潮の匂いを嗅ぐと、私はいつも、あの夏の病室を思い出します。
開け放した窓から、遠くの汽笛が聞こえていた、港町の小さな病院の一室を。カーテンが海風にふくらんで、消毒液の匂いのなかに、かすかに潮の香りが混じっていました。
従兄の悠介さんが白血病で亡くなったのは、二十七歳のときでした。私がまだ、十六の夏のことです。
悠介さんは、この港町で船大工の見習いをしていました。木の匂いと潮の匂いが、いつも作業着に染みついている人でした。
寡黙で、けれど手先が驚くほど器用で、私が幼い頃には、木の切れ端で小さな独楽や笛を、いくつも作ってくれました。夏祭りの夜に、悠介さんが削ってくれた竹とんぼが、どの子のものより高く飛んだのを、私は今でも覚えています。
悠介さんには、夢がありました。いつか自分の手で、一艘の木造船をつくること。「機械で作る船とは、粘りが違うんだ」と、あの人はよく言っていました。「木の一本一本に、海に出てからの何十年分の役目を、彫り込んでやるんだ」と。
その夢を、悠介さんは千夏さんに、何度も語っていたそうです。完成したら、その船に千夏さんを乗せて、いちばん最初に、朝日の昇る沖まで漕ぎ出すのだと。
その悠介さんに、千夏さんという恋人がいました。町の食堂で働く、笑うと目が三日月になる、優しい人でした。
二人が付き合い始めたのは、悠介さんが千夏さんの食堂に、毎日昼ごはんを食べに通ったからだと聞きました。無口な悠介さんが、勇気を出して声をかけたのだと。
私も一度だけ、二人が診断を受ける前の夏に、その食堂に連れて行ってもらったことがあります。悠介さんは、まかないのアジフライを大盛りにしてもらって、「ここのが、この町でいちばん旨いんだ」と、自分のことのように自慢していました。
厨房の奥から、千夏さんが「大盛りはサービスだからね」と顔を出して笑うと、悠介さんは耳まで赤くなっていました。あの頃の二人は、これからいくらでも時間があると、当たり前に信じていました。私も、そう信じていました。
千夏さんは、悠介さんが入院してからというもの、自分の仕事もあるのに、毎日欠かさず病室を訪れていました。昼の休憩に一度、仕事が終わってからもう一度、日に二度も通う日さえありました。
二人はもう、結婚の約束もしていたのだと思います。悠介さんが独り立ちして、自分の船を一艘つくれるようになったら、祝言を挙げようと話していたそうです。
悠介さんの体の異変が見つかったのは、船の進水式の準備をしていた、春の終わりでした。ただの疲れだと思っていた微熱と、消えないあざ。診断がついたとき、悠介さんは棟梁に、「船を最後まで手伝わせてください」と頭を下げたそうです。
※
病室に行くと、二人はいつも、静かに寄り添っていました。
千夏さんが果物を剥いて、「はい、あーん」と悠介さんの口元に運んだり、抗がん剤で痛む腰や背中を、上着の裾をめくって、そっと擦ってあげたり。
「くすぐったいよ」と悠介さんが言うと、「我慢しなさい」と千夏さんが笑う。その何気ないやりとりが、まるで長年連れ添った夫婦のようでした。
点滴の管をつけたまま、悠介さんが千夏さんの髪をそっと撫でることもありました。「千夏の髪は、いつも潮の匂いがするな」と言うと、千夏さんは「食堂の油の匂いでしょ」と、頬を膨らませて怒ってみせるのです。二人は、それだけのことで、いつまでも笑っていました。
当時の私は、まだ子どもでした。だから、悠介さんが死んでしまうなんて、まるで想像がつきませんでした。
『きっとこの二人は、あと数年もしたら結婚して、幸せな家庭を築くんだろうな』
見舞いに行くたび、私はそんな幸せな想像しかできませんでした。正直に言えば、少し羨ましくさえありました。誰かにあれほど大切にされる千夏さんが、まぶしく見えたのです。
悠介さんは、ベッドの上でも、よく木を彫っていました。膝に小さな板を乗せて、小刀で少しずつ、小舟の形を削り出していたのです。
削りかすが、白いシーツの上に、雪のように散っていました。看護師さんに「掃除が大変だから」と時々叱られても、悠介さんは彫るのをやめませんでした。
「これ、千夏にやるんだ」と、悠介さんは照れくさそうに言いました。
「私、船なんてもらってどうするのよ」と千夏さんが笑うと、悠介さんは真面目な顔で言いました。「船はな、どんな時化でも、乗ってる人を陸まで連れて帰るんだ。お守りみたいなもんだよ」
その小舟は、まだ舳先の部分が、削りかけのままでした。
ある日の帰り際、悠介さんが私を呼び止めて、こう言ったことがあります。「なあ、千夏を頼むな」。私は意味が分からず、「何言ってるの、退院したら悠介さんが頼むんでしょう」と笑い飛ばしました。悠介さんも、「そうだな」と笑いました。今思えば、あれは、あの人なりの、遠回しの遺言だったのかもしれません。
※
しかし、悠介さんの病状は、夏が深まるにつれて、どんどん進んでいきました。
