七人が着た制服の白い縫い目

教室

十月の最初の土曜日、体育館の隅に、中古の制服が百着ほど並ぶ。

卒業生が置いていった学ランとブレザーが、サイズ別のハンガーラックに、きちんと列を作って掛けられている。

私はこの中学校で、事務の仕事を二十年近く続けている。

毎年、その中に、一着だけ気になる上着がある。

背中に白い縫い目を残した、古い学ランだ。

今年も、それが誰かの手に渡る日が来るのだろうかと、私は受付の机を拭きながら考えていた。

制服バンクと呼ばれるこの催しの受付が、毎年の私の持ち場だ。

今年、開始から十分もしないうちに、見覚えのある作業着姿の男性が、紙袋を提げて受付の前に立った。

紙袋の持ち手は、何度も握り直されたように、くたびれていた。

体育館の隅の制服

「すみません。引き取りじゃなくて、返しに来たんです」

男性はそう言って、少し照れたように帽子を取った。

四十三歳ぐらいだろうか。

日に焼けた首筋に、新聞販売所の名前が入ったジャンパーの襟が見えた。

「返す、というのは」

「ここの中学で、昔、制服を頂いたんです。もう三十年近くになりますけど」

私は、手を止めた。

紙袋から出てきたのは、黒の学ランの上着だった。

肘の部分が薄く光り、袖口は何度もかがり直されて、色の違う糸が重なっている。

しかし生地は、驚くほどきれいに折りたたまれていた。

アイロンの跡が、肩の線に沿って、まっすぐ残っている。

袖口の裏地には、洗剤の香りがかすかに残っていた。

誰かが、この上着を、大事な客人のように扱ってきたのだと分かる。

私は、なぜか、背筋を伸ばしてしまった。

「たくさんの人が着たので、くたびれてますけど。洗って、返したかったんです」

彼は、背中側を上にして、上着を受付の机に置いた。

背中の真ん中、肩甲骨のあたりに、斜めに走る縫い目がある。

黒い布のうえで、その縫い目だけが、どこか不自然に白かった。

白い縫い目を見た瞬間、私は、自分の喉が小さく鳴るのを聞いた。

「宗田くん、なの」

口にしてしまってから、三十年近く呼ばなかった名前だと気づいた。

彼のほうも、私の旧姓を、確かめるように小さく呼んだ。

「川上さん、ですよね。家庭科部の」

「今は、事務の鈴木です。二十年、ここにいます」

「そうでしたか。ずっと、この学校に」

宗田くんは、体育館の天井を、懐かしそうに見上げた。

窓の格子の影が、床板の上に、細長く伸びていた。

彼は驚いて顔を上げ、それから、ゆっくり笑った。

「やっぱり。縫ってくれたの、あなただったんですね」

宗田くんは、上着の背中を、そっと指でなぞった。

白い縫い目は、三十年近い歳月のなかで、すっかり黄ばんでいた。

それでも一目ごとの間隔が、驚くほど揃っているのが、見て取れた。

「ずっと、お礼を言いたかったんです。でも、どこの誰だったか、ちゃんと確かめる勇気がなくて」

「私のほうこそ、黒い糸を切らしていて。あの白は、本当は、不本意だったんです」

「不本意?」

宗田くんは、吹き出した。

「あれが、いちばんよかったんですよ」

家庭科室の針と糸

中学三年の十月だった。

私たちの中学は新興住宅地にあって、同級生の大半は持ち家に暮らし、母親は専業主婦という家が多かった。

いじめや仲間はずれもほとんどなく、いま思えば、とても穏やかな教室だった。

その教室に、ひとりだけ、家の事情を隠さない男子がいた。

宗田くんは七人兄弟の長男で、家は子だくさんだった。

給食費の納入はいつも遅れがちで、朝は誰よりも早く、新聞配達に走っていた。

制服は色が褪せて、黒というより緑がかっていた。

三年生で急に背が伸びて、袖は手首の上で止まり、上着のボタンは、もうひとつも留まらなかった。

そのうえ宗田くんは、そうした暮らしを、少しも隠そうとしなかった。

「うち、七人おるから。制服は兄貴のお下がりのお下がりなんや」

