
「僕はずっと傍に居るよ」というのは、隣の家のジュンの、五歳のときからの口ぐせだった。
はじめてそれを聞いたのは、町内の夏祭りの夜だった。
私は金魚すくいの屋台の前で、母の手を離してしまった。
人の波に押されて、気がつくと知らない神社の裏にいた。
提灯の明かりが遠くて、足元の砂利だけが白く見えた。
遠くで、太鼓の音がしていた。
泣きもせずに立っていた私を見つけたのが、ジュンだった。
浴衣の裾を汚して、息を切らしていた。
「リンカちゃん、みっけ」
ジュンは私の手を握って、こう言った。
「僕はずっと傍に居るよ。だから、もう迷子じゃないよ」
同い年のくせに、妙に大人びた言い方だった。
今思えば、あれはテレビの戦隊ものの決め台詞の真似だったのかもしれない。
私は何と答えたのか、覚えていない。
たぶん、何も言わなかったのだと思う。
それでも、握られた手の汗ばんだ温度だけは、今もはっきり覚えている。
ジュンの手は、小さくて、少しだけ冷たかった。
あとで知ったのは、ジュンがその晩、祭りの人混みを走ったせいで熱を出し、三日寝込んだということだ。
母に連れられて見舞いに行くと、ジュンは布団の中から得意そうに言った。
「リンカちゃんが迷子になったら、また僕が見つけるからね」
ジュンの母親が、困ったように笑っていた。
私は昔から、何事にも無関心で、無愛想な子どもだった。
笑えと言われても、うまく笑えなかった。
嬉しいときも、悲しいときも、顔がほとんど動かなかった。
友だちは、片手で数えるほどしかいなかった。
それでも、無愛想では生きにくい世の中だということは、子どもなりにわかっていた。
だから、小学校の高学年になると、笑顔を作ることを覚えた。
作った笑顔は、すぐに見抜かれた。
話を合わせるためについた小さな嘘も、すぐにばれた。
「リンカって、なんか気持ち悪い」
クラスの誰かがそう言いはじめてから、いじめが始まった。
上履きが隠され、給食の牛乳に消しゴムのかすが入れられた。
中学校に上がっても、同じ顔ぶれが同じことを続けた。
体操服が、ゴミ箱に捨てられていたことがある。
私は黙ってそれを拾い、水道で洗って、濡れたまま着た。
泣くと、もっとひどくなることを知っていた。
家に帰っても、母には何も言わなかった。
母は、私が学校の話をしないのを、無口な性格のせいだと思っていた。
ジュンは、同じ学校にいたけれど、ほとんど教室にいなかった。
生まれつき心臓が弱く、一年の半分近くを病院で過ごしていたからだ。
退院して戻ってくるたびに、ジュンは少し背が伸びて、少し痩せていた。
中学一年の秋、私には彼氏ができた。
隣のクラスの、サッカー部の男子だった。
好きだったわけではない。
告白されたから、断る理由がなかった。
それだけだった。
付き合うといっても、帰り道に並んで歩くくらいだった。
彼氏はよくしゃべる人で、私は相づちを打つだけでよかった。
楽だった。
楽だということと、好きだということの違いを、私はまだ知らなかった。
それでも、彼氏がいるというだけで、いじめは少しだけ軽くなった。
私はそのことに、ほっとしていた。
彼氏のことを話したとき、隣の家のジュンは「よかったね」と言った。
ベランダ越しの、いつもの声だった。
けれど、その日からしばらく、ジュンの部屋の窓は、夜になっても開かなかった。
隣の家のジュンと遠い高校
高校は、中学の誰も行かない、電車で四十分かかる学校を選んだ。
ジュンも、なぜか同じ高校を受けた。
「家から通える高校で、心臓に一番やさしいとこ」
ジュンはそう言って笑ったけれど、そんな条件で高校を選ぶ人がいるとは思えなかった。
彼氏とは、別々の高校になった。
それでも、朝は駅まで一緒に歩くのが日課になっていた。
入学して最初の一か月は、平和だった。
