父が磨いていたもの

温かな工房の手仕事

電話が鳴ったのは、十月の終わりだった。

「お父さんが、あまり食べられなくなってきてね」

母の声は穏やかだったが、その穏やかさが逆に胸に刺さった。

私は受話器を持ったまましばらく動けなかった。

最後に実家へ帰ったのは、二年前の正月だった。

仕事が忙しいと言い訳を重ねているうちに、二年という時間はあっという間に過ぎていた。

帰省するたびに父とうまく話せなくて、二、三日もすれば息苦しくなって、早めに東京へ戻る。

そのくり返しだった。

「来週末、帰る」

私はそれだけ言って電話を切った。

受話器を置いてからも、しばらく動けなかった。

六十七の父が食べられなくなっている。

それがどういうことか、頭ではわかっていた。

※

長野行きの特急は夕方に新宿を出た。

車窓の向こうで山の稜線がゆっくりと暮れていった。

赤から橙へ、橙から灰へと色を変えながら、空が沈んでいく。

私の父、竹内久雄は、長野の山あいにある小さな宿場町で、大工として四十年近く働いた。

六十七になった今は引退して、母と二人で古い家に暮らしている。

父は口数の少ない人だった。

褒めるでも叱るでもなく、ただ黙って仕事をしている背中だけが記憶にある。

子どもの頃、父が作業場で仕事をしているのをよく見ていた。

鑿を研ぐときの、砥石の上に水をたらしてゆっくり動かす音が、今でも耳に残っている。

シャリ、シャリ、と規則正しく続く音。

急かすでも焦るでもなく、ただ静かに手を動かし続ける父の横顔。

あの頃、父のそばにいるのが好きだったのに、いつの間にか距離ができてしまった。

社会人になって、結婚して、子どもが生まれて、忙しさを言い訳にして、帰れなかった。

本当は、うまく話せないのが怖かっただけだ。

駅を降りると、空気が冷たく澄んでいた。

タクシーに乗り、中山道沿いの古い街並みを抜けると、見慣れた石垣が見えてきた。

玄関の灯りがついていた。

「おかえり」と母が出てきた。

少し痩せたようだったが、顔色は悪くなかった。

「父さんは?」

「土間にいるわ」

私は荷物を置いて廊下を歩いた。

居間の障子を開けると、父はいなかった。

土間、と聞いて私は少し驚いた。

父が引退してから、土間の作業場に篭もることはほとんどなくなっていたはずだった。

※

引き戸を開けると、板張りの土間に薄い電球が灯っていた。

父は木の台に腰をおろし、膝の上に何かを置いて、黙々と手を動かしていた。

「父さん」

私が声をかけると、父はゆっくり顔を上げた。

老いたな、と思った。

頬がこけて、髪がずいぶん白くなっていた。

大きかったはずの手が、今は骨張って細く見える。

「ああ、来たか」

それだけ言うと、また手元に目を落とした。

近づいてみると、父の膝の上に乗っているのは、黒い革靴だった。

見覚えがあった。

二年前の正月に私が帰省したとき、玄関に脱いでいった靴だった。

父はそれを、布で丁寧に磨いていた。

クリームを薄く伸ばして、乾かして、また布で磨いている。

「その靴……」

「お前のだろう」

父は答えながら、靴の踵のあたりを慎重に拭いた。

私は言葉が見つからなかった。

二年間、あの靴はここにあったのか。

そして父は、その間ずっと磨いていたのか。

「置いていくなよ、今度は」

父がぼそりと言った。

その声は低く、責めているような言い方ではなかった。

ただの、事実を確認するような口調だった。

私は「うん」と答えるのがやっとだった。

※

夜、母と台所で茶を飲んだ。

「お父さん、あなたが帰ってくるたびに、靴を磨くのよ」

母は湯呑みを両手で包みながら言った。

「帰ってきたときも、帰った後も」

「帰った後も?」

「あなたが東京に戻っていくと、次の日から玄関に残った靴を磨きはじめるの」

「毎日じゃないけどね、気が向くと土間に行って、しばらく磨いて、また置いてくる」

母は少し笑った。

「黙ってやってるから、最初は気づかなかったわ」

私は何も言えなかった。

父がそんなことをしていたとは、一度も考えたことがなかった。

