不器用な親父

うちの物置には、ブルーシートを掛けた四角い塊があった。

自転車を出すたび、俺はその角に膝をぶつけた。

何が入っているのか、親父に訊いたことは一度もない。

訊いても答えないだろうと、はなから思っていた。

親父は、そういう人だった。

親父は浜松の楽器工場で、四十年ピアノを作っていた。

整音の係だったと知ったのは、ずっとあとのことだ。

ハンマーのフェルトに針を刺して、音を柔らかくする。

硬い音は、刺してほぐす。

柔らかすぎる音は、刺さずに残す。

それだけの仕事だと、親父は言っていた。

針を刺すと音が柔らかくなるというのが、子供の俺には長いこと信じられなかった。

硬いものを刺したら、もっと硬くなりそうなものだ。

だが親父の手にかかると、鳴りすぎていた音が、ふっと丸くなるらしい。

「刺しすぎたら、戻らんぞ」

それは、俺に言ったのではなかったと思う。

手元を見ながら、自分に言っていた。

親父の指先には、いつも白い毛が付いていた。

フェルトの毛だ。

風呂上がりでも取れなくて、湯呑みを持つと、湯気にゆらゆら揺れた。

朝は五時に出て、夜は七時前に帰ってくる。

帰ると茶の間の座卓の前に座って、飯を食う。

背中を向けたまま、こちらを見ない。

「今日、どうじゃった」

そう訊くのはいつもおふくろで、親父は箸を止めもしなかった。

俺は次男だった。

兄貴には厳しかった。

門限を破れば怒鳴ったし、一度、頬を張ったのを廊下から見たこともある。

俺には、それが一度もなかった。

怒られないというのは、そのころの俺には、興味がないということだった。

高校を決めるときも、親父の言葉はひとつだけだった。

「お前がいいなら、それでいい」

それきり、進路の話は出なかった。

テストの点が落ちても、帰りが遅くなっても、何も言われない。

言われるのはいつもおふくろで、俺はそれに文句を言う。

その繰り返しの中に、親父はいなかった。

親父の家は、浜松の、天竜川に近いほうの社宅だった。

窓を開けると、隣の棟の物干しと、その向こうに工場の煙突が見えた。

日曜の午後になると、どこかの部屋からピアノの音が聞こえた。

工場の人の家は、なぜかピアノがある家が多かった。

うちにはなかった。

日曜に親父が家にいる時間は、短かった。

昼過ぎに起きてきて、縁側で新聞を広げる。

読んでいるのか寝ているのかわからない姿勢のまま、二時間ほどそこにいる。

おふくろが掃除機をかけると、黙って足を上げる。

それが、俺の見ていた休日の親父だった。

一度だけ、その縁側で親父が鼻歌をうたっているのを聞いたことがある。

知らない曲だった。

「それ、なに」

訊いたら、鼻歌はぴたりと止まった。

「なんでもない」

それきり、家で親父の歌を聞いたことはない。

兄貴は、親父に殴られた翌日でも、平気で飯を食っていた。

「あれは、慣れじゃ」

高校のとき、兄貴は俺にそう言った。

「お前は羨ましいのう。何も言われんで」

俺は、そのとき初めて、羨ましいと言われる側なのだと知った。

兄貴は続けて言った。

「殴られるんは、まだええんじゃ」

「なんも言われんのは、な」

言いかけて、兄貴は口を閉じた。

そのあと二人で黙って、テレビの野球中継を見た。

だが、その意味がわかるまでには、まだ二十年かかった。

小学三年の秋、俺は一度だけ、ピアノを習いたいと言ったことがある。

同じ団地の子が習っていて、発表会で拍手をもらっているのを見たからだ。

言ったのは夕飯の席で、相手はおふくろだった。

親父は、いつものように背中を向けて箸を動かしていた。

おふくろが「お金がねえ」と笑って、それで話は終わった。

次の月、俺は少年野球に入って、ピアノのことは口にしなくなった。

覚えているのは、それだけだ。

あの晩、親父が何か言ったかどうかも、覚えていない。

中学に上がってから、親父は毎晩、茶の間の隅で何かをしていた。

新聞紙を敷いて、その上に小さな木の部品を置く。