桜の花びらが、校門の前の側溝にたまっていた。
誰も私のことを知らない教室で、私は作り笑いをしなくてよかった。
けれど、噂というものは、電車に乗って遠くまで届くらしい。
五月の連休が明けたころ、中学の頃の噂が、高校にまで流れてきた。
「あの子、中学でハブられてたんだって」
「嘘ばっかりつくらしいよ」
廊下ですれ違うたびに、くすくすという笑い声がついてきた。
机の中に、丸めた紙が入れられるようになった。
靴箱には、ときどき泥のついた上履きが押し込まれていた。
また、あの日々が始まったのだと思った。
ある朝、靴箱を開けると、上履きの中に画鋲が三つ入っていた。
私はそれを一つずつ抜いて、ハンカチに包んで鞄に入れた。
誰かに見せる気は、なかった。
見せたところで、何も変わらないと知っていた。
昼休みは、図書室のいちばん奥の、窓のない書架の間で過ごした。
私は、何も感じないふりをするのが上手になっていた。
ところが、夏休みが明けたころから、少しずつ様子が変わっていった。
机の中の紙が、入っていない日が増えた。
廊下の笑い声が、いつの間にか聞こえなくなった。
隣の席の子が、消しゴムを貸してくれた。
冬が来るころには、入学したばかりのときのような、普通の顔を、ほとんどの人が向けてくれるようになった。
文化祭では、クラスの模擬店の会計係を任された。
売上の計算が一円も狂わなかったと、担任に褒められた。
誰かに褒められたのは、ずいぶん久しぶりだった。
理由は、わからなかった。
一度だけ、仲良くなったクラスの子に聞いてみたことがある。
「なんで、急に話しかけてくれるようになったの」
その子は少し考えて、あいまいに笑った。
「なんとなく。リンカって、話してみたら普通だったし」
私は、それ以上は聞かなかった。
聞いてしまったら、また何かが壊れる気がした。
その頃、隣の家のジュンは、よく学校を休むようになっていた。
「寒くなると、ちょっとね」
本人はそう言っていた。
休んだ日の翌朝も、ジュンは必ず私より先に靴箱の前にいた。
私はそれを、真面目なやつだとしか思っていなかった。
わからないまま、私は普通の毎日に戻っていた。
ジュンの靴箱は、私の靴箱のちょうど真上の段にあった。
朝、ジュンが先に靴を履き替えていることが多かった。
私が来るころには、ジュンはもう階段を上がりかけていて、振り向いて手を振った。
その冬の終わりに、母から電話があった。
隣の家のジュンが、学校の階段から落ちて、病院に運ばれたという。
病院に行くと、ジュンは片足を天井から吊るされていた。
病室は四人部屋で、ジュンのベッドは窓際だった。
顔の左側に、殴られたような青い痣があった。
心臓の弱いジュンにしては、珍しい怪我だと思った。
「また目まいがしてさ、階段で足すべらしたんだよね」
ジュンは、へらへらと笑っていた。
その笑い方が、なぜか少しだけ下手だった。
靴箱の前のため息
ジュンは、一週間ほどで退院した。
母は、ジュンの母親と長い電話をしたあと、私に言った。
電話の最後に、母が「そうですか、そんなことが」と小さく言ったのが聞こえた。
「ジュンくん、体が弱いし危ないから、毎朝一緒に登校したら?」
私には、駅まで一緒に歩く彼氏がいた。
少しだけ面倒だと思いながら、隣の家のジュンに話しに行った。
「彼氏と行きなよ」
ジュンは、笑ってあっさり断った。
玄関先で、スリッパのまま、腕を組んで。
けれど、その顔は少し困ったようにも見えた。
こいつは私のことが嫌いなのだろうか、と思ったくらいだった。
それから一か月も経たないうちに、私は彼氏に振られた。
駅前のロータリーで、自転車にまたがったまま言われた。
「お前以外にも付き合ってるやついるし。クールだと思ってたら、ただの無愛想だし。つまんねーから別れる」
