
祖母の葬儀に、見知らぬ男が一人来ていた。
日に焼けた七十前後の人で、紺の上着の襟がすり切れていた。
焼香を終えると、男は喪主の父ではなく、まっすぐ俺のところへ来た。
「白いカセットは、聴けましたか」
男は、それだけ言った。
俺は、返事ができなかった。
白いカセットのことを知っているのは、俺と、棺の中の祖母だけのはずだった。
本土から三百キロ離れた島で、灯台の保守の仕事を始めて、この春で四年になる。
正確には、海上保安部から委託された航路標識の点検員だ。
灯台そのものは自動で光る。
俺の仕事は、その光が止まらないように、電源と蓄電池とレンズを見て回ることだった。
官舎は、灯台の下の崖の途中に建っている。
平屋で、部屋が二つと、台所と、裏の物置がひとつ。
赴任が決まった日、祖母は俺を本土の古い一軒家に呼んだ。
茶の間の座卓の上に、白いカセットが一本、載っていた。
ケースも白く、ラベルには何も書いていなかった。
背のところに、鉛筆で小さく日付が一つだけあった。
四十三年前の、八月の日付だった。
「これ、持っていきなさい」
祖母はそう言って、カセットを俺の手のひらに載せた。
「何が入ってるの」
俺が聞くと、祖母は少しだけ目を細めた。
「向こうで聴けばわかるわ」
それ以上は、何も言わなかった。
笑ってもいなかった。
ただ、俺の手を一度だけ、ぎゅっと握った。
その手は、思っていたよりずっと冷たかった。
座卓の脇には、祖父の古い湯呑みが、まだ伏せて置いてあった。
祖父が先に逝ってから、祖母はそれを一度も片づけなかった。
「おじいちゃんの尺八、まだある?」
俺はなんとなく聞いた。
「押し入れよ。もう誰も吹かないけど」
祖母はそう言って、湯呑みのほうを見た。
俺は「ありがとう」とだけ言って、上着の内ポケットにそれを入れた。
島に来て、官舎の台所の棚に、白いカセットを立てかけた。
一度も、再生したことはなかった。
カセットを再生できる機械を、俺は一台も持っていなかった。
スマートフォンで音楽を聴く世代だ。
家電量販店に行けば、たぶん売っている。
けれど、島には家電量販店がない。
本土に帰るたびに「今度こそ買おう」と思い、そのたびに忘れた。
忘れた、というのは少し違うのかもしれない。
祖母があのとき、何かを込めてこれを渡したことだけはわかっていた。
軽い気持ちで再生してはいけない気がしていた。
だから、棚に立てかけたまま、毎朝、布巾で拭いた。
理由はなかった。
ただ、何となく、そうしていた。
潮風は、何でもすぐに白く曇らせる。
拭かなければ、ひと月でケースの白が灰色になった。
拭いているあいだだけ、祖母の茶の間の匂いを思い出した。
線香と、古い畳と、ほうじ茶の匂いだった。
男は、石原と名乗った。
俺の前に、あの官舎に九年住んでいた保守員だった。
「話せば長いんですが」
石原さんは、祭壇の遺影を見上げてから、もう一度俺を見た。
「おばあさまとは、四年間、手紙のやりとりをしていました」
官舎の物置のラジカセ
島の暮らしは、単調だった。
朝六時に起きて、崖の階段を五十四段上がる。
灯台の足元の機械室で、蓄電池の電圧を記録する。
晴れた日はレンズを磨き、風の強い日は窓の目地を見て回る。
週に二度、本土からのフェリーが来る。
その日だけは港の売店が開き、牛乳とパンと新聞が手に入った。
新聞は、たいてい二日遅れだった。
島の人口は、百二十人ほどだった。
港の売店のおばさんは、俺を「灯台さん」と呼んだ。
「灯台さん、今日は風が北に回るよ」
おばさんの天気予報は、気象台のそれよりよく当たった。
休みの日には、官舎の前の岩場で、夕方まで釣り糸を垂らした。
釣れた魚は、たいていおばさんの店に持っていった。
代わりに、煮物の入ったタッパーが返ってきた。
