俺の娘の葵は、今年で四つになる。
嫁は、葵を産んですぐに、家を出ていった。
だから葵には、母親の記憶が、まるでない。
母親のことは、これまで、なるべく話題にしないで避けてきた。
触れれば、俺自身の古い傷が、また疼くからだ。
俺は、地方都市の外れで、小さな自動車整備工場をやっている。
親父から継いだ、油の匂いの染みついた、古い工場だ。
親父は、無口だが、腕のいい職人だった。
俺も、その背中を見て、この道に入った。
まさか、片手で子育てをしながら、この工場を継ぐことになるとは、思わなかった。
だが、油にまみれて働くこの場所が、今は、葵との大切な居場所でもある。
葵が生まれた日のことは、今でも、忘れられない。
小さな手が、俺の指を、きゅっと握った、あの感触を。
休みの日には、葵が、おもちゃの工具で、車のタイヤを「なおして」くれる。
「あおい、しょうらい、とうちゃんの、てつだいする」
その言葉だけで、俺は、どんな疲れも、吹き飛ぶのだ。
朝は葵を保育園へ送り、日中は車の下に潜り、夕方にはまた迎えに行く。
その繰り返しで、気づけば、一日が終わっている。
工場の壁には、葵のお絵描きが、何枚も貼ってある。
油で汚れた、小さな手形のついた絵もある。
客が来ると、葵は事務所の隅で、一人、塗り絵をして待っている。
「あおいちゃんは、ええ子やなあ」と、常連さんは、よく褒めてくれる。
そのたびに葵は、得意げに、俺の顔を見上げる。
弁当は、いつも俺の作る、不格好なものだ。
それでも葵は、「とうちゃんのたまごやき、せかいでいちばん」と言ってくれる。
そんな言葉に、俺は、何度も救われてきた。
朝、葵を起こすと、寝ぼけ眼で「とうちゃん、おはよ」と笑う。
その顔を見るだけで、その日一日、がんばれる気がする。
葵の髪を結ぶのは、いまだに、うまくできない。
不格好なふたつ結びを、葵は、それでも嬉しそうにしている。
保育園の送り迎えは、軽トラの助手席だ。
チャイルドシートに座った葵は、いつも、窓の外の景色を、楽しそうに眺めている。
「とうちゃん、あれ、なに?」
「あれは、コスモスだよ」
そんな他愛もないやり取りが、俺たちの、毎朝の習慣だ。
工場の常連に、佐伯さんという、年配の女性がいる。
佐伯さんは、車の点検のたびに、葵に、飴をくれる。
「お父さん、一人で偉いねえ」と、よく労ってくれる。
そのさりげない優しさに、俺は、何度も助けられてきた。
近所のおばちゃんたちも、何かと、葵を気にかけてくれる。
母親はいなくても、葵は、たくさんの手の中で、育っている。
そのことに、俺は、心から感謝している。
それでも、夜、葵が寝静まると、ふと、心細くなる。
この子育てが、本当に、これでいいのか。
答えの出ない問いが、いつも、頭の片隅にある。
それでも、葵の寝顔を見れば、また、明日もがんばろうと思える。
葵は、聞き分けのいい子だ。
俺が忙しいのを察して、わがままを、めったに言わない。
そのことが、かえって、俺の胸を痛ませることがある。
四つの子が、親に気をつかっている。
そんな姿を見るたび、俺は、母親のいない申し訳なさを、噛みしめる。
この間、その葵のことで、ちょっと考えさせられる出来事があった。
きっかけは、何気ない、夕方の電車の中でのことだった。
※
嫁とは、職場の先輩の紹介で、知り合った。
明るくて、よく笑う人だった。
葵を授かったときは、二人で、子どものようにはしゃいだ。
だが、子育てが始まると、嫁は次第に、塞ぎ込むようになった。
「私、母親に向いてないみたい」
そう言って、夜中に一人、泣いていることもあった。
俺は、仕事にかまけて、その苦しみに、ちゃんと向き合えなかった。
ある朝、目を覚ますと、嫁の荷物が、すっかり消えていた。
