
理由は、自分でも分からなかった。
ある朝、目覚ましの音が、遠い部屋で鳴っているように聞こえた。
布団から出ようとして、腕が鉛のように重いことに気づいた。
会社に行かなければ、と頭では分かっている。
けれど玄関まで行っても、靴を履く気力が湧いてこなかった。
その日、俺は生まれて初めて、連絡もせずに仕事を休んだ。
携帯には、会社からの着信が何件も並んでいた。
画面を伏せて、俺は布団の中で天井の染みをただ数えた。
腹は減るのに、台所に立つ気力はどこにもなかった。
翌日も、その次の日も同じだった。
四日目の夜、玄関のインターホンが鳴った。
モニターに映っていたのは、強面で知られる野島課長だった。
あの夜の言葉が、のちに俺の中で「痛みを知る者」という響きに変わっていく。
シャッターと呼ばれた課長
俺が働いているのは、地方の小さな製本工場だ。
二十九歳の今まで、品質検査の係として、毎日同じラインの前に立っている。
工場の中には、インクと紙と糊の匂いが、いつも濃く漂っている。
断裁機の低い唸りが、床から足の裏へ伝わってくる。
野島課長は、その工場で一番、近寄りがたい人だった。
背が高く、肩幅が広く、眉間には深い縦じわがある。
口を開けば低い声で短く指示を出し、冗談も言わない。
若手の間では、「シャッター」というあだ名で呼ばれていた。
表情が、いつも下りたままだからだ。
俺も、課長と目が合うたびに、背筋が伸びる思いをしていた。
新人のころ、機械に指を挟みかけたとき、誰よりも先に駆け寄ってきたのも課長だった。
「怪我は」と短く聞いて、俺の手を何度も裏返して確かめた。
あの大きな手の温度だけは、なぜかずっと覚えていた。
断裁機が止まる昼休みには、遠くで鳩の声がした。
ただ、一つだけ、妙に目に入るものがあった。
課長の机の引き出しには、いつも胃薬の小瓶と、古びた絆創膏の箱が入っていた。
忘れ物を取りに行ったときに、偶然、見えてしまっただけだ。
強い人にも、薬の世話になる夜があるのだな、と思った。
それ以上は、考えなかった。
ホットミルクの夜
その夜、玄関先に立った課長は、スーツのままだった。
雨が降っていて、肩のあたりが黒く濡れている。
ドアを開けるのが怖くて、俺はチェーンをかけたまま、隙間から顔を出した。
課長の吐く息が、玄関灯の下で白く見えた。
「宇野」
「はい」
「五分で降りてこい」
それだけ言って、課長は階段を下りていった。
最後通告かもしれない、と思った。
スウェットの上にコートを羽織り、財布だけ持って、俺は部屋を出た。
課長は車のエンジンをかけたまま、黙ってハンドルを握っていた。
十五分ほど走って、路地裏の古いビルの前で、車が止まった。
地下へ続く階段の先に、小さなショットバーがあった。
重い扉を開けると、琥珀色の照明と、ジャズの低い音が迎えてくれた。
白髪のマスターが、グラスを拭く手を止めずに、軽く会釈した。
壁には、色の褪せた映画のポスターが何枚も貼られている。
カウンターの木は、長い年月で飴色に磨かれていた。
「いつもの席、空いてますよ」
課長は、カウンターの端に腰を下ろした。
俺も、少し離れた椅子に座る。
「何にする」
「あの、水で」
「水はやめろ。胃に悪い」
課長はマスターに向かって、短く言った。
「ホットミルクを二つ。蜂蜜は多めで」
俺は、自分の耳を疑った。
強面の課長の前に、白い湯気の立つマグカップが置かれる。
蜂蜜の甘い匂いが、ふわりと鼻に届いた。
「酒は、飲めない体質でな」
課長は、ばつが悪そうに視線をそらした。
「馬鹿にするなよ」
「しません」
「笑ってもいいぞ」
「笑えません。ただ、意外で」
そこで初めて、課長の眉間のしわが、少しだけゆるんだ。
その顔を見て、俺は張りつめていたものが、ほどけるのを感じた。
痛みを知る者の声
「どうして休んでる」
課長は、マグカップを両手で包んだまま尋ねた。
「分かりません。何をする気も、起きなくなってしまって」
「そうか」
「辞めようか、悩んでます」
正直に、そう打ち明けた。
課長はしばらく黙っていた。
ジャズのピアノが、グラスの触れ合う音に混ざる。
「人間はな、自分が思ってるより、ずっとギリギリのバランスで立ってる」
低い声が、カウンターの木目に静かに落ちた。
「走れば走るほど、足元が見えなくなる」
「はい」
「少し運が悪かったり、少し考えが足りなかったり。それだけで、傾くんだ」
課長は、自分の左の胸のあたりを、指先で軽く叩いた。
