大事な話がある、と呼ばれた夏
高校一年の夏休み、居間に呼ばれました。
父と母が並んで座っていて、机の上に麦茶が三つ置いてありました。
三つ目のコップに氷が入っていない時点で、私は何かを察していたと思います。
父は前置きを言わない人でした。
「肺に、悪いもんがある」
それだけ言って、麦茶を飲みました。
余命という言葉は使いませんでしたが、母の顔を見ればわかりました。
私は青森の八戸で育ちました。
父は市場の買受人で、主にイカを扱っていました。
夜中の二時に家を出て、昼前に帰ってくる。
玄関にはいつも、生乾きの長靴が二足並んでいました。
※
一度だけ連れて行かれた市場
中学二年の冬に、一度だけ市場へ連れて行かれたことがあります。
午前三時に起こされました。
外はまだ真っ暗で、雪がうっすら積もっていました。
車の中で、父は一言も喋りませんでした。
市場に入ると、蛍光灯が白く、床がびしょ濡れで、人の声が反響していました。
寒いのに、みんな薄着で動いています。
父は箱の前にしゃがんで、素手を突っ込みました。
その手が真っ赤になるのを、私は横で見ていました。
「手袋しないの」
「したら、わがんね」
父はそれだけ言って、次の箱へ移りました。
あの日、父が競り落としたのは十二箱でした。
帰りの車で、父は初めて口を開きました。
「今日のは、いい」
私はうなずきましたが、何がいいのか、まるでわかりませんでした。
三十年近く経った今も、わかっていません。
※
うちには借金がありました
家は商売をしていましたが、楽ではありませんでした。
私が小学校に上がる頃、父は一度、大きな仕込みで失敗しています。
その借金が、まだ残っていました。
父が働けなくなれば、高校に通い続けることも難しいと、子どもの私にもわかりました。
実際、その夏休みの終わりに、私は担任へ相談の電話をかけようとしています。
受話器を持ったところで、母に止められました。
「お父さんに恥かかせるな」
母がそういう言い方をしたのは、後にも先にもその一度だけです。
※
抗がん剤の日でも市場に立った
父は治療を始めました。
入院と退院を繰り返しながら、市場には出続けました。
点滴の翌日は、味がわからないと言っていました。
それでもイカの良し悪しはわかると言うのです。
「口じゃなくて、指で見るもんだ」
実際、父は箱に手を入れて、二秒ほどで頭を上げていました。
冷たさの伝わり方で、締まり具合を見ているのだそうです。
髪が抜けてからは、手ぬぐいを被って立っていました。
市場の人は誰も、そのことに触れませんでした。
触れないことが、あの場所の礼儀なのだと思います。
父は私に、何度も同じことを言いました。
「高校、大学は何とかしてやるから、しっかり勉強しろ」
何とかする、の中身は、一度も説明されませんでした。
※
私は勉強できませんでした
正直に書きますが、私はその一年半、ほとんど勉強していません。
やる意味がわからなかったのです。
父がいなくなれば学校を辞める。
辞めるなら、今やっている数学に何の意味があるのか。
そう考えて、机に向かっても十分ともちませんでした。
担任には「家庭の事情は聞いている」と言われましたが、その言い方が嫌でした。
聞いているのなら、なぜ課題を出すのか、と思っていました。
今思えば、ただの八つ当たりです。
その頃の私は、父の病気を、自分が努力しなくていい理由に使っていました。
※
母は父が入院してから、パートを二つ掛け持ちしました。
朝は病院の給食室、夕方はスーパーの惣菜です。
それでも、私の弁当は毎日作られていました。
おかずはたいてい、前の晩の残りです。
ただ、イカだけは必ず一切れ入っていました。
父が持ち帰った、売り物にならない端です。
「うちは魚屋の子だから」
母はそう言って笑っていました。
私は高校の教室で、その一切れが少し恥ずかしかった。
まわりの弁当には、冷凍食品のきれいな唐揚げが入っていましたから。
今でも、その恥ずかしさを思い出すと耳が熱くなります。
※
父の帳面
父は毎日、市場から帰ると茶の間で帳面をつけました。
大学ノートを縦にして、日付と船と箱数と値を書いていきます。
父の字は角ばっていて、数字だけが妙にきれいでした。
ある晩、麦茶を持っていったときに、私は気づきました。
父の帳面は、一の位だけが鉛筆でした。
十の位から上はボールペンなのに、いちばん右の一文字だけ、薄い鉛筆で書いてある。
訊いてみました。
「なんで一の位だけ鉛筆なの」
父はしばらく黙って、それから言いました。
「あとで変わるからだ」
値は毎日変わるものだと思っていたので、私はそれで納得しました。
納得したふりをした、という言い方のほうが正しいかもしれません。
※
母の弁当のイカのことを、私は一度だけ父に言ったことがあります。
高校二年の春でした。
「イカ、毎日はいらない」
言った瞬間に後悔しました。
父は箸を止めて、少し笑いました。
「そうか」
次の日から、弁当のイカは半分になりました。
なくならなかったのです。
