
六年ぶりに充電器へ挿した携帯
引き出しの奥から出てきた折りたたみの携帯は、蝶番のところが白く粉を吹いていました。
充電器の口が合うかどうか、それだけが心配でした。
挿してから二十分ほどして、画面がゆっくりと明るくなりました。
受信箱に、母の名前が並んでいます。
母が亡くなってから、六年が経ちました。
まだまだ寂しがりやの私です。
私は今治の、山のほうへ少し入った町で生まれました。
川沿いにタオルの工場がいくつも並んでいて、朝と夕方に、糸くずの匂いのする風が吹きます。
母はそのうちの一つで、検反という仕事をしていました。
織り上がったタオルを明るい台の上に流して、傷や糸の飛びを見つける仕事です。
一日じゅう立って、布だけを見ています。
私は今、母がいた台の、二つ隣に立っています。
※
どれも十文字より短い
受信箱を、上から順に開いていきました。
「まだ帰れない?」
「鍵忘れてるよ^^」
「迎えに来て」
どれも、なんということのない文です。
けれど、並べて眺めているうちに、妙なことに気づきました。
母からのメールは、どれも十文字より短いのです。
一通も、例外がありませんでした。
指を折って数えたわけではありません。
画面の一行に、必ず収まってしまうのです。
母は口数の少ない人ではありませんでした。
台所ではよく喋りましたし、笑い声も大きい人でした。
それなのに、文字にすると急に短くなる。
私はそれを、機械が苦手なせいだと思っていました。
ボタンを押すのが億劫なのだろう、と。
六年、そう思っていました。
※
「今日は雨よ」だけの朝
中学二年の秋から、私は学校へ行かなくなりました。
理由は、今もうまく言葉になりません。
ひとつの大きなことがあったわけではなく、細かいことが積み重なって、ある朝、玄関で靴を履く手が止まっただけです。
母は何も訊きませんでした。
怒りもせず、慰めもせず、ただ台所から声をかけました。
「今日は雨よ」
それだけです。
次の日も、その次の日も、母は天気のことしか言いませんでした。
「今日は晴れ」
「今日は寒い」
当時の私は、それがありがたいとも思いませんでした。
ただ、責められないというだけで、息ができていたのだと思います。
あの秋、母は一度だけ学校に電話をかけました。
台所の壁の電話で、受話器を肩に挟んだまま、じゃがいもの皮を剥きながら話していました。
「はい」「はい」と、返事ばかりしていました。
最後に一言だけ、「うちの子は、怠けとりません」と言って切りました。
それから母は、剥きかけのじゃがいもをしばらく持ったまま、流しの前に立っていました。
背中しか見えませんでしたが、肩が動いていないのがわかりました。
息を止めている人の背中でした。
私は自分の部屋の戸を、そっと閉めました。
あの頃、私は人の話す言葉が長いのが苦手でした。
担任の先生から届く手紙も、便箋の二枚目を開けませんでした。
友達からの長いメールにも、返事が打てませんでした。
打とうとすると、指が止まってしまうのです。
相手が三行くれたのに、こちらが一行しか返せない。
その差が、そのまま自分の欠けたところに見えました。
だから、返さない。
返さないうちに、届かなくなる。
そういう冬でした。
※
入学式の前の晩
高校の入学式の前の晩、母は私の制服にアイロンをかけながら言いました。
「行かんでもええよ」
驚いて顔を上げると、母は襟のところを押さえたまま、続けました。
「行きとうなったら行き。行きとうなかったら、その日は雨ってことにしとき」
うまい理屈だとは思いませんでした。
ただ、その晩から、私の中で天気の話は約束事になりました。
母が「今日は雨よ」と言った日は、休んでいい日だったのです。
三年間で、母がその言葉を使ったのは四回でした。
四回とも、実際には晴れていました。
※
自転車を置いて帰った夜
三年生の春から、私は少しずつ学校へ戻りました。
その頃から、母のメールが届くようになりました。
「迎えに来て」
工場の夜勤明けや、遅番の終わりに、そう入るのです。
私は原付の免許を取ったばかりで、母を後ろに乗せて帰るのが少し得意でした。
母は工場まで自転車で通っていましたから、本当は迎えなど要りません。
雨の日ならわかります。
けれど、晴れた日にも来ました。
「自転車、どうするん」
「明日乗るけん、置いとく」
母はそう言って、駐輪場の隅に自転車を停めていきました。
そんな夜が、何度もありました。
私はただ、母が疲れているのだと思っていました。
工場の裏の道には、春になると菜の花が咲きます。
母はそこで一度だけ、私の原付を止めさせました。
「ちょっとだけ、止まって」
降りもせず、ヘルメットのまま、母は三十秒ほど黙っていました。
それから「もうええ」と言って、私の背中を軽く叩きました。
あの三十秒が何だったのか、今も私にはわかりません。
わからないまま、毎年その道を通ります。
※
青野さんが見せてくれた画面
母の携帯を充電した週の終わりに、私は検反場の休憩室で、青野さんに話しました。
青野さんは母より五つ上で、母を工場に誘った人です。
