親指姫

その子は、右手のミトンを片方だけ、握ったまま店に入ってきた。

もう片方は、ちゃんとはめている。

二月の横手で、手袋を片方だけ外して歩く子どもはいない。

外の気温は氷点下だった。

店の前は、雪の壁が私の背より高く積み上がっていた。

私は花清という花屋の二代目で、そのときは四十二だった。

親父が始めた店を、嫌々継いだ口だ。

雪の中に花屋を出すのは、正直に言えば、割に合わない商売だった。

それでも冬は温室のボイラーを焚き続ける。

重油の匂いが、二月の店にはついてまわった。

朝は五時に起きて、まず店の前の雪を掻く。

掻いた雪を積む場所が、二月にはもう無い。

路地の突き当たりまで運んで、そこで初めて店を開ける。

隣の魚屋のヨシ江さんが、決まって同じことを言う。

「こんな日に、花っこ買う人いるんだが」

「いねぐても、開けるんだ」

「まめだごど」

それが二月の、毎朝のやりとりだった。

実際、雪の日の売り上げは、ヨシ江さんの言うとおりだった。

それでも温室の火は落とせない。

球根は、こちらの都合では咲かない。

秋に冷やして、冬に温める。

その順番を一つでも間違えると、二月に花は立たない。

人の都合に合わせて咲いてくれる花など、一つもないのだ。

親父はよく、それを商売の言い訳に使っていた。

子どもは、六つか七つに見えた。

紺の長靴に、赤いスキーウェアのズボン。

肩で切り揃えた髪に、雪がまだ少し残っていた。

フラワーキーパーの前に立って、ずっと動かない。

手を伸ばしては引っ込め、また別の花を見上げる。

母の日でもない。

卒業式にも早い。

この時期に、子どもが一人で花を買いに来ることは、まずなかった。

雪の道は、子どもの背丈だと壁の間の溝を歩くことになる。

前から車が来たら、逃げ場がない。

だから親は、この時期に子どもを一人で歩かせない。

その子は、その溝を一人で来たわけだ。

五分ほど、私は帳場から様子を見ていた。

それでも決まらないので、声をかけた。

「誰かにあげるの。お誕生日」

子どもは首を横に振った。

「お母さんに、あげるの」

「お母さん、お花好きなんだ」

今度は縦に振った。

私は屈んで、目の高さを合わせた。

髭面の親父が近づくと泣かれることがあるので、できるだけ笑った。

次の一言で、笑っていられなくなった。

「パパが、いなくなったの」

「ママ、元気ないの。だから、お花あげるの」

言いながら、その子はまた花を見上げていた。

選ぶことに、本当に一生懸命だった。

「そっか」

「お母さん、きっと喜ぶな」

そう返すのが、精一杯だった。

少しずつ聞いてみると、父親を見送ったのは、ひと月ほど前だという。

母親が、夜に台所で泣いているのを、何度か見たという。

どうしたらママが元気になるか、おばあちゃんに聞いたら、お花がいいよと教えてもらったという。

私はうんうんと頷きながら、帳場の裏にしゃがみ込んだ。

手拭いで顔を拭いて、頬を二度叩いた。

それから立ち上がって、なんでもない声を作った。

「どれにしよっか」

「ママ、何色が好きかな」

「これ」

その子は、いちばん下の段の花を選んだ。

背が届く高さは、そこしかない。

私はそのとき初めて、店の一番低い棚に何を置いているか、考えたことがないと気づいた。

指の先にあったのは、チューリップだった。

オレンジの、はっきりした色のやつだ。

「うん。これ、あったかい色だな」

「リボン付けるから、ちょっと待ってて」

私は茎を切って、水を含ませて、新聞紙で二重に巻いた。

この土地では、包み方を間違えると、家に着く前に花が凍る。

外の空気に触れさせないように、口を折って、上からセロファンをかけた。

子どもは、じっとその手つきを見ていた。

「なんで、しんぶんし」

「外が寒いからな。花っこは、寒いのが苦手なんだ」

「ゆき、だめなの」

