかった。

休みの日曜には、病棟の廊下の手すりで同じことをした。

転んで額を切っても、次の日にはまた棒を握っていた。

理学療法士の先生たちは喜んだ。

「前向きになってくれてよかった」

そう言って、姉の肩を叩いた。

姉は、何も答えなかった。

あとで聞いたところでは、そのとき姉が見ていたのは、前ではなかったらしい。

もう一度ひとりで歩けるようになれば、自分で彼のところへ行ける。

そう思っていたのだという。

後ろ向きに、前を向いていた。

姉は自分のことを、そんなふうに言った。

義足に慣れるまで、八か月かかった。

右手は、スプーンを持てるくらいには戻った。

財布から小銭を出すのだけが、最後までうまくいかなかった。

退院の日、園長先生が迎えに来た。

姉はアパートの鍵を受け取り、ひとりの部屋に帰った。

部屋の中は、事故の前の朝のままだった。

流しには、彼が使ったマグカップが一つ、伏せてあった。

紺のワンピースの朝

十月の、よく晴れた朝だった。

姉は、ふいに今日だと思ったそうだ。

理由はない。

ただ、窓の外の空が、彼と最後に出かけた日の空に似ていた。

押し入れの奥から、紺のワンピースを出した。

事故のあと、一度も袖を通していなかった。

裾から義足が見えてしまうのが嫌だったからだ。

けれど、彼に会いに行くのなら、この服しかない。

姉はそう思って、背中のファスナーを片手で上げた。

うまく上がらず、何度もやり直した。

鏡は見なかった。

部屋を出る前に、作業着をきちんと畳んで、枕の上に置いた。

それから、郵便受けのほうへ歩いた。

義足の足音が、アパートの外廊下にこつこつと響いた。

伏せてあったマグカップを、最後に一度だけ洗った。

玄関を出るとき、郵便受けに一枚のはがきが挟まっていた。

園長先生からの、季節の便りだった。

姉はそれを読まずに、鞄に入れた。

駅までは、ふだんなら歩いて十二分の距離だ。

その日は、三十分かかった。

途中で、前に勤めていた弁当屋の前を通った。

店のおかみさんが、揚げ場の窓から顔を出した。

駅へ向かう道には、登校する小学生の列があった。

黄色い帽子が、踏切の前で一列に止まった。

遮断機が上がるのを待つあいだ、先頭の子が姉の脚をちらりと見た。

すぐに、その子は前を向いた。

姉はその子の背中のランドセルの傷を、ぼんやりと数えていた。

踏切を渡ると、駅前のロータリーが見えた。

タクシーが三台、客待ちをしていた。

彼と最後に出かけた日も、ここから電車に乗った。

あの日、彼は切符を買うのにもたついて、後ろの人に舌打ちされた。

「俺、機械の中身はわかるのに、機械の使い方はわかんないんだよな」

彼はそう言って、頭をかいた。

その券売機が、同じ場所に、同じ色で並んでいた。

姉は、いちばん端の一台を選んだ。

「あら、久しぶり。そのワンピース、懐かしいねえ」

姉は会釈だけして、通り過ぎた。

駅に着くと、姉は券売機の前に立った。

入場券を買うつもりだった。

財布から小銭をつまもうとして、右手の指がすべった。

百円玉が一枚、床に落ちて、券売機の下のほうへ転がった。

姉がいちばん苦手な動作は、しゃがむことだった。

義足の膝は、思うように曲がってくれない。

手すりを探して、左手を伸ばした。

そのとき、横からすっと手が伸びて、百円玉を拾い上げた。

白髪の、背の高い男性だった。

深い緑色のカーディガンを着ていた。

券売機から少し離れた柱のそばに、切符を二枚握った小学生の男の子が立っていた。

男性はその子に、ちょっと待っていなさい、というように手を上げた。

「どうぞ」

男性は、百円玉を姉の手のひらに載せた。

「ありがとうございます」

姉は小さな声で言った。

早く行ってほしかった。

ところが男性は、その場を動かなかった。

姉の顔を、少し首をかしげて見ていた。

何かを思い出そうとしている人の目だった。

階段で車椅子を運んだ日

「三年ほど前に、北口の階段で、あなたと、ご一緒だった男の方に助けていただきました」

男性はそう言った。

姉には、何のことだかわからなかった。

男性は、ふっと視線を後ろへやった。

改札の脇に、車椅子の女性がいた。

膝に薄い毛布を掛けて、こちらを見て微笑んでいた。

その顔を見た瞬間、姉の頭の中で、古い場面がひとつ開いた。

あの日は、彼の車が車検に出ていた。

二人は珍しく電車で出かけた。

北口のエレベーターが点検中で、階段の下で途方に暮れている夫婦がいた。

彼は迷わず、車椅子の前側を持った。

「俺、こういうの慣れてるんで」

施設で年下の子の車椅子を押していた彼は、本当に慣れていた。

姉は後ろから、女性の鞄を持って階段を上がった。

上りきったところで、女性が何度も頭を下げた。

彼は照れて、ろくに返事もしなかった。

その帰り道、彼はずっと機嫌がよかった。

「いいことした日は、飯がうまい」

そう言って、駅前の定食屋で大盛りを頼んだ。

彼は、誰にでも優しかった。

いつでも、少しも構えずに優しかった。

姉が黙ってその日のことを思い出していると、車椅子がゆっくり近づいてきた。

車輪の音が、構内の床に小さく響いた。

女性は、姉のワンピースの裾を見た。

それから、義足を見た。

目をそらさなかった。