祖母とは、月に一度、電話で話した。
「元気か」
「元気よ」
「こっちは風が強いよ」
「そう。体に気をつけなさいね」
それで、だいたい終わった。
五分もかからなかった。
祖父は、俺が中学生のときに先に逝った。
祖母はそれから、本土の古い一軒家に一人で暮らしていた。
親戚の中で一番近くに住んでいたのが俺だったから、何かあれば俺が顔を出す、という取り決めがいつの間にかできていた。
けれど島に来てからは、半年に一度帰れればいいほうだった。
帰省すれば、祖母は決まって言った。
「大変でしょうに、来なくていいのに」
「そんなことないよ」
俺はそう言って笑った。
それが、俺たちの習慣だった。
祖母が島を訪ねてきたのは、一度だけだった。
赴任して最初の夏、祖母は一人でフェリーに乗ってきた。
船酔いがひどかったらしく、港に降りたときには顔が真っ白だった。
「観光じゃないのよ。あんたの住んでるところが見たかっただけ」
祖母はそう言って、官舎に一泊した。
台所の棚の白いカセットを見て、祖母は「飾ってくれてるの」と言った。
俺は「うん」と答えた。
それ以上、どちらも何も言わなかった。
その晩は、蚊が多かった。
「蚊取り線香、どこかにない?」
祖母に聞かれて、俺は裏の物置を指さした。
物置には、前任者が残していったものが雑多に詰まっていた。
扉の蝶番は錆びていて、開けるたびに猫の鳴くような音がした。
錆びた脚立、古い無線機の箱、埃をかぶった銀色のラジカセ。
ラジカセは、どうせ壊れているのだろうと思って、一度も触ったことがなかった。
物置に入った祖母は、蚊取り線香を探しに行ったにしては、ずいぶん長く出てこなかった。
戻ってきた祖母の手には、緑の渦巻きが一つだけあった。
祖母は何も言わずに、それに火をつけた。
翌朝、祖母は港まで歩いて、昼のフェリーで帰った。
甲板から手を振る祖母の姿が、白い航跡の向こうで小さくなった。
俺は、フェリーが岬の陰に入るまで港に立っていた。
官舎に戻ると、蚊取り線香の灰が、皿の上で渦の形のまま残っていた。
俺はそれを捨てられず、三日ほどそのままにしていた。
元気よで終わる電話
遠慮というものは、積み重なると、言葉を薄くする。
俺は祖母に心配をかけてはいけないと思っていた。
祖母も、孫に甘えてはいけないと思っていたのだと思う。
本当に言いたいことは、いつも「元気よ」の下に沈んでいた。
誕生日が近づくと、祖母は電話で必ず聞いた。
「何か、要るものはない?」
「大丈夫。何もいらないよ」
俺は毎年、同じ答えを返した。
祖母にお金を使わせたくなかった。
それが優しさだと、俺は信じていた。
二年目の冬、官舎の給湯器が壊れた。
祖母には言わなかった。
三年目の春、崖の階段で足をくじいた。
それも言わなかった。
四年目の秋には、低気圧で機械室が浸水し、三晩ほとんど眠れなかった。
祖母からの電話は、ちょうどその週にかかってきた。
「なんだか、声が疲れてるわね」
「そんなことないよ。元気だよ」
「そう。ならいいけど」
祖母は、それ以上は聞かなかった。
電話を切ったあと、俺は機械室の床の水を、朝まで汲み出した。
言えば、祖母は船酔いを押してでも来る。
そう思って、黙っていた。
祖母の電話の声が、少しずつ細くなっていくのには気づいていた。
気づいていて、俺は「元気か」としか聞かなかった。
先月の、嵐の夜だった。
夜十時すぎ、父から電話があった。
祖母が、台所で倒れていたという。
近所の人が、雨戸が閉まっていないのを不審に思って見に来てくれたらしい。
救急車で運ばれたが、日付が変わる前に、祖母は戻らぬ人となった。
島の港は、その晩から二日間、船が止まった。
俺は官舎の窓から、黒い海を見ていることしかできなかった。
父から、もう一度電話があった。