そう言って、休み時間にも、冗談のように笑っていた。

お弁当の時間になると、宗田くんはいつも、窓際の席でひとり、大きなおにぎりを二つ食べていた。

包みを開けるたびに、海苔の端が少し破れていて、その不ぞろいさが、家の台所の朝の忙しさを想像させた。

私は、母が毎朝きちんと詰めてくれる弁当の卵焼きを、箸でつつきながら、彼のおにぎりを横目で見ていた。

同じ教室で食べていても、見えている景色が違うことを、十五歳の私は言葉にできなかった。

その笑い方が、私にはいつも少しだけ痛かった。

ある日の休み時間、宗田くんが友達とふざけて、机の上に飛び乗った。

ビリッ、という大きな音がして、教室が一瞬、静まり返った。

学ランの背中の縫い目が、肩から腰まで、真っ直ぐに裂けていた。

宗田くんは、一拍だけ固まって、それから、背中を皆に向けてくるりと回った。

「見てくれ。俺、ついに風通し、よくなったで」

どっと笑いが起きた。

宗田くんも、いちばん大きな声で笑っていた。

私は家庭科部だったので、机の中にいつも裁縫箱を入れている。

気づいたときには、その箱を持って、宗田くんの背中の後ろに立っていた。

「脱がなくていいから、じっとしてて」

「え、ここで? 縫うん?」

「動くと針が刺さるよ」

裁縫箱の黒い糸は、あいにく前の日に使い切っていた。

残っていたのは、白い木綿糸だけだった。

黒い布の上に、白い糸。

目立つのは分かっていたけれど、裂けたままにしておくよりは、ずっといいと思った。

針を運ぶあいだ、宗田くんは、背中を丸めて、じっとしていてくれた。

縫い終えて糸を切ると、彼は背中に手を回して、縫い目をなでた。

「ミシン目みたいやな。俺、ちょっと高級になったかも」

そう言って笑ったけれど、耳の先が赤くなっているのを、私は見てしまった。

その場にいた男子のひとり、達也くんが、突然、大きな声を張り上げた。

「誰か、兄ちゃんとか近所の人で、余ってるきれいな制服、持ってる奴おらんかー?」

教室中が、一斉にこちらを向いた。

「家に帰って、聞いてみようぜ。うちの兄貴のも、探してみる」

その声に押されるように、あちこちから手が上がった。

「うちの近所に、高校に上がった子おるわ」

「姉ちゃんの友達が、もう着てないって」

放課後、みんなが家に走って帰った。

私も、自転車を飛ばして家に帰った。

玄関で靴を脱ぐのももどかしく、台所にいた母に、事情を一気に話した。

母は、湯のみを置いて、少しだけ考えた。

「兄さんの制服なら、押し入れにあるけど。あの子、もう背が伸びすぎて着られないし」

「それ、もらっていい? 友達に渡したいの」

「いいけど、ちゃんとクリーニングに出してからね」

母はそう言って、押し入れの奥から、ビニールに包まれた上着を取り出した。

クリーニング屋の閉店に間に合うよう、母と二人で、夕暮れの商店街を走った。

背中に残る白い縫い目

翌朝、宗田くんの机の上には、二着のジャケットと、一本のズボンが置かれていた。

サイズも形も少しずつ違ったけれど、どれも洗濯されて、丁寧にたたまれていた。

そのうちの一着は、私の兄の制服だった。

私は、それを自分が持ってきたとは、誰にも言わなかった。

言えば、宗田くんが、きっと気を遣うと思ったからだ。

机に置いたまま、逃げるように席に着いて、私は黙って教科書を開いた。

宗田くんは、しばらく机の前で動かなかった。

それから、一着を両手で高く掲げて、教室中に聞こえる声で言った。

「みんな、ありがとうな! お礼に、今日は俺がバンバン点取るから!」

その日は、クラス対抗のバレーボール大会の日だった。

宗田くんは新聞配達があるので、部活には入っていなかった。

それなのに、ネットの前に立つと、まるで別人のようだった。

助走をつけて跳んで、腕を鞭のようにしならせ、乾いた音でボールを叩き落とす。

