
私は三年間、雅人の最後の手紙を開けなかった。
封筒は台所の戸棚の奥、海苔の缶の底にしまってあり、湿気ないように乾燥剤をひとつだけ添えてある。
同じ戸棚には、使いかけの味噌と、父の日に買った湯呑みが並んでいる。
缶を下ろそうと手を伸ばすたびに、中身の重さが変わってしまう気がして、いつも途中で指を引っ込めた。
雅人が遺した最後の手紙は、三年のあいだ、そうやって暗い場所で待っていたことになる。
今年の十月、私はその缶を、初めて戸棚から下ろした。
理由はひとつだけ、返事を待たせている人がいたからだ。
缶コーヒーが二本になった日
雅人と出会ったのは、私が19歳になったばかりの春だった。
阪神電車の高架下に小さな商店街があり、私はそこの薬局で、レジと品出しのアルバイトをしていた。
向かいの町工場には、板金の見習いとして働く同い年の青年がいて、それが雅人だった。
昼休みになると、油で爪の先まで黒くなった指が、決まって同じ缶コーヒーを買いにやって来る。
銘柄は無糖の黒で、一度も別のものを選んだことがなかった。
「また、それですか。たまには甘いの、飲まへんの?」
「これが一番、目ぇ覚めんねん。甘いんは眠なるやろ」
会計のたびに、そんなやり取りを交わすようになった。
鉄板を切る甲高い音が、店のガラス戸を細かく震わせる、静かな昼下がりのことだ。
三か月目の雨の日、傘を持たない彼が、薬局の軒先でぼんやり空を見上げていた。
私は店の貸し傘を、何も言わずに差し出した。
「明日、返しに来るわ。ほんまに、ありがとう」
「いつでもいいですよ。古い傘ですから」
翌日、傘はきちんと返ってきた。
曲がっていた骨が一本ずつ直されていて、閉じるとき、これまでにない軽い音がした。
「直せるもんは、直さな気ぃ済まんねん。職業病やな」
彼はそう言って、照れくさそうに鼻の頭をこすった。
その日から、缶コーヒーは二本になった。
一本は雅人の分で、もう一本は、閉店後に並んで座る私の分だった。
商店街の端には、ペンキの剥げた木のベンチがある。
シャッターが一枚ずつ下りていく音を聞きながら、私たちは缶の蓋を同時に開けた。
雅人は将来の話を、ぽつぽつと、独り言のように語った。
いつか自分の名前で小さな板金屋を持ち、看板は手書きにして、暖簾の代わりに鉄の板を吊るしたいのだと。
「そしたらゆいが、事務をやってな」
「給料、ちゃんと出るんでしょうね」
「出る出る。缶コーヒー込みで」
そんな冗談を言い合うだけで、一日がきちんと終わる気がした。
ある夏の夕方、薬局のシャッターが途中で噛んで、半分しか下りなくなったことがあった。
店長が工具箱をひっくり返している横で、雅人が黙ってしゃがみ込み、レールの歪みを指先でなぞった。
十分ほどで、シャッターは嘘のように静かに下りた。
「ほら。鉄はな、ちゃんと話聞いたったら、言うこと聞いてくれんねん」
そう言って笑った顔は、油で汚れたまま、少年のようだった。
店長が菓子折りを渡そうとすると、彼は慌てて首を振った。
「ほな、缶コーヒーだけ、ひとつ奢ってください」
その缶を、雅人はベンチで、私に先に開けさせた。
特別なことは何ひとつなかったが、今になって思えば、あの何もなさこそが、いちばん贅沢な時間だった。
ステンレスの指輪
雅人が20歳になった年の夏、咳がなかなか止まらなくなった。
ただの夏風邪だと、本人は笑って工場に通い続けていた。
けれど熱は引かず、歯ぐきから血がにじみ、あるとき工場の階段で足が上がらなくなった。
診断は、血液の病気だった。
医師の説明を、私は半分も覚えていない。
覚えているのは、病院の自動ドアが開く乾いた音と、雅人が最初に言った一言だけだ。
「ゆい、すまんな。結婚、ちょっと待たしてまうわ」
プロポーズは、その二週間前に済んでいた。
商店街のベンチで缶を傾けながら、いつもの調子で、ほとんど独り言のように言われたのだった。