私は、別に好きじゃないと自分では思っていた。
だから、「いいよ」とだけ言った。
ところが、家に帰って部屋のドアを閉めた途端、涙が止まらなくなった。
いじめられていたときよりも、ずっと苦しかった。
好きではなかったはずなのに、なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。
その晩、窓を小さく叩く音がした。
隣の家の二階の窓から、ジュンが物干し竿を伸ばしていた。
小学生のころ、よくそうやって漫画を貸し借りした竿だった。
竿の先に、ビニール袋に入った缶のココアがぶら下がっていた。
「……泣いてる?」
「泣いてない」
鼻をすすったのを、ジュンは聞こえないふりをしてくれた。
「そっか」
ジュンは、しばらく黙っていた。
それから、あの口ぐせを言った。
「僕はずっと傍に居るよ。離さないよ。だから、僕と付き合おう。ずっと好きだった」
私は、弱っていた。
その晩のうちに、うなずいてしまった。
隣の家のジュンは、前の彼氏よりずっと私を大事にした。
朝は玄関の前で待っていて、雨の日は傘を二本持ってきた。
昼休みには、私の好きなパンを先に買っておいてくれた。
それが、だんだん鬱陶しく感じられてきた。
友だちに、「過保護な彼氏だね」と冷やかされるのも嫌だった。
一度、ジュンの差し出した傘を、わざと受け取らずに走って帰ったことがある。
翌朝、ジュンは何も言わずに、いつもどおり玄関の前で待っていた。
その肩が、前の日の雨でまだ少し湿っているように見えた。
こんなに大事にされる理由が、私にはわからなかったからだ。
別れようかな、と思いはじめたある朝のことだった。
一緒に登校したジュンが、靴箱の前で立ち止まった。
小さく折りたたまれた紙を、何枚も握りしめて、ため息をついていた。
私は、ただの興味本位で、ジュンが上履きを履いている隙に、その紙を一枚、彼のポケットから抜き取った。
「まだ懲りてないんだね」
「消えろ」
「隣の家の病人と付き合ってんの? キモ」
「また落とされたいの?」
私は、目を疑った。
紙の端は、どれも何度も握られて、柔らかくなっていた。
「これ、何」
紙を突きつけると、ジュンは困ったように、でも温かい顔で笑った。
「だって、リンカ、危なっかしいんだもん」
「言ったじゃん、ずっと好きだったって。僕はずっと、リンカだけ見てたよ」
「小学校も中学校も、体が弱くて何もできなかったけど、今なら少しは守れるからさ」
「気にしないで」
私は声を出して泣いた。
ジュンは、私の頭を、不器用に何度も撫でた。
その手は、祭りの夜と同じように、少しだけ冷たかった。
氷水の放課後
これからはジュンを大事にしよう。
そう決めたばかりの、三月の放課後だった。
「ちょっと用事があるから、先に帰っててくれる?」
ジュンはそう言って、私だけを帰した。
私は、その言葉の意味を何も考えなかった。
駅までの道を、一人で歩いた。
いつもジュンが歩いていた車道側が、妙に広く感じられた。
コンビニの前で、ジュンの好きな炭酸を一本買った。
明日の朝、渡そうと思った。
その炭酸は、結局、冷蔵庫の中で一か月冷えたままだった。
あのとき私が帰らなければ、と今でも思う。
家で漫画を読んでいると、母がひどい顔で部屋に飛び込んできた。
ジュンが、私をいじめていた女子たちに、体育館の裏で氷水をかけられて倒れたという。
ジュンは、走ることさえ医者に止められていた。
毎朝私と駅まで歩くことも、本当は無理をしていたのだと、そのときはじめて知った。
病院に駆け込むと、ジュンは目を閉じて横たわっていた。
心電図の小さな音だけが、規則正しく鳴っていた。
ジュンの髪は、まだ少し濡れていた。
看護師さんが、タオルで何度も拭いてくれたのだという。
