商店街のハーモニカが繋いだ、幼馴染との最後の約束

ハーモニカ

俺がタクシー運転手になったのは、別に夢があったからじゃない。

高校を出て、就職先もなくて、知り合いの紹介でこの仕事に就いた。

それからもう十五年になる。

毎日同じ道を走り、知らない人を乗せ、降ろす。

それだけの繰り返しだった。

俺が育ったのは、駅の東口を出てすぐのところにある小さな商店街だった。

八百屋、魚屋、金物屋、そしてうちの親父がやっていた靴の修理屋。

商店街の端っこに、同い年の健太の家があった。

健太の家は洋品店をやっていて、俺たちは物心つく前からの幼馴染だった。

小学校も中学校も一緒。

帰り道はいつも二人で商店街を歩き、肉屋のコロッケを一個ずつ買って、アーケードのベンチで食べた。

健太はハーモニカが好きだった。

誰に教わったわけでもないのに、耳で聴いた曲をすぐに吹けた。

夕暮れの商店街に響く健太のハーモニカの音色は、シャッターを下ろし始めた店主たちの手を止めるほどだった。

俺はその音が好きだった。

でも、そんなことは一度も言わなかった。

中学を卒業する頃、健太の家の洋品店が潰れた。

大型のショッピングモールが出来て、商店街全体が傾いていた時期だった。

健太の家族は夜逃げ同然で街を出た。

俺が知ったのは、健太がいなくなった翌朝だった。

教室の健太の机は、そのままだった。

引き出しの中に、銀色のハーモニカが一本、置いてあった。

俺はそれを黙って自分のポケットに入れた。

健太に届ける日が来ると信じていたから。

でも、その日は来なかった。

健太の引っ越し先は誰にも知らされず、携帯の番号も変わっていた。

年賀状を出しても戻ってくるだけ。

俺は次第に、健太のことを考えないようになった。

ただ、ハーモニカだけはずっとグローブボックスの中に入れていた。

タクシーに乗り換えても、車を替えても、それだけは持ち歩いた。

なぜかは自分でも分からない。

いや、分かっていたけど、認めたくなかっただけかもしれない。

十五年が経ったある冬の夜。

駅前のロータリーで客を待っていたら、後部座席のドアが開いた。

「すみません、東町の商店街まで」

ルームミラー越しに見えた顔に、一瞬息が止まった。

痩せていた。

頬がこけて、目の下に深い隈があった。

でも、あの目だった。

少し垂れた一重の、穏やかな目。

健太だった。

「…お客さん、東町の商店街って、もうほとんど店やってませんけど」

俺はそれだけ言った。

名乗れなかった。

名乗って、何を言えばいいのか分からなかった。

十五年分の言葉が喉に詰まって、結局ただの運転手のふりをした。

「ええ、分かってます。ちょっと、見たいだけなので」

健太はそう言って、窓の外を見ていた。

商店街に着くと、健太は車を降りてゆっくり歩き出した。

俺はメーターを倒したまま、車の中からその背中を見ていた。

シャッターの下りた洋品店の前で、健太は長いこと立ち止まっていた。

肩が、小さく震えていた。

俺はグローブボックスを開けた。

銀色のハーモニカが、街灯の光を受けて鈍く光った。

今だ、と思った。

でも、体が動かなかった。

渡して、それから何て言う。

「覚えてるよ」なんて言えば、健太はどんな顔をする。

夜逃げした過去を、わざわざ掘り返すことになるんじゃないか。

結局、俺はハーモニカをポケットに入れたまま、健太が戻ってくるのを待った。

「ありがとうございました」

健太はそう言って、千円札を置いて去った。

俺の顔には、気づいていないようだった。

それから三日後、同じ時間にまた健太が乗ってきた。

「すみません、東町の商店街まで」

同じ言葉だった。

また、商店街を歩き、洋品店の前で立ち止まり、戻ってきた。

それが毎週続いた。

俺はシフトを調整して、その時間に必ず駅前に並ぶようにした。

健太は毎回、俺のタクシーに乗った。

たまたまだと思っていたかもしれない。

でも俺には分かっていた。

健太は、いつも俺の車を選んでいた。