「俺と、結婚せぇへん?」
「缶コーヒーの流れで言うこと、それ?」
「流れで言わな、俺、絶対に言えへんもん」
私は吹き出して、それから、ゆっくりうなずいた。
指輪は、まだなかった。
入院して一か月が過ぎたころ、雅人は病室のベッドで、小さな紙袋を私に差し出した。
中には、銀色の細い輪がひとつ入っていた。
ステンレスの端材を工場の旋盤で削り、磨き上げたものだという。
社長が目をつぶってくれて、見習いの休憩時間に少しずつ作ったらしい。
「安もんで悪いけど、錆びへんねん」
「錆びへんのが、いちばんええよ」
内側には、細い字で日付が彫ってあった。
あのベンチで、結婚しようと言われた日の日付だった。
右手の薬指に通してみると、ほんの少しだけ大きかった。
「サイズ、先に測っとけばよかったな」
「ええよ。ちょうどええ」
私は嘘をついた。
輪はそれからも、くるりくるりと回り続けた。
それでも外したくなくて、毎晩、指の付け根を左手で押さえながら眠った。
仕事帰りに病室へ寄ると、廊下には消毒液と、冷めた煮物の匂いが混じっていた。
面会時間が終わるまでの一時間、私は雅人の爪を切ったり、洗濯物をたたんだりして過ごした。
ある日、看護師さんが、小さな声で私に言った。
「雅人さん、橋本さんが来る日は、朝から髪を気にしてはるんですよ」
鏡のない病室で、雅人は枕に頭を押しつけて、寝癖を直していたらしい。
その話を、私は本人には言わなかった。
言えば、きっと彼は、二度と寝癖を直さなくなるから。
雅人の病室は、四階のいちばん端にあった。
窓の外には、阪神電車の高架がまっすぐ伸びていて、電車が通るたびに、床がかすかに鳴った。
雅人はそのたびに、ベッドの上で窓のほうへ首を傾けた。
「あの音、早よ聞きたいな。毎日聞いとったのに、ないと寂しいもんやな」
「退院したら、毎日聞けるやん」
「せやな」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
窓から見える高架
冬の初めから、病状は少しずつ形を変えていった。
笑う回数が減り、眠る時間が増え、ベッドの柵を握る指先が、日に日に細くなっていった。
それでも雅人は、私が顔を出すと、必ず無糖の黒を飲むふりをした。
もう飲めなくなった缶を枕元に置いて、眺めるだけの日が続いた。
「今日も、ベンチ行ってくれたか」
「行ったよ。一人で二本飲んだ」
「腹、たぷたぷになるで」
その冗談が、私たちの最後の冗談になった。
その晩の帰り道、私は商店街のベンチに座って、本当に缶を二本、続けて飲んだ。
一本目は喉を通ったのに、二本目は半分も入らなくて、しばらく缶を両手で包んでいた。
手のひらの温度が、缶の冷たさに少しずつ奪われていくのを、ただ感じていた。
十二月の終わり、ある夜のことだった。
雅人は枕の下から、白い封筒をそっと取り出した。
表には、ボールペンで「ゆいへ」と書いてある。
筆圧が強すぎて、紙の裏側まで字の形が浮き出ていた。
「これ、お前にやる」
「何、これ」
「手紙や。頼みごとが、一個だけ書いてある」
私は、手を出さなかった。
これを読んでしまったら、何かが終わってしまう気がしたのだ。
「今は読まへん」
「そう言うと思たわ」
雅人は小さく笑って、封筒を私の鞄の内ポケットに、無理やり押し込んだ。
「お前は、そういう奴や」
その声が、病室で聞いた雅人の、いちばん元気な声になった。
三週間後の明け方、雅人は静かに旅立った。
お母さんが声をこらえて泣き崩れる横で、私は一滴も泣けなかった。
泣いてしまったら、本当のことになる。
そう思って、鞄の内ポケットの封筒だけを、指先で何度も確かめていた。
葬儀の日も、四十九日も、一周忌も、封筒は開けなかった。
海苔の缶に移したのは、一周忌の夜だ。
