妻はどの戸も閉めなかった

妻はどの戸も閉めなかった

鯖江の眼鏡フレームの工場で、私は削りの音を聴く係でした。

チタンの棒を刃が撫でる音が、少し湿るときがあります。

その湿りが出たら刃を替える。

三十を過ぎるころには、隣の列の機械の音まで、目を閉じたまま聞き分けられるようになっていました。

音で食っている男でした。

だから娘の耳のことを聞かされた日、私は、自分の仕事のすべてを馬鹿にされたような気がしたのです。

この町の音

鯖江という町は、朝が早いところです。

六時前になると、通りのあちこちのシャッターが上がって、細い金属の音が重なりはじめます。

家々の一階が工場になっていて、二階で人が寝ている。

そういう家並みが、いまも残っています。

私の勤めていたのは、従業員が十四人の小さな工場でした。

フレームのテンプル、耳にかかる細い脚の部分を削るのが私の持ち場です。

チタンは硬いのに粘りがあって、刃が減ってくると、音の芯にわずかな湿りが出ます。

その湿りは、機械の警報が鳴るよりも二時間ほど早く来ます。

「宮本の耳は、計器より早い」

社長がよそのお客さんにそう言うのを聞くたび、私は自分の背筋が一本、まっすぐになる気がしていました。

いま思えば、それだけを頼りにしていたのです。

ほかに、自分を支える柱を持っていませんでした。

削りの音でわかること

私の父も、その父も、同じ通りの工場でフレームを削っていました。

この町では、家の中でも工場の話ばかりしています。

妻の結も、隣町の研磨屋の娘でした。

結婚した年の冬、結は私の作業着から鉄粉の匂いがすると笑いました。

「うちの父さんとおんなじ匂いやわ」

そう言って、袖のあたりに顔を近づけたのを覚えています。

娘のひなたが生まれたのは、その二年後の九月でした。

小さな手のひらに、鉄粉のついた指を近づけるのが怖くて、私はしばらく抱けませんでした。

結が笑って、私の手を石鹸で洗ってから、娘の背中に当てさせてくれました。

気づいていた人

健診の前の年の暮れ、義父が家に来たことがありました。

結の父、研磨屋の親方です。

玄関でひなたを抱き上げて、しばらく黙っていました。

それから、私の顔を見ずにこう言ったのです。

「この子、目のええ子やな」

私は褒め言葉として受け取って、笑って流しました。

人の顔をよく見る子だ、という意味だったのだと、あとで知りました。

耳の代わりに、目で全部拾っている子だ、と。

この町の職人は、ものを直接には言いません。

言わずに、こちらが気づくのを待ちます。

私は一年近く、気づきませんでした。

三歳児健診の帰り道

ひなたが三つになった秋、市の健診でひっかかりました。

紹介された病院で、いくつかの検査を受けました。

結果を告げられた日のことは、順番が飛び飛びになって残っています。

先生の口が動いていること。

窓の外で、駐車場の白線を引き直している人がいたこと。

ほとんど聞こえていない、という言葉が、耳の奥のずっと手前で止まったこと。

帰りの車の中で、結は一言も喋りませんでした。

私も喋りませんでした。

信号で止まるたびに、後部座席のチャイルドシートを振り返りました。

ひなたは窓の外を見て、けらけら笑っていました。

ワイパーが動くのが面白かったのだと思います。

その笑い声だけが、車の中でいちばん大きな音でした。

家じゅうの戸が五センチ

その冬から、家の中が少しずつ変わっていきました。

いちばん最初に気づいたのは、戸のことです。

結は、うちのどの戸も、閉めきらない人でした。

台所の引き戸も、和室の襖も、風呂場の戸も、いつも五センチほど開いています。

冬の福井は底冷えがしますから、私は何度も閉めました。

閉めても、次に通るときにはまた開いています。

「寒いやろ」と言うと、結は「うん」とだけ答えて、また開けました。

私はそれを、産後からずっと続いている疲れのせいだと思っていました。

この人はもう、細かいことに気が回らなくなっているのだと。

今から思えば、私はそのころ、妻の顔をまともに見ていませんでした。

言えなかった友人たち

恥ずかしい話を書きます。

私は、娘の耳のことを、誰にも言えませんでした。

工場の同期にも、高校の友達にも言いませんでした。

年賀状の写真も、その年だけ出しませんでした。

同期の家に二人目が生まれたと聞いたとき、おめでとうと打ったメールを、送らずに消しました。

そういう自分が、いちばん嫌でした。

プライドという言葉では、たぶん足りません。

私は、自分が音のわかる男だということだけで生きてきて、それ以外の誇りを一つも持っていなかったのです。

だから、音のいらない世界に生まれてきた娘を、どう抱いていいかわからなかった。

一番暗かった冬

年が明けても、私は工場から真っ直ぐ帰りませんでした。

日野川の橋のたもとに車を停めて、暗くなるまでそこにいました。

三人でどこか遠い町へ行って、誰も私たちを知らないところでやり直せたら、とそればかり考えていました。

逃げることばかり考える人間が、家の中でいちばん大きな顔をしていたわけです。