先の細い、針を何本も束ねた道具で、白いフェルトを刺す。

ぷつ、ぷつ、と音がする。

テレビの音より小さいのに、その音だけはよく聞こえた。

一度、何をしているのかと訊いた。

「仕事の残りだ」

それだけだった。

俺は、工場の持ち帰り仕事だと思い込んだ。

それから五年、その音は毎晩続いた。

おふくろは、その音を「親父の癖」と呼んでいた。

「あれが始まったら、もう寝る時間じゃけえ」

確かに、音が止まると、家の中が急に静かになった。

俺が試験勉強で夜更かしする晩は、音が長く続いた。

今にして思えば、あれは合わせてくれていたのだと思う。

だがそのころの俺は、うるさいとしか思っていなかった。

一度、机を叩いて「静かにしてくれ」と言ったこともある。

その晩から一週間、音は聞こえなかった。

八日目の夜、また、ぷつ、と鳴った。

俺は襖の向こうのその音を聞きながら、なぜか、少し安心して眠った。

親父が倒れたのは、俺が高校二年の冬だった。

血管が詰まる病気だと、おふくろは言った。

入院と通院が続いて、途中で一度、手術もした。

見舞いには行った。

行ったが、病室で何を話していいかわからなかった。

親父もこちらを見ずに、窓の外の駐車場を見ていた。

十分もすると、俺は「じゃあ」と言って立ち上がる。

「おう」

それだけで、面会は終わった。

廊下に出ると、いつも足が速くなった。

あとから聞いた話がある。

担当の看護師さんが、おふくろに言っていたそうだ。

親父は、俺の受験の日を看護師さんに訊いていた。

訊いた翌日から、毎日、廊下の端まで歩く練習を始めたという。

手すりを持って、休み休み、三往復。

看護師さんは「無理はやめてください」と何度も止めたらしい。

それでもやめなかった。

三月に入ってからは、五往復に増えたそうだ。

看護師さんが理由を訊いたら、親父はこう答えたという。

「電話をかけるのに、息が上がっとったら、みっともないけえ」

みっともない。

あの人は、生涯その言葉をよく使った。

廊下の端には、公衆電話があった。

三年の受験のころには、親父はだいぶ良くなっていた。

良くなったといっても、まだ廊下を歩くのに手すりがいる。

第一志望の合格通知が届いたのは、三月の、風の強い日だった。

おふくろはちょうど病院にいた。

携帯なんてない時代だ。

俺は封筒を持ったまま、電話の前をうろうろしていた。

夕方、おふくろから電話が来た。

今から帰る、晩飯を買って行く、という用件だった。

合格を伝えると、受話器の向こうで大きな声が出た。

「ほんとに!」

「ほんとに、あんた、受かったん!」

病院の窓のほうから、風の音が入ってきた。

「お父さんにも、言うとくけえね」

「うん」

「あんた、ようやったねえ」

おふくろは同じことを三回言って、それから電話を切った。

病院の廊下だろうに、まるで気にしていない声だった。

それから二十分ほどして、家の電話が鳴った。

出たら、親父だった。

おふくろの話では、まだ一人で公衆電話まで行ける状態ではなかったはずだ。

「親父、何やってんだよ」

「寝てなきゃ駄目なんじゃないのか」

受話器の向こうで、少し息を整える音がした。

あの息の音を、俺は長いこと、病気のせいだと思っていた。

違った。

あれは、廊下の端まで歩いてきた人の息だった。

「馬鹿、俺なんかどうでもいい」

「それより、受かったんだってな」

「……ああ」

また、少し間があった。

「そうか」

「よかったな。おめでとう」

そこから先、何を話したのか、俺は本当に覚えていない。

受話器を置いた瞬間に、目の前が滲んだ。

台所の蛍光灯が、輪になって伸びた。

立っていられなくて、電話台の横に座り込んだ。

あの人が、俺に「おめでとう」と言った。

それだけのことが、どうしてこんなに重いのか、自分でもわからなかった。

おふくろが帰ってきたとき、俺はまだそこにいた。

買ってきた惣菜の袋を三和土に置いて、おふくろは黙って俺の横に座った。