「子どもの頃の靴も、まだ残ってるの。入学式のも、卒業式のも」

「全部磨いてある」

電話一本よこさない息子の靴を、父は何度も何度も磨き続けていた。

何かを言いたかったわけではないのかもしれない。

ただ、磨いていた。

それだけだったのかもしれない。

私はしばらく、茶の湯気を見つめていた。

目の奥が、じわりと熱くなった。

※

翌朝、早く目が覚めた。

土間をのぞくと、父がすでに作業台の前に立っていた。

昨夜磨いていた私の革靴は、棚の上に置かれていた。

その隣に、もう一足あった。

茶色い古い革靴で、爪先が少し丸くなっている。

「それ、誰の靴?」

私が聞くと、父は少し間を置いた。

「お前が中学を卒業するときに買ってやったやつだ」

私は息を飲んだ。

三十年近く前の靴が、今も磨かれ続けていた。

棚の端に、黒光りする石が置かれていた。

手のひらに乗るくらいの、平たい砥石だった。

表面がすり減って、中央がわずかにくぼんでいる。

長い年月で角が丸くなっていた。

「その砥石、ずっと使ってるの?」

「ああ。大工始めたときから使っとる」

父は石を持ち上げて、光に透かして眺めた。

「刃物を研ぐのと同じだ。少しずつ、丁寧にやるしかない」

父はそれ以上何も言わなかった。

私もそれ以上聞かなかった。

でも、父が何を言いたかったのか、なんとなくわかった気がした。

急ごうとするから、こじれる。

少しずつ、丁寧に。

それだけのことだった。

砥石の表面のくぼみは、四十年かけてできたものだ。

毎日少しずつ削られ、気づかないうちにそこへたどり着く。

父と私の間にある溝も、そうして埋まっていくものなのかもしれなかった。

※

昼過ぎ、東京に戻る準備をしていると、父が土間から出てきた。

手に何かを持っていた。

砥石だった。

「持っていけ」

父は私に差し出した。

「いいの?」

「もう鑿も鉋も使わんから」

父はそれだけ言って、目をそらした。

私は両手でその石を受け取った。

ひんやりと冷たく、思ったより重かった。

三十年以上の、父の手の跡が染み込んでいるようだった。

「ありがとう」

私が言うと、父はうなずいただけだった。

玄関を出るとき、振り返ると父が立っていた。

手を振るでも、声をかけるでもなく、ただそこに立っていた。

石垣のそばで、秋の光の中に、老いた父が小さく見えた。

私はもう一度、頭を下げた。

今度は、ちゃんと持って帰る。

その約束が、靴のことだけではないと、二人ともわかっていた。

タクシーに乗り込んで、窓の外を見た。

父はまだそこに立っていた。

車が動き出しても、角を曲がるまで、ずっと見ていた。

※

東京に戻ってから、私は引き出しの奥から昔の靴を出した。

結婚式のときに買った黒い革靴で、何年も手入れをしていなかった。

父からもらった砥石を机の上に置いて、クリームと布を買ってきた。

靴を磨くのは、不器用で時間がかかった。

でも、焦らなかった。

少しずつ、丁寧にやるしかない、と父が言っていた。

その後、三か月に一度は実家に帰るようになった。

父は相変わらず口数が少なかったが、帰るたびに私の靴を磨いてくれた。

私もそれを、黙って受け取るようになった。

翌年の春、息子が生まれた。

その子が初めて革靴を履いたのは、三歳の七五三のときだった。

小さな黒い靴を持って、私は土間に座った。

磨き始めると、息子が横に来てじっとのぞいていた。

「何してるの?」

「靴を磨いてるんだよ」

「なんで?」

私は少し考えた。

「おじいちゃんが、そうしてくれたから」

息子はよくわからない顔をしていたが、しばらく隣に座ったまま、私が磨き終わるまで静かに見ていた。

砥石はあの日から、ずっと棚の上に置いてある。

父からもらったその石が、土間にいる私の背中を、今日も静かに見守っている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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