食卓に、短い置き手紙が、一枚だけ残されていた。
妻が出ていった日の朝のことは、今でも、はっきり覚えている。
いつもと変わらない、よく晴れた朝だった。
葵のミルクを作ろうと台所に立って、初めて、家の中の静けさに気づいた。
妻の靴が、玄関から、消えていた。
化粧道具も、服も、何もかも、なくなっていた。
ただ、葵のおもちゃだけが、いつものように、散らかっていた。
「ごめんね。葵を、よろしくお願いします」
それきり、嫁とは、一度も会っていない。
腕の中で、葵が、何も知らずに、笑っていた。
その無邪気な笑顔を見て、俺は、初めて、声をあげて泣いた。
「父ちゃんが、絶対に、お前を守るからな」
その日、俺は、そう誓った。
妻が出ていった理由を、俺は、長いあいだ、恨んでいた。
なぜ、こんな小さな子を、置いていけたのか、と。
だが、孤独な子育ての底を、自分も覗いてみて、少しだけ、分かった気がした。
彼女もまた、出口の見えない暗がりの中で、もがいていたのだ。
助けを求める声を、俺が、聞き逃していただけなのかもしれない。
そう思うと、恨む気持ちは、いつしか、薄れていった。
仕事は、何度も、辞めようかと思った。
保育園のお迎えに間に合わず、頭を下げたことも、一度や二度ではない。
熱を出した葵を、工場の事務所に寝かせて、仕事をしたこともある。
常連さんは、そんな俺を、誰も、責めなかった。
「子どもが一番だ。仕事は、待ってやるよ」
その言葉に、何度、救われたか分からない。
母親はいなくても、この子は、決して、独りぼっちじゃない。
残された俺は、片手に葵を抱え、必死で日々をしのいできた。
ミルクの作り方も、おむつの替え方も、何もかも、手探りだった。
夜泣きで眠れない晩は、葵を抱いて、工場の中を、何百歩も歩いた。
油の染みた手で、小さな背中を、ぎこちなくさすった。
「父ちゃんが、いるからな」
そう言い聞かせていたのは、葵にではなく、自分にだったのかもしれない。
葵が言葉を覚えるにつれ、俺は、ある質問を、内心、恐れるようになった。
「お母さんは?」
いつか、そう聞かれる日が、必ず来る。
その日が来るのが、俺は、たまらなく怖かった。
保育園では、母の日に、お母さんの絵を描くのだという。
葵が何を描くのか、俺は、聞けなかった。
ある日、葵が、画用紙を一枚、持ち帰ってきた。
そこには、俺と葵、二人だけが、手をつないで描いてあった。
「これ、だれ?」と俺が聞くと、葵は「とうちゃんと、あおい」と笑った。
母親の姿は、どこにも、なかった。
葵は、母親を、描かなかったのではない。
描けなかったのだ。
その絵を、俺は、しばらく直視できなかった。
近所の子に、「あおいちゃん、ママは?」と聞かれたこともあったらしい。
葵は、何も答えられず、ただ俯いていたという。
それを保育士さんから聞いて、俺の胸は、ぎゅっと締めつけられた。
俺は、葵に、母親のことを、どう話せばいいのか、分からなかった。
「出ていった」とは、言えない。
かといって、嘘も、つきたくなかった。
だから俺は、ずるずると、その話を、避け続けていた。
葵が傷つかないように、と、自分に言い訳をしながら。
葵が三つになった頃、保育園で、友だちの母親を見て、こう言った。
「あおいも、ママ、ほしいな」
その一言が、胸に、深く刺さった。
「父ちゃんじゃ、だめか?」と、俺は、おどけて聞いた。
「とうちゃんは、とうちゃんだもん」
葵は、きっぱりと、そう言った。
子どもは、ごまかせない。
父親が、どんなに頑張っても、埋められないものが、あるのだ。
それを突きつけられるたび、俺は、ひそかに、落ち込んだ。
七五三のときも、写真館で、母親役は、いなかった。
着物を着た葵の隣に、俺だけが、ぎこちなく立っていた。
