
俺がタクシー運転手になったのは、別に夢があったからじゃない。
高校を出て、就職先もなくて、知り合いの紹介でこの仕事に就いた。
それからもう十五年になる。
毎日同じ道を走り、知らない人を乗せ、降ろす。
それだけの繰り返しだった。
※
俺が育ったのは、駅の東口を出てすぐのところにある小さな商店街だった。
八百屋、魚屋、金物屋、そしてうちの親父がやっていた靴の修理屋。
商店街の端っこに、同い年の健太の家があった。
健太の家は洋品店をやっていて、俺たちは物心つく前からの幼馴染だった。
小学校も中学校も一緒。
帰り道はいつも二人で商店街を歩き、肉屋のコロッケを一個ずつ買って、アーケードのベンチで食べた。
健太はハーモニカが好きだった。
誰に教わったわけでもないのに、耳で聴いた曲をすぐに吹けた。
夕暮れの商店街に響く健太のハーモニカの音色は、シャッターを下ろし始めた店主たちの手を止めるほどだった。
俺はその音が好きだった。
でも、そんなことは一度も言わなかった。
※
中学を卒業する頃、健太の家の洋品店が潰れた。
大型のショッピングモールが出来て、商店街全体が傾いていた時期だった。
健太の家族は夜逃げ同然で街を出た。
俺が知ったのは、健太がいなくなった翌朝だった。
教室の健太の机は、そのままだった。
引き出しの中に、銀色のハーモニカが一本、置いてあった。
俺はそれを黙って自分のポケットに入れた。
健太に届ける日が来ると信じていたから。
※
でも、その日は来なかった。
健太の引っ越し先は誰にも知らされず、携帯の番号も変わっていた。
年賀状を出しても戻ってくるだけ。
俺は次第に、健太のことを考えないようになった。
ただ、ハーモニカだけはずっとグローブボックスの中に入れていた。
タクシーに乗り換えても、車を替えても、それだけは持ち歩いた。
なぜかは自分でも分からない。
いや、分かっていたけど、認めたくなかっただけかもしれない。
※
十五年が経ったある冬の夜。
駅前のロータリーで客を待っていたら、後部座席のドアが開いた。
「すみません、東町の商店街まで」
ルームミラー越しに見えた顔に、一瞬息が止まった。
痩せていた。
頬がこけて、目の下に深い隈があった。
でも、あの目だった。
少し垂れた一重の、穏やかな目。
健太だった。
「…お客さん、東町の商店街って、もうほとんど店やってませんけど」
俺はそれだけ言った。
名乗れなかった。
名乗って、何を言えばいいのか分からなかった。
十五年分の言葉が喉に詰まって、結局ただの運転手のふりをした。
「ええ、分かってます。ちょっと、見たいだけなので」
健太はそう言って、窓の外を見ていた。
※
商店街に着くと、健太は車を降りてゆっくり歩き出した。
俺はメーターを倒したまま、車の中からその背中を見ていた。
シャッターの下りた洋品店の前で、健太は長いこと立ち止まっていた。
肩が、小さく震えていた。
俺はグローブボックスを開けた。
銀色のハーモニカが、街灯の光を受けて鈍く光った。
今だ、と思った。
でも、体が動かなかった。
渡して、それから何て言う。
「覚えてるよ」なんて言えば、健太はどんな顔をする。
夜逃げした過去を、わざわざ掘り返すことになるんじゃないか。
結局、俺はハーモニカをポケットに入れたまま、健太が戻ってくるのを待った。
「ありがとうございました」
健太はそう言って、千円札を置いて去った。
俺の顔には、気づいていないようだった。
※
それから三日後、同じ時間にまた健太が乗ってきた。
「すみません、東町の商店街まで」
同じ言葉だった。
また、商店街を歩き、洋品店の前で立ち止まり、戻ってきた。
それが毎週続いた。
俺はシフトを調整して、その時間に必ず駅前に並ぶようにした。
健太は毎回、俺のタクシーに乗った。
たまたまだと思っていたかもしれない。
でも俺には分かっていた。
