
ジムの朝は、縄跳びの音から始まります。
床を打つ細かい音のなかで、僕はミットを構えて立ちます。
中学生の子が、まだ痩せた肩で二発を打ち込んできます。
その打ち方を見ていると、四十年前の自分の肩を思い出します。
僕がボクシングを始めた理由は、強くなりたかったからではありません。
殴るためでもありません。
避けるためでした。
避け方さえ覚えれば、朝の廊下を歩けると思ったのです。
四十年経った今も、僕はミットの内側の匂いが好きです。
革と汗と、少しの埃の匂いです。
この匂いのする場所だけは、誰も僕を呼び止めませんでした。
教室の匂いは、いまでも少し苦手です。
ワックスと、給食の食器と、冬の埃の匂いです。
その頃のことを、僕は長いあいだ、自分ひとりの話だと思っていました。
先生の出席簿の正の字を見せてもらうまでは、そう思っていたのです。
ビニールを打った窓
僕が生まれたのは、北海道の内浦湾に面した小さな町でした。
冬になると海のほうから風が来て、家の板壁を鳴らします。
家は、錆だらけのトタン板で囲われた木造の二階建てでした。
窓は木枠で、きっちりとは閉まりません。
毎年十一月になると、母が窓の外からビニールを打ちつけました。
金槌の音が、夕方の路地に響きます。
そのビニールが風でばたばた鳴る音が、僕の冬の音でした。
父の記憶はありません。
生まれてすぐに別れたのだと、あとで聞きました。
母は自宅の離れで食堂と民宿をやっていて、朝から晩まで働いていました。
ホタテの殻を剥く時期になると、母の指はいつも荒れていました。
欲しいものを言ったことは、一度もありません。
言えば母が黙るのを知っていたからです。
民宿には、秋になると貝を剥く季節労働の人たちが泊まりました。
夜の十時を過ぎても、離れの流しからは水の音が続きます。
僕は自分の部屋で、その音を聞きながら宿題をしました。
音が止むのは、たいてい十一時半ごろでした。
止んだあとで、母が二階へ上がってくる足音がします。
襖の前で一度止まって、開けずに自分の部屋へ行くのです。
起きていることを知っていて、そうしていたのだと思います。
中学に上がったころ、僕の背は百四十センチほどでした。
同じ学年に、百七十を超える者が何人もいました。
喧嘩をしても敵わないと、体の大きさだけでわかりました。
僕は笑いものにされ、使い走りをさせられました。
それでも機嫌を取り、媚を売りながら学校へ通っていました。
笑っていれば、その日の分は早く終わるのです。
朝は、跨線橋の階段の下で待たれていました。
鞄を持たされ、階段を上がるあいだ、後ろから膝の裏を蹴られます。
痛いというより、転ばないようにするのが大変でした。
昼は購買のパンを頼まれます。
金は渡されません。
母の財布から百円玉を抜いた日が、三度だけあります。
そのことを、僕は今でもときどき思い出します。
放課後は、体育館の裏で自転車の空気を抜かれていました。
抜かれたタイヤを押して、国道を三キロ歩いて帰ります。
海からの風が強い日は、押す手が凍えて感覚がなくなりました。
媚びるというのは、慣れると難しくありません。
難しいのは、家に帰ってからでした。
母には何ひとつ言えませんでした。
ある日、腹が痛くて町の医院へ行くと、胃に潰瘍ができていました。
医者は母に「何か心当たりは」と聞きました。
僕は先に「食べすぎた」と答えました。
母は僕の顔を見て、それ以上は聞きませんでした。
保健室の丸椅子
三年生になって、それは目に見えて悪くなりました。
靴が捨てられ、体操着が隠され、教室の後ろで服を脱がされました。
カラスでもスズメでも虫でもいい、人間以外のものになりたいと思いました。
学校に行きたくない、とも思えなくなっていました。
休めば母が仕事を抜けることになる、とだけ考えていたからです。
