万年筆のキャップに残された手紙

手紙

雪が降り始めた夜に、段ボール箱が届いた。

側面に貼られた付箋には「増田様へ」と書かれていた。差出人は、先生の長女の名前だった。

増田は帰り支度をしかけていた手を止め、箱をカウンターの上に置いた。古書店を閉めてから三ヶ月が経つ。師と慕っていた宮本先生が逝ったのが九月の末で、今は十二月の初旬だった。

封筒の手紙にはこう書かれていた。

「遺品を整理していたら出てきたものです。父がよく話していた方ですので、よろしければ」

増田は、自分がよく話されていたとは思えなかった。

先生とはそういう間柄ではなかった、と思っていたから。

宮本先生と出会ったのは、増田が二十代の後半、古書の仕入れを覚え始めた頃のことだ。先生は引退した国語教師で、週に一度ほど店に立ち寄っては棚をゆっくり眺め、なにかしら買っていった。

最初に声をかけられたのは、増田が手書きした書評カードを棚に差し込んでいるときだった。

「字が汚い」

それだけだった。礼も感想も、続きもなかった。先生は本を一冊手に取って、レジへ向かった。

増田は内心傷ついたが、黙って頭を下げた。

その後も、先生はことあるごとに指摘した。

「このポップの文章、主語がない」

「本の並びが客への配慮に欠ける」

「君は丁寧なようで、肝心なところを省く癖がある」

増田は一度も言い返したことがなかった。先生は客で、自分は店主だ。反論するわけにはいかない。ただ、毎回心のどこかに小石が積み重なるような感覚があった。それでも先生が来るたびに、増田は書評カードを見直した。棚の並びを考え直した。文章の主語を確認した。

先生は来つづけた。

雨の日も、真夏の午後も、吹雪の夕方も。分厚いコートを着てゆっくり棚を眺め、静かに本を買って帰った。

あるとき、増田は意を決して聞いた。

「先生は、どんな本が好きなんですか」

先生はしばらく黙って棚を見ていた。それから振り返って、こう言った。

「好きな本を売ってくれる店が好きだ」

それきり、その話は終わった。

増田にはその言葉の意味がよくわからなかった。ただ、何年も経ったあとでも、ふとした瞬間にその一言を思い出すことがあった。

先生が入院したと聞いたのは、夏の初めだった。長女から電話があった。増田は「どうかお大事に」と答えて、電話を切った。見舞いに行くべきか迷ったが、自分は客と店主の関係でしかないと思って、結局行かなかった。

九月、先生は逝った。

お通夜にも葬儀にも行けなかった。連絡をもらったのがどちらも当日だったからで、仕方のないことだとわかっていたが、増田はそのことをずっと引きずっていた。

段ボールを開けると、古い文庫本が数冊と、小さな木箱が入っていた。

木箱を開けると、万年筆が一本あった。

軸は飴色に変色した黒で、金のペン先に細かな傷がついている。長く使い込まれたものだとすぐにわかった。一緒に入っていた紙片には、「宮本愛用。昭和四十二年より」と書かれていた。

増田はしばらく、その万年筆を手の中で転がした。

字が汚いと言われた、あの頃から使っていたペンだろうか。

ふと気づいて、キャップを外してみた。インクは入っていなかった。ペン先を確かめてからキャップの内側を覗くと、何かが詰め込まれているのが見えた。細い竹串で突いて取り出すと、折り畳まれた便箋が出てきた。

広げると、先生の字だった。

読み始めたとき、増田の手が止まった。

「増田くんへ。これを読むことがあれば、わたしはもういないと思う。嫌なことを言いつづけた人間の遺品など受け取りたくないかもしれないが、長女が渡してくれると言うので甘えることにした」

文章はそのまま続いた。

「君の店に通い始めた理由を、一度も言ったことがなかった。退職してから本との距離が遠くなっていたわたしに、君の書評カードが面白かったからだ。字は汚く、主語もなかったが、本への愛情だけは本物だった。だから口うるさいことを言った。もったいなかったから」

増田は一度、視線を上げた。

店の外で雪が降っていた。看板に積もり始めた白が、街灯の光を受けてぼんやり光っていた。

「人に指摘されることを嫌がる者には言わない。受け取ってくれる人間にしか、本当のことは言えない。君はいつも黙って頭を下げた。それがわたしには嬉しかった。この万年筆は、わたしが初めて自分の言葉で文章を書いた時に買ったものだ。言葉を大切にする人間に持っていてほしい」

手紙はそこで終わっていた。

日付は、入院の二日前だった。

増田はしばらく、カウンターの前に立ったままでいた。

思い返せば、先生が批判した内容はいつも的確だった。不機嫌そうな言い方に傷ついたが、翌朝直してみると確かによくなっていた。書評カードを書き直すたびに、文章が少しずつ変わっていった。棚の並びを考え直すたびに、客の動きが変わっていった。

それでも、認められていると感じたことは一度もなかった。

先生は最後まで褒めなかった。手紙の中でさえ、書評カードの字が汚かったと書いた。

ただ、「もったいなかったから」という一行だけが、胸の奥にひどく刺さった。

増田はインク瓶を棚から取り出した。

万年筆にインクをゆっくりと注いだ。ペン先を試し書き用の紙に当てると、インクは滑らかに出た。何年も使われてきたペン先が、迷いなく紙の上を動いた。

増田はしばらく、何も書かなかった。

店の外の雪は強くなっていた。通りを歩く人もなく、窓ガラスに白い染みが次々と広がっていった。

それから増田は、手元の白い紙に一言だけ書いた。

「ありがとうございました」

字は、まだ少し汚かった。

でも先生なら、それでもいいと言ってくれた気がした。

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