父の残した一本の鍵

部屋

郵便局のカウンター越しに、達也は笑顔を作っていた。

「お荷物はこちらでよろしいですか」

その声とは裏腹に、頭の中は昨夜の電話でいっぱいだった。

父が亡くなった。

「先週の水曜日です」と、病院の担当者は告げた。

「山本義雄さんは、静かに逝かれました」

静かに。

その二文字が、何度も頭の中でこだました。

連絡も寄越さず、父はひとりで逝ったのだ。

達也が長崎の実家を出て、もう二十年近くになる。

最後に父の顔を見たのは、三年前の正月だった。

「今年もちゃんと食べとるか」と言いながら、父は焼きとうふをしつこく勧めてきた。

口数の少ない人だった。

テレビの野球中継を、ただ黙って眺めていた。

達也はその横で持て余したような気持ちになり、二日後には東京へ戻った。

もう少しいればよかった、とは、あのときは思わなかった。

今になって、それが胸に刺さる。

そのとき、父の遺品の中から見つかるあの一本の鍵のことを、達也はまだ知らなかった。

雨戸の外れた家

乗り継ぎを二度して、五時間かけて長崎に着いた。

港から細い路地を入った先に、実家はある。

白壁の古い家だ。

雨戸が一枚、外れかけていた。

父が生きていた頃から、ずっとそのままだった。

達也は鍵を使わずに入れた。

古い木の引き戸は、押せばすんなり動く。

「鍵なんかかけんくていいとよ。どうせ泥棒も入りたくないような家じゃけん」

そう笑っていた父の声が、不意に浮かんだ。

葬儀は、病院と近所の世話役が段取りをつけてくれていた。

父に友人は少なかった。

それでも漁港の仲間や、昔からの顔見知りが数人、集まってくれた。

骨を拾いながら、達也は泣かなかった。

泣きたいのか、悲しいのか、自分でもよくわからなかった。

線香の匂いが、夏の終わりの湿った空気に溶けていた。

遺品の整理は、翌朝から始めた。

父の部屋には、物が少なかった。

漁師道具、古いテレビ、湯飲み茶碗、積み重ねられた新聞。

整然というより、削ぎ落とされた部屋だった。

台所の壁には、色のあせたカレンダーが掛かっていた。

めくってみると、一月の欄に、赤鉛筆で丸がついている。

三日から五日まで。

達也がいつも帰ってきていた、正月の三が日の、翌日からだった。

丸は、去年のカレンダーにも、その前の年のものにも、同じようについていた。

今年の正月に、達也は帰らなかった。

仕事が忙しい、と電話で言っただけだ。

父は「そうか」と答えて、すぐに切った。

あのとき、受話器の向こうで、父は何を思っていたのだろう。

言葉にできない思いが親子の間を行き来する話は、変わらないものにも通じるものがある。

押し入れには、使い古した作業着が数枚。

油紙に包まれた釣り具も出てきた。

どれも丁寧に手入れされていた。

財布の中の一本の鍵

引き出しの奥から、古い革の財布が出てきた。

縫い目がほつれ、細い糸で手繕いした跡がある。

中には千円札が三枚と、保険証と、小さく折りたたんだメモ。

そして、一本の鍵が入っていた。

見覚えのない鍵だった。

家の引き戸とも、郵便受けとも、形が違う。

少し大きめで、鉄の地金がくすんでいる。

それなのに、鍵穴に差す部分にだけ、丁寧に油を差した跡があった。

使われているのか。

それとも、使われるのを待っているのか。

達也には、判断がつかなかった。

とりあえず、それをポケットに入れた。

夕方、裏庭の倉庫を確かめようと外に出た。

そこで、隣家のよしのばあさんと鉢合わせした。

「達也くん、帰ってきてたとね」

八十を超えているはずだが、背筋がしゃんとして、声がよく通る人だ。

母が亡くなったときも、父がひとりになってからも、ずっとそばにいてくれた。

「はい、片付けに」

「お父さんのことは残念じゃった。最後まで言わんでね、病気のこと」

達也の足が止まった。

「……どういうことですか」

ばあさんは、少し間を置いた。

「去年の春じゃったかな。胃の癌って言うとった」

「だいぶ進んどったみたいじゃけど、達也くんには知らせんでいいって」

「仕事の邪魔したくないって、そう言うとったとよ」

世界が、少し傾いた気がした。

一年以上も、黙っていたのか。

手術をしたのか、入院はいつだったのか、何も知らない。

「なんで、連絡してくれなかったんですか」

「うちも何度も言うた。でもお父さんはね」

よしのばあさんは、目を細めた。

「『達也が帰ってきた時に、ちゃんとした部屋で迎えてやりたい』って、そればっかり」

「病院から帰ってきても、倉庫に何か持ち込んで、ひとりでがたごとやっとったよ」

「体が辛そうでも、やめんかった」

達也は、声が出なかった。

倉庫の古い錠前

