一身独立

二十代の終わり、私は自転車の部品をあつかう小さな卸の会社で、来る日も来る日も外回りの営業をしていました。

担当していたのは、私鉄沿線に点々と残る、昔ながらの個人店ばかりで、大きな取引にはなかなか結びつかない、地味な区域でした。

そのなかに、長い坂の途中にぽつんと建つ、間口の狭い自転車店がありました。

店の前を通ると、いつもチェーンの油と、新しいゴムタイヤの、あの独特の匂いがしました。

先代を早くに亡くし、若くして店を継いだ店主には、小学生の男の子が二人いました。

店の経営は、はじめて訪ねたときから、いつ見ても苦しそうでした。

駅前に大きな量販店ができてからというもの、新車を買う客はみなそちらへ流れ、店にはパンク修理や、チェーンの油差しといった、細々とした仕事ばかりが残っていました。

それでも店主は、油で真っ黒になった手を、首にかけたタオルで拭きながら、いつも気持ちのいい笑顔で私を迎えてくれました。

「おう、来たか。まあ座れよ。今、茶を淹れるから、ちょっと待ってな」

奥の小さなストーブの上では、いつも古びたやかんが、しゅんしゅんと湯気を立てていました。

苦しい台所事情のわりに、私の会社への支払いだけは、店主はいつもきちんきちんと、一日も遅れることなく済ませてくれました。

無理な値引きを口にすることもなく、まだ駆け出しだった私のことを、ずいぶんと可愛がってくれたものです。

思えば、初めてあの店の引き戸を開けた日のことも、よく覚えています。

飛び込みで名刺を差し出した私を、店主はじろりと見て、それからにっと笑いました。

「お、若いのに、ちゃんと自転車に乗ってきたな。車で来る営業は、どうも信用ならねえんだ」

私が会社の自転車で坂をのぼってきたことを、店主はいたく気に入ってくれたようでした。

その日から、私とこの店主の、長い付き合いが始まったのです。

「うちはな、安売りじゃ、駅前の大きな店には逆立ちしたって勝てねえ。だからせめて、一台一台、丁寧に直すんだ。それしか、うちの取り柄はねえからな」

そう言いながら、店主はスポークを一本一本、指で弾いて、その音で歪みを聞き分けていました。

その手つきには、長年の職人の、静かな自信のようなものがにじんでいました。

店の壁の高いところには、店主が若い頃に乗っていたという、年代物のロードレーサーが、いつもぴかぴかに磨かれて飾ってありました。

「これでな、昔は峠をいくつも越えたもんよ。今じゃもう、こんな細いタイヤで坂をのぼる体力はねえけどな」

「いつか、息子のどっちかが、これに乗ってくれたらなあ。そう思って、手放さずにいるんだ」

そう言って自転車を見上げるときの店主の横顔が、私はなんとも好きでした。

店に行くたび、私たちは商売の話などそっちのけで、自転車の話に夢中で花を咲かせました。

どのメーカーのフレームが軽いだの、どの選手の走り方が美しいだの、二人とも、まるで少年のようにしゃべり続けました。

「なあ、いつか二人で、この坂の上まで、店を大きくしような」

いつだってまっすぐに前を向いている、その店主のことが、私は本当に好きだったのです。

店には、対照的な二人の息子がいました。

上の子は物静かで、いつも店の隅で本を読んでいる、おとなしい子でした。

下の子は、誠といって、人懐っこくて、私が行くと必ず駆け寄ってきました。

「おじさん、また自転車のはなし、してるの。ぼくもまぜて」

誠は、店に並ぶ自転車のなかでも、いちばん速そうなロードレーサーが好きで、いつも飽きずに眺めていました。

「ぼく、おおきくなったら、じてんしゃのせんしゅになるんだ」

そう言って胸を張る誠の頭を、店主は油まみれの手で、くしゃくしゃとなでていました。

「おう、なれなれ。父ちゃんが、いちばん速いやつを組んでやるからな」

その光景を見ているだけで、私の心まで、なんだか温かくなりました。

あれは、私がまだ営業の数字が伸びず、すっかり自信をなくしていた頃のことでした。

得意先で叱られた帰りに、つい暗い顔で店に立ち寄った私を、店主はすぐに見抜きました。

「おまえ、今日はずいぶん、しょぼくれた顔してるな」

私が、自分は営業に向いていないのかもしれないと弱音をこぼすと、店主は笑って、私の自転車を勝手に引き寄せ、その場で点検を始めました。

「いいか。このチェーンもな、油を差さずに放っておけば、すぐに錆びて動かなくなる」

「だけど、ちゃんと手をかけてやりゃ、何年だって、気持ちよく回るんだ。人も、おんなじよ」

「おまえはまだ、油を差してる途中なんだ。焦るな。きっと、いい音で回るようになる」

油を差し終えた私の自転車は、帰り道、嘘のように軽くなっていました。

その夜、私は久しぶりに、前を向こうという気持ちになれたのです。

あの店主に救われたのは、本当は、誠ではなく、私のほうだったのかもしれません。

当時、私の勤めていた小さな会社は、ある実業団の自転車競技チームを、ほんのわずかながら応援していました。

そのご縁で、年に何度か、大きなロードレースの観戦パスが、数えるほどだけ、会社へ届きました。

沿道のいちばん良い場所に入れて、駆け抜ける選手たちを、手が届きそうなほど間近に見られる、特別なパスでした。

景気の良かった頃には、大事な得意先に配ることもありましたが、不況が長引くなかで、その枚数は年々減り、今ではすっかり、貴重な営業の切り札となっていました。

ある秋の日、店主が珍しく、ひどく言いにくそうに、私に切り出してきました。

「なあ、ひとつ、折り入って頼みがあるんだけどよ……」

店主が私に何かを頼むなど、それまで一度もないことでした。

「来月な、下の息子の、誠の誕生日なんだ。あいつ、自転車の選手に、本気で憧れててな」

「この店の売り上げじゃ、とても無理を言える立場じゃねえのは、自分がいちばんよくわかってる。わかってるんだけど……頼む。あのパスを、一枚だけ、譲っちゃもらえねえか」