一回、二回、三回。

体育館が、少しずつ、彼の名前を呼ぶ声で満たされていった。

決勝の最後の一点を、宗田くんがきめた瞬間だった。

男子たちが一斉に駆け寄って、笑いながら抱き合い、彼の身体を宙に放り上げた。

胴上げの輪の外で、女子たちは、手のひらで頬を押さえて立っていた。

誰も、声を出していなかった。

隣にいた子が、「よかったね」と小さく言って、泣いていた。

私の目も、気づけば熱かった。

宙に浮かぶ宗田くんの背中は、きのうまでの学ランのままだった。

新しくもらったジャケットではなく、裂けた背中を、白い糸で縫い合わせた、あの制服だった。

「なんで、あっちの制服を着てるの」

試合のあと、私はそっと聞いた。

宗田くんは、少しの間、言葉を探してから、答えた。

「これ、あんたが縫ってくれたやつやから。今日は、これで勝ちたかってん」

私は、返事ができなかった。

その白い縫い目は、卒業までのあいだ、宗田くんの背中に残り続けた。

卒業式の日、宗田くんは、もらったジャケットのほうを着て壇上に立った。

私は、体育館の後ろの席から、その背中を見ていた。

それが、私が宗田くんを見た、最後の日になった。

高校は、別々の学校だった。

卒業の少し前、私は一度だけ、校門の脇で宗田くんに呼び止められた。

「川上、お前、手芸部やったよな。あの縫い目、ほんまに丈夫でさ。まだほつれてへんで」

「よかった。ほつれたら、また縫うよ」

「その時は、頼むわ」

そんな軽いやり取りが、私たちの、最後の会話だった。

宗田くんは、新聞配達を続けながら、定時制の高校に通うと聞いた。

同窓会の案内は、何度か届いたけれど、彼の名前が出席者の欄に載ったことは一度もなかった。

町で、新聞配達のバイクの音を聞くたびに、私は無意識に、その背中を探した。

探しても、見つかったことはなかった。

けれど、いつの間にか、それでいいと思うようになっていた。

どこかで、笑っていてくれればいい。

それ以上のことを願うのは、私には、図々しい気がしていた。

七人分の名前

「あの白い縫い目の制服は、うちに残してもらったんです」

宗田くんは、受付の机の前で、静かに話し続けた。

「弟たちが、次々、同じ中学に上がったので。僕が着た制服を、そのまま着せました」

私は、思わず聞き返した。

「あの、縫い直した学ランを?」

「はい。弟たちは、嫌がるどころか、取り合いでしたよ」

「長男の僕が着たときは、背中を隠すように歩いてました。でも、弟たちは違った」

宗田くんは、机の上の学ランに、そっと手を置いた。

「次男は、わざと体育の時間に背中を見せて、友達に自慢してました。三男は、遠足の写真に、この背中ばかり写ってます」

「それは、すごい」

「四男は、白い縫い目を、ほどこうとしたんです。そしたら母が、『それはほどかんで』って、珍しく怒りました」

母親の話をするとき、彼の声は、少しだけ低くなった。

「母は、この縫い目の話を、近所の人にもよくしてたんです。『うちの子らを助けてくれた糸や』って」

私は、その言葉に、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。

自分が選べなかった白い糸のことを、誰かが、そんなふうに呼んでいてくれたなんて。

宗田くんは、堪えきれないように、肩を揺らした。

「背中の白い縫い目を見せて、『これ、兄ちゃんの勲章や』って。バレーの話も、何べんもせがまれました」

ふと、彼の手が、上着の襟のほうへ伸びた。

「見てもらえますか。内側」

彼の指先は、わずかに震えていた。

長いあいだ、誰にも見せずにしまっておいた宝物を、初めて他人の前で開くときのように。

受付の机の上で、午前の光が、学ランの肩にやわらかく落ちていた。

私は、上着の襟を、そっとめくった。

次の誰かのために

襟の裏には、七人分の名前が、小さく重なっていた。