その頃、僕は昼休みになると保健室へ行くようになりました。
腹が痛いと言えば、養護の高杉先生は何も聞かずに丸椅子を出してくれます。
白いカーテンの内側は、石けんと消毒液の匂いがしました。
高杉先生は横で書き物をしながら、ときどき湯呑みを置いてくれました。
「昼の薬、飲んだかい」
「飲みました」
「なら、いい」
それだけの会話でした。
十五分ほど座って、予鈴が鳴る前に僕は立ち上がります。
来室の記録に名前を書いて、教室へ戻るのです。
記録のノートは、青い表紙の大学ノートでした。
日付と、名前と、ひとこと欄だけの簡単なものです。
僕はいつも、ひとこと欄に「腹痛」とだけ書きました。
ある日、丸椅子の高さがひとつ上がっていたことがあります。
「背が伸びたろう」と高杉先生が言いました。
伸びてなどいませんでした。
それでも、その日は少しだけ姿勢よく座っていた気がします。
高杉先生は、僕が座っているあいだ、一度も顔を上げませんでした。
顔を上げられたら、僕はきっと行かなくなっていたと思います。
見ていないふりをするのが、あの人の仕事だったのでしょう。
窓の外では、グラウンドでサッカー部が走っていました。
笛の音が、カーテン越しに遠く聞こえていました。
担任は、佐々木先生という人でした。
背は僕より少し高いだけで、体は薄く、けれど動きが速い。
サッカー部の顧問で、二十代の半ばくらいに見えました。
冗談が通じて、生徒との距離が近い人でした。
授業中に居眠りを見つけても、後ろから黒板消しを転がすだけで済ませます。
その佐々木先生が、いつも右手に持っていたのが出席簿でした。
茶色い表紙の角が、めくれて丸くなっていました。
朝の会でも、廊下でも、体育館でも、なぜかそれを離しません。
先生の出席簿には、日付の横に小さな正の字が書き足されていました。
横を通るとき、鉛筆の線が見えることがありました。
何かの集計だろうと、僕は思っていました。
体育の時間も、先生はそれをベンチの端に置いていました。
雨の日には、濡れないように上着で包んで持ちます。
出席簿の正の字のことなど、当時の僕の頭の隅にもありませんでした。
自分の名前の行が、誰かに毎朝見られているとも思いませんでした。
そんなものが自分と関わるとは、考えもしませんでした。
出席簿の正の字
十月の、よく晴れた朝でした。
朝の会の途中で、佐々木先生が出席簿を閉じました。
教室の空気が、少しだけ硬くなりました。
「最近、誰かが、誰かをからかっている」
先生の声は、いつもと同じ高さでした。
「特定の人に、ひどいことをしている」
「思い当たる者は、手を挙げろ」
誰も挙げませんでした。
挙がるはずがないと、教室の全員が知っていました。
僕も、自分の机の木目を見ていました。
十秒ほどの沈黙がありました。
それから先生は、大きな声で一人の名前を呼びました。
「おまえのことを言ってんだよ」
窓のガラスが、震えたように思いました。
誰かの椅子が、かたんと鳴りました。
その後は、しんとしたまま朝の会が終わりました。
僕は驚いていました。
怖くもありました。
けれど、それ以上に、こういう大人がいるのかと思いました。
その日から、からかいはぴたりと止みました。
止んだのは、その日の昼休みからでした。
購買の前で、僕は誰にも呼ばれずにパンを買いました。
財布から自分の金を出すのが、ひどく久しぶりに感じました。
帰り道、自転車のタイヤはちゃんと空気が入ったままでした。
国道を、初めてまともに漕いで帰りました。
海の風は相変わらず強くて、けれど手は凍えませんでした。
その夜、僕は久しぶりに夕飯を二杯食べました。
母は何も言わずに、おかわりをよそってくれました。
茶碗を受け取るとき、母の手が少し震えているのが見えました。
腹の痛みが引いたのは、それから二週間ほどあとのことです。