言葉にならない声で、親父から電話があったと伝えた。

おふくろは「そう」と言って、それからゆっくり話しはじめた。

親父の父親は、親父が四つのときにいなくなったこと。

工場の寮で、まわりの大人に育てられたようなものだったこと。

だから、父親というものをどうやればいいのか、最後までわからなかったこと。

「兄ちゃんには、怒鳴るしかできんかったんよ」

「あんたには、怒鳴るのが怖かったんじゃて」

俺が小学校に上がる前、親父は一度だけ本気で俺を叱ったことがあるらしい。

そのあと半年、俺は親父に近寄らなくなったという。

覚えていない。

だが親父は、それをずっと覚えていた。

「近寄らんようになるんが、いちばん怖かったんじゃと」

「じゃけえ、何も言わんようになった」

おふくろは、そこで一度、鼻をすすった。

「あの人は、下手なんよ」

「ほんとに、下手なだけなんよ」

おふくろは、それから思い出したように付け足した。

「あんた、中学のとき、県大会出たじゃろ」

「あの日な、お父さん、球場のフェンスの外におったんよ」

知らなかった。

「なんで入って来んかったんだよ」

「入ったら、あんたが緊張するけえ、って」

「そんなわけあるか」

言ってから、俺は口をつぐんだ。

そんなわけがあるのだ、あの人には。

その春、俺は物置のブルーシートを剥いだ。

引っ越しの荷物を出すためで、他意はなかった。

下から出てきたのは、古いアップライトピアノだった。

外装はところどころ剥げて、脚の一本は木片を噛ませてある。

鍵盤の蓋を上げると、内側に、鉛筆の字があった。

俺の名前と、その下に日付。

昭和五十四年、十月。

俺が「習いたい」と言った、あの秋だった。

膝をついたまま、しばらく動けなかった。

横には、みかん箱がひとつ置いてあった。

中に、ハンマーが並んでいた。

一本ずつ、新聞紙にくるんである。

数えたら、十七本あった。

どれも、白いフェルトに細かい穴が無数についていた。

箱の底に、大学ノートが一冊あった。

日付と、鍵盤の番号と、短い言葉だけが並んでいる。

「まだ硬い」

「少し戻った」

「今日はやめる」

それが、五年ぶん続いていた。

最後の日付は、親父が倒れた年の、十二月だった。

ノートの前のほうを繰ってみた。

はじめのころは、一日に一本しか進んでいない。

「今日は一本。夜遅うなったのでやめる」

そんな行が何十も並んでいた。

途中から、数が増えている。

俺が高校に上がったあたりから、一晩に三本、四本と書いてある。

帰りの遅い夜は、そのぶん長く起きていたということだ。

あの晩、親父は何も言わなかったのではなかった。

次の月に、中古の潰れかけた一台を工場の伝手で引き取ってきていた。

俺が野球を始めたのは、その直後だ。

だから親父は、それを出さなかった。

出さないまま、直していた。

茶の間の隅で、五年間、ぷつ、ぷつ、と鳴っていたあの音は、仕事の残りではなかった。

あれは、うちのピアノのハンマーだった。

八十八本ある。

一本ずつ、硬い音を刺してほぐしていたのだ。

おふくろに訊いたら、あっさり答えた。

「知っとったよ」

「言うな言われとったけえ」

「いつ出すつもりだったんだよ」

おふくろは、少し困った顔をした。

「音が揃うたらって」

「揃うまでは、みっともないけえ、って」

四十年ピアノを作った人が、自分の家の一台を、五年かけてまだ揃わないと言っていた。

俺はその話を聞いて、笑おうとして、失敗した。

大学に受かった春、俺は結局、あのピアノに触らなかった。

触ってしまうと、何かが終わる気がした。

荷造りをしながら、シートを掛け直して、角を石で押さえた。

出る朝、親父は玄関まで来て、いつもの調子で言った。

「気をつけて行けよ」

それから、少し間があって、こう続いた。

「向こうは、湿気が違うけえのう」

意味がわからなかった。

今ならわかる。

木でできたものは、土地の湿り気で変わる。