倉庫の扉には、後から取り付けたような金属の錠前がついていた。

鍵なんかかけんくていい、と言っていた父が、この扉にだけは錠前を付けていたのだ。

ポケットの鍵を取り出す。

形が、ぴたりと合った。

手が震えた。

差し込むと、鍵はかたく、それでも確かに回った。

錆の気配はなかった。

誰かが、定期的に手入れをしていたのだろう。

扉を開ける。

中は薄暗く、電球がひとつ、細い光を垂らしていた。

檜の削りくずの匂いが、まだ残っていた。

鼻の奥に、懐かしい甘さが広がる。

父の作業着から、いつもしていた匂いだった。

電球が、足元の埃を白く照らしている。

倉庫の一角が、きれいに片付けられていた。

板壁に断熱材が貼られ、小さな窓がひとつ作られている。

窓枠は既製品ではなかった。

木を切り出して、荒削りのまま、それでも丁寧に磨いてある。

床には古い絨毯が敷かれていた。

その壁際に、木の本棚が立っていた。

未完成だった。

板が何枚か、まだ打ち付けられていない。

切り出された木材が、床に並べて置いてある。

工具箱の蓋は開いたまま。

紙やすりが一枚、使い込まれた形で残されていた。

棚には、本が一冊も入っていなかった。

空の棚だった。

達也は、入り口に立ったまま、しばらく動けなかった。

手帳の最後の一行

床板の一枚は、もう釘を打つばかりに合わせてあった。

その隣に、小さな踏み台が置いてある。

天板に、鉛筆で印がついていた。

父の背丈では高すぎる、棚の最上段に届くための印だ。

誰のために作った高さなのか、達也はすぐにわかった。

身長は、中学のときに父を追い越している。

絨毯の端に、プラスチックの収納箱があった。

開けると、手帳が入っている。

父の筆跡だった。

材木の寸法、棚の高さの計算、買った釘の種類と値段。

笑ってしまうほど細かい記録だった。

何月何日に何を買った。

次はこの板を切る。

そんな記録が、一年以上、途切れずに続いている。

癌の治療が始まった後も、途切れてはいなかった。

最後のページに、こう書かれていた。

「達也が帰ってきたら、この棚に本を並べて、一緒に読もうと思う」

達也は、その一行を何度も読み返した。

父は、本など読まない人だった。

少なくとも、達也はそう思っていた。

テレビと新聞と、魚の仕掛けを作ること。

それが父の時間の使い方だった。

実家に、本棚はひとつもなかった。

だから、その一文の意味が、すぐには入ってこなかった。

そのとき、思い出した。

幼い頃、父が本を読んでくれた夜があった。

毎晩ではない。

月に何度か、布団の中で、父の低い声がページをめくった。

話の筋は、もう覚えていない。

ただ、声の低さと、紙をめくる音だけが、体のどこかに残っている。

小学校に上がった頃から、父は読まなくなった。

もう読み聞かせは要らない年だ、と思ったのだろう。

父は何も言わず、達也も一度も尋ねなかった。

そのまま、二十年以上が過ぎた。

父は、ずっと覚えていたのだ。

黙って子を思い続ける親の姿は、強いお母さんの物語とも重なって見えた。

その夜、達也は絨毯の上に座り込んで、動かなかった。

未完成の本棚を眺めていると、何かがゆっくりほどけていった。

父は、不器用な人だった。

言えないことを物で補おうとして、それも途中で終わってしまった。

癌を隠して、棚を作り続けて、間に合わなかった。

それでも、あの一本の鍵を、財布から手放さなかった。

父が作りたかったのは、本棚ではなかったのかもしれない。

達也が帰ってきたとき、二人でいられる場所。

それだけのために、一年以上、ひとりで通い続けたのだ。

達也は涙が出るかと思った。

出なかった。

代わりに、長年積もっていた遠慮やすれ違いが、静かに形を変えて落ち着いていった。

東京へ戻る朝、達也は本棚を軽トラックの荷台に積んだ。

未完成のまま、切り出した木材も、工具箱も一緒に。

東京のアパートは狭い。

置く場所はあまりないが、何とかなるだろう。

残りの板は、自分で打ち付けよう。

そこに本を並べよう。

父が読んでくれた話を、今さら探してみよう。

タイトルも作者も思い出せない、あの夜の話を。

バスの窓から、港が見えた。

朝の光の中で、海は静かだった。

漁船が一艘、ゆっくりと沖へ向かっていく。

ポケットには、あの一本の鍵が入ったままだった。

次に帰る日には、完成した本棚の写真を持ってこよう。

倉庫の絨毯の上に、飾っておこう。

それが、達也にできる返事のような気がした。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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