缶の蓋を閉めたとき、乾いたいい音がして、その音を聞くと不思議と息ができた。
お葬式のあと、雅人の工場の社長が、私にだけそっと近寄ってきた。
「あいつな、指輪の端材、三回も削り直してん。最初のは、細すぎて折れるて」
「そうやったんですか」
「ゆいちゃんの指の太さ、ずっと目で測っとったわ。ほんまに、不器用な奴で」
社長は、それ以上は何も言わなかった。
お母さんから電話があったのは、一周忌から少し経った、冷たい雨の日だった。
「雅人の部屋を、片づけようと思ってるんよ。ゆいちゃん、何か欲しいもんある?」
私は少し考えて、工場の作業着を一枚、お願いした。
袖口が擦り切れて、鉄粉の匂いがまだ残っている、青い作業着だった。
今も、その作業着は押し入れの奥にあって、冬になると、一度だけ取り出して匂いをかぐ。
それだけが、私の決めた、三年間の弔いの形だった。
それから二年、私は缶の存在を、できるだけ考えないようにして暮らした。
薬局のレジに立ち、昼休みには商店街を通り抜け、ベンチの前では足を止めなかった。
ときどき、缶コーヒーを二本買ってしまう日がある。
そんな日は、一本をベンチに置いて帰り、翌朝になると、缶は誰かが片づけてくれていた。
最後の手紙を開ける夜
三年目の秋、同じ薬局に、村瀬さんという男性が異動してきた。
薬剤師で、私より五つ年上で、話し方の静かな人だった。
缶コーヒーの代わりに、いつも小さな水筒にお茶を入れて持ち歩いている。
一年かけて、少しずつ言葉を交わすようになった。
先月、仕事帰りの交差点で、村瀬さんは足を止めた。
「橋本さん、今度、食事に行きませんか」
私は、うまく息が吸えなかった。
「すぐに返事はいりません。待ちますから」
村瀬さんはそう言って、深く頭を下げた。
家に帰ってから、私はずっと右手の指輪を見ていた。
ステンレスは、三年たっても少しも錆びていない。
大きすぎる輪は、薬指の上で、今もくるりと回る。
この三年、私は何度も指輪を外そうとした。
お風呂の前に外し、洗面所の棚に置いたまま、結局その夜のうちに、もう一度はめ直した。
外すと、雅人との時間が、ほんとうに過去になってしまう気がした。
かといって、はめ続けることが、村瀬さんに対して誠実なのかどうかも、私には分からなかった。
分からないまま三年が過ぎて、私は「分からない」という状態に、すっかり慣れきっていた。
返事を決めるには、どうしても必要なものがひとつあった。
私は戸棚を開け、海苔の缶を下ろして、蓋を取った。
乾燥剤の匂いがかすかに立ちのぼり、封筒の「ゆいへ」の文字は、少しだけ色が薄くなっていた。
雅人のいちばん元気な声が、耳の奥に戻ってきた。
最後の手紙を開けるなら、今夜しかないと思った。
手が震えて、糊の部分に爪がうまく入らず、何度もやり直して、ようやく紙の端がめくれた。
便箋は二枚あって、鉛筆の跡が混じった、雅人の字だった。
ゆいへ
なあ、俺もうあかんみたいや。
お前に会うまでは、毎日が退屈で、どうでもよかった。
でも今は、すごく生きたい。
なんで病気に勝たれへんのやろな。
俺、いつからこんな弱なったんやろ。
毎日、終わりが近づいてるのが分かる。
もっと生きてたい。
寂しがり屋のお前を置いて、先に行かれへんやんか。
泣き虫のくせに、俺の前では、ずっと笑ってたな。
しんどかったやろ。
俺は弱いとこばっかり、見せてもうたな。
俺がおらんなったら、誰がお前の涙を拭くねん。
何べんも神様にお願いした。
「もっと生きたい」って。
でも、あかんみたいや。
ごめんな。
約束、守られへんかった。
結婚しよて言うたのにな。
俺はもうすぐおらんなるから、お前と結婚はできひん。
幸せにもしてやれへんし、この先ずっと一緒におることもできひん。
せやから、結婚いう形で、お前の人生を縛りたない。
お前のこと、ほんまに大事にしてくれる人と、幸せになってほしい。