あの人は、俺のことを、木のように心配していた。

それだけだった。

俺も「おう」と返した。

あの家では、それが精一杯の会話だった。

退院してから、親父は元の工場には戻れなかった。

倉庫の受け入れの係になって、六十まで勤めた。

あのピアノは、結局、俺が家を出るまで音を出さなかった。

社宅を出て、親父たちは市営の住宅に移った。

引っ越しのとき、荷物を減らせと業者に言われて、おふくろは一度だけ「あれ、どうする」と訊いたそうだ。

親父は、ひとことだけ答えたという。

「持って行く」

それ以上の説明はなかった。

新しい家の物置は前より狭くて、自転車を出すたび、今度は親父が角に膝をぶつけていたらしい。

出さないまま、俺は東京へ行った。

帰省のたび、物置のシートは掛け直されていた。

角の位置が少しずつ変わっていたから、時々は出して触っていたのだと思う。

親父の葬式の日、兄貴と二人で物置を開けた。

シートを剥いで、蓋を上げて、兄貴が真ん中のドの鍵盤を押した。

思っていたより、ずっと柔らかい音がした。

部屋の壁に吸われて、すぐに消えるような音だった。

兄貴が言った。

焼香が済んで、家に戻って、二人とも喪服のままだった。

兄貴は物置の前でしばらく立っていて、それからシートに手をかけた。

「開けるか」

「開けよう」

シートは、思ったより新しかった。

去年あたりに掛け替えたのだろう。

角を押さえていた石は、俺が二十数年前に置いたのと同じ石だった。

「これ、揃っとるじゃろ」

俺は、端から順に、ひとつずつ鳴らしていった。

八十八本、どれも同じ柔らかさだった。

どこで揃ったのかは、もうわからない。

ノートの最後の日付から、あとの記録はない。

つまり、退院してからの十数年は、書かずに直していたことになる。

兄貴が、蓋を閉めながら言った。

「親父な、整音の係になったの、四十過ぎてからじゃ」

知らなかった。

「それまでは、ずっと下の工程よ」

「木を削るほうな」

だとすれば、あの秋にピアノを引き取ってきたとき、親父はまだ整音の人ではなかったことになる。

できない仕事を、家で覚えようとしていたのだ。

五年かけて音が揃わなかったのは、下手だったからではない。

習っている途中だったからだ。

わからないが、揃っていた。

今、そのピアノは俺の家の居間にある。

娘が小学三年になった年に、運送屋を頼んで浜松から運んだ。

娘は毎日、下手くそに叩く。

叩かれるたび、フェルトは硬くなっていくらしい。

だから俺は、月に一度、針の束を持って蓋を開ける。

親父の道具箱は、そのまま貰ってきた。

針の束は三種類あって、どれを使うのかは、いまだにわからない。

いちばん短いのを使うと、失敗が少ない気がする。

刺しすぎると戻らないという言葉だけは、はっきり覚えている。

だから、迷ったら刺さない。

やり方は、誰にも教わっていない。

新聞紙を敷いて、その上に部品を置くところまでは、同じだ。

ぷつ、ぷつ、と音がする。

娘が、テレビを見ながら訊いてくる。

この前、娘が学校の作文で「父の仕事」を書いてきた。

読ませてもらったら、俺の本当の仕事ではなく、この作業のことが書いてあった。

「お父さんは、うるさい音をやさしくする仕事をしています」

間違っている。

その作文には続きがあった。

「お父さんは、ときどき、なにもしないで音をきいています」

「そういうときは、しゃべりかけないことにしています」

それを読んだ晩、俺は台所で洗い物をしながら、しばらく手が止まった。

娘は、俺の背中を見ている。

俺が、四十年ぶんの背中を見ていたのと同じように。

間違っているが、直せなかった。

「お父さん、それ何しとるん」

俺は、少し考えてから答える。

「仕事の残りだ」

嘘だ。

だが、そう答えるのが、いちばん正しい気がしている。

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