一の位だけ鉛筆の父の帳面

大事な話がある、と呼ばれた夏

高校一年の夏休み、居間に呼ばれました。

父と母が並んで座っていて、机の上に麦茶が三つ置いてありました。

三つ目のコップに氷が入っていない時点で、私は何かを察していたと思います。

父は前置きを言わない人でした。

「肺に、悪いもんがある」

それだけ言って、麦茶を飲みました。

余命という言葉は使いませんでしたが、母の顔を見ればわかりました。

私は青森の八戸で育ちました。

父は市場の買受人で、主にイカを扱っていました。

夜中の二時に家を出て、昼前に帰ってくる。

玄関にはいつも、生乾きの長靴が二足並んでいました。

一度だけ連れて行かれた市場

中学二年の冬に、一度だけ市場へ連れて行かれたことがあります。

午前三時に起こされました。

外はまだ真っ暗で、雪がうっすら積もっていました。

車の中で、父は一言も喋りませんでした。

市場に入ると、蛍光灯が白く、床がびしょ濡れで、人の声が反響していました。

寒いのに、みんな薄着で動いています。

父は箱の前にしゃがんで、素手を突っ込みました。

その手が真っ赤になるのを、私は横で見ていました。

「手袋しないの」

「したら、わがんね」

父はそれだけ言って、次の箱へ移りました。

あの日、父が競り落としたのは十二箱でした。

帰りの車で、父は初めて口を開きました。

「今日のは、いい」

私はうなずきましたが、何がいいのか、まるでわかりませんでした。

三十年近く経った今も、わかっていません。

うちには借金がありました

家は商売をしていましたが、楽ではありませんでした。

私が小学校に上がる頃、父は一度、大きな仕込みで失敗しています。

その借金が、まだ残っていました。

父が働けなくなれば、高校に通い続けることも難しいと、子どもの私にもわかりました。

実際、その夏休みの終わりに、私は担任へ相談の電話をかけようとしています。

受話器を持ったところで、母に止められました。

「お父さんに恥かかせるな」

母がそういう言い方をしたのは、後にも先にもその一度だけです。

抗がん剤の日でも市場に立った

父は治療を始めました。

入院と退院を繰り返しながら、市場には出続けました。

点滴の翌日は、味がわからないと言っていました。

それでもイカの良し悪しはわかると言うのです。

「口じゃなくて、指で見るもんだ」

実際、父は箱に手を入れて、二秒ほどで頭を上げていました。

冷たさの伝わり方で、締まり具合を見ているのだそうです。

髪が抜けてからは、手ぬぐいを被って立っていました。

市場の人は誰も、そのことに触れませんでした。

触れないことが、あの場所の礼儀なのだと思います。

父は私に、何度も同じことを言いました。

「高校、大学は何とかしてやるから、しっかり勉強しろ」

何とかする、の中身は、一度も説明されませんでした。

私は勉強できませんでした

正直に書きますが、私はその一年半、ほとんど勉強していません。

やる意味がわからなかったのです。

父がいなくなれば学校を辞める。

辞めるなら、今やっている数学に何の意味があるのか。

そう考えて、机に向かっても十分ともちませんでした。

担任には「家庭の事情は聞いている」と言われましたが、その言い方が嫌でした。

聞いているのなら、なぜ課題を出すのか、と思っていました。

今思えば、ただの八つ当たりです。

その頃の私は、父の病気を、自分が努力しなくていい理由に使っていました。

母は父が入院してから、パートを二つ掛け持ちしました。

朝は病院の給食室、夕方はスーパーの惣菜です。

それでも、私の弁当は毎日作られていました。

おかずはたいてい、前の晩の残りです。

ただ、イカだけは必ず一切れ入っていました。

父が持ち帰った、売り物にならない端です。

「うちは魚屋の子だから」

母はそう言って笑っていました。

私は高校の教室で、その一切れが少し恥ずかしかった。

まわりの弁当には、冷凍食品のきれいな唐揚げが入っていましたから。

今でも、その恥ずかしさを思い出すと耳が熱くなります。

父の帳面

父は毎日、市場から帰ると茶の間で帳面をつけました。

大学ノートを縦にして、日付と船と箱数と値を書いていきます。

父の字は角ばっていて、数字だけが妙にきれいでした。

ある晩、麦茶を持っていったときに、私は気づきました。

父の帳面は、一の位だけが鉛筆でした。

十の位から上はボールペンなのに、いちばん右の一文字だけ、薄い鉛筆で書いてある。

訊いてみました。

「なんで一の位だけ鉛筆なの」

父はしばらく黙って、それから言いました。

「あとで変わるからだ」

値は毎日変わるものだと思っていたので、私はそれで納得しました。

納得したふりをした、という言い方のほうが正しいかもしれません。

母の弁当のイカのことを、私は一度だけ父に言ったことがあります。

高校二年の春でした。

「イカ、毎日はいらない」

言った瞬間に後悔しました。

父は箸を止めて、少し笑いました。

「そうか」

次の日から、弁当のイカは半分になりました。

なくならなかったのです。

半分だけ、残っていました。

母に訊くと、父が「半分は入れとけ」と言ったそうです。