あの日、北口で彼の隣にいた娘が、一人でここに立っている。

それが何を意味するのか、女性にはわかったのだと思う。

女性は、姉の左手を両手で包んで言った。

「しんどいわねえ。でも、あなたには明日があるのよ」

その瞬間、姉は声をあげて泣いた。

駅のコンコースの真ん中で、男性の腕にしがみつくようにして泣いた。

彼がいなくなってから、一度も出なかった涙だった。

通りかかる人が振り返っても、姉は止まらなかった。

女性は、姉の手を放さなかった。

男性は、黙って背中を支え続けた。

柱のそばの男の子は、切符を握ったまま、じっとそれを見ていた。

「明日も着てきて」

彼の声が、耳の奥で聞こえた気がしたと、姉はあとで言った。

その日、姉は改札を通らなかった。

夫婦に連れられて、駅の二階の喫茶店に入った。

鞄の中のはがきを、そこでようやく読んだ。

「寒くなりました。靴を揃える人がいなくて、玄関が少しさみしいです」

園長先生の、右上がりの字だった。

はがきの隅には、施設の玄関の下駄箱が、鉛筆で小さく描いてあった。

姉は、はがきを読みながら、また少し泣いた。

女性は何も言わずに、ナプキンを一枚、姉の前に滑らせた。

男性は、ホットココアを三つ頼んだ。

女性は、自分の分のカップを姉のほうへ少し寄せた。

「熱いから、ゆっくりね」

一つは、柱のそばで待っていた男の子のぶんだった。

「甘いのしかないけど、いいかね」

男性がそう言うと、男の子は小さく頷いた。

窓の外では、さっき姉が乗るつもりだった電車が、ゆっくりホームを出ていった。

姉はその電車を、最後の車両が見えなくなるまで目で追っていた。

それから、冷めかけたココアを、両手でゆっくり飲んだ。

甘すぎる、と姉は思ったそうだ。

思ったことに、自分で少し驚いた。

味がするのは、事故のあと、はじめてだった。

柱のそばの小学生

男性は元は高校の数学の先生で、女性は長く図書館で働いていた。

二人には子どもがいなかった。

話しているうちに、姉が県北の同じ施設の出だとわかった。

男性は驚いた顔で、女性と目を合わせた。

それから三人は、月に一度、その喫茶店で会うようになった。

やがて、それが週に一度になった。

女性は姉に、本の読み方を教えた。

男性は、姉の家計簿を見てくれた。

姉は、女性の車椅子を押すのがうまくなった。

ある日、女性が姉に聞いた。

「あのワンピース、また着てこないの」

「脚が、見えるから」

姉がそう答えると、女性は少し考えてから言った。

「見えたら、何か困るの」

姉は、答えられなかった。

次の週、姉は紺のワンピースで喫茶店に来た。

女性は何も言わず、ただいつもより長く、姉の手を握っていた。

二年が過ぎた春、夫婦は姉に、うちの子にならないかと言った。

判を押したあと、夫婦はそろってにやにやと笑った。

「これで、駅で待ち伏せされたら困るわね」

「うちに請求書が来ちゃうからなあ」

「もうしないよ」

姉は困った顔で笑った。

「老後の面倒、見てもらわにゃな」

父がそう言うと、母がすかさず続けた。

「その代わり、あたしたちが先に行ったら、保険金はがっつりあなたのものよ」

「じゃあ、保険金のためにがんばりますか」

姉はそう言って、私のほうを見て笑った。

食卓の端で、私は麦茶を吹き出しそうになった。

ひとつの嘘が人を守る彼女の嘘という話を、姉は今もときどき読み返している。

失ってから気づく愛に気づくまでという話には、付箋が三枚貼ってある。

ここまで書いて、ひとつだけ、姉に話していないことがある。

私は、姉より先に、あの夫婦の家の子になった。

同じ県北の施設から、十歳のときに迎えられた。

あの十月の朝は、はじめて三人で遠出をする日だった。

父が券売機で切符を買い、私はそれを二枚、預かっていた。

あの朝、券売機の横で切符を二枚握りしめていた小学生が、私だ。

姉は今も、あの日そばに子どもがいたことを覚えていない。

私は、姉が紺のワンピースの裾を気にしながら、百円玉に手を伸ばすのを見ていた。

泣いている大人を、あんなに近くで見たのは、あれがはじめてだった。

私はしわくちゃになった切符を、二枚とも持って帰った。

今も、机の引き出しにしまってある。

姉に話していないのは、隠したいからではない。

あの朝のことを、姉は「偶然、あの夫婦に会った日」として覚えている。

その記憶の中に、見ていた子どもがいたと知ったら、姉はきっと謝る。

私は、謝られたくないのだと思う。

十歳の私は、あの喫茶店で、ココアの湯気の向こうの姉をずっと見ていた。

この人がうちに来たらいいのに、と思った。

それを父に言ったのは、ずいぶんあとになってからだ。

父は、黙って私の頭に手を載せた。

その手は、今も少しも変わらず重い。

あの朝、私は泣いている人の隣に家族ができる瞬間を見た。

それは、施設の玄関で迎えを待っていた自分が、ずっと見たかった場面だった。

姉は去年、あの施設の職員になった。

年下の子の靴を、今も誰より早く揃えている。

紺のワンピースは、今も姉の部屋の、いちばん手前に掛かっている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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