「雪が当たると、花びらが茶色くなる」

「じゃあ、はやくかえる」

その言い方があんまり真剣だったので、私は包む手を早めた。

早めながら、それでも二重に巻いた。

三重にすると、抱えにくくなる。

抱えにくいものを持たせるわけには、いかなかった。

握ったままのミトンは、ずっと右手の中にあった。

花束を渡すと、その子は両腕で抱えた。

ミトンは、抱えた花束の下に挟んでいた。

「ありがとう」

「気をつけてな。バイバイ」

元気よく手を振り返してくれると思っていた。

その子は、ぺこりと頭を下げた。

雪の壁の前で、小さい体が二つに折れた。

それを見た瞬間に、こらえていたものが決壊した。

店の中で、私は情けない顔をしていたと思う。

もっと何か言えたはずだ。

してやれることが、あったはずだ。

そういうときに限って、何も出てこない。

気がついたら、長靴のまま外に飛び出していた。

「待って」

雪の道を、その子が振り返った。

きょとんとしている。

「ちょっとだけ待ってて」

店に駆け戻って、その朝に入ったばかりの鉢を掴んだ。

掌に乗るくらいの、小さなチューリップの鉢植えだ。

丈が伸びない品種で、球根から二十センチも立たないうちに花をつける。

包装紙を巻いて、メッセージカードを一枚抜いた。

油性のペンで、ひらがなだけで書いた。

はやくげんきになりますように。

そこで初めて、名前を聞いていないことに気づいた。

「お名前、なんていうの」

「あかり」

カードの端に、あかり、と書き添えた。

「これも一緒に、あげてな」

「これはな、親指姫っていう名前のチューリップなんだ」

「おやゆびひめ」

「そう。ちっちゃいから、そういう名前がついとる」

その子は、鉢を両手で受け取って、顔を近づけた。

それから、さっきよりずっといい顔で笑った。

その笑い方に、私は見覚えがある気がした。

どこで見たのか、そのときは思い出せなかった。

「ありがとう」

「バイバイ」

「バイバーイ」

雪の照り返しの中で、その顔だけが、やけに明るかった。

ここで、一つ書いておかなければならないことがある。

私は、あの子の父親を知っていた。

知っていた、と気づいたのは、もっとあとのことだ。

毎年二月に、オレンジのチューリップを買いに来る男の客がいた。

三十代の半ばくらい。

作業着の上にジャンパーを羽織って、いつも店の前を二度か三度、行き来してから入ってくる。

花屋に入るのが、よほど気恥ずかしいのだと思った。

「あの、オレンジの、あれ、ありますか」

「チューリップですか」

「それです」

毎年その調子だった。

三年目か四年目に、その人が一度だけ、こう聞いた。

「これ、名前とかあるんですか」

忙しい日だった。

年末の注文が立て込んでいて、私は伝票から目を上げずに答えた。

「ただのチューリップです」

その人は、そうですか、と言って笑った。

それきり、名前を聞かれることはなかった。

去年の二月も、たしかに買いに来ていた。

今年は来なかった。

私は、来なかったことにすら、気づいていなかった。

親父は、花に名前をつけて売る人だった。

品種名を、必ず客に言う。

私は若い頃、それが嫌でしかたなかった。

覚えたところで一本の値が上がるわけでもない。

雪掻きで腰を痛めながら、なぜこんな土地で花などと、何度も思った。

親父が倒れたあと、店を畳む話も出た。

畳まなかったのは、女房が帳簿を睨んで、あと三年やってみようと言ったからだ。

親父が最後に店に立った日のことは、よく覚えている。

杖をついて帳場に座って、客が来るたびに品種名を言った。

「これはな、姫小百合っていうんだ」

客はたいてい、ふうん、と言うだけだ。

それでも親父は、必ず言った。

私が一度、意味がないと言ったことがある。

親父は、しばらく黙ってから答えた。

「名前つけて渡すと、その人の家で、その名前で呼ばれるべ」

