父が磨いていたもの

温かな工房の手仕事

電話が鳴ったのは、十月の終わりだった。

「お父さんが、あまり食べられなくなってきてね」

母の声は穏やかだったが、その穏やかさが逆に胸に刺さった。

私は受話器を持ったまましばらく動けなかった。

最後に実家へ帰ったのは、二年前の正月だった。

仕事が忙しいと言い訳を重ねているうちに、二年という時間はあっという間に過ぎていた。

帰省するたびに父とうまく話せなくて、二、三日もすれば息苦しくなって、早めに東京へ戻る。

そのくり返しだった。

「来週末、帰る」

私はそれだけ言って電話を切った。

受話器を置いてからも、しばらく動けなかった。

六十七の父が食べられなくなっている。

それがどういうことか、頭ではわかっていた。

長野行きの特急は夕方に新宿を出た。

車窓の向こうで山の稜線がゆっくりと暮れていった。

赤から橙へ、橙から灰へと色を変えながら、空が沈んでいく。

私の父、竹内久雄は、長野の山あいにある小さな宿場町で、大工として四十年近く働いた。

六十七になった今は引退して、母と二人で古い家に暮らしている。

父は口数の少ない人だった。

褒めるでも叱るでもなく、ただ黙って仕事をしている背中だけが記憶にある。

子どもの頃、父が作業場で仕事をしているのをよく見ていた。

鑿を研ぐときの、砥石の上に水をたらしてゆっくり動かす音が、今でも耳に残っている。

シャリ、シャリ、と規則正しく続く音。

急かすでも焦るでもなく、ただ静かに手を動かし続ける父の横顔。

あの頃、父のそばにいるのが好きだったのに、いつの間にか距離ができてしまった。

社会人になって、結婚して、子どもが生まれて、忙しさを言い訳にして、帰れなかった。

本当は、うまく話せないのが怖かっただけだ。

駅を降りると、空気が冷たく澄んでいた。

タクシーに乗り、中山道沿いの古い街並みを抜けると、見慣れた石垣が見えてきた。

玄関の灯りがついていた。

「おかえり」と母が出てきた。

少し痩せたようだったが、顔色は悪くなかった。

「父さんは?」

「土間にいるわ」

私は荷物を置いて廊下を歩いた。

居間の障子を開けると、父はいなかった。

土間、と聞いて私は少し驚いた。

父が引退してから、土間の作業場に篭もることはほとんどなくなっていたはずだった。

引き戸を開けると、板張りの土間に薄い電球が灯っていた。

父は木の台に腰をおろし、膝の上に何かを置いて、黙々と手を動かしていた。

「父さん」

私が声をかけると、父はゆっくり顔を上げた。

老いたな、と思った。

頬がこけて、髪がずいぶん白くなっていた。

大きかったはずの手が、今は骨張って細く見える。

「ああ、来たか」

それだけ言うと、また手元に目を落とした。

近づいてみると、父の膝の上に乗っているのは、黒い革靴だった。

見覚えがあった。

二年前の正月に私が帰省したとき、玄関に脱いでいった靴だった。

父はそれを、布で丁寧に磨いていた。

クリームを薄く伸ばして、乾かして、また布で磨いている。

「その靴……」

「お前のだろう」

父は答えながら、靴の踵のあたりを慎重に拭いた。

私は言葉が見つからなかった。

二年間、あの靴はここにあったのか。

そして父は、その間ずっと磨いていたのか。

「置いていくなよ、今度は」

父がぼそりと言った。

その声は低く、責めているような言い方ではなかった。

ただの、事実を確認するような口調だった。

私は「うん」と答えるのがやっとだった。

夜、母と台所で茶を飲んだ。

「お父さん、あなたが帰ってくるたびに、靴を磨くのよ」

母は湯呑みを両手で包みながら言った。

「帰ってきたときも、帰った後も」

「帰った後も?」

「あなたが東京に戻っていくと、次の日から玄関に残った靴を磨きはじめるの」

「毎日じゃないけどね、気が向くと土間に行って、しばらく磨いて、また置いてくる」

母は少し笑った。

「黙ってやってるから、最初は気づかなかったわ」

私は何も言えなかった。