運動会の親子競技は、いつも、誰かのお父さんが、手伝ってくれた。
葵は、それを、ちゃんと分かっていて、気をつかっていた。
「あおい、ひとりでも、へいきだよ」
そんなふうに、強がる葵を見るのが、いちばん、つらかった。
だが葵は、そんな俺の心配をよそに、いつも、けらけらと笑っていた。
その明るさに、何度、救われたか分からない。
※
そんなある日のことだった。
仕事で隣町まで出る用があり、俺は葵を連れて、夕方の電車に乗った。
その日は、隣町の大きな公園で、半日、遊んだ帰りだった。
葵は、はしゃぎ疲れて、少し眠そうにしていた。
何気ない、ありふれた、帰りの電車のはずだった。
それが、忘れられない夕方になるとは、思ってもみなかった。
帰宅の時間帯で、車内は、そこそこ混んでいた。
俺と葵の隣には、幼稚園くらいの女の子が、若い母親と並んで座っていた。
葵は、その子の持っている絵本が気になるのか、ちらちらと見ていた。
電車が、いくつ目かの駅に止まった。
扉が開いて、一人の女性が、乗ってきた。
その人は、右の腕が、肘から先が、なかった。
空になった袖が、電車の揺れに合わせて、ゆれていた。
女性は、俺たちの、ちょうど向かいの席に、腰を下ろした。
その瞬間だった。
隣の女の子が、無邪気な、大きな声で、こう言った。
「ねえ、ママ。なんで、あの人、手がないの?」
車内の空気が、一瞬、ひやりと固まった。
俺は、思わず、女性からも、その親子からも、目を逸らしてしまった。
どう反応していいか分からず、ただ、窓の外を見るふりをした。
きっと、その場の誰もが、そうしたに違いない。
ところが、その子の母親は、少しも、慌てなかった。
娘の目を、まっすぐに見て、静かに、こう語りかけたのだ。
「いろんな人が、いるのよ。みんなが、同じじゃないの」
「あなたには、おじいちゃんとおばあちゃんが、いないでしょう?」
女の子は、こくりと頷いた。
「うん。みんなは、いるけど、わたしは、いないねえ」
「うん。でもね、おじいちゃんやおばあちゃんがいないのは、あなたのせい?」
「ううん、ちがう」
「そうよね。あの人の手がないのも、あの人のせいじゃ、ないの」
「あ、それでね、さきちゃんちは、パパがいないんだよ」
「そうね。でも、それも、さきちゃんのせいじゃ、ないでしょう?」
「うん、ちがう!」
「だからね、みんな、同じじゃないの」
「みんな、それぞれ、持っているものと、持っていないものが、あるの」
「でも、持っていないからって、その人が悪いわけじゃないし、ほかの人と、何も変わらないのよ」
女の子は、真剣な顔で、うんうんと頷いていた。
向かいの、腕のない女性も、その親子を、穏やかな目で、見守っていた。
俺は、目を逸らしてしまった自分が、ひどく、恥ずかしくなった。
電車が次の駅に着くと、腕のない女性は、静かに立ち上がった。
降り際、彼女は、隣の親子に、にっこりと、微笑みかけた。
「お母さん、いい教え方ね」
そう言って、女性は、ホームへ降りていった。
残された母親は、少し照れたように、頭を下げた。
俺は、その一部始終を、まるで、夢のように見ていた。
世の中には、こんなにも、まっすぐな優しさが、あるのだ。
※
目を逸らしたのは、あの子じゃなく、俺の方だった。
いや、逸らし続けてきたのは、もっと前から、ずっとだ。
葵の「お母さんは?」という問いから、俺は、ずっと逃げていた。
母親がいないことを、まるで、恥ずべきことのように扱っていたのは、俺自身だったのだ。
葵は、何も悪くない。
母親がいないのは、葵のせいでは、決してない。
それなのに俺は、その当たり前のことを、葵に、まっすぐ伝えてこなかった。
隣で、葵が、俺の袖を、くいと引いた。
「とうちゃん、どうしたの?」
俺は、慌てて、目元をぬぐった。
「なんでもない。ちょっと、まぶしかっただけだ」
葵は、不思議そうに、首をかしげた。
その小さな顔を見て、俺は、心を決めた。
※
その晩、葵を風呂に入れたあと、俺は、思い切って切り出した。
「葵。母ちゃんのこと、聞きたいか?」
葵は、きょとんとした顔で、俺を見上げた。
「あおいの、かあちゃん?」
「ああ。葵には、ちゃんと、母ちゃんがいるんだ。今は、遠くにいるけどな」
「葵を産んでくれた、優しい人だよ」
俺は、嫁の写真を、簞笥の奥から、久しぶりに取り出した。
ずっと、見ないようにしまい込んでいた、一枚だった。
「これが、葵の母ちゃんだ」
葵は、その写真を、じっと見つめた。
そして、小さな声で、「きれいな人だね」と言った。
「ああ。葵は、母ちゃんに、よく似てる」
そう言うと、葵は、はにかむように、笑った。
その笑顔を見て、俺は、ようやく、ひとつ、肩の荷が下りた気がした。
母親がいないことを、隠す必要なんて、どこにも、なかったのだ。
葵には、葵の物語がある。
それを、恥じることなく、胸を張って生きていけるように。
そう育てるのが、父親である、俺の役目だ。
あの電車の親子は、それを、俺に教えてくれた。
持っているものと、持っていないもの。
みんな、それぞれ、違っていて、それでいい。
誰のことも、そして、自分のことも、恥じなくていい。
そんな当たり前のことを、俺は、四つの娘の隣で、ようやく学んだのだ。
あの母親の言葉は、女の子にではなく、まるで、俺に向けられているようだった。
「持っていないからって、その人が悪いわけじゃない」
その一言が、ずっと、頭の中で、こだましていた。
俺は、葵に「母親がいない」という欠けばかりを、見ていた。
だが、葵には、葵だけの、たくさんの「持っているもの」がある。
油まみれの父親と、不格好な卵焼きと、毎朝の他愛ないおしゃべり。
それは、欠けなんかじゃ、ない。
ちゃんとした、ひとつの、家族の形だ。
あの日から、葵は、母親のことを、時々、口にするようになった。
「かあちゃん、げんきかな」と、夜、布団の中で、つぶやくこともある。
そのたびに俺は、「きっと、元気だよ」と答える。
嘘では、ない。
彼女は、きっと、どこかで、元気にやっている。
そして、いつか、葵に会いたいと、思ってくれているかもしれない。
その日が来るかどうかは、分からない。
だが、その日のために、俺は、葵を、まっすぐな子に育てておきたい。
母親を、恨むのではなく、ただ、会いたいと思える子に。
葵が、母親を、恨まずにいてくれること。
それだけが、俺の、ひそかな願いだ。
親の事情で、子どもの心まで、ねじ曲げたくはない。
隠していたものが、ひとつ消えると、家の空気が、少し軽くなった気がする。
翌朝、保育園へ送る道で、葵が、ふいに言った。
「とうちゃん。あおい、おっきくなったら、かあちゃんに、あいにいく」
「そうか。そのときは、父ちゃんも、一緒に行こうな」
葵は、嬉しそうに、俺の手を、ぎゅっと握った。
その小さな手の温もりが、俺の、何よりの宝物だ。
夜、葵が眠ったあと、俺は、台所で、明日の弁当の下ごしらえをする。
卵を割りながら、ふと、あの電車の母親の言葉を、思い出す。
みんな、同じじゃない。
それで、いい。
欠けたところを、嘆くのではなく、在るものを、二人で、数えながら。
俺は、葵の隣で、目を逸らさない父親で、いようと思う。
朝の光の中を、俺たちは、手をつないで、歩いていった。
葵が大きくなる頃には、世の中が、もう少しだけ、優しくなっていればいい。
誰もが、自分の持っているものを、胸を張って生きられるように。
そのために俺は、まず、この子の隣で、目を逸らさない父親で、いようと思う。