枕元の籠に、ジュンの上履きが揃えて入れてあった。
つま先が、少し外を向いていた。
「終わっちゃったの……?」
思わず、そう口に出していた。
するとジュンは、ゆっくり目を開けて、いつものように笑った。
「勝手に終わらせないでよ」
私は、ベッドの柵にしがみついて泣いた。
ジュンは、点滴の刺さった手で、私の指を一本だけ握った。
「ほら、傍に居るでしょ」
声は、かすれていた。
けれど、その日を境に、ジュンの体は目に見えて悪くなった。
春休みが明けても、ジュンは学校に戻らなかった。
ジュンの靴箱は、四月になっても、名札がついたまま空だった。
私は毎朝、その空の段を見上げてから、自分の靴箱を開けた。
退学の手続きは、ジュンの母親が一人で済ませた。
ジュンの母親は、私を一度も責めなかった。
「あの子が自分で決めてやったことだから」
そう言って、私の肩に手を置いた。
その手が震えていたことに、私は気づかないふりをした。
隣の家のジュンがいなくなった教室で、いじめは、あっという間に元に戻った。
ある日、同じクラスの男子が、廊下で私を呼び止めた。
ジュンと同じ中学から来た、無口な子だった。
「あいつ、一年のとき、クラス全部回ってたんだよ」
「何を」
「リンカはいいやつだから、悪いとこだけじゃなくて、いいとこも見てやってくれって」
私は、その場に立ったまま動けなかった。
廊下の窓から、体育館の裏の銀杏の木が見えた。
あの日、ジュンが倒れていた場所だった。
「それと、毎朝、お前より先に来て、お前の靴箱に入ってる紙を抜いてた」
男子の声は、ひどく小さかった。
「俺、一回だけ見たんだ。あいつが、靴箱の前で紙を読んで、ポケットに入れるとこ」
「なんで黙ってたの」
「あいつに、言うなって頼まれたから」
「階段のときも、それを見つかったらしい」
「三年の女子に、突き落とされたって噂だった。あいつは、自分で落ちたって言い張ってたけど」
男子は、それだけ言うと、目をそらして教室に戻っていった。
私は、ジュンの顔の青い痣を思い出していた。
あのとき、へらへら笑っていた下手な笑い方を。
ジュンが靴箱の前で握りしめていた紙は、一枚残らず、私の靴箱に入っていたものだった。
高校でいじめが消えたのは、偶然でも何でもなかった。
私が見ずに済んだ紙の数だけ、ジュンはあの暗い靴箱の前に立っていた。
病院までの三往復
その日から、私は一日に三回、病院に通った。
朝、学校へ行く前に一回。
昼休みに、駅前の病院まで走って一回。
夕方、学校が終わってから一回。
ジュンは、はじめのうちは「来なくていいよ」と言った。
私は、返事をしなかった。
一か月もすると、ジュンは何も言わなくなった。
代わりに、病室の窓際に、私の分の椅子が一つ増えた。
本当に大切なものは、そのときには気づかないのかもしれない。
気づかないまま、自分の手で傷つけてしまうこともある。
けれど、あとから気づいても、少しずつ埋めていくことはできる。
それを教えてくれたのは、隣の家のジュンだった。
言えなかった想いがあとから届く娘の声が届いた日という話を、私はジュンの病室で読んだ。
黙って支え続ける人を描いたあなたは三つ目の渡し石を据え直したという話も、ジュンが好きだと言っていた。
あれから、八年が経った。
ジュンは二度の手術を乗り越えて、今は地元の図書館で働いている。
私たちには、ジュンにそっくりの、ちょっと風邪をひきやすい娘がいる。
先週、ジュンが熱を出して寝込んだ。
「あなたに似たんじゃないの」
私が娘の鼻を拭きながら言うと、ジュンは布団の中で笑った。
すると、四歳の娘が、布団の横に座り込んで言った。
「パパ、ずっと傍に居るよ」
誰が教えたわけでもなかった。
娘の小さな手が、夫の手の甲を、ぽんぽんと二回叩いた。