今も同じ台に立っています。
「短いんですよ、母のメール」
私がそう言うと、青野さんは湯呑みを置いて、少し不思議そうな顔をしました。
「短い?」
「はい。全部、一行なんです」
青野さんはしばらく黙って、それから自分の携帯を出しました。
古い機種を、まだ持っているのだそうです。
画面を私のほうへ向けて、言いました。
「うちらには、長いのくれよったよ。三行も四行も」
本当に、長いのです。
その日の検反で見つけた傷のこと。
孫が熱を出した青野さんへの、長いお見舞いの言葉。
句読点も、きちんと打ってありました。
「あんたには、短いん?」
「はい」
「そりゃあ、わざとじゃろ」
青野さんは、湯呑みを両手で包んでから、続けました。
「あんたが学校行かんようになった頃な、お母さん、ここで言いよったよ。長い文送ったら、あの子、返さないかんと思うて苦しむって」
私は、湯呑みの縁を見ていました。
顔を上げられませんでした。
母は、私にだけ、十文字より短い人でした。
※
青野さんは、それからしばらく窓の外を見ていました。
休憩室の窓からは、干してあるタオルの列が見えます。
「お母さんな、休憩のときはいっつも、あんたの話じゃった」
今日はご飯を食べた、今日は玄関まで出た、今日は原付の教本を読んどった。
そういう報告を、毎日していたのだそうです。
「うちら、あんたの顔も知らんのに、あんたのことばっかり知っとった」
私はそのあいだ、母が私の話を誰かにしているとは、想像もしていませんでした。
家では、母は何も訊かない人だったからです。
訊かない人が、外でいちばん喋っていたのです。
※
顔文字がひとつだけだった理由
家に帰って、もう一度受信箱を開きました。
「鍵忘れてるよ^^」
この顔文字が、私はずっと少し照れくさかったのです。
母の年で、と思っていました。
青野さんに送られたメールには、顔文字は一つもありませんでした。
翌週、私はもう一度訊きに行きました。
青野さんは、覚えていました。
「あれな、うちが教えたんよ」
母は最初、点が二つ並んだ記号の意味がわからなかったそうです。
それでも三日かけて覚えて、私に送るときだけ、必ず末尾につけるようになった。
「文字だけやと、怒っとるように見えるけん、って」
あの冬、私は文字だけの文が怖かった。
それを、母は誰にも言わずに、記号ひとつで解決しようとしていたのです。
不器用な人でした。
けれど、その不器用さの向きは、いつも私のほうを向いていました。
亡くなった親が残した記録の意味に、あとから気づく話は世の中にたくさんあります。母のビデオテープのように、映像や文字で残るものはまだ幸せなのかもしれません。母の場合、残っていたのは「短さ」でした。
※
迎えに行っていたのは、どちらだったのか
駐輪場の話を、私は思い出しました。
工場の駐輪場には、夜のあいだ自転車を置く人のための届出簿があります。
総務の人に頼んで、古い綴りを見せてもらいました。
母の名前が、十九回ありました。
そのうち十七回が、雨の降らなかった日でした。
そして十九回のすべてが、私が高校へ通っていた三年間に集まっていました。
大学に入って家を出てからは、一度もありません。
「迎えに来て」は、母が楽をするための言葉ではなかったのです。
私に、夜、外へ出る用事を作るための言葉でした。
学校へ行けなかった娘が、原付にまたがって、暗い川沿いを走って、誰かのために出かけていく。
その用事を、母は月に一度か二度、自分の足で作っていました。
自転車を置いて帰る不便を、十九回、引き受けて。
私は迎えに行っているつもりでした。
迎えられていたのは、私のほうでした。
※
最後の四文字
受信箱のいちばん下に、最後のメールがあります。
亡くなる二日前。
「もう直ぐ?」
四文字です。
病院にいた母が、見舞いに向かう私を待っていた、それだけのことだと思っていました。
けれど今回、私は初めて、その一通の送信元の番号を見ました。
母の番号ではありませんでした。
下四桁が、まるで違うのです。
私は六年間、一度もそこを見ていませんでした。
母の名前で表示されていなかったことにすら、気づいていなかったのです。
その番号に、私はかけませんでした。
かわりに、当時の同室の方を探しました。
田坂さんという方で、今は松山の施設におられます。
面会の部屋で名乗ると、田坂さんは私の顔を見て、すぐに言いました。
「ああ、まだ細いねえ」
母が、娘は細いと何度も言っていたそうです。
※
田坂さんの話
あの日、母はもう指がうまく動かなかったのだそうです。
抗がん剤の副作用で、指先の感覚がなくなっていました。
それでも、送りたい文があった。
田坂さんは自分の携帯を差し出して、代わりに打ちましょうかと言いました。
母は少し考えて、頼みました。
そのとき初めて、母は「痛い」と言ったそうです。
手を伸ばした拍子に、背中が痛んだのだと。
「あんなに我慢する人が、あの一回だけ言うたんよ」
田坂さんは、そう言って笑いました。
母が口で言った文は、もっと長かったそうです。