その冬、私は娘の顔を、何日もまともに見ていませんでした。

抱かなかったのではありません。

抱いていても、目を合わせていなかったのです。

妻の十本の指

二月の、雪が湿って重い晩でした。

風呂から上がってきた結が、台所の蛍光灯の下で、急に私のほうへ両手を上げました。

そして、何かを掴んでは離すような動きを始めたのです。

最初は、肩でも痛めたのかと思いました。

私が黙って見ていると、結はゆっくり息を吸って、口と手を同時に動かしました。

「大好き」

「愛してる」

「だから、一緒にがんばろう」

手話でした。

一つ一つの形が、驚くほど静かで、迷いがありませんでした。

指の運びに、練習した人の落ち着きがありました。

台所の窓に、その手が映っていました。

私はそのとき、人の手というものが、こんなに綺麗に見えるものだとは知りませんでした。

削りの音を聴き分ける耳より、ずっと確かなものが、そこで動いていました。

半年前から始まっていたこと

私が泣きやんだあと、結は湯呑みを二つ出して、はじめて事情を話しました。

結は、健診の半年前から気づいていたのです。

掃除機をかけても、ひなたが振り向かない。

後ろから名前を呼んでも、床の振動が伝わったときだけ振り返る。

結は隣町の図書館で手話の本を借り、私が夜勤の晩に、鏡の前で指を動かしていました。

言えば私が壊れると思ったのだそうです。

「あんたの耳のこと、あんた自身がいちばん大事にしとるの、知っとったで」

その半年、結はひとりで持っていました。

私が橋のたもとで車を停めていたころ、この人はもう、次の道を作りはじめていたのです。

「大好き」の出どころ

あの晩の三つの言葉には、続きがありました。

結の実家の研磨屋には、耳の遠い職人さんが一人いました。

幸田さんという、七十を過ぎた方です。

結が子どものころ、その人は毎朝、工場に入る前に結の父へ手を上げて、同じ形を作っていたそうです。

「今日も、よろしく」

結はそれを、ずっと挨拶だと思っていました。

手話を習いはじめて、はじめて意味を知ったのだと言います。

幸田さんが毎朝作っていたのは、「一緒にがんばろう」という形でした。

結は、自分の家にあった言葉を、そのまま娘の家へ持ってきたのです。

手話の先生

結に手話を教えてくれたのは、その幸田さんでした。

結は健診の前の月に、実家へ寄って、頭を下げて頼んだのだそうです。

幸田さんは理由を訊かなかったといいます。

訊かずに、その日から週に一度、研磨機を止めた昼休みに教えてくれました。

あとで結が「なんで何も訊かんかったんですか」と聞いたら、幸田さんはこう答えたそうです。

「訊いたら、あんたが言わんならんくなるでの」

私は、この話を聞いたときに、もう一度泣きました。

私が誰にも言えずにいた半年、妻は、何も訊かない人を一人だけ見つけていたのです。

娘が笑った朝

翌朝、私は工場を休みました。

寝ているひなたの布団のそばに座って、起きるのを待ちました。

目を開けた娘に、私は覚えたての形を作りました。

右手を胸の前で丸めて、少しだけ動かす。

「おはよう」の形です。

指がふるえて、たぶん、まるで違う形になっていたと思います。

それでもひなたは、にっこり笑いました。

笑って、こちらへ手を伸ばして、私の指を握って直そうとしました。

三つの子が、父親の手の形を直そうとしたのです。

私はその小さな手のひらの、あたたかさばかり覚えています。

父になった一年目のこと

ひなたが生まれた年、私は残業を断らない人間でした。

納期の詰まる十月と二月は、家に帰るのが日付をまたぐこともありました。

結は文句を言いませんでした。

言わない代わりに、私の分の茶碗だけ、いつも流しの縁に伏せてありました。

帰ったら自分で温めて食べられるように、鍋の位置も決まっていました。

この人は、言葉より先に、家の形を変える人でした。

いま思えば、戸のことも、床のことも、その延長にあったのです。

私はその変化に、ひとつも気づいていませんでした。

音の湿りは二時間先まで聞き分けられるのに、自分の家の変わり方だけは分からない。

職人というのは、そういう間抜けなところがあります。

言えるようになるまで

運動会のあと、私は少しずつ人に話すようになりました。

工場の休憩所で、同期の橋本にはじめて打ち明けたとき、彼はしばらく黙っていました。

それから、缶コーヒーを一本、私の前に置いて言いました。

「なんで、もっと早う言わんのや」

怒った声ではありませんでした。

困っているような、少し情けないような声でした。

私が黙っていた一年半は、私が思っていたよりずっと、周りの人にとって寂しい時間だったのだと知りました。

隠していたのは娘のことではなく、自分の弱さのほうでした。

その日から、橋本は昼休みに手話の動画を見るようになりました。

覚えたての形を、休憩所で私に見せてきます。

だいたい間違っています。

それでも、間違った形を見せてくる人がいるというのは、ありがたいものでした。

三年後の手

あれから三年が経ちました。