健太は、いつも俺の車を選んでいた。
※
ある日、車内でぽつりと健太が言った。
「運転手さん、この商店街に昔、靴の修理屋ってありましたよね」
心臓が跳ねた。
「…ええ、あったと思いますよ」
「そこの息子と、俺、友達だったんです」
ミラー越しに目が合った。
健太は少し笑っていた。
「不器用なやつでしてね。優しいくせに、ありがとうもごめんもまともに言えないやつだった」
俺は黙ってハンドルを握った。
「でも俺が引っ越す前の日、あいつ、俺ん家の前をずっとうろうろしてたんです。声かけりゃいいのに、結局何も言わずに帰って行った」
覚えている。
あの日、俺は健太の家の前を三往復した。
引っ越しのトラックが止まっていて、健太の母親が泣きながら荷物を運んでいて、声をかけられなかった。
「翌朝、机の中にハーモニカがなくなってたんです。あいつが持ってってくれたんだと思います」
健太の声が少し震えた。
「あのハーモニカ、じいちゃんの形見だったんです。でも、あいつが持っててくれるなら、それでいいと思った」
※
俺は車を路肩に寄せた。
ハザードをつけた。
ポケットからハーモニカを取り出し、後部座席に向かって差し出した。
手が震えていた。
「…健太」
それだけ言うのに、十五年かかった。
健太はハーモニカを見て、それから俺の顔を見て、目を見開いた。
「…お前、裕也か」
「ああ」
「嘘だろ。ずっと、お前だったのか」
「ああ。最初の日から分かってた。名乗れなくて、悪かった」
健太は両手でハーモニカを受け取って、しばらく握りしめていた。
指の関節が白くなるほど、強く。
※
翌週、商店街の馴染みだった肉屋のおばちゃんに偶然会った。
おばちゃんは今もあの商店街の端で一人で店を続けている。
「あんた、健太くんのこと知ってるかい」
おばちゃんは言った。
「あの子ね、去年から病気でね。肺がんだって。入退院繰り返してるらしいよ」
足元が揺れた。
「あの子がね、うちに来た時に言ってたよ。『あの商店街に行くと、昔の友達がタクシーで待っててくれるんです。声はかけてくれないけど、毎回同じ車が来るんです。それだけで十分なんです』って」
おばちゃんは目を拭いた。
「あんた、不器用だねぇ。でも健太くん、ずっと嬉しかったみたいよ」
※
健太は知っていたのだ。
最初から、俺だと。
名乗らない俺のことも、ハーモニカを持ち続けていることも、毎週同じ場所で待っていることも。
全部分かった上で、俺が自分から声をかけるのを、待ってくれていた。
不器用な俺が、十五年分の勇気を絞り出すのを。
※
次の金曜日、俺は駅前に車を止めて待った。
いつもの時間が過ぎた。
健太は来なかった。
翌週も、その翌週も。
※
三週間後、おばちゃんから電話があった。
「健太くん、入院したよ。今度は長くなるって」
俺は仕事が終わるとすぐに病院に向かった。
病室に入ると、健太はベッドの上で笑った。
枕元に、あのハーモニカが置いてあった。
「裕也、一個だけ聞いていいか」
「何だよ」
「あの商店街のコロッケ、お前も好きだったよな」
「当たり前だろ。お前がいつも先に食い終わって、俺の分まで狙ってきたくせに」
健太は声を出して笑った。
その笑い声は、中学の頃と少しも変わっていなかった。
※
今、俺のグローブボックスにはハーモニカはない。
その代わり、夕方になると商店街のベンチから、下手くそなハーモニカの音が聞こえてくる。
健太が退院するたびに吹いている。
昔みたいに上手くはない。
息が続かなくて、途切れ途切れになる。
それでも、その音を聞くと、俺は肉屋のコロッケを二つ買って、ベンチに座る。
「お前、相変わらず下手だな」
「うるせぇ」
健太が笑って、俺も笑う。
十五年分の空白を、俺たちはゆっくり埋めている。
商店街のアーケードに、ハーモニカの音が響いている。
昔と同じように。
いや、昔よりも少しだけ、温かく。