ある日、車内でぽつりと健太が言った。

「運転手さん、この商店街に昔、靴の修理屋ってありましたよね」

心臓が跳ねた。

「…ええ、あったと思いますよ」

「そこの息子と、俺、友達だったんです」

ミラー越しに目が合った。

健太は少し笑っていた。

「不器用なやつでしてね。優しいくせに、ありがとうもごめんもまともに言えないやつだった」

俺は黙ってハンドルを握った。

「でも俺が引っ越す前の日、あいつ、俺ん家の前をずっとうろうろしてたんです。声かけりゃいいのに、結局何も言わずに帰って行った」

覚えている。

あの日、俺は健太の家の前を三往復した。

引っ越しのトラックが止まっていて、健太の母親が泣きながら荷物を運んでいて、声をかけられなかった。

「翌朝、机の中にハーモニカがなくなってたんです。あいつが持ってってくれたんだと思います」

健太の声が少し震えた。

「あのハーモニカ、じいちゃんの形見だったんです。でも、あいつが持っててくれるなら、それでいいと思った」

俺は車を路肩に寄せた。

ハザードをつけた。

ポケットからハーモニカを取り出し、後部座席に向かって差し出した。

手が震えていた。

「…健太」

それだけ言うのに、十五年かかった。

健太はハーモニカを見て、それから俺の顔を見て、目を見開いた。

「…お前、裕也か」

「ああ」

「嘘だろ。ずっと、お前だったのか」

「ああ。最初の日から分かってた。名乗れなくて、悪かった」

健太は両手でハーモニカを受け取って、しばらく握りしめていた。

指の関節が白くなるほど、強く。

翌週、商店街の馴染みだった肉屋のおばちゃんに偶然会った。

おばちゃんは今もあの商店街の端で一人で店を続けている。

「あんた、健太くんのこと知ってるかい」

おばちゃんは言った。

「あの子ね、去年から病気でね。肺がんだって。入退院繰り返してるらしいよ」

足元が揺れた。

「あの子がね、うちに来た時に言ってたよ。『あの商店街に行くと、昔の友達がタクシーで待っててくれるんです。声はかけてくれないけど、毎回同じ車が来るんです。それだけで十分なんです』って」

おばちゃんは目を拭いた。

「あんた、不器用だねぇ。でも健太くん、ずっと嬉しかったみたいよ」

健太は知っていたのだ。

最初から、俺だと。

名乗らない俺のことも、ハーモニカを持ち続けていることも、毎週同じ場所で待っていることも。

全部分かった上で、俺が自分から声をかけるのを、待ってくれていた。

不器用な俺が、十五年分の勇気を絞り出すのを。

次の金曜日、俺は駅前に車を止めて待った。

いつもの時間が過ぎた。

健太は来なかった。

翌週も、その翌週も。

三週間後、おばちゃんから電話があった。

「健太くん、入院したよ。今度は長くなるって」

俺は仕事が終わるとすぐに病院に向かった。

病室に入ると、健太はベッドの上で笑った。

枕元に、あのハーモニカが置いてあった。

「裕也、一個だけ聞いていいか」

「何だよ」

「あの商店街のコロッケ、お前も好きだったよな」

「当たり前だろ。お前がいつも先に食い終わって、俺の分まで狙ってきたくせに」

健太は声を出して笑った。

その笑い声は、中学の頃と少しも変わっていなかった。

今、俺のグローブボックスにはハーモニカはない。

その代わり、夕方になると商店街のベンチから、下手くそなハーモニカの音が聞こえてくる。

健太が退院するたびに吹いている。

昔みたいに上手くはない。

息が続かなくて、途切れ途切れになる。

それでも、その音を聞くと、俺は肉屋のコロッケを二つ買って、ベンチに座る。

「お前、相変わらず下手だな」

「うるせぇ」

健太が笑って、俺も笑う。

十五年分の空白を、俺たちはゆっくり埋めている。

商店街のアーケードに、ハーモニカの音が響いている。

昔と同じように。

いや、昔よりも少しだけ、温かく。

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