白い布のタグが、一枚ずつ、少しずつ位置をずらして縫い付けてある。

縫い付けた糸の色は、一枚ごとに違っていた。

黒、紺、茶色、そしてところどころに、白。

母親が、そのときどきの家にある糸で、順番に縫い足していったのだろう。

いちばん上のタグは、色が褪せて、読みにくくなっていた。

その下にも、そのまた下にも、見覚えのある苗字が、子どもの手でマジックで書いたような字で、並んでいた。

同じ苗字の、違う名前。

駿。翼。大地。陽菜。

最後の一枚には、拙い字で、こう書いてあった。

「ぼくも、にいちゃんのせいふく、きた」

鉛筆で書いたのか、少し擦れて、半分ほど薄くなっていた。

それでも「にいちゃん」の四文字だけは、はっきり読み取れる。

末の弟の小さな手が、何度もなぞったのだろう。

私は、その薄れた鉛筆の跡を、指先でそっと撫でた。

「末っ子です。最後は、小学校の卒業式にも、これを着たがって」

宗田くんは、目の端をぬぐって、笑った。

「七人がこれを着て、全員、笑って卒業しました。給食費がきつい年もあったけど、制服のことで、誰も、肩身の狭い思いをしなかった。あの日のみんなのおかげです」

私は、言葉を探したけれど、喉の奥で止まってしまった。

あの日、白い糸が最後の一本しかなかったことを、私はずっと、どこか申し訳なく思っていた。

裂けた背中に、白い糸が目立ってしまったことを。

けれど、あの白い縫い目こそが、七人の背中に、同じ印を残してくれていたのだ。

「ここに、置いていっていいですか」

宗田くんは、上着を丁寧に整えながら、言った。

「うちはもう、着る子がいないので。次の誰かが、これを着てくれたらと思って」

「もちろん。大切に、お預かりします」

私は、ハンガーを受け取って、上着の肩に静かに掛けた。

そのとき、体育館の入口が、がやがやと賑やかになった。

新入生の保護者たちが、ぞろぞろと入ってくる。

ひとり、小柄な男の子が、母親の袖を引いて、ラックの前で立ち止まった。

「あのさ、これ、どうかな」

男の子が指さしたのは、宗田くんの学ランだった。

背中の白い縫い目を見て、不思議そうに首をかしげる。

「この白いの、なんで?」

受付から、私は、思わず声を掛けた。

「それはね、たくさんの人が、順番に、笑って着た印なの」

男の子は、きょとんとした顔で、上着を手に取った。

宗田くんは、少し離れた場所から、黙ってそれを見ていた。

同じ町で、同じ体育館で、同じ制服が、また誰かの肩に掛かる。

その場に居合わせた他の保護者たちも、いつの間にか、遠巻きにこちらを見ていた。

誰かが小さく拍手を始めて、それが少しずつ、体育館の隅に広がった。

いつの間にか、私の頬が濡れていたのだ。

私は、それを受け取って、笑ってしまった。

三十年近く前の教室で、女子たちが泣いていた理由を、私はようやく、本当に理解した気がした。

私は、それを笑顔のつながりと呼ぶのは、少し照れくさいと思った。

同じ思いを描いた話なら、夕焼けの絵葉書の中にもあった。

家族が受け渡していく小さな物の重みは、親父からのタスキという話の中でも、静かに語られている。

どれも派手な出来事ではない。

けれど、ひとつの物が、誰かの手から誰かの手へと渡っていくあいだに、人はたしかに、少しずつ強くなるのだと思う。

けれど、ほかに言葉が見つからなかった。

去り際、宗田くんは、受付の前でもう一度、帽子を取った。

「あの日の針と糸、ありがとうございました」

私は、深く頭を下げた。

体育館のガラス窓から、秋の斜めの光が差して、白い縫い目だけが、静かに光っていた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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