見る見るうちに痩せていき、頬がこけ、目ばかりが大きくなって。あれほど太く節くれだっていた大工の手が、枯れ枝のように細くなっていきました。身内の私でも、正視できないほどでした。
早く終わってほしい、と思ってしまう自分がいました。そんなふうに思う自分が、たまらなく嫌でした。ただ、人の命の脆さが、怖かったのです。
それでも千夏さんは、ずっと傍にいました。悠介さんの、細くなった手を握って、抗がん剤の影響で髪の抜けた頭に被せる、毛糸の帽子を、何色も編んでいました。
「今日は水色。海の色だよ」と、千夏さんは新しい帽子を悠介さんに被せて、嬉しそうにしていました。
編み物なんて、それまでしたこともなかった千夏さんが、本を買ってきて、指を何度も刺しながら覚えたのだと、後で聞きました。悠介さんの頭を、少しでも温かくしてあげたい。ただ、その一心だったのです。
私は怖くて怖くて、病室に入るのも嫌で、入っても、千夏さんの後ろ姿ばかりを見ていた気がします。あの細い背中が、どれほどの重さに耐えていたのか、当時の私には分かりませんでした。
一度だけ、廊下の隅で、千夏さんが一人で泣いているのを見たことがあります。悠介さんの前ではいつも笑っていた人が、自動販売機の陰で、声を殺して、肩を震わせていました。
私は、声をかけることができませんでした。ただ、その背中を見て、この人は、悠介さんの前で泣かないと決めているのだと、子どもながらに悟りました。千夏さんは、涙を拭いて、深呼吸を一つして、また笑顔をつくって、病室へ戻っていきました。
悠介さんは、いつも来ない日のことばかり話していました。
「退院したら、あの岬に船を出そう」「秋になったら、二人で温泉に行こう」「新しいラジオが欲しいな」と。
千夏さんは、そのたびに笑顔で「絶対行こうね」「私、露天風呂がいいな」と応えていました。
気休めだろう、と私は思っていました。けれど、千夏さんの目は、いつも本気でした。本気で、その日が来ることを信じようとしていました。
今、思い返せば、千夏さんは、他にどうすることもできなかったのだと思います。
千夏さんも、怖かったのです。誰よりも、怖かったはずです。
好きな人を失うことは、自分が死ぬことよりも、ずっと恐ろしい。
あの夏、私はまだ、そのことの意味を、半分も分かっていませんでした。
※
秋の入り口に、悠介さんの容態が急変しました。最初の、意識不明でした。
廊下を走る看護師の足音と、慌ただしく点る赤いランプ。私は待合室の椅子で、ただ膝を抱えていました。
医師は、両親と千夏さんを呼んで、静かに、しかしはっきりと告げました。
「進行を抑える薬はあります。しかし、それは一時的なものです。苦しむ期間が、延びるだけかもしれません」
「もし私の身内が同じ立場なら、私は、このまま静かに眠らせてやりたいと思います」
病室に、重い沈黙が落ちました。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえました。
それでも悠介さんの両親は、涙をこらえながら言いました。「せめて、あの子の二十七の誕生日を、迎えさせてやりたいんです」
その横で、千夏さんは、ただ黙って、震えていました。何も言わず、唇を噛んで、悠介さんの手を握りしめていました。
賛成とも、反対とも言えなかったのだと思います。ただ、一日でも長く、その手のぬくもりを、感じていたかったのです。
※
新しい薬が効いて、悠介さんは、嘘のように回復しました。
一時的なものだと分かっていても、それは、二人にとって奇跡のような時間でした。
千夏さんと近場に旅行に行ったり、約束していた温泉にも、二人で行ったそうです。帰ってきた悠介さんは、少しだけ日に焼けて、穏やかな顔をしていました。
「病気に勝ったみたいだ」と、悠介さんははしゃいでいました。けれど、それが一時のものであることは、本人が、誰よりもよく分かっていたと思います。
その温泉旅行の帰りに撮ったという一枚の写真を、私は後から見せてもらいました。露天風呂の前で、水色の毛糸の帽子を被った悠介さんと、その肩にそっと頭を預けた千夏さんが、二人とも、泣き笑いのような顔をしていました。
「この写真だけは、お守りにするの」と、千夏さんは言っていました。今も、その写真が、千夏さんのどこかにあるのだろうかと、ふと思うことがあります。
最後の時を過ごす二人を、両親も、親戚も、私も、ただ何も言わずに見守りました。何を言っても、言葉が足りない気がしたのです。
回復しているあいだ、悠介さんは一度だけ、車椅子で船大工の作業場を訪ねました。木くずの匂いのする、あの懐かしい場所で、悠介さんは、造りかけの船の船腹を、いつまでも撫でていたそうです。
「いい船になるな」と、悠介さんは棟梁に言いました。棟梁は、何も言えずに、ただ大きくうなずいたと聞きました。
その頃、悠介さんは、あの削りかけの小舟を、また少しずつ彫り始めていました。痩せた手で、震えながら、それでも一日に、ほんの少しずつ。
