
一歩下がって歩く癖がある。
左の足が、思うように前へ出ないからだ。
交通事故に遭ってから、私の左半身には少し麻痺が残った。日常生活に大きな支障はない。
けれど歩くと、左足のつま先がほんの少し外へ流れる。
並んで歩く理由なんて、私にはないと思っていた。人の隣に立てば、その歩き方が目立ってしまうから。
半歩うしろの歩幅
事故があったのは六年前の十一月、雨の夜だった。横断歩道を渡っている途中で、右折してきた車と接触した。
目が覚めたのは病院の天井の下で、左手の指が一本も動かなかった。
リハビリには八か月かかった。平行棒につかまり、一歩ずつ前へ出る。リノリウムの床に、靴底が擦れる乾いた音だけが響いた。
理学療法士の先生は、いつも穏やかだった。
「焦らなくていいですよ。昨日より一センチ進めば、それで十分です」
焦るなと言われても、鏡に映る自分の歩き方は毎日目に入る。
退院の日、母は私の左側にぴったりと寄り添った。
「転んだら、すぐ支えるからね」
その言葉がうれしくて、そして少しだけ重かった。
実家の廊下には、いつの間にか手すりが付けられていた。母が一人で業者に頼んだのだと、あとで知った。木の手すりは、握るとひんやりと冷たかった。
退院してしばらくは、学生時代の友人たちが何度か家に来てくれた。けれど私が外へ出たがらないので、誘いの連絡は少しずつ間遠になっていった。
従姉の結婚式にも招かれたが、私は出席の返事を三日間も寝かせた。結局、披露宴では一番出口に近い席を選び、ヒールのない靴で最後まで座っていた。
誰も私を責めはしなかった。ただ、拍手の輪の外側にいる自分の背中だけが、ずっと冷たかった。
それでも美咲だけは、月に一度、私を外へ連れ出した。商店街のアーケードを歩いたとき、美咲が振り返って言った。
「ごめん、今ちょっと速かった?」
気まずそうに笑う彼女に、私は「ううん、大丈夫」と答えた。そう答えながら、自分の足元ばかり見ていた。
気を遣われるたびに、自分が荷物になっていく気がした。
ショーウィンドウの硝子には、歩く自分の姿が映る。左足が、わずかに円を描いている。見なければいいのに、つい見てしまう。
半歩うしろにいれば、前を行く人の背中が壁になってくれる。そのことに気づいてから、私は隠れる場所を覚えた。
書店の火曜日
三年前から、駅前の小さな書店で働いている。レジに立っていれば、歩く姿を誰にも見られずに済むからだ。
休憩室の棚には、店長が集めたブログの記事の切り抜きが並んでいた。
『北口の大時計の下で二時間待った』という話を、私はそこで読んだ。待たされた側の気持ちを、あの人は怒らずに受け止めていた。
日曜の夜に母と交わす短い電話も、そういえば『日曜八時の電話は一分で切れる』のようなものだった。短くても、ちゃんと届いている言葉がある。
それでも、人と並んで歩くことだけは、ずっと避けていた。
常連のおばあさんは、いつも杖をついて来店した。棚の前でゆっくり背表紙を追う私に、ある日こう言った。
「あんた、ゆっくり歩くぶん、本をよう見とるねえ」
「え?」
「急ぐ人は、棚を通り過ぎるだけやけん。あんたのおすすめは、ちゃんと外れがないわ」
褒められたのだと気づくまでに、少し時間がかかった。胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
ある日、小学生くらいの男の子が、母親の手を引いて店に入ってきた。私が棚の間を歩いて本を探すと、男の子がじっと足元を見た。
「おねえさん、足、どうしたの?」
母親が真っ青になって、男の子の口を押さえた。
「すみません、本当にすみません」
「いえ、大丈夫です。昔、事故で…」
笑って答えたつもりだったのに、声が細くなった。その日の帰り道、私はいつもより強く下を向いて歩いた。
アパートの廊下で、一人きりで歩数を数えてみた。右足は、とん。左足は、ずっ。
その二つの音が、夜の廊下に不揃いに響いた。耳をふさぎたくなって、玄関の電気をつけたまま、しばらく座り込んだ。
繋いだ手と帰り道の問い
悠真君は、取引先の営業として毎週火曜に新刊の案内を持ってくる人だった。最初の日、重い箱を右手だけで運ぶ私を見て、黙って反対側を持ってくれた。
何も聞かず、何も言わず、ただ持ってくれた。それから火曜の十分間、レジの横で話すのが習慣になった。
話すのは、たいてい他愛もないことだった。新刊の帯の言葉や、雨の日にだけ混む喫茶店のこと。