「あれは、うちの子だってわかるようにだべ」

母はそう解釈していました。

私は今、別の解釈をしています。

父はあのとき、自分の仕事を息子に恥じられたのだと思います。

それでも、全部は引っ込めなかった。

半分残したところに、あの人の意地がありました。

高二の冬の問い

高校二年の冬、父が退院した日の夜でした。

石油ストーブの前で、父が急に言いました。

「将来、何かやりたいことはないのか」

私は答えられませんでした。

やりたいことを言えば、金の話になる。

金の話になれば、父を苦しめる。

そう思って黙っていました。

父は急かしませんでした。

ストーブの上のやかんが鳴るまで、たぶん五分近く黙っていたと思います。

それで、私は口にしました。

「医者」

言ってしまってから、しまったと思いました。

いちばん金のかかる答えを言ってしまった。

父は、ふうん、とだけ言いました。

それから、火のほうを見たまま続けました。

「そんなら、治らんでもええな」

私はその意味がわかりませんでした。

治らなくていいわけがありません。

父は言い直しませんでした。

最後の夏、父は勉強しろと言わなかった

高校三年の七月、父は最後の入院をしました。

もう市場には立てませんでした。

私は毎日、学校帰りに病室へ寄りました。

不思議なことに、その頃から父は勉強の話をしなくなりました。

かわりに、こう言うのです。

「飯食え」

面会に行くたび、それだけです。

病院の売店で買ったパンを、私に押しつけてきました。

自分は食べられないのに、私に食べさせるのです。

最後の週、父は声が出しにくくなっていました。

それでも、私が病室に入ると、口の形だけで同じことを言いました。

飯、食え。

八月の頭に、父は逝きました。

受験の夏の、いちばん大事な時期でした。

私はその夏、初めて本気で勉強しました。

理由は簡単で、家にいると母が泣くからです。

逃げ場が図書館しかありませんでした。

あとから思えば、父はそのことも計算していたのかもしれません。

父の名で呼ばれなくなっていた

父は高校三年の夏に逝きました。

葬式には、市場の人が大勢来ました。

その中に、浜口さんという方がいました。

父と同い年で、同じイカを扱っている人です。

浜口さんは焼香のあと、私の肩に手を置いて言いました。

「おめの父さんの鑑札、預かってらんだ」

意味がわからず、私は聞き返しました。

浜口さんの話はこうでした。

父は高校二年の秋、つまりストーブの前の問いの三ヶ月前に、買受人の鑑札を浜口さんに譲っていた。

市場に立つ資格そのものを、先に手放していたのです。

その金が、私の学費になりました。

では、最後の一年、父は何をしていたのか。

浜口さんの下で、浜口さんの札で、荷を見ていたのです。

最後の一年、父が市場で呼ばれていたのは、父の名ではありませんでした。

市場での父のあだ名

父には、市場で通っていたあだ名がありました。

「二秒」です。

箱に手を入れて二秒で決めるから、と浜口さんが教えてくれました。

本人は嫌がっていたそうです。

「早いのが偉いんでねえ」と言い返していたと。

ただ、一度だけ、二秒で決めなかった日があるそうです。

三十分近く、同じ箱の前にしゃがんでいた。

その日が、鑑札を譲る話をした翌朝でした。

浜口さんは、そのときの背中をよく覚えていると言いました。

「あれは、イカ見でだんでねえ」

何を見ていたのかは、誰にもわかりません。

私は勝手に、指の感覚を確かめていたのだと思っています。

自分の札でなくなった手で、まだ見えるかどうかを。

一の位の意味

四十九日のあと、母が父の帳面を全部出してきました。

段ボール一箱ぶんありました。

最後の一冊を開くと、やはり一の位だけが鉛筆です。

その頁の余白に、小さく「浜」と書いてありました。

母に訊くと、母も詳しくは知らないと言います。

私は浜口さんの店へ行きました。

浜口さんは、帳面を見て、すぐに笑いました。

「ああ、これ、おらに返す端数だ」

鑑札は売ったのではなく、預けた形にしてあったのだそうです。

父は毎月、売り上げの端数だけを浜口さんに返していました。

一の位は、買い戻すための数でした。

百円にも満たない額です。

それでも一年、一日も欠かさず返していました。

「息子が卒業したら、買い戻すつもりだったんだべ」

最後の一冊の、いちばん最後の行だけ、一の位が空欄でした。

そこで手が止まったのだと思います。

父が渡した十二年分の通帳という話を読んだとき、私はこの空欄のことを思い出しました。父親という人たちは、なぜ数字でしか気持ちを残さないのでしょうか。

浜口さんの側の事情

去年、浜口さんからもう一つ聞いた話があります。

鑑札を預かる形にしたのは、父の希望ではなかったそうです。

父は売り切るつもりで話を持っていった。

それを、浜口さんが押し返したのだと言います。

「売ったら終わりだべ。預かりなら、返せる」

浜口さんは、そう言ったそうです。

理由も聞きました。

浜口さんの父親も、若い頃に一度、鑑札を手放しかけている。

そのときに預かってくれたのが、父の父、つまり私の祖父でした。