田坂さんが打ち終えて画面を見せると、母は首を振って、削っていったのだと。
削って、削って、残ったのが四文字でした。
「長いと、あの子が病室で泣くけん、って」
それから母は、宛名の欄だけは自分で押しました。
動かない指で、何度も押し直して、私の名前を選んだそうです。
「そこだけは、貸してくれんかった」
そのとき私は、母がどんな顔で番号を押していたのかを想像しました。
指の感覚がないというのは、たぶん、押した気がしないということです。
押したかどうか、画面を見て確かめるしかない。
それを何度も繰り返して、ようやく私の名前にたどり着いた。
その時間に比べたら、四文字を打つ手間など、たかが知れています。
それでも母は、打つほうを人に頼み、選ぶほうを自分に残しました。
どちらを人に渡すかで、その人がわかるのだと思います。
※
田坂さんの部屋には、小さな仏壇のような棚があって、湯呑みがふたつ並んでいました。
ひとつは自分の分、もうひとつは、同じ病室にいた人たちの分だと言われました。
「名前は忘れてしまうけどな、湯呑みは覚えとる」
帰り際、田坂さんは廊下の途中まで送ってくれました。
そして、思い出したように付け加えました。
「あの人な、送信の音がしたあと、すぐ寝たふりしよったよ」
返事が来るのを、待っていないふりをしていたのだそうです。
私はあの夜、すぐには返さなかったと思います。
仕事の途中で、あとで打とうと思ったまま、病院へ向かってしまった。
四文字に、私は一文字も返していません。
松山からの帰りのバスで、そのことをずっと考えていました。
※
強い母でいさせてしまった
お医者さんから危ないと聞いて、私は病室でこらえきれずに泣きました。
母は、私の手を軽く叩いて励ましてくれました。
あのとき、私は母に励まされる側でいることを、当たり前だと思っていました。
朦朧としてからようやく漏れた「痛い」の一言を、私は最期の弱音だと思っていました。
違ったのです。
あれは二度目でした。
一度目は、私に四文字を送るために出た「痛い」でした。
ごめんね。
強い母さんで、最後までいさせてしまって。
母が見せた涙の話を読んだことがありますが、私の母は、涙を見せる代わりに文字を削る人でした。
※
私が立っている台
今、私は検反の台に立っています。
白い光の下を、タオルが流れていきます。
一日に何百枚も見ます。
傷は、たいてい端にあります。
真ん中の派手な傷は誰でも見つけますが、端の一ミリは、見ようと決めていないと見えません。
母は、その端を見る人でした。
検反の台の光は、少し青みがかっています。
その色でないと、白の中の白が見えません。
一日立っていると、夕方には自分の手のひらまで青く見えてきます。
母の手は、いつも少し乾いていました。
タオルを触る手にクリームを塗るわけにいかないからです。
冬になると、親指の付け根が割れて、そこにだけ絆創膏を巻いていました。
私も今年、同じところが割れました。
父はそれを見て、何も言わずに絆創膏の箱を洗面所に置いていきました。
父も、言葉の短い人です。
青野さんが言うには、母は台の高さを一段だけ低くしていたそうです。
背が低かったからではありません。
低くすると、隣の台の人の手元が見えるのだと。
誰かが遅れていたら、黙って自分のほうに一枚引く。
そういう位置に、母はずっと立っていました。
私は先月、自分の台を一段下げました。
青野さんは何も言いませんでした。
ただ、その日の帰りに「ようやったね」と、一度だけ肩を叩かれました。
※
八十七行の余白
母のメールを、私は日付順に紙へ書き写してみました。
六年前の受信箱は、いつ壊れるかわかりません。
ノートの一行に一通ずつ、日付と本文を並べていきます。
全部で八十七通ありました。
八十七行が、どれも右側を大きく空けたまま並んでいます。
紙の上で見ると、余白のほうが多いのです。
母が削った分の空白が、そこにそのまま残っているように見えました。
私は最後の行の右に、鉛筆で薄く線を引きました。
削られたところに、いつか自分の言葉を足せる日が来るような気がしたからです。
まだ、一文字も足せていません。
※
下書きに残した十文字
古い携帯は、また引き出しに戻しました。
捨てられないものが増えていくのは、少し困ります。
それでも、あの受信箱だけは、私の中で意味が変わりました。
短かったのではありません。
短くしてもらっていたのです。
今の携帯の下書きに、私は一通だけ残しています。
宛先はありません。
「かあさん、さみしいよ」
数えると、ちょうど九文字でした。
十文字には、まだ足りません。
足りないまま、しばらく置いておこうと思います。
名前を呼んでほしい。
心配してほしい。
玄関で靴を履けなかった朝に戻れたら、私は今度こそ、母に長い返事を打つでしょう。
三行でも、四行でも。
会いたいなあ。
まだ、泣かせてね。
この話を書きながら、父からの保護メールという記事のことを思い出しました。親から届く短い文には、たいてい削られた部分があるのだと思います。