ひなたの手は、いまではすっかり上手に動きます。

喋っています。

「おとうさん、きょう、はやい」

「きのう、ゆき、いっぱい」

保育園の帰り道、車の中でも、後ろの席から鏡ごしに手が動きます。

私は運転しながら、片手だけで返します。

形が崩れると、赤信号で止まったときに、必ず直されます。

厳しい先生です。

工場では、いまも私は音を聴いています。

ただ、家に帰ると、耳をひとつ置いてくるような気持ちで玄関を上がります。

それは寂しいことではありませんでした。

むしろ、この家にはもう一つ別の言葉があるのだと思うと、少し誇らしいのです。

冬の台所

いまも冬になると、台所の引き戸を五センチ開けて出るのが癖になりました。

結が笑います。

「あんた、寒い寒い言うとったのにな」

返す言葉がありません。

あの冬、閉めて回っていたのは私です。

開け直していたのは、この人です。

家の中の道を最初に引いた人が、いまも隣で笑っているというのは、ずいぶん贅沢なことだと思います。

五センチの意味

戸のことを、私はずっと訊かずにいました。

訊いたのは、去年の夏です。

結は、あっさり答えました。

戸を開けていたのは、風を通すためではありませんでした。

「戸、閉めてまうと、あの子、家の中で一人になってまうやろ」

五センチ開けておけば、隣の部屋の明かりが細く漏れます。

人が歩けば、床の振動が続いた床板を伝って届きます。

台所で鍋を置く音も、板を通って足の裏に来ます。

結は、健診よりも前から、この家を娘の耳に作り替えていたのです。

私が閉めて回っていたあの冬、この人はどんな気持ちで、また開けに行っていたのでしょう。

それを思うと、いまでも胸の奥が冷たくなります。

床のこと

戸の話を聞いた翌週、私は畳を一枚上げてみました。

床下の根太に、細い角材が何本か、あとから打ち足されていました。

素人の仕事です。

釘の頭がまっすぐ入っていないところもありました。

結に訊くと、義父が休みの日に来て、二人でやったのだと言います。

台所から和室まで、板の下をつないだのだそうです。

そうすると、台所で鍋を置いた振動が、和室の畳まで細く届きます。

ひなたは、その振動で母親の居場所を知っていました。

私が工場で刃の音を聴いていた同じ時間に、この家では、床が言葉になっていたのです。

義父は、そのことを一度も私に言いませんでした。

言えば、私が自分の家に引け目を持つと思ったのでしょう。

幸田さんに会いに行く

春になって、私は研磨屋へ挨拶に行きました。

幸田さんは、まだ現役でした。

作業台の前で、レンズの縁を当てる角度を手首だけで直しているところでした。

私が近づくと、床の振動で顔を上げました。

手を上げて、あの形を作ってくれました。

私はうまく返せませんでした。

形が崩れて、途中で手が止まりました。

幸田さんは笑って、私の手首を持って、正しい位置まで動かしてくれました。

ざらざらした、砥石の粉の乾いた手でした。

「ゆっくりでええ」

そう口が動きました。

帰り際、幸田さんが結に何かを言い、結が笑って通訳してくれました。

「うちの機械の音も、聞いてってくれんかって」

私は研磨機の前に立って、しばらく目を閉じていました。

石が減っているのが分かったので、そう伝えました。

幸田さんは満足そうに、何度も頷きました。

聞こえない人と、音のことで通じ合った日でした。

運動会の朝

その年の秋、保育園の運動会がありました。

かけっこの合図は、笛ではなく旗にしてもらいました。

先生が旗を振り下ろすのに合わせて、子どもたちが走ります。

ひなたは、旗をじっと見て、いちばんに飛び出しました。

ゴールの手前で一度振り返って、こちらを見ました。

私は手を上げて、覚えたばかりの形を作りました。

「すごい」

親指を立てて、少し前へ出す形です。

娘はそれを見て、走りながら笑いました。

笑ったせいで転びかけて、また笑いました。

結が隣で、袖でずっと目を押さえていました。

あの日、私は初めて、人前で娘の耳のことを話しました。

同じ組のお父さんに、旗のことを訊かれたからです。

説明していると、思っていたより言葉が出ました。

一年半、言えずにいたのが、嘘のようでした。

いまも開いている戸

先週、ひなたの部屋に机を入れました。

小学校に上がる準備です。

机を運び込んだあと、娘は自分で部屋の戸を、少しだけ開けて出てきました。

誰にも教わっていないはずです。

結と目が合いました。

二人とも何も言いませんでした。

この家では、言わなくていいことが、少しずつ増えていきます。

もし同じような日の中にいる方がいたら、これだけをお伝えしたいのです。

音がなくても、家の中には道が引けます。

その道は、たいてい、いちばん先に諦めなかった人が引いています。

私はそれを、妻の十本の指から教わりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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