彼はよく、「その本、俺も読んだよ」と言って、ひとつだけ感想を足していった。
季節が変わる頃、彼は仕事帰りに店の外で待つようになった。駅までの短い道を、二人で歩くためだ。
私はそのたびに、半歩うしろについた。雨の日、彼は傘を私のほうへ傾けて、自分の右肩を濡らしていた。
「濡れてるよ」と言っても、「平気」としか返ってこなかった。
ある夕方、駅の改札の前で、彼の同僚らしい男の人に声をかけられた。
「おう、悠真。その人、彼女?」
私は反射的に、彼の背中の陰へ一歩下がった。
「そう。香織さん。大事な人」
彼はためらいもなく、そう言った。同僚が去ったあとも、私の心臓はしばらく速いままだった。
二か月目の休日には、彼に誘われて私の実家へ顔を出した。母は朝から煮物を何種類も作り、座布団を三度も並べ直していた。
「いつも娘が、お世話になっております」
「こちらこそ。香織さんには、いつも助けられています」
彼が頭を下げると、母の目尻が少しだけ下がった。
帰り際、母は玄関で私の袖を引き、小声で言った。
「あの子、歩くとき、いつもあんたの左に立つのね」
私は何のことかわからず、曖昧に笑って流してしまった。
その言葉の意味を知るのは、もう少しあとのことになる。
付き合い始めて三か月目の日曜日、二人で港のほうへ歩いた。潮のにおいがして、カモメの声が高く響いていた。
私はいつものように、半歩下がって歩いた。すると彼が足を止め、振り返った。
何も言わずに、私の右手を取る。指の節の硬い、あたたかい手だった。そのまま歩幅を落として、私の横に並ぶ。
彼は信号が点滅しても、決して走ろうとしなかった。青がまた変わるまで、ただ黙って待っていた。
彼が並んで歩く理由を、私はまだ知らなかった。
うれしかった。でも同じ強さで、申し訳なさがこみ上げた。私の歩き方のせいで、彼の速さを奪っている気がしたからだ。
夜、彼の部屋に戻ると、上着も脱がないまま彼が言った。
「どうして、いつも下がって歩くの?」
台所の蛍光灯が、ちりちりと小さく鳴っていた。私は湯のみを持ったまま、しばらく迷った。
「悠真君に、恥ずかしい思いをさせたくなかったから…」
彼の眉が、ぐっと寄った。
「どうして、そんな考え方をするんだ」
声が思っていたより低くて、私は慌てて言葉を継いだ。
「だって…私なんかと付き合ってくれてるだけで、幸せなの」
「悠真君が私といることで、嫌な思いをしてほしくないの」
言い終えたとき、湯のみのお茶はすっかり冷めていた。
窓の外を、最終に近い路面電車の音が通り過ぎていった。
沈黙が、ひどく長く感じられた。私は膝の上で、動きにくい左手を右手で包んだ。
叱られるのだろうか。それとも、呆れられてしまったのだろうか。
そんな怯えが、背中の内側をつたって落ちていった。
並んで歩く理由を話す夜
彼は黙って立ち上がり、私の前に膝をついた。そして私の両手を、ぎゅっと握りしめた。目の縁が、赤くなっていた。
「俺は、お前と付き合って“あげてる”んじゃない。
俺が、お前を好きになって、一緒にいたいって思ったから、付き合ってるんだ」
声が震えていた。
「体のことなら、ずっと前から知ってたよ。書店で、お前が重い箱を右手だけで運んでたときから」
「でも、並んで歩いて恥ずかしいなんて、一度も思ったことはない」
「それなのに、お前が自分を下に見て、俺に気を遣ってるのが、俺は悲しいんだ」
彼は一度、息を整えた。
「もっと自分に自信を持ってよ。恥じないで」
「俺の隣を、胸を張って歩いてほしい」
「ずっとずっと、並んで歩こう。だって、お前は俺の自慢の彼女なんだから」
その瞬間、胸の奥でかたく結ばれていた何かが、ほどけた。喉が熱くなって、視界が揺れた。
言えたのは、「ありがとう」だけだった。
次の週末、横断歩道の手前で信号が青の点滅に変わった。私は反射的に、足を速めようとした。
「走らなくていいよ。並んで渡りたいだけだ」
点滅する信号の前で彼が走らなかったのは、ずっと私に合わせてくれていたからだった。
母の言葉が、ようやく胸の中でひとつにつながった。彼はいつも、転びそうな私をすぐ支えられる側に立っていたのだ。
もう、一歩引くことも、うつむくこともない。私は今日も、彼と肩を並べて歩いている。
それが、並んで歩く理由だと信じられるようになった。胸を張って、自慢の彼女でいられるように。