山本ゆきと桜が咲くまでの話

桜

三年前の三月の終わり、私は駅の券売機の前で、財布の中身を数えていた。

千円札が二枚と、小銭が少し。

会社が倒産し、恋人にも去られ、借りた金の返済日だけが、カレンダーに赤く残っていた。

親とは、もう何年も口をきいていない。

桜のつぼみがふくらみ始めた頃、私はこの春を越せる気がしなかった。

最後にひとつだけ、やっておきたいことがあった。

田舎のばあちゃんに、会いたい。

それだけだった。

駅前の牛丼屋で、いちばん安い並盛を食べた。

湯気の向こうで、店員が「ありがとうございました」と言った。その声が、妙にあたたかかった。

その足で質屋に寄り、腕時計を預けた。父が就職祝いにくれたものだった。

「本当に、いいんですか」

「はい。もう、いりませんから」

受け取った数枚の紙幣を握りしめて、私は下り電車に乗った。

窓の外では、山の斜面にところどころ、白い桜が咲き始めていた。

山本ゆきと果物売り場

十数年ぶりの町は、駅舎の屋根の色だけが変わっていた。

ばあちゃんは、玄関の戸を開けるなり、何も聞かずに私の手を握った。

「よう帰ってきた。よう、帰ってきた」

乾いた手の甲に、涙が一粒落ちた。

その夜、ばあちゃんは黙って炊きたてのご飯と、梅干しを出してくれた。

梅干しは、子どもの頃と同じ、しわしわの味がした。

私は食べながら、少しだけ泣いた。ばあちゃんは、見ないふりをしてくれた。

翌朝から、私はばあちゃんの蜜柑山の手伝いをした。

急な斜面に、細いコンテナを担いで登る。

十分で息が上がり、ばあちゃんに笑われた。

「都会の人は、足が弱うなるけんねぇ」

「もう都会の人じゃないよ」

「そしたら、もっと登らんと」

腰を伸ばすと、眼下に町が広がっていた。

屋根の向こうに、小学校の校庭の桜が見えた。

つぼみはまだ、固く目を閉じていた。

数日後、近所のスーパーの果物売り場で、声をかけられた。

「もしかして、あんた、ヒロくん?」

振り向くと、買い物かごを提げた同い年くらいの女性が立っていた。

知らない顔だった。

「山本ゆき。覚えとらん? 小学校のとき、いつも一緒に帰りよったやん」

「……ごめん。全然」

「やっぱり。あんた、昔から顔に出るけん」

ゆきさんは声を出して笑った。

笑うと、目尻が下がって、そこだけ子どもの頃の誰かに似ていた。

「あのね、うちらは桜の木の根元に、ふたりで缶を埋めたと。二十歳になったら掘ろうって」

思い出せなかった。

けれど、その約束だけは、不思議と胸のどこかに引っかかった。

その日は久しぶりに、声を出して笑った気がする。

缶に残された約束

それから私たちは、連絡を取り合うようになった。

ゆきさんは、離婚の調停中だと話した。

私は、仕事も金もないと話した。

「ふたりとも、どん底やね」

「ほんとに」

堤防の向こうを、下校途中の小学生が、ランドセルを鳴らして走っていった。

「あの頃は、あっちの側におったんやね」

ゆきさんは、遠くを見る目で言った。

「どん底の人同士なら、気ぃ使わんでええやん」

その言葉に、肩の力が少し抜けた。

ゆきさんは、町の老人ホームの調理場で働いていた。

昼休みの三十分だけ、ホームの裏の石段で弁当を広げる。

私はその時間に合わせて、パンをひとつ持っていった。

「それだけで足りると?」

「足りんけど、金がないけん」

「ほら、半分あげる」

彼女の弁当の卵焼きは、少し甘かった。

ばあちゃんの家で食べた味に、どこか似ていた。

夕方の堤防を歩きながら、私たちは他愛のない話をした。

「離婚の話、聞いてくれる?」

「うん」

「相手は悪い人やなかったと。ただ、私が先に、笑えんようになってしもうた」

「……そう」

「だから、あんたの前では、よう笑うとよ。笑えるうちに、笑っときたいけん」

そのとき私は、彼女の言葉を、冗談だと思っていた。

ゆきさんは、給料日前になると、スーパーの見切り品の卵を二パック買うのだそうだ。

「あんたも、明日の分の元気は、安いときに買っときんさい」

そんな冗談を言って、私の背中を軽くたたいた。

その一言で、私は思った。

もう少しだけ、生きてみよう、と。

私はばあちゃんの家を出る決心をした。

夜間の学校は、夕方六時に始まった。

昼は現場で鉄筋を運び、夜は教室で、眠い目をこすって板書を写した。

帰りの自販機で温かい缶コーヒーを買うたびに、思い出した。

『明日の分の元気は、安いときに買っときんさい』

百二十円の缶が、少しだけ、安く感じられる夜があった。

日雇いの現場やアルバイトで働きながら、夜間の学校の入学試験に挑んだ。