20年生きて、心から愛してる思た人を、幸せにでけへんのが、悔しいてしゃあない。
でもな、お前が幸せになれへんほうが、もっとしんどいねん。
せやからお前は、前に進むんやで。
俺がおらんことを、ちゃんと受け止めるんやで。
最後に、頼みがひとつだけある。
心の奥のどっかでええから、俺のこと、覚えといてください。
雅人っていう男のことを、どうか覚えててください。
ほな、またな。
さよならは、言わへん。
錆びない指輪と追伸
便箋の裏に、小さな字が続いていた。
追伸。
お前、今は読まへん言うたやろ。
せやからこれは、読めるようになった頃のお前に書いてる。
多分、三年は開けへんやろ。
そういう奴やもんな。
三年たったお前が、もし誰かに好きや言われて、迷ってるんやったら。
指輪は外さんでええ。
右手のまま、前へ行け。
俺は錆びへんから。
どのくらい、台所の床に座っていたのか分からない。
気づくと窓の外はすっかり暗くなり、阪神電車の音だけが、遠くで規則正しく鳴っていた。
三年前の私は、この声に耐えられなかっただろう。
雅人は、それを知っていた。
知っていて、三年先の私のために、あの夜、ボールペンを握ってくれていたのだ。
涙は、不思議なほど静かに落ちた。
泣いたら本当のことになる、と思っていたけれど、本当のことは、とっくに本当だった。
私が、目をそらしていただけだった。
覚えていてほしい、という願いは、きっと誰の胸にもある。
パソコンの前で、誰かに憶えていてほしいと願った人の話を、前に読んだことを思い出した。
言葉を受け取るまでに時間のかかる人がいることも、不器用な指で打たれた一通のメールの話で知った。
急がなくてよかったのだと、今は素直に思える。
翌朝、薬局の裏口で、私は村瀬さんに声をかけた。
夜のあいだに、私は一度も眠らなかった。
窓の外が白んでいくのを見ながら、雅人に向かって、心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。
行ってきます、とも、ごめんね、とも違う。
いちばん近かったのは、聞いてくれてありがとう、という言葉だった。
「昨日の返事を、させてください」
「はい」
「今すぐには、食事には行けません」
村瀬さんは、まっすぐに私の目を見た。
「でも、お茶なら。水筒のお茶でよければ、ご一緒したいです」
「……はい。ぜひ」
村瀬さんは、驚いたように、ふっと笑った。
私は右手の指輪を、隠さなかった。
彼は何も聞かず、その沈黙がありがたかった。
薬局の休憩室で、村瀬さんは水筒の蓋にお茶を注いで、私に差し出してくれた。
湯気の向こうで、彼は少し照れたように、視線をそらした。
「橋本さんの右手の指輪、ずっと気になってたんです。でも、聞いたらいけないものだと思って」
「聞いてもらって、よかったんです」
私は、雅人のことを話した。
商店街のベンチのこと、直された傘のこと、ステンレスの指輪のこと。
村瀬さんは、一度も相づちを急がず、最後まで黙って聞いてくれた。
話し終えると、お茶は少しぬるくなっていて、それが、とても心地よかった。
帰りの電車の窓に、私と村瀬さんの影が、並んで映っていた。
右手の指輪は、窓ガラスの中で、小さく光っていた。
昼休み、商店街の端のベンチに、ひとりで座った。
向かいの町工場は、今もシャッターの音を響かせている。
私は缶コーヒーを二本買って、ベンチの上に並べた。
一本は、無糖の黒。
雅人の缶の横に自分の缶を置き、蓋をそっと開ける。
「雅人。ちゃんと、覚えてるよ」
声に出すと、風がベンチの端を通り過ぎていった。
さよならは、言わなかった。
言わないと書いた人に、私も、言わないことにした。
高架の上を、電車がゆっくり通り過ぎていく。
その音は、やっぱり、少しだけ雅人の笑い声に似ていた。