「無理して渡ってくるなよ。船が出るまで待て」
父の声も、ひどく疲れていた。
俺は「わかった」と言って電話を切り、灯台の階段を上がった。
嵐の夜は、機械室で電源を見張るのが仕事だった。
その晩ほど、仕事があることをありがたいと思った夜はない。
灯台の光は、いつもと同じ間隔で回っていた。
四秒ごとに一閃。
その光が、海の向こうの本土まで届いていないことを、俺は仕事柄よく知っていた。
三日目の朝、ようやく出たフェリーで本土に渡った。
通夜には、間に合わなかった。
祖母の家の茶の間の座卓は、四年前と同じ場所にあった。
その上に、祖母の老眼鏡が畳んで置いてあった。
俺は、座卓の前に座ったまま、しばらく動けなかった。
台所の流しには、洗いかけの茶碗が一つだけ残っていた。
冷蔵庫の扉には、俺の島の住所を書いたメモが、磁石で留めてあった。
メモの端には、フェリーの時刻が鉛筆で書き足されていた。
朝九時十分、本土発。
祖母は、もう一度島へ来るつもりだったのかもしれない。
大切な人の遺したものの前で立ちすくむ話を、椿油の小瓶を今も開けられないという題で読んだことがある。
読んだときは、他人事だと思っていた。
家族の言えなかった想いを描いた母の想いという話も、同じ頃に読んだ。
読み終えて、スマートフォンの通話履歴を開いた。
祖母の名前は、一番上にはなかった。
最後にかけたのは、三週間前だった。
白いカセットの日付
葬儀のあと、石原さんと二人で、斎場の喫煙所の横のベンチに座った。
石原さんは煙草を吸わず、缶コーヒーを両手で持っていた。
「最初の手紙が来たのは、あなたが赴任した年の、秋でした」
石原さんは、鞄から輪ゴムでまとめた封筒の束を出した。
三十通ほどあった。
消印は、どれも祖母の家の近くの郵便局だった。
封筒の角は、何度も出し入れされたように丸くなっていた。
どれも、見慣れた祖母の几帳面な字だった。
「官舎の宛先を、保安部に問い合わせて調べたそうです。前にあそこに住んでいた人に、どうしても聞きたいことがあると」
最初の手紙には、こう書いてあったという。
物置に、銀色のラジカセがありました。
あれは、まだ音が出るのでしょうか。
「私は、出ますと返事をしました」
石原さんは缶コーヒーを一口飲んだ。
「次の人のために、わざと置いてきたんです。島では、ラジオが一番の話し相手ですから」
ラジカセの横には、付箋を貼っておいたのだという。
単二の電池を六本入れれば鳴る、と。
それから四年、祖母は石原さんに、二、三か月に一度手紙を書いた。
孫が元気にしているかどうか、何か知らないか。
島の冬はどれくらい寒いのか。
官舎の給湯器は、昔からよく壊れるのか。
石原さんは、保安部の古い同僚に聞いては、わかる範囲で返事を書いた。
「あの島の給湯器はよく壊れます、と書いたら、次の手紙で、あの子は寒くないでしょうか、と」
石原さんは、そう言って少し笑った。
「お孫さんのことを、あなたに直接聞けばいいのに、と一度だけ書きました」
「祖母は、なんて」
「聞けば、あの子は大丈夫と言うでしょう、と」
俺は、何も言い返せなかった。
祖母は、俺の「大丈夫」を、ちゃんと見抜いていた。
「おばあさまは、あなたが白いカセットを聴いていないことを、知っていました」
石原さんは、束の中から一通を抜いた。
便箋の終わりのほうに、祖母の字でこうあった。
あの子は、機械があるのに聴かないのだから、きっとあの子なりの理由があるのでしょう。
無理に聴かせたくはありません。
ただ、もし聴いてくれるなら、嵐の夜がいい。
灯台の光がいちばんよく見える夜に。
俺は、便箋から顔を上げられなかった。
祖母は、俺が再生する機械を持っていないことを知らなかった。
俺は、背中側の物置に再生する機械があることを知らなかった。
