父が渡した十二年分の通帳

父が渡した十二年分の通帳

引き出しの奥の、記帳していない通帳

机の引き出しの奥に、古い通帳が一冊しまってあります。

表紙の角はすり切れて、もう何年も記帳していません。

それでも、僕はこれを捨てられずにいます。

父は、給料日の晩だけ、湯呑みに酒を注いで、それを飲まずに置いておく人でした。

注いだきり、朝までそのままです。

母がそれを流しに捨てるところを、僕は子どもの頃から何度も見ていました。

もったいない、とも、変わった人だ、とも思いませんでした。

父とは、そういう人なのだと思っていたのです。

その意味がわかったのは、十二年も経ってからでした。

銅を煮る町で育ちました

僕の家は、富山県高岡の、鋳物工場の並ぶ一角にありました。

父は銅器の着色師です。

鋳物屋から上がってきた花瓶や香炉を、煮汁につけたり、火であぶったりして色をつける仕事でした。

緑青の緑、鉄錆のような赤、烏のような黒。

父の手にかかると、同じ形の銅が、まるで違う年月を生きてきた顔になります。

作業場は家の裏の、屋根の低い小屋でした。

夏は釜の熱で四十度を超え、冬は土間から冷えが上がってきます。

煮汁の匂いは、酸っぱいような、金気のような、独特のものでした。

学校の友達には「お前んち、変な匂いする」とよく言われました。

そのたびに、僕は少しだけ、いやな気持ちになりました。

父は昔から、無駄を嫌う人でした。

おもちゃをねだっても、簡単には買ってくれません。

小遣いも、近所の子より少なかったように思います。

電気をつけっぱなしにすれば小言が飛び、テレビを長く見ていれば、また小言が飛びます。

「電気代は、誰が払うとると思っとる」

そんな父のことを、子どもの頃の僕は、ただ「けちな人だ」と思っていました。

今になって、その思い込みが、どれほど浅はかだったかがわかります。

修学旅行の朝の、財布とメモ

ただ、一度だけ、不思議なことがありました。

高校の修学旅行の朝、玄関に、新しい財布がそっと置いてあったのです。

中には、僕が想像していたよりずっと多い小遣いが入っていました。

誰も何も言いませんでしたが、父の字で「気をつけて」とだけ、メモが添えてありました。

角ばった、力のこもりすぎた字でした。

バスが出るまで、僕はその財布をポケットの中で何度も握り直しました。

帰ってから礼を言おうと思っていたのに、結局、言えませんでした。

父が、いつもどおりむすっとしていたからです。

あのときの父の、少し照れたような横顔だけを、僕はなぜか今もはっきり覚えています。

三万円が五万円になった年

大学を出て、僕は地元の運送会社に就職しました。

当時の手取りは、十七万円ほどだったと思います。

実家から通っていたので、毎月、家に三万円を入れていました。

それでも生活には十分で、貯金も少しずつできていました。

ところがある日、父から「これからは五万円入れろ」と言われたのです。

僕は、正直、納得がいきませんでした。

二万円増えるだけで、自由に使える金がぐっと減ります。

「なんで急に上げるん」

「上げるもんは、上げるんや」

それだけでした。

理由の説明は、一言もありませんでした。

その頃の父は、なぜか、お金のことにやけに厳しくなっていました。

風呂の湯を張る量まで言われるようになり、僕は少しずつ嫌気がさしていきました。

母にこっそり「お父さん、最近どうしたん」と聞いたこともあります。

母はただ、困ったように笑って、何も答えませんでした。

今思えば、母はあのとき、すべてを知っていたのでしょう。

知っていて、父の不器用なやり方を、黙って支えていたのです。

家の手伝いも、なぜか僕にばかり多く回ってきました。

作業場の煮汁を捨てに行くのも、釜の灰を掻き出すのも、いつも僕でした。

兄や弟に比べて明らかに負担が多いのが、若かった僕には不公平に思えました。

新入社員で、慣れない仕事に毎日くたくただったこともあります。

だから僕は、家を出る決心をしました。

一人暮らしをすれば、会社から月に四万円ほど住宅手当が出ることも分かっていました。

五万円を家に入れるくらいなら、その金を家賃に回したほうがいい。

何より、口うるさい父の顔を、毎日見なくて済む。

そう考えて、僕は半ば逃げるように、実家を出ていきました。

家を出たのは、五万円にしろと言われてから、四ヶ月目のことでした。

バックミラーの中の家

引っ越しの日のことは、今でもよく覚えています。

軽トラの荷台に段ボールを積んで、助手席に乗り込むとき、母は玄関先でそっと目元をぬぐっていました。

父は、二階の窓から、腕を組んでこちらを見下ろしているだけでした。

「行ってきます」も「ありがとう」も言わず、僕は車を出しました。

バックミラーに映る家が、坂を曲がるところで見えなくなりました。

あのとき、ちゃんと振り返って手を振れなかったことを、今でも悔やんでいます。

一人暮らしは、思っていたよりずっと気楽でした。

誰にも文句を言われず、好きな時間に帰り、好きなものを食べる。

はじめのうちは、その自由が、たまらなく心地よかったのを覚えています。