いつも気丈で、決して人に頭を下げない店主が、私に向かって、深々と頭を下げました。

その姿を見て、私は断ることなど、できようはずもありませんでした。

会社に少し無理を言って、私はその観戦パスを、店主の手にそっと渡しました。

「悪いな。この恩は、一生忘れねえよ。誠のやつ、これを見たら、きっと飛び上がって喜ぶぞ」

受け取ったパスを、店主はまるで宝物のように、何度も眺めてから、胸ポケットの奥へ、大事にしまい込みました。

「これでやっと、あいつに、父親らしいことをひとつ、してやれる」

そうつぶやいた店主の目尻には、うっすらと光るものがありました。

レースの当日は、ちょうど誠の誕生日の翌週でした。二人で沿道に立つ姿を、店主は何度も思い描いていたことでしょう。

その嬉しそうな顔を見て、私まで誇らしい気持ちになったのを、よく覚えています。

ところが、その月のうちに、店主は突然、帰らぬ人となってしまいました。

雨の降る夜、配達の帰り道に、自転車ごと車にはねられたのだと、あとになって聞きました。

あまりにも突然のことで、私はしばらくのあいだ、何が起きたのか、まるで飲み込めませんでした。

通夜に駆けつけると、棺のなかの店主は、不思議なほど穏やかな顔をして眠っていました。

その枕元には、あの観戦パスが、そっと、寄り添うように添えられていました。

レースを、誠と一緒に見にいくのを、店主はどれほど楽しみにしていたことでしょう。

叶わぬままに終わったその約束を思うと、私は涙が、どうにも止まりませんでした。

まだ幼い兄弟は、何が起きたのかわからないという顔で、母親の傍らに、ぽつんと立っていました。

下の子の誠が、私の顔を見上げて、ぽつりと言いました。

「おじさん。とうちゃん、いっしょにレース、みにいくって、やくそくしたのに」

その小さな、震える声が、今でも私の耳の奥に、はっきりと残っています。

葬儀の片隅で、上の息子が、弟の手をしっかりと握っていました。

まだ幼いながらに、自分が弟を守らなければと、その横顔は語っているようでした。

母親は気丈に振る舞っていましたが、焼香の列が途切れた瞬間、ふいに肩を落として、声を殺していました。

私は、店主にいつもごちそうになっていた、あの熱いお茶のことを思い出していました。

もう二度と、あの店であの笑顔に迎えられることはないのだと、そこでようやく、現実が胸に迫ってきたのです。

私はかける言葉が見つからず、ただ、誠の小さな肩に手を置くことしか、できませんでした。

数か月後、坂の途中のあの店は、誰に知られることもなく、ひっそりと畳まれました。

シャッターの下りた店の前を通るたび、私は壁の高いところに飾られていた、あの古いロードレーサーを思い出しました。

あの自転車は、今どこにあるのだろう。誠は、元気にしているだろうか。

そんなことを思いながら、私はいつしか、その坂を通らない道を選ぶようになっていました。

一度だけ、勇気を出して、閉じた店を訪ねたことがあります。

シャッターには、引っ越しを知らせる、ささやかな貼り紙がしてありました。

近所の人に聞くと、母親が二人の息子を連れて、遠い親戚を頼り、町を離れたのだと教えてくれました。

「あそこの奥さん、苦労してねえ。でも、子どもたちはいい子だったよ」

その言葉だけが、わずかな救いでした。

私は、誰もいなくなった店の前で、長いあいだ、坂の上の空を見上げていました。

あの古いロードレーサーだけは、どうか息子たちが、持っていってくれていますように。

そう祈ることしか、当時の私には、できませんでした。

それから、長い長い歳月が流れました。

私は会社で地道に経験を積み、気がつけば、分不相応にも、営業の課をひとつ任される立場になっていました。

あの店主と過ごした日々のことも、忙しさのなかで、少しずつ思い出の奥へとしまわれていきました。

ある年の春、私は新卒採用の、二次面接の面接官を務めていました。

何人もの学生と向き合い、少し疲れを覚えはじめた頃でした。

何人目かの学生が、緊張した面持ちで部屋に入ってきて、背筋を伸ばし、はきはきと名乗りました。

「○○大学から参りました、誠と申します。本日は、よろしくお願いいたします」

その声を聞いた瞬間、書類をめくっていた私の手が、思わずぴたりと止まりました。

あまりにも、あの店主の声に、そっくりだったのです。

履歴書の名字を確かめ、生まれ育った町の名を確かめ、私は静かに確信しました。