父がそんなことをしていたとは、一度も考えたことがなかった。

「子どもの頃の靴も、まだ残ってるの。入学式のも、卒業式のも」

「全部磨いてある」

電話一本よこさない息子の靴を、父は何度も何度も磨き続けていた。

何かを言いたかったわけではないのかもしれない。

ただ、磨いていた。

それだけだったのかもしれない。

私はしばらく、茶の湯気を見つめていた。

目の奥が、じわりと熱くなった。

翌朝、早く目が覚めた。

土間をのぞくと、父がすでに作業台の前に立っていた。

昨夜磨いていた私の革靴は、棚の上に置かれていた。

その隣に、もう一足あった。

茶色い古い革靴で、爪先が少し丸くなっている。

「それ、誰の靴?」

私が聞くと、父は少し間を置いた。

「お前が中学を卒業するときに買ってやったやつだ」

私は息を飲んだ。

三十年近く前の靴が、今も磨かれ続けていた。

棚の端に、黒光りする石が置かれていた。

手のひらに乗るくらいの、平たい砥石だった。

表面がすり減って、中央がわずかにくぼんでいる。

長い年月で角が丸くなっていた。

「その砥石、ずっと使ってるの?」

「ああ。大工始めたときから使っとる」

父は石を持ち上げて、光に透かして眺めた。

「刃物を研ぐのと同じだ。少しずつ、丁寧にやるしかない」

父はそれ以上何も言わなかった。

私もそれ以上聞かなかった。

でも、父が何を言いたかったのか、なんとなくわかった気がした。

急ごうとするから、こじれる。

少しずつ、丁寧に。

それだけのことだった。

砥石の表面のくぼみは、四十年かけてできたものだ。

毎日少しずつ削られ、気づかないうちにそこへたどり着く。

父と私の間にある溝も、そうして埋まっていくものなのかもしれなかった。

昼過ぎ、東京に戻る準備をしていると、父が土間から出てきた。

手に何かを持っていた。

砥石だった。

「持っていけ」

父は私に差し出した。

「いいの?」

「もう鑿も鉋も使わんから」

父はそれだけ言って、目をそらした。

私は両手でその石を受け取った。

ひんやりと冷たく、思ったより重かった。

三十年以上の、父の手の跡が染み込んでいるようだった。

「ありがとう」

私が言うと、父はうなずいただけだった。

玄関を出るとき、振り返ると父が立っていた。

手を振るでも、声をかけるでもなく、ただそこに立っていた。

石垣のそばで、秋の光の中に、老いた父が小さく見えた。

私はもう一度、頭を下げた。

今度は、ちゃんと持って帰る。

その約束が、靴のことだけではないと、二人ともわかっていた。

タクシーに乗り込んで、窓の外を見た。

父はまだそこに立っていた。

車が動き出しても、角を曲がるまで、ずっと見ていた。

東京に戻ってから、私は引き出しの奥から昔の靴を出した。

結婚式のときに買った黒い革靴で、何年も手入れをしていなかった。

父からもらった砥石を机の上に置いて、クリームと布を買ってきた。

靴を磨くのは、不器用で時間がかかった。

でも、焦らなかった。

少しずつ、丁寧にやるしかない、と父が言っていた。

その後、三か月に一度は実家に帰るようになった。

父は相変わらず口数が少なかったが、帰るたびに私の靴を磨いてくれた。

私もそれを、黙って受け取るようになった。

翌年の春、息子が生まれた。

その子が初めて革靴を履いたのは、三歳の七五三のときだった。

小さな黒い靴を持って、私は土間に座った。

磨き始めると、息子が横に来てじっとのぞいていた。

「何してるの?」

「靴を磨いてるんだよ」

「なんで?」

私は少し考えた。

「おじいちゃんが、そうしてくれたから」

息子はよくわからない顔をしていたが、しばらく隣に座ったまま、私が磨き終わるまで静かに見ていた。

砥石はあの日から、ずっと棚の上に置いてある。

父からもらったその石が、土間にいる私の背中を、今日も静かに見守っている。

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