ラジカセは、四年間ずっと、俺の背中側の物置にあった。
「祖母は、あれに何が入っているか、手紙に書いていましたか」
石原さんは、首を横に振った。
「中身を知っていたら、私のほうから、あなたに手紙を書いていたかもしれません」
「それだけは、一度も」
石原さんは、しばらく斎場の植え込みを見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「私も、島にいた九年、母に一度も弱音を吐きませんでした」
「お母さんは」
「私が本土に戻る前の年に」
石原さんは、そこで言葉を切った。
続きは、聞かなくてもわかった。
缶コーヒーは、もう冷めていた。
石原さんは帰り際、封筒の束を俺の膝に置いた。
「これは、あなたが持っているほうがいい」
嵐の夜の灯台の光
島に戻ったのは、次の低気圧が来る前の晩だった。
港の売店で、単二の電池を六本買った。
売店のおばさんが「こんなの何に使うの」と笑った。
「古いラジカセを鳴らすんです」
「あら、懐かしい。昔はみんな、あれで漁協の放送を聞いてたのよ」
おばさんは、おまけに飴を三つ袋に入れてくれた。
官舎に着くと、懐中電灯を持って物置に入った。
扉の蝶番が、あの夏と同じ音で鳴った。
床には、祖母が探したはずの蚊取り線香の箱が、封を切らないまま残っていた。
錆びた脚立の奥に、銀色のラジカセはあった。
埃を指で払うと、取っ手のところに黄色い付箋が残っていた。
単二×六本で鳴ります、と、角ばった字で書いてあった。
電池の蓋を開けると、単二の電池が六本、向きを揃えてきちんと並んでいた。
どの電池にも、油性ペンで小さく日付が書いてあった。
祖母が島に来た、あの夏の日付だった。
俺は買ってきた電池の袋を持ったまま、物置の床に座り込んだ。
あの晩、祖母は蚊取り線香を探していたのではなかった。
台所の棚から、白いカセットを取りに行けばよかった。
四年前に、ここを開ければよかった。
その夜、予報どおり嵐が来た。
窓ガラスが、風で細かく鳴っていた。
俺は台所の卓にラジカセを置き、祖母の電池の横に、新しい電池を六本並べた。
祖母の電池は、まだ生きていた。
電源のランプが、小さく赤く灯った。
四年前の夏から、この機械は、ずっと鳴る準備をして待っていたのだと思った。
棚から白いカセットを取り、ラジカセに入れた。
再生のボタンは、思ったより固かった。
最初は、ざらざらとした雑音だった。
それから、遠くで扉の閉まる音がした。
尺八の音が来た。
うまくはなかった。
けれど、一つ一つの音が、慎重に、息を惜しむように吹かれていた。
やがて、若い女の人の声が、島の子守唄を歌いはじめた。
祖母の声だと、すぐにわかった。
石原さんの束の最後の手紙に、四十三年前の夏、公民館で祖父と二人で録った、と一行だけあったのを思い出した。
俺は目を閉じた。
海が鳴っていた。
灯台の光が、四秒ごとに、窓の外の闇を切り取っていた。
尺八の音は、ところどころで息が足りなくなって、かすれた。
そのたびに、歌の声がほんの少しだけ待った。
待ってから、また二人で同じ節に戻っていった。
四十三年前の公民館の、板張りの床のきしむ音まで入っていた。
歌が終わり、テープが空回りする音がしばらく続いた。
止めようとして手を伸ばしたとき、声がした。
今度は、年を取った祖母の声だった。
「聞こえてる? おばあちゃんは、元気よ。あんたも、元気でいなさい」
それだけだった。
テープは、そこで終わっていた。
「元気よ」
電話で四年間聞き続けた言葉が、はじめて、違う重さで耳に残った。
あの言葉の下に、祖母は何を沈めていたのか。
今なら、少しだけわかる気がする。
俺は、巻き戻しのボタンを押した。
灯台の光が、一周して、また窓を照らした。