「体の痛みは、見りゃ分かる。だが心の痛みは、本人にさえ分かりにくい」
「他人のことなら、尚更だ」
「お前は今、心が疲れてるだけだ」
「疲れてる、だけ」
「そう。治るまで、ゆっくり休め」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
喉の奥が熱くて、言葉の代わりにマグカップの縁を見つめていた。
縁には、蜂蜜が一筋、琥珀色に垂れていた。
課長の目は、カウンターの向こうの棚をぼんやり見ていた。
グラスの氷が、かたんと小さく鳴った。
その音で、俺は自分の指先が冷えていたことに気づいた。
「十五年前、俺も三か月、会社に行けなかった」
「課長が、ですか」
「信じられんだろう。毎朝、玄関で足が固まってな」
「そのとき、先輩が毎晩、豚汁を持ってきてくれた」
課長は、口の端を少しだけ上げた。
「何も言わず、鍋だけ置いて帰るんだ。三か月、毎晩だぞ」
「その鍋の湯気を、今でも思い出す」
マスターが、黙ってミルクのおかわりを注いでくれた。
二杯目の蜂蜜は、一杯目より少しだけ甘かった。
甘さが喉を通ると、固まっていた胸の奥が、わずかにゆるんだ。
「痛みを知る者は、次に傷ついた者を癒せる薬になれる」
課長は、ゆっくり言った。
「だから今は休め。いいから。な?」
「はい」
返事をした声が、自分でも驚くほど湿っていた。
「その代わりな」
課長は、唐突に付け加えた。
「いつか俺が疲れ果ててたら、助けろよな」
冗談めかした口調だった。
けれど、その目は少しも笑っていなかった。
俺は、はっきりと頷いた。
帰りの車の中で、課長はずっと窓の外の雨を見ていた。
ワイパーの動きだけが、規則正しく夜を区切っていた。
壊れた乾燥機を直さない父のように、不器用な優しさは、いつも少し遠回りして届く。
帰りの車の窓に、雨粒が長く尾を引いていた。
アパートの前で降ろされるとき、課長は短く言った。
「明日は来なくていい。来られる日に来い」
その言葉を、俺は玄関の灯りの下で、何度も反芻した。
引き出しの胃薬
俺が職場に戻ったのは、それから二週間後だった。
最初の日、ラインの前に立つ足が、わずかに震えた。
けれど、断裁機の音は、前より少し優しく聞こえた。
同僚は誰も、理由を聞かなかった。
昼休みには、隣のラインの先輩が黙って缶コーヒーをくれた。
事務の女性は、「おかえり」とだけ言って、書類を手渡してくれた。
それだけのことが、胸にじんと染みた。
ただ、俺の持ち場の椅子に、新しいクッションが置かれていた。
課長の筆跡で、「使え」と書かれた付箋が貼ってあった。
それから季節が一つ過ぎた。
秋の終わり、工場は年末の大きな案件で、連日残業が続いた。
課長は、誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残っていた。
目の下には、濃い隈ができている。
夜食に配られた弁当を、課長は半分以上残した。
誰も気づかないふりをしていたが、俺だけは気づいてしまった。
食堂で、課長が薬を飲むところを見た。
カップを持つ手が、わずかに震えていた。
遺失物の傘は木曜に減っていくという話のように、減っていくものには、気づく人間が必要なのだと思った。
ある夜、事務所の机の上に、胃薬の小瓶が出しっぱなしになっていた。
いつもは引き出しの奥にしまわれているはずのものだった。
俺は、小瓶をそっと引き出しに戻しかけて、手を止めた。
あの夜の約束が、頭をよぎったからだ。
「いつか俺が疲れ果ててたら、助けろよな」
事務所の電気は、まだ点いていた。
課長は、帳簿に突っ伏すようにして、動かなかった。
俺は、静かに声をかけた。
「課長。五分で支度してください」
課長が、ゆっくり顔を上げた。
「行きつけの店は、俺が決めます」
課長は、目を丸くした。
その顔は、シャッターが初めて半分だけ上がったようだった。
それから、肩の力が抜けたように、小さく笑った。
電気ケトルの湯が沸く音が、静かな事務所に長く響いた。
俺は、事務所の給湯室で温めた牛乳に、蜂蜜を多めに溶かして、マグカップを差し出した。
課長はそれを、両手で包んだ。
湯気の向こうで、眉間のしわが、ゆっくりほどけていった。
「痛みを知る者が、次の薬になる」
俺がそう言うと、課長は何も言わず、マグカップに口をつけた。
あの夜の豚汁の湯気が、今は俺たちの間にも、立っていた。
夜の工場の窓に、二人の影が並んで映っていた。