「舳先だけ、まだなんだ」と、悠介さんは言いました。「これだけは、俺の手で、ちゃんと仕上げたいんだ」
千夏さんは、その横で、静かに小舟を見つめていました。何か言いたそうに口を開いて、けれど結局、何も言わずに、微笑んでいました。
※
冬の初めに、悠介さんは三度目の意識不明に陥りました。
あまりの痛みに、子どものように泣き叫ぶ悠介さんを、千夏さんと、悠介さんのお母さんが、両側から抱きしめて、押さえていました。
「ここにいるよ。一人じゃないよ。ずっと、そばにいるからね」
千夏さんは、痛みに喘ぐ悠介さんの額に、そっと口づけをして、細くなった手足を、いつまでも、いつまでも擦っていました。
やがて、悠介さんの荒い息が、少しずつ、静かになっていきました。
医師が臨終を告げ、遺体が自宅に運ばれるまで、千夏さんは、悠介さんを抱いたまま、離しませんでした。
何かに取り憑かれたように嗚咽する千夏さんを見て、私は思いました。人を愛するというのは、こういうことなのか、と。
窓の外では、いつもと同じように、汽笛が鳴っていました。何も知らない海が、ただ、青く広がっていました。
あとで知ったことですが、悠介さんは最後の意識のあるとき、千夏さんにこう言ったそうです。「先に行って、いい船を用意して待ってるよ」。船大工らしい、あの人らしい言葉でした。
※
千夏さんは、親戚の手前、通夜にも、葬式にも、出ることができませんでした。入籍していない恋人という立場は、当時、そういうものでした。
それでも千夏さんは、毎年、命日には、悠介さんのお墓に来ていました。花を供えて、長いあいだ、墓石に手を当てていました。
悠介さんが亡くなって数か月後、千夏さんは勤めていた食堂を辞めたと、私は人づてに聞きました。あの町にいると、思い出が多すぎたのでしょう。
あの削りかけの小舟は、千夏さんが持って帰ったそうです。舳先だけを、悠介さんの棟梁が、悠介さんの遺した小刀で、静かに仕上げてくれたと聞きました。
「あいつの手の続きを、俺がやらせてもらった」と、無口な棟梁は、それだけ言ったそうです。
私はその話を聞いて、初めて声をあげて泣きました。悠介さんが最後まで仕上げたかったのは、きっと、小舟だけではなかったのだと思います。千夏さんの、これから先の長い航海を、あの人は、陸から見送りたかったのです。
※
それから何年かが経ち、千夏さんは、墓参りにも来なくなりました。
最近になって、千夏さんが結婚し、一児の母になったと、私は聞きました。
少しだけ、寂しく思いました。けれど、その何倍も、ほっとしました。悠介さんは、きっと、それを望んでいたはずだからです。
千夏さんが悠介さんを忘れて、新しい幸せを見つけたわけではないと、私は思っています。あの人はきっと、悠介さんとの日々を、胸の奥の温かい場所にしまったまま、それでも前を向いて、歩き出したのです。
それは、裏切りではありません。生き残された者が、精いっぱい生きることこそ、旅立った人への、いちばんの供養なのだと思います。
来ない日のことばかり話していたあの人は、千夏さんの、これからの長い日々の幸せを、誰よりも願っていたはずだからです。
あの夏、私はまだ十六で、人の命の脆さが、ただ怖いだけでした。誰かを深く愛せば、その分だけ、失うことが怖くなる。それでも人は、誰かを愛さずにはいられない。でも今なら、その矛盾のなかにこそ、人が生きる意味があるのだと、少しだけ分かる気がします。
あの病室に流れていたのは、悲しみだけではありませんでした。限られた時間を、それでも精いっぱい、二人で生きようとする、静かで、まぶしい光でした。
人は、いつか必ず、誰かと別れなければなりません。その別れが早いか、遅いかの違いだけなのだと、大人になった今、私は思います。
だからこそ、傍にいられる時間を、悔いのないように生きること。あの夏、千夏さんが私に教えてくれたのは、たぶん、そういうことでした。
潮の匂いを嗅ぐと、私は今でも、あの削りかけの小舟を思い出します。そして、それを膝に乗せて、最後まで仕上げようとしていた、悠介さんの痩せた手を。
あの夏から、もうずいぶんと時が経ちました。私も、あの頃の悠介さんの歳を、とうに越えてしまいました。
それでも、港に立って潮風を受けると、あの病室の光景が、昨日のことのように蘇ります。水色の毛糸の帽子。白いシーツに散った削りかす。そして、来ない日のことばかり話していた、あの穏やかな声を。
どうか、千夏さんが、今の家族と、末永く幸せでありますように。
悠介さんが遺したあの小舟は、きっと今も、千夏さんの家のどこかに、静かに飾られているはずです。舳先まできれいに仕上がった、小さな木の船。それは、二人が確かに愛し合っていたという、たったひとつの証なのだと思います。
あの小舟が、穏やかな海を、いつまでも進んでいけますように。