あの雨の夜、父親を失った、あの自転車店の、下の子でした。

あの日、私の顔を見上げて「やくそくしたのに」とつぶやいた、あの小さな子だったのです。

胸の奥が熱くなるのを、私は懸命にこらえました。

そして努めて平静を装い、彼にひとつだけ、質問をしました。

「あなたの、将来の夢を聞かせてください」

ありふれた質問のつもりでした。けれど、私の声は、自分でも気づくほど、わずかに震えていました。

彼は一瞬きょとんとしてから、まっすぐに私を見つめ返しました。

すると彼は、面接という場では、本来言わないほうがいいような言葉を、まっすぐに、堂々と口にしました。

「いつか独立して、自分の店を持つことです。亡くなった父が、小さな自転車店をやっていました」

「父を超える店を、必ず自分の手でつくりたいんです。それが、僕の夢です」

その目は、かつて坂の上を見上げていた、あの店主の目と、寸分たがわず、同じでした。

私は、隣に座っていた人事部長のほうを向き、静かに、けれどはっきりと告げました。

「この子は、僕が預かります」

理由は何も言いませんでした。言えば、きっと涙がこぼれてしまうと思ったからです。

彼は入社後、まわりが驚くほど、めきめきと力をつけていきました。

誰よりも早く店に着き、誰よりも丁寧に、客の話に耳を傾ける。

その仕事ぶりは、どこか、油まみれの手でスポークを弾いていた、あの父親の姿と、静かに重なって見えました。

あるとき、社の懇親会の席で、誠がふと、亡くなった父親の話をしました。

「子どもの頃、父の店で、よく自転車の話をしてくれる営業のおじさんがいたんです」

「顔はもう、ぼんやりとしか覚えていないんですが……あの人のおかげで、僕は自転車を、もっと好きになれた気がします」

私は危うく、手にしていた湯のみを落としそうになりました。

そのおじさんは、今、目の前にいるのだと、喉まで出かかった言葉を、私はぐっと飲み込みました。

まだ、そのときではない。そう自分に言い聞かせ、私はただ、黙って彼の話にうなずいていました。

「父はもういませんが、僕は、父がやり残したことを、いつか自分の手で形にしたいんです」

その横顔は、いつか坂の上を見上げていた、あの店主と、本当によく似ていました。

数年後、彼は社内で、その年のいちばんの成績を上げた営業に選ばれました。

表彰式のあと、彼が少し照れくさそうに、私のところへ挨拶に来ました。

「課長に拾っていただいたおかげです。本当に、ありがとうございます」

そして彼は、少しはにかみながら、こう続けました。

「実は、父が大切にしていた古いロードレーサーが、一台だけ手元に残っているんです」

「ずっと物置で眠っていたんですが、この前、自分の手で、一から組み直してみました」

その言葉を聞いて、私は思わず、胸が詰まりました。

あの、店の壁の高いところに、いつも磨かれて飾ってあった自転車。

店主が「いつか息子が乗ってくれたら」と願っていた、あの一台。

それは確かに、息子の手で、もう一度、命を吹き込まれていたのです。

「今度、その自転車で、父が越えた峠を、走ってみようと思っているんです」

どうか、走ってきなさい。私は、心のなかでそう答えました。

私には、まだ彼に話していないことが、ひとつだけ残っています。

幼い日の彼に渡るはずだった、あのレースの観戦パスのこと。

そして、それを棺に納めるまで、彼の父親が、どれほど大切に胸ポケットにしまっていたか、ということ。

いつか彼が、本当に独立を決めたその日に、私はそのすべてを、彼に話そうと思っています。

君のお父さんは、最後の最後まで、君と一緒にレースを見にいくことを、夢に見ていたんだよ、と。

そしてその日が来たら、私はもう、彼を引き止める気はありません。

坂の上へ、自分の足で力強くのぼっていく彼の背中を、ただ静かに、見送るつもりです。

あの店主が、息子に託したかった夢の続きを、今度は私が、最後まで見届ける番なのですから。

坂の途中の、油とゴムの匂いがした、あの小さな店は、もうどこにもありません。

けれど、店主が灯した小さな火は、確かに息子へと受け継がれ、今も静かに燃え続けています。

人は、丁寧に手をかけたものを、ちゃんと次の誰かへ手渡していける。

あの日、油まみれの手で私の自転車を直してくれた店主が、身をもって教えてくれたことを、私は今も忘れずにいます。

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