合格通知が届いた日、真っ先に報せたのは、ゆきさんだった。

「よかったやん。ほんとによかった」

電話の向こうで、彼女は泣いていた。

その涙の理由を、私はその時、ちゃんとは聞かなかった。

入学式の朝、ばあちゃんの家のポストに、小さな包みが入っていた。

中身は、手作りのおにぎりが二つと、メモが一枚。

『腹が減ったら、頑張れんよ。山本ゆき』

慣れない教室の一番後ろで、私はそのおにぎりをゆっくり食べた。

塩が、少しだけ多かった。

出発の前夜、ばあちゃんは縁側で蜜柑の皮をむいていた。

「ゆきちゃんには、ちゃんとお礼を言うたんかね」

「うん。落ち着いたら、もう一度ちゃんと言う」

「そうかい」

ばあちゃんは蜜柑を半分に割って、私の手にのせた。

「縁があるもんは、離れても切れんもんよ」

蜜柑は、ひどく酸っぱかった。

その酸っぱさを、私は桜の季節になるたび、思い出す。

桜が咲く前に届いた知らせ

二年後の春、私はこの町に戻った。

山本ゆきさんにまっすぐ会いに行き、伝えたいことがあると告げた。

堤防の桜は、まだ固いつぼみだった。

川風が冷たくて、ゆきさんはマフラーに顎を埋めていた。

何度も練習した言葉は、喉の奥で、ばらばらになっていた。

「あなたと、一緒に生きていきたい」

そう言うと、ゆきさんは長いあいだ、足もとを見ていた。

それから顔を上げて、やさしく笑った。

「ごめんね。今の私は、まだ誰かの隣に立てる人やないとよ」

断られたのに、不思議と悲しくはなかった。

その返事が、彼女なりの誠実さだと分かったからだ。

それからも、私たちは友達として連絡を取り合った。

やがて、ある日を境に、返事が来なくなった。

去年の春、半年ぶりに短いメッセージが届いた。

『桜、見に来ん? 咲いたら、缶を掘ろうや』

私はその日、現場の仕事が長引いた。

『ごめん、来週なら行ける』

そう返した頃には、桜はもう散っていた。

ゆきさんから、返事はなかった。

そして今年の三月、ばあちゃんからの電話で、私は知った。

ゆきさんが、長く病を抱えていたこと。

去年の桜の頃に、もう遠くへ旅立っていたこと。

受話器を持つ手が、冷たくなった。

数日後、ゆきさんのお母さんに、お悔やみの電話をかけた。

「去年の春はね、あの子、毎日のように桜を見に行きよったとよ」

「そうですか」

「誰か待っとるみたいにね」

私はただ、受話器を握りしめていた。

「缶のことは、あの子から聞いとるよ。あんたが来たら、掘ってええて言うとった」

桜の根元の缶

四月の初め、私は母校の校庭に立っていた。

桜は満開だった。

風が吹くたびに、花びらが肩に降りてきた。

根元の土は、誰かが掘り返したあとのように、やわらかかった。

手のひらで土をかき分けていくと、錆びた缶の蓋に、指が触れた。

缶の中には、ビー玉と、折れたクレヨンと、色褪せた集合写真が入っていた。

写真の中の、鼻の頭をすりむいた男の子の隣で、おかっぱの女の子が笑っていた。

その瞬間、記憶の底から、小さな声が浮かんできた。

『二十歳になっても、ぜんぶ忘れとってええよ。掘るときに、思い出せばいいんやけん』

あの日、鼻をすりむいた私に、そう言って笑った女の子がいた。

私は忘れていたのではなく、掘り返す日を、待っていたのかもしれない。

缶の底に、去年の春の日付がついた、もう一枚の紙が入っていた。

折りたたまれた便箋に、見覚えのある丸い字が並んでいた。

『ヒロくんへ。

去年は来られんかったね。いいよ、仕事やもんね。

あなたに会えて、私は、もう一回頑張ろうと思えました。

離婚のことも、体のことも、ぜんぶ隠してごめん。

隣に立てる人になるまで、待っててほしかったけど、間に合わんかったみたい。

だから、次はあなたの番。

どこかで誰かが、どん底にいたら、卵の安売りの話を、してあげてね。』

読み終えて、私は桜の幹に額をつけた。

ざらざらした樹皮が、冷たかった。

会えなかった一年と、会えたはずの一日が、胸の中でひとつになった。

「ありがとう」

声に出すと、花びらがひとひら、便箋の上に落ちた。

その夜、ばあちゃんの家の台所で、私は卵を二パック、冷蔵庫に並べた。

明日の分の元気は、安いときに買っておく。

ゆきさんが教えてくれたとおりに。

ほかに、祖父の予約表に消えない名前がある、名もない星とわたしに空をくれた人もあわせてどうぞ。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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