半分だけ、残っていました。
母に訊くと、父が「半分は入れとけ」と言ったそうです。
「あれは、うちの子だってわかるようにだべ」
母はそう解釈していました。
私は今、別の解釈をしています。
父はあのとき、自分の仕事を息子に恥じられたのだと思います。
それでも、全部は引っ込めなかった。
半分残したところに、あの人の意地がありました。
※
高二の冬の問い
高校二年の冬、父が退院した日の夜でした。
石油ストーブの前で、父が急に言いました。
「将来、何かやりたいことはないのか」
私は答えられませんでした。
やりたいことを言えば、金の話になる。
金の話になれば、父を苦しめる。
そう思って黙っていました。
父は急かしませんでした。
ストーブの上のやかんが鳴るまで、たぶん五分近く黙っていたと思います。
それで、私は口にしました。
「医者」
言ってしまってから、しまったと思いました。
いちばん金のかかる答えを言ってしまった。
父は、ふうん、とだけ言いました。
それから、火のほうを見たまま続けました。
「そんなら、治らんでもええな」
私はその意味がわかりませんでした。
治らなくていいわけがありません。
父は言い直しませんでした。
※
最後の夏、父は勉強しろと言わなかった
高校三年の七月、父は最後の入院をしました。
もう市場には立てませんでした。
私は毎日、学校帰りに病室へ寄りました。
不思議なことに、その頃から父は勉強の話をしなくなりました。
かわりに、こう言うのです。
「飯食え」
面会に行くたび、それだけです。
病院の売店で買ったパンを、私に押しつけてきました。
自分は食べられないのに、私に食べさせるのです。
最後の週、父は声が出しにくくなっていました。
それでも、私が病室に入ると、口の形だけで同じことを言いました。
飯、食え。
八月の頭に、父は逝きました。
受験の夏の、いちばん大事な時期でした。
私はその夏、初めて本気で勉強しました。
理由は簡単で、家にいると母が泣くからです。
逃げ場が図書館しかありませんでした。
あとから思えば、父はそのことも計算していたのかもしれません。
※
父の名で呼ばれなくなっていた
父は高校三年の夏に逝きました。
葬式には、市場の人が大勢来ました。
その中に、浜口さんという方がいました。
父と同い年で、同じイカを扱っている人です。
浜口さんは焼香のあと、私の肩に手を置いて言いました。
「おめの父さんの鑑札、預かってらんだ」
意味がわからず、私は聞き返しました。
浜口さんの話はこうでした。
父は高校二年の秋、つまりストーブの前の問いの三ヶ月前に、買受人の鑑札を浜口さんに譲っていた。
市場に立つ資格そのものを、先に手放していたのです。
その金が、私の学費になりました。
では、最後の一年、父は何をしていたのか。
浜口さんの下で、浜口さんの札で、荷を見ていたのです。
最後の一年、父が市場で呼ばれていたのは、父の名ではありませんでした。
※
市場での父のあだ名
父には、市場で通っていたあだ名がありました。
「二秒」です。
箱に手を入れて二秒で決めるから、と浜口さんが教えてくれました。
本人は嫌がっていたそうです。
「早いのが偉いんでねえ」と言い返していたと。
ただ、一度だけ、二秒で決めなかった日があるそうです。
三十分近く、同じ箱の前にしゃがんでいた。
その日が、鑑札を譲る話をした翌朝でした。
浜口さんは、そのときの背中をよく覚えていると言いました。
「あれは、イカ見でだんでねえ」
何を見ていたのかは、誰にもわかりません。
私は勝手に、指の感覚を確かめていたのだと思っています。
自分の札でなくなった手で、まだ見えるかどうかを。
※
一の位の意味
四十九日のあと、母が父の帳面を全部出してきました。
段ボール一箱ぶんありました。
最後の一冊を開くと、やはり一の位だけが鉛筆です。
その頁の余白に、小さく「浜」と書いてありました。
母に訊くと、母も詳しくは知らないと言います。
私は浜口さんの店へ行きました。
浜口さんは、帳面を見て、すぐに笑いました。
「ああ、これ、おらに返す端数だ」
鑑札は売ったのではなく、預けた形にしてあったのだそうです。
父は毎月、売り上げの端数だけを浜口さんに返していました。
一の位は、買い戻すための数でした。
百円にも満たない額です。
それでも一年、一日も欠かさず返していました。
「息子が卒業したら、買い戻すつもりだったんだべ」
最後の一冊の、いちばん最後の行だけ、一の位が空欄でした。
そこで手が止まったのだと思います。
父が渡した十二年分の通帳という話を読んだとき、私はこの空欄のことを思い出しました。父親という人たちは、なぜ数字でしか気持ちを残さないのでしょうか。
※
浜口さんの側の事情
去年、浜口さんからもう一つ聞いた話があります。
鑑札を預かる形にしたのは、父の希望ではなかったそうです。
父は売り切るつもりで話を持っていった。
それを、浜口さんが押し返したのだと言います。
「売ったら終わりだべ。預かりなら、返せる」
浜口さんは、そう言ったそうです。