「だから」

「花っこが、一日長く生きるんだ」

そのときは、年寄りの言うことだと思って聞き流した。

あの日、私は生まれて初めて、親父のやり方を有り難いと思った。

名前のない鉢だったら、私はあの子に何と言って渡せばよかったのか。

親指姫、と言えたから、あの子は笑ったのだ。

その晩、私はなかなか寝つけなかった。

夜中に一度起きて、長靴を履いて温室を見に行った。

用があったわけではない。

ボイラーの音を聞いて、球根の箱を数えて、それだけで戻った。

台所で女房が、湯を沸かしていた。

「どうした」

「別に」

「泣いだべ」

「泣いでね」

女房は湯呑みを二つ出して、それきり何も聞かなかった。

翌日から、私は妙に戸の音を気にするようになった。

ガラス戸が鳴るたびに、あの背丈を探した。

あの鉢を、ちゃんと渡せたのかどうか。

渡したところで、何にもならなかったのではないか。

そんなことばかり考えていた。

十日ほど経った日の午後だった。

ガラス戸が開いて、三人連れが入ってきた。

年配の女の人と、若い母親と、あの子だった。

わざわざ礼を言いに来てくださったのだという。

母親は、目の下がまだ腫れていた。

それでも背筋を伸ばして、深く頭を下げた。

「先日は、娘が本当にお世話になりました」

「いえ、こちらこそ」

「あの鉢、今も台所の窓に置いています」

あかりちゃんが、母親のコートの裾を引いた。

母親が屈んで、耳を寄せた。

「言うたらいいでしょ。自分で」

あかりちゃんは、私の顔を見上げて、小さい声で言った。

「おはな、まださいてる」

「そうか。水、やりすぎてないか」

「ちょっとだけ、あげてる」

「上手だな」

その子は、満足そうに母親の後ろに隠れた。

母親が、また頭を下げた。

「あの晩、この子が枕元に置いて寝ようとしたので、止めるのが大変でした」

そのあと、ピンクの花束を注文してくださった。

あかりちゃんへ、と伝票に書いた。

母親が、ふっと笑って言った。

「この子、ピンクが好きなんです」

「私がオレンジが好きなものですから、この間はオレンジを選んでくれたみたいで」

あかりちゃんは、母親と祖母を交互に見上げて、にこにこしていた。

祖母が頭を撫でた。

「よかったねえ」

「うん」

私は包装台でリボンを結びながら、その光景を見ていた。

それで終わりのはずだった。

会計のあと、祖母だけが少し残った。

娘と孫を先に外へ出して、雪の音を確かめてから、小さな声で言った。

「さっきの、オレンジの話なんですけど」

「はい」

「あれね、娘の好きな色ではないんですよ」

私は手を止めた。

「毎年ね、うちの婿が、二月にオレンジのチューリップを買うてきよったんです」

「結婚した年から、ずっと」

「娘はね、あの色を、あの人の色やと思うとるんです」

「それを、自分の好きな色いうことにして、あの子に教えとったんですわ」

店の中で、ボイラーの音だけが鳴っていた。

あかりちゃんは、母親の好きな色だと思って、あの日オレンジを選んだ。

その色は、父親が母親に渡し続けていた色だった。

あの子は、知らずに、父親と同じものを選んだのだ。

「あの人はね、名前を知らんまま買うとったんです」

「花の名前をですか」

「ええ。娘に、あれ何ていう花なんって聞かれて、答えられんかった年があってね」

「それから毎年、聞こう聞こうと思うとったみたいで」

私は、伝票の上に置いた手を握った。

ただのチューリップです、と言ったのは私だ。

忙しい日の、たった一言だった。

その一言のせいで、あの人は娘に何も教えてやれないまま、二月を八回繰り返した。

そして今年、その娘が、名前を知りたそうな顔で、私の店に来た。

親指姫、と言ったとき、あの子が笑った理由が、そこでやっと分かった。

名前を持って帰れることが、嬉しかったのだ。

「それと、もう一つ」