「三代がかりだ」

浜口さんは笑って、湯呑みを持ち上げました。

私の家の借金も、そのときの祖父の無理から始まっていたのかもしれません。

確かめる相手は、もういません。

あの問いは条件ではなかった

私はそこで、ようやく気づきました。

父が「やりたいことはないのか」と訊いたのは、鑑札を手放した三ヶ月あとです。

つまり、私が何と答えても、金はもう用意されていた。

あの問いは、条件ではなかったのです。

医者と言ったから学費を出す、という話ではなかった。

ただ、純粋に、息子のやりたいことを聞きたかっただけでした。

私はあの夜、金の話になるのが怖くて黙っていました。

五分間、父を待たせました。

父はもう資格を持っていない身で、火の前に座って、五分間、息子の答えを待っていたのです。

「そんなら、治らんでもええな」

あの一言の意味も、今ならわかります。

治療を続けていた理由が、そこで一つ片づいたのだと思います。

合格を知らせに行った日

合格が決まった日、私は真っ先に浜口さんの店へ行きました。

母より先です。

母には悪いことをしたと、今も思っています。

浜口さんは発泡の箱を運んでいる途中で、私の顔を見て手を止めました。

「受かったか」

「はい」

浜口さんは箱を置いて、長靴のまま、外の水道で手を洗いました。

それから戻ってきて、私の頭を一度だけ叩きました。

強く叩かれました。

痛かったのを覚えています。

浜口さんは何も言いませんでした。

言わなかったのは、たぶん、言えば泣くからです。

市場の人は、そういうふうにできています。

母に言ったことになっている言葉

母から聞かされた言葉があります。

「あいつは将来、俺の病気を治してくれるんだ」

父がそう言っていた、と母は何度も私に伝えました。

大学に入ってからも、国家試験の前にも、同じ話をされました。

ところが、去年、浜口さんの店で世間話をしていて、こんなことを言われたのです。

「おめの父さん、おらに自慢してだった。うちの息子は俺の病気を治すんだ、って」

母にではなく、浜口さんに言っていたのです。

母に確かめました。

母は台所を向いたまま答えました。

「浜口さんから聞いた話だよ」

では、なぜ父が自分に言ったことにしたのか。

「他人に言いふらしてたって知ったら、あんた、重たいべ」

母は母で、二十年以上、一人でその重さを預かっていたのです。

親父からのタスキという言葉がありますが、うちの場合、タスキは母の手を一度通っていました。

帳面をもう一度めくって

去年の暮れ、私は久しぶりに帳面を全部めくりました。

段ボールの中の、二十冊近くあるうちの古いほうからです。

すると、鉛筆の一の位が始まっているのは、私が高校二年の秋からでした。

それ以前の帳面は、全部ボールペンです。

つまり、あの薄い数字は、鑑札を預けた日から始まっていた。

「あとで変わるからだ」という父の答えは、嘘ではありませんでした。

返し終われば、その数字は消える予定だったのです。

消しゴムをかける日を、父は待っていました。

一冊目の最初の頁の隅に、小さく丸が一つ描いてあります。

何の印かはわかりません。

私はそれを、始めた日の印だと思うことにしています。

今、私は診察室にいます

私は国立大学の医学部を出て、今は腫瘍内科の医師をしています。

がんの薬物療法を専門にしています。

父の病気を治せる力は、まだありません。

治せない患者さんのほうが、今も多いのが実際です。

診察室の机の引き出しに、父の最後の帳面を一冊だけ入れています。

浜口さんが十数年前、店をたたむときに持ってきてくれました。

「これ、返しそびれてらった」

そう言って、紙袋のまま置いていきました。

鑑札は、結局、誰も買い戻していません。

買い戻す相手が、もういないからです。

診察室の窓からは、駐車場が見えます。

朝いちばんに来る患者さんの車の停め方を、私はいつのまにか覚えました。

父も、市場の駐車場でそういうことを覚えていたのだと思います。

五分間、待てる医者に

私は外来で、患者さんに黙られることがあります。

治療をどうするか、選んでくださいと言ったあとの沈黙です。

研修医の頃、私はその沈黙が苦手でした。

気まずくて、つい選択肢を並べ直してしまうのです。

今は、待つようにしています。

やかんが鳴るまでの五分を、父は待ってくれました。

あれは、答えを急がせないという技術だったのだと思います。

指で見る、と父は言っていました。

口ではなく、指で。

私はまだ、口に頼りすぎている気がします。

父が三十年彫り続けたもののように、黙って続けられた仕事の意味は、たいてい後から届きます。私の場合、届くのに二十年かかりました。

帳面の最後の空欄は、そのままにしてあります。

いつか埋められる日が来るのかどうか、わかりません。

それでも、毎朝、引き出しを開けてから白衣を着ることにしています。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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