理由も聞きました。
浜口さんの父親も、若い頃に一度、鑑札を手放しかけている。
そのときに預かってくれたのが、父の父、つまり私の祖父でした。
「三代がかりだ」
浜口さんは笑って、湯呑みを持ち上げました。
私の家の借金も、そのときの祖父の無理から始まっていたのかもしれません。
確かめる相手は、もういません。
※
あの問いは条件ではなかった
私はそこで、ようやく気づきました。
父が「やりたいことはないのか」と訊いたのは、鑑札を手放した三ヶ月あとです。
つまり、私が何と答えても、金はもう用意されていた。
あの問いは、条件ではなかったのです。
医者と言ったから学費を出す、という話ではなかった。
ただ、純粋に、息子のやりたいことを聞きたかっただけでした。
私はあの夜、金の話になるのが怖くて黙っていました。
五分間、父を待たせました。
父はもう資格を持っていない身で、火の前に座って、五分間、息子の答えを待っていたのです。
「そんなら、治らんでもええな」
あの一言の意味も、今ならわかります。
治療を続けていた理由が、そこで一つ片づいたのだと思います。
※
合格を知らせに行った日
合格が決まった日、私は真っ先に浜口さんの店へ行きました。
母より先です。
母には悪いことをしたと、今も思っています。
浜口さんは発泡の箱を運んでいる途中で、私の顔を見て手を止めました。
「受かったか」
「はい」
浜口さんは箱を置いて、長靴のまま、外の水道で手を洗いました。
それから戻ってきて、私の頭を一度だけ叩きました。
強く叩かれました。
痛かったのを覚えています。
浜口さんは何も言いませんでした。
言わなかったのは、たぶん、言えば泣くからです。
市場の人は、そういうふうにできています。
※
母に言ったことになっている言葉
母から聞かされた言葉があります。
「あいつは将来、俺の病気を治してくれるんだ」
父がそう言っていた、と母は何度も私に伝えました。
大学に入ってからも、国家試験の前にも、同じ話をされました。
ところが、去年、浜口さんの店で世間話をしていて、こんなことを言われたのです。
「おめの父さん、おらに自慢してだった。うちの息子は俺の病気を治すんだ、って」
母にではなく、浜口さんに言っていたのです。
母に確かめました。
母は台所を向いたまま答えました。
「浜口さんから聞いた話だよ」
では、なぜ父が自分に言ったことにしたのか。
「他人に言いふらしてたって知ったら、あんた、重たいべ」
母は母で、二十年以上、一人でその重さを預かっていたのです。
親父からのタスキという言葉がありますが、うちの場合、タスキは母の手を一度通っていました。
※
帳面をもう一度めくって
去年の暮れ、私は久しぶりに帳面を全部めくりました。
段ボールの中の、二十冊近くあるうちの古いほうからです。
すると、鉛筆の一の位が始まっているのは、私が高校二年の秋からでした。
それ以前の帳面は、全部ボールペンです。
つまり、あの薄い数字は、鑑札を預けた日から始まっていた。
「あとで変わるからだ」という父の答えは、嘘ではありませんでした。
返し終われば、その数字は消える予定だったのです。
消しゴムをかける日を、父は待っていました。
一冊目の最初の頁の隅に、小さく丸が一つ描いてあります。
何の印かはわかりません。
私はそれを、始めた日の印だと思うことにしています。
※
今、私は診察室にいます
私は国立大学の医学部を出て、今は腫瘍内科の医師をしています。
がんの薬物療法を専門にしています。
父の病気を治せる力は、まだありません。
治せない患者さんのほうが、今も多いのが実際です。
診察室の机の引き出しに、父の最後の帳面を一冊だけ入れています。
浜口さんが十数年前、店をたたむときに持ってきてくれました。
「これ、返しそびれてらった」
そう言って、紙袋のまま置いていきました。
鑑札は、結局、誰も買い戻していません。
買い戻す相手が、もういないからです。
※
診察室の窓からは、駐車場が見えます。
朝いちばんに来る患者さんの車の停め方を、私はいつのまにか覚えました。
父も、市場の駐車場でそういうことを覚えていたのだと思います。
※
五分間、待てる医者に
私は外来で、患者さんに黙られることがあります。
治療をどうするか、選んでくださいと言ったあとの沈黙です。
研修医の頃、私はその沈黙が苦手でした。
気まずくて、つい選択肢を並べ直してしまうのです。
今は、待つようにしています。
やかんが鳴るまでの五分を、父は待ってくれました。
あれは、答えを急がせないという技術だったのだと思います。
指で見る、と父は言っていました。
口ではなく、指で。
私はまだ、口に頼りすぎている気がします。
父が三十年彫り続けたもののように、黙って続けられた仕事の意味は、たいてい後から届きます。私の場合、届くのに二十年かかりました。
帳面の最後の空欄は、そのままにしてあります。
いつか埋められる日が来るのかどうか、わかりません。
それでも、毎朝、引き出しを開けてから白衣を着ることにしています。