祖母は、外の二人を見た。

「あの子、片方だけ手袋を持っとるでしょう」

「はい。ずっと握っとりました」

「あれ、右のミトンです」

「あの子はいつも、お父さんの左手を、右手で握って歩いとりました」

「はめてしもたら、握った感じが分からんようになる、いうて」

片方だけのミトンは、お父さんと手をつないでいたほうの、手のものだった。

寒いから外していたのではない。

あの子は、あの日、右手を空けたまま雪の道を歩いてきたのだ。

花を抱えるときだけ、そのミトンを花束の下に挟んだ。

私は、包装紙の端をずっと折り続けていた。

折らないと、手の置き場がなかった。

「教えてくださって、ありがとうございます」

「いえ。言うつもりはなかったんですけど」

祖母は雪の外を見たまま言った。

「名前を書いてくださったでしょう。あのカードに」

「はい」

「あの子、あれから毎晩、自分の名前のところを指でなぞって寝るんですよ」

祖母が帰ったあと、私は帳場で長いこと座っていた。

親父の言葉を思い出していた。

名前をつけて渡すと、その家で、その名前で呼ばれる。

だから花が一日長く生きる。

年寄りの言うことだと思っていた。

そうではなかった。

一日長く生きるのは、花のほうではない。

それから、あの子の笑い方に見覚えがあった理由も、ようやく分かった。

店の前を二度も三度も行き来してから入ってきた、あの人だ。

「それです」と言うときに、決まって、少し照れたように笑った。

目のあたりの畳み方が、そっくり同じだった。

八年ぶんの二月を、私はあの人の顔で覚えていたのに、名前を一度も聞かなかった。

聞かれたほうにも、聞かなかった側にも、二月は同じだけ積もっていたのだ。

次の年から、私は客に品種名を言うようになった。

聞かれなくても言う。

面倒くさそうな顔をされることも、正直に言えばある。

それでも言う。

ヨシ江さんには、親父さんに似てきたな、と笑われた。

「似でね」

「似でるって」

そのやりとりも、いつのまにか毎朝の一つになった。

それから何年か、二月になると、私はあの鉢を多めに仕入れるようになった。

丈の低い、掌に乗るチューリップだ。

売れ残ることのほうが多い。

枯らしてしまう年もある。

女房には、毎年おなじ顔で叱られる。

それでも、名前を言える花を、店の一番低い棚に置いておきたかった。

子どもの目の高さは、そこだ。

六年目の冬に、女子高生が一人で店に入ってきた。

制服の上に紺のコートを着て、マフラーを口まで上げていた。

球根はありますか、と聞かれた。

秋に植えるものだから、二月にはもう置いていない。

そう答えると、そうですよね、と笑った。

笑い方に見覚えがあった。

名乗られはしなかったし、私も聞かなかった。

その子は、一番低い棚の前でしゃがんで、掌に乗る鉢をひとつ選んだ。

「これ、名前ありますか」

「親指姫、いいます」

「知ってます」

そう言って、その子は代金をきっちり出した。

新聞紙で二重に巻いて、口を折って、セロファンをかけた。

渡すとき、右手が先に出た。

手袋は、両方きちんとはめていた。

戸を開けると、雪の粉が吹き込んだ。

その子は、ぺこりと頭を下げて出ていった。

あの日と同じ角度だった。

雪の壁の向こうに、紺のコートが小さくなっていった。

私は店の前の雪を掻きに出て、しばらく手を止めていた。

母親は、きっと元気になられたのだと思う。

あの二月の鉢は、たぶんもう枯れている。

それでも名前だけは、あの家に残ったはずだ。

球根は、秋にまた売る。

そのときに来てくれるなら、今度こそ、こちらから名前を言おうと思う。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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