薬をやめてもよいと医者に言われた日、僕は町を一周して帰りました。
誰も僕に話しかけなくなった代わりに、誰も靴を隠さなくなったのです。
放課後、階段の踊り場で佐々木先生とすれ違いました。
先生は出席簿を小脇に抱えたまま、僕を見ずに言いました。
「腹、まだ痛いか」
「……たまに」
「そうか」
それだけで、先生は職員室のほうへ行ってしまいました。
名前を呼ばれた彼は、そのあと一度も僕に近づきませんでした。
廊下ですれ違うときだけ、こちらを見ないように顎を上げます。
卒業式の日、下駄箱の前で一度だけ声をかけられました。
「おまえ、チクったのか」
「言ってない」
本当に、僕は誰にも言っていませんでした。
彼は少し考えて、「そうか」と言って行きました。
その背中を見ながら、僕は妙に静かな気持ちでいました。
勝ったとも負けたとも思わなかったのです。
なぜ僕の腹のことを知っているのか、そのときは聞けませんでした。
ミットの乾いた音
冬のはじめ、保健室の棚に一枚のチラシが置かれていました。
隣町のボクシングジムの、月謝と練習日が刷られただけの紙です。
高杉先生は「誰かの忘れ物だから、いるなら持っていきなさい」と言いました。
僕はそれを畳んで、制服の内ポケットに入れました。
母に頼むと、母は月謝の額をしばらく見てから、うなずきました。
「行くなら、続けなさい」
それだけ言って、また仕込みに戻りました。
ジムは、国道沿いの倉庫を改装した建物でした。
入ると、汗と革と、埃の匂いがしました。
最初の三か月、僕は打たせてもらえませんでした。
ひたすらロープを跳び、鏡の前で上体を振るだけです。
会長は「当たらなければ、負けない」と言いました。
避けることが競技になるのだと、そのとき初めて知りました。
初めてスパーリングをしたのは、四か月目の冬でした。
相手は高校生で、僕より頭ひとつ大きい人でした。
最初の三十秒で、右をまともにもらいました。
視界の端が白くなって、足の裏が遠く感じました。
それでも、倒れはしませんでした。
次の右は、顔を半歩ぶんだけ外にずらして避けました。
拳が耳のそばを通る風の音を、今でも覚えています。
怖くありませんでした。
そのとき、跨線橋の階段のことを思い出したのです。
あそこで僕に必要だったのは、腕力ではなかった。
半歩ぶん、身体を外に置くことでした。
会長は僕の顔を見て、「おまえ、いま笑ったな」と言いました。
鏡の前に立つ時間が、僕はいちばん好きでした。
誰にも当たられない一分間が、そこにはあるからです。
ロープの回る音と、自分の息だけを聞いていました。
ジムを出ると、国道のトラックの音で現実に戻ります。
その落差が、当時の僕には必要だったのだと思います。
不思議なもので、体が動くようになると、やり返したい気持ちが薄れていきました。
避けられる相手は、もう怖くないのです。
怖くなくなると、憎むことも面倒になりました。
高校を出て、僕は東京のジムに移りました。
練習生から始めて、負けて、勝って、また負けました。
デビュー戦は判定負けでした。
三戦目で初めて勝って、控室で誰にも言えずに立っていました。
母は一度も試合を見に来ませんでした。
宿を空けられないからだと、電話ではそう言っていました。
あとで知ったのですが、地元の新聞の切り抜きは全部とってありました。
帳場の引き出しの、領収書の束の下にありました。
フライ級の日本一になったのは、二十六のときです。
ベルトを持って北海道へ帰ったのは、その年の暮れでした。
中学校は建て替えられて、昇降口の位置が変わっていました。
職員室に顔を出すと、佐々木先生はまだそこにいました。
髪に白いものが混じって、体はいくらか厚くなっていました。
「おう」
先生は、十二年ぶりとは思えない調子でそう言いました。