けれど、その分、僕はだんだんと実家に寄りつかなくなりました。

正月もお盆も、適当な理由をつけては、顔を出さずに済ませました。

母から時々かかってくる電話も、「忙しいから」と短く切ることが増えました。

父とは、ほとんど口をきかなくなっていました。

それでも母は、季節の変わり目になると、決まって荷物を送ってきました。

米や、缶詰や、僕の好きだった煮しめが、いつも箱いっぱいに詰まっていました。

御車山祭の頃には、決まって鱒寿司がひと折り入っていました。

電話口の母の声も、年々、少しずつ細くなっていきました。

それでも母は、僕の体のことや、仕事のことばかりを気にかけていました。

自分たちのことは、何ひとつ言いませんでした。

父の還暦の誕生日にも、僕は仕事を理由に顔を出しませんでした。

後から母に、父が僕の好きだったすき焼きを用意して待っていた、と聞きました。

それでも僕は、忙しいから仕方ない、と自分に言い訳をしていました。

心のどこかで、まだあの五万円のことを、根に持っていたのだと思います。

婚約者に背中を押されて

時は流れて、僕にも結婚の話が持ち上がりました。

長く付き合った人と、ようやく所帯を持つことになったのです。

式の費用も、新居にかかる金も、自分の貯金から出すつもりでいました。

親には頼らない。

散々お金のことで揉めた手前、今さら援助してくれと頭を下げる気にはなれませんでした。

それは、若い僕なりの、ささやかな意地でもあったのだと思います。

両親に報告に行くと決めたときも、僕はどこか身構えていました。

また、お金の話で何か言われるのではないか、と。

婚約者は、そんな僕の態度を、やわらかくたしなめました。

「一度くらい、ちゃんとご両親に甘えてみたら」

「甘えたら、また何か言われる」

「言われたら、そのとき考えたらいいよ」

その言葉に背中を押されて、僕はようやく、実家の戸を叩く決心がつきました。

「おめでとさん」

久しぶりに帰った家は、少しだけ古びて、小さく見えました。

裏の作業場からは、もう煮汁の匂いがしませんでした。

母は嬉しそうに僕を迎え、父は相変わらず、むすっとした顔で座っていました。

ひととおり結婚の話をして、そろそろ帰ろうとしたときのことです。

父が、奥の部屋から何かを持って戻ってきました。

そして、ぶっきらぼうに、それを僕の前に置きました。

一冊の通帳でした。

「おめでとさん」

父は、たったそれだけ言って、目をそらしました。

何だろうと思って、僕はその通帳を開きました。

そこに記された残高を見て、息が止まりました。

二百万円。

はじめは、記帳ミスか見間違いではないかと、何度も目をこすりました。

毎月、判で押したように同じ額が、同じ日に積み立てられていました。

その地道な数字の列が、何よりも雄弁に、僕に何かを語りかけてきました。

見覚えのある金額。

それは、僕が独身時代に、毎月家に入れていた、あの五万円でした。

五万にしろと言われ、あれほど腹を立てた、あのお金です。

父も母も、それを一円も使わずに、ずっと貯めていてくれたのだ。

僕は、そう思いました。

喉の奥が熱くなって、通帳を持つ手に力が入りました。

けれど、そこで、ひとつの数字に目が留まりました。

四ヶ月しか入れていないはずでした

入金の欄が、十二年ぶん、途切れずに続いていたのです。

僕が家に五万円を入れていたのは、家を出るまでの、たったの四ヶ月です。

僕が入れたのは、はじめの四ヶ月ぶんだけでした。

残りの百四十回近い入金は、僕の金ではありません。

それでも、日付は毎月同じでした。

通帳のいちばん古い頁から、いちばん新しい頁まで、一度も飛んでいません。

僕が正月に帰らなかった年も。

父の還暦をすっぽかした年も。

電話を「忙しいから」と切った月も。

入金は、判で押したように、続いていました。

「これ……」

僕は、それだけ言って、続きが言えませんでした。

母が、隣でそっと教えてくれました。

「本当はね、お父さん、あんたから生活費なんてもらう気はなかったのよ」

「でも、ただであずかったら、あんたが甘えると思って」

「家にお金を入れる、っていう気持ちを、ちゃんと持ってほしかったんですって」

「だから、わざと厳しくしてたの」

「そやけど、僕、四ヶ月しか入れてへん」

母は、少し笑って、うなずきました。

「そう。だから、そのあとは、お父さんが」

飲まれなかった酒の意味

父は、月に一度、朝いちばんに信用金庫へ行っていました。

作業場に入る前の、三十分ほどのことです。

父が飲まなかったのは、翌朝、いちばんに信用金庫へ行くからでした。

着色師の朝は、手が命です。

前の晩に飲むと、指先の感覚が鈍り、色の乗り方を見誤るのだと、父はよく言っていました。

だから給料日の晩は、注いだ酒を飲まずに置いて、朝の窓口に向かう。

それを、百四十回以上、繰り返していたのです。

母が続けました。

「あの頃ね、お父さん、仕事を畳もうかって話をしてたのよ」

問屋からの注文が細り、鋳物屋も次々に工場をたたんでいた時期でした。

父が急にお金に厳しくなったのは、そういう年だったのです。

