十文字より短い母のメール

十文字より短い母のメール

六年ぶりに充電器へ挿した携帯

引き出しの奥から出てきた折りたたみの携帯は、蝶番のところが白く粉を吹いていました。

充電器の口が合うかどうか、それだけが心配でした。

挿してから二十分ほどして、画面がゆっくりと明るくなりました。

受信箱に、母の名前が並んでいます。

母が亡くなってから、六年が経ちました。

まだまだ寂しがりやの私です。

私は今治の、山のほうへ少し入った町で生まれました。

川沿いにタオルの工場がいくつも並んでいて、朝と夕方に、糸くずの匂いのする風が吹きます。

母はそのうちの一つで、検反という仕事をしていました。

織り上がったタオルを明るい台の上に流して、傷や糸の飛びを見つける仕事です。

一日じゅう立って、布だけを見ています。

私は今、母がいた台の、二つ隣に立っています。

どれも十文字より短い

受信箱を、上から順に開いていきました。

「まだ帰れない?」

「鍵忘れてるよ^^」

「迎えに来て」

どれも、なんということのない文です。

けれど、並べて眺めているうちに、妙なことに気づきました。

母からのメールは、どれも十文字より短いのです。

一通も、例外がありませんでした。

指を折って数えたわけではありません。

画面の一行に、必ず収まってしまうのです。

母は口数の少ない人ではありませんでした。

台所ではよく喋りましたし、笑い声も大きい人でした。

それなのに、文字にすると急に短くなる。

私はそれを、機械が苦手なせいだと思っていました。

ボタンを押すのが億劫なのだろう、と。

六年、そう思っていました。

「今日は雨よ」だけの朝

中学二年の秋から、私は学校へ行かなくなりました。

理由は、今もうまく言葉になりません。

ひとつの大きなことがあったわけではなく、細かいことが積み重なって、ある朝、玄関で靴を履く手が止まっただけです。

母は何も訊きませんでした。

怒りもせず、慰めもせず、ただ台所から声をかけました。

「今日は雨よ」

それだけです。

次の日も、その次の日も、母は天気のことしか言いませんでした。

「今日は晴れ」

「今日は寒い」

当時の私は、それがありがたいとも思いませんでした。

ただ、責められないというだけで、息ができていたのだと思います。

あの秋、母は一度だけ学校に電話をかけました。

台所の壁の電話で、受話器を肩に挟んだまま、じゃがいもの皮を剥きながら話していました。

「はい」「はい」と、返事ばかりしていました。

最後に一言だけ、「うちの子は、怠けとりません」と言って切りました。

それから母は、剥きかけのじゃがいもをしばらく持ったまま、流しの前に立っていました。

背中しか見えませんでしたが、肩が動いていないのがわかりました。

息を止めている人の背中でした。

私は自分の部屋の戸を、そっと閉めました。

あの頃、私は人の話す言葉が長いのが苦手でした。

担任の先生から届く手紙も、便箋の二枚目を開けませんでした。

友達からの長いメールにも、返事が打てませんでした。

打とうとすると、指が止まってしまうのです。

相手が三行くれたのに、こちらが一行しか返せない。

その差が、そのまま自分の欠けたところに見えました。

だから、返さない。

返さないうちに、届かなくなる。

そういう冬でした。

入学式の前の晩

高校の入学式の前の晩、母は私の制服にアイロンをかけながら言いました。

「行かんでもええよ」

驚いて顔を上げると、母は襟のところを押さえたまま、続けました。

「行きとうなったら行き。行きとうなかったら、その日は雨ってことにしとき」

うまい理屈だとは思いませんでした。

ただ、その晩から、私の中で天気の話は約束事になりました。

母が「今日は雨よ」と言った日は、休んでいい日だったのです。

三年間で、母がその言葉を使ったのは四回でした。

四回とも、実際には晴れていました。

自転車を置いて帰った夜

三年生の春から、私は少しずつ学校へ戻りました。

その頃から、母のメールが届くようになりました。

「迎えに来て」

工場の夜勤明けや、遅番の終わりに、そう入るのです。

私は原付の免許を取ったばかりで、母を後ろに乗せて帰るのが少し得意でした。

母は工場まで自転車で通っていましたから、本当は迎えなど要りません。

雨の日ならわかります。

けれど、晴れた日にも来ました。

「自転車、どうするん」

「明日乗るけん、置いとく」

母はそう言って、駐輪場の隅に自転車を停めていきました。

そんな夜が、何度もありました。

私はただ、母が疲れているのだと思っていました。

工場の裏の道には、春になると菜の花が咲きます。

母はそこで一度だけ、私の原付を止めさせました。

「ちょっとだけ、止まって」

降りもせず、ヘルメットのまま、母は三十秒ほど黙っていました。

それから「もうええ」と言って、私の背中を軽く叩きました。

あの三十秒が何だったのか、今も私にはわかりません。

わからないまま、毎年その道を通ります。

青野さんが見せてくれた画面

母の携帯を充電した週の終わりに、私は検反場の休憩室で、青野さんに話しました。

青野さんは母より五つ上で、母を工場に誘った人です。

今も同じ台に立っています。

「短いんですよ、母のメール」

私がそう言うと、青野さんは湯呑みを置いて、少し不思議そうな顔をしました。

「短い?」

「はい。全部、一行なんです」

青野さんはしばらく黙って、それから自分の携帯を出しました。

古い機種を、まだ持っているのだそうです。

画面を私のほうへ向けて、言いました。

「うちらには、長いのくれよったよ。三行も四行も」

本当に、長いのです。

その日の検反で見つけた傷のこと。

孫が熱を出した青野さんへの、長いお見舞いの言葉。

句読点も、きちんと打ってありました。

「あんたには、短いん?」

「はい」

「そりゃあ、わざとじゃろ」

青野さんは、湯呑みを両手で包んでから、続けました。

「あんたが学校行かんようになった頃な、お母さん、ここで言いよったよ。長い文送ったら、あの子、返さないかんと思うて苦しむって」

私は、湯呑みの縁を見ていました。

顔を上げられませんでした。

母は、私にだけ、十文字より短い人でした。

青野さんは、それからしばらく窓の外を見ていました。

休憩室の窓からは、干してあるタオルの列が見えます。

「お母さんな、休憩のときはいっつも、あんたの話じゃった」

今日はご飯を食べた、今日は玄関まで出た、今日は原付の教本を読んどった。

そういう報告を、毎日していたのだそうです。

「うちら、あんたの顔も知らんのに、あんたのことばっかり知っとった」

私はそのあいだ、母が私の話を誰かにしているとは、想像もしていませんでした。

家では、母は何も訊かない人だったからです。

訊かない人が、外でいちばん喋っていたのです。

顔文字がひとつだけだった理由

家に帰って、もう一度受信箱を開きました。

「鍵忘れてるよ^^」

この顔文字が、私はずっと少し照れくさかったのです。

母の年で、と思っていました。

青野さんに送られたメールには、顔文字は一つもありませんでした。

翌週、私はもう一度訊きに行きました。

青野さんは、覚えていました。