職員室のストーブの上では、やかんが湯気を上げていました。
先生は椅子を回して、僕のベルトのケースを見ました。
「重いのか、それ」
「思ったより重いです」
「そうか」
それから先生は、真顔になって聞きました。
「腹は、どうだ」
十二年ぶりの質問が、それでした。
「もう、痛みません」
先生は、そうか、とだけ言いました。
「先生の一言で、救われたんです」
僕は立ったまま、それだけを言いました。
先生は少し照れたような顔をして、小さく頷きました。
あの朝と同じ、変わらない優しい笑い方でした。
それで十分だと、そのときの僕は思っていました。
同じ笑い方の頷き
先生が定年を迎えたのは、それから二十年あとのことです。
僕は町の体育館を借りて、子ども向けの教室を開いていました。
最後の勤務日に、先生が段ボールをひとつ提げて顔を出しました。
「捨てる前に、見せたいものがある」
中から出てきたのは、角の丸くなった茶色い出席簿でした。
あの年の、三年二組のものでした。
先生は僕の名前の行を開いて、机の上に置きました。
日付の横に、小さな正の字が並んでいました。
十月のところで、その線は不揃いになっていました。
「高杉先生が、毎朝これを教えてくれてな」
正の字は、僕が保健室へ行った日の数でした。
一日に一画。
二人は職員室の給湯室で、毎朝それを確かめていたそうです。
「腹が痛いって言いに行ける子は、まだ大丈夫なんだ」
先生はそう言って、湯呑みを置きました。
「怖いのは、来なくなったときでね」
出席簿の正の字は、僕だけのものではありませんでした。
先生が頁をめくると、ほかの名前の横にも同じ線がありました。
数の多い行も、少ない行もあります。
一年のあいだ、先生はそれを毎朝書き足していたのです。
十月の欄を、僕はもう一度見ました。
九日から十二日まで、四日続けて画が増えていませんでした。
その四日を、僕はよく覚えています。
行っても仕方がないと思って、昼休みを教室で過ごした週でした。
先生が名前を呼んだのは、正の字が増えなかった四日目の朝でした。
手を挙げろと言ったのは、誰も挙げないと知っていたからだそうです。
挙がらなければ、自分が名指しする役をやると決めていたのです。
「一年めにな、俺は別の学校で、同じことを見て見ぬふりをした」
「上手にやろうとして、結局、何もしなかった」
「その子は、三学期から来なくなった」
先生はそれだけ言って、あとは話しませんでした。
段ボールの底には、あのジムのチラシの束が残っていました。
輪ゴムで留めて、二十枚ほどありました。
隣町のジムまで、先生は自分でもらいに行ったのだそうです。
置いておくのは保健室と決めていた、とも言いました。
職員室で渡せば、それは指導になってしまうからです。
保健室に置かれていた一枚と、同じものでした。
教師という仕事の重さについては、島田先生の髪が短くなった日という話のほうが、ずっと上手に書かれています。
黙って傷を隠しつづける側の気持ちは、右の袖だけを十年下ろしていたのほうに近いかもしれません。
僕のジムには今、学校へ行きづらい子が三人通っています。
来た日を、僕は壁のカレンダーに小さく書き込みます。
二日続けて印がつかない子には、こちらから電話をかけます。
用件は作りません。
「今日、ミット持つ人が足りない」とだけ言います。
来れば、何も聞かずにグローブを出します。
帰るときに「また明日な」と言って、カレンダーに印をつけます。
先生から教わったのは、殴り返さない強さではありませんでした。
出席簿の正の字の意味を、僕は四十年近く知らずにいたことになります。
誰かが数えていてくれるということでした。
先生は今も町にいて、ときどきジムの窓から中を覗いていきます。
目が合うと、あの朝と同じ笑い方で、小さく頷いて帰るのです。