それでも、積み立てだけは止めなかった。

風呂の湯の量に口を出していたのは、そのぶんを窓口へ持っていくためでした。

「なんで、言うてくれへんかったん」

「言うたら、あんた、受け取らんでしょう」

母の言うとおりでした。

若い頃の僕なら、意地でも突き返していたはずです。

「あんたが四ヶ月でやめたときね、お父さん、ちょっとだけ笑ったのよ」

「よう出ていったわ、って」

僕は、その言葉で、こらえていたものが崩れました。

父が本当に願っていたのは、家に金を入れる息子ではなかったのです。

自分の足で出ていく息子でした。

それが四ヶ月で来てしまったから、あとは黙って、自分で埋めた。

それだけのことだったのです。

たった一度の出金

その晩、下宿に帰ってから、僕は通帳をもう一度、頭から見返しました。

入金ばかりの列の中に、たった一度だけ、出金がありました。

金額は三万二千円。

日付は、僕が高校二年の、十月でした。

修学旅行の朝です。

玄関に置かれていた、あの財布の中身でした。

父は、自分で積み立てた金から、それを下ろしていました。

財布ごと買って、メモを添えて、何も言わずに置いた。

あの角ばった字を思い出して、僕はまた、目の前が滲みました。

「気をつけて」の四文字を書くのに、父はどれだけ時間をかけたのだろうと思いました。

親方が父に言った言葉

後になって、僕は伯父から、もうひとつのことを聞きました。

父が二十六で親方から独立を許された日、その親方はこう言ったそうです。

「おめでとさん」

たった一言だったといいます。

祝いの席も、餞別もなく、その五文字だけだったと。

父はそれを、生涯でいちばんの祝いの言葉として、ずっと胸に置いていたのだそうです。

だから、息子の結婚にも、それを使った。

父にとって「おめでとさん」は、ぶっきらぼうな一言などではありませんでした。

持っている中で、いちばん重い言葉だったのです。

それを知ったとき、僕はあの日の父の、目をそらした横顔の意味が、ようやくわかりました。

玄関先で、ようやく言えた言葉

通帳を握りしめたまま、僕は、子どものように泣いてしまいました。

あれほど避けていた実家の、畳のにおいの中で。

その畳のにおいは、子どもの頃から少しも変わっていませんでした。

変わってしまったのは、僕の心のほうだったのだと、思い知らされました。

父は、何も言わずに、ただ静かに茶をすすっていました。

その横顔が、少しだけ照れているように見えました。

帰り際、玄関まで見送りに出てきた父が、ぽつりと言いました。

「体に気ぃつけてな。困ったときは、いつでも帰ってこい」

あの父の口から、そんな言葉が出るとは、思ってもみませんでした。

僕は涙をこらえながら、今度はちゃんと、深く頭を下げました。

「今まで、ごめん。ありがとう」

言えなかった言葉を、ようやく伝えることができました。

父は、うん、とだけ言って、先に家の中へ入っていきました。

戸を閉める音が、いつもより静かでした。

父と同じ年になって

結婚式の日、父と母は、いちばん前の席に座っていました。

父は、慣れない礼服に身を包んで、終始、背筋をぴんと伸ばしていました。

僕が新婦と腕を組んで入場したとき、父は、そっと目頭を押さえていました。

あんなに泣くところを見たのは、後にも先にも、あのときだけです。

結局、その二百万円には、まだ手をつけていません。

使ってしまうのが、どうしても惜しいのです。

あのお金は、金額そのものよりも、飲まれなかった百四十杯の酒だからです。

今では僕にも子どもが生まれ、あの頃の父と同じくらいの年になりました。

我が子が生まれたとき、僕がいちばん最初にしたのは、その子名義の通帳を作ることでした。

窓口で用紙に名前を書きながら、ふと、父も同じ気持ちだったのだと気づきました。

言葉にするのが下手な人ほど、こうして、形に想いを残そうとするのかもしれません。

夜泣きする我が子を抱きながら、僕はよく、父のことを思います。

きっと父も、眠れない夜に、僕の寝顔を見ていたのでしょう。

父は去年、作業場をたたみました。

最後に色をつけたのは、僕の子どものために作った、小さな風鈴でした。

高岡の銅の、緑がかった黒。

軒に吊るすと、風のない日でも、ときどき鳴ります。

僕は今、給料日の晩に、湯呑みに酒を注いで、それを飲まずに置いてみることがあります。

母のように捨てはせず、翌朝、自分で流します。

父がどんな気持ちで、あの一杯を見ていたのか。

それを知りたくて、ときどき、真似をしてみるのです。

「おめでとさん」

あの日の、ぶっきらぼうなひと言が、今も僕の胸を、あたたかく締めつけます。

不器用な父の背中については、柿渋の色に染まった父の手にも書かれています。誰かが黙って守り続けたものの話は、土のにおいの紳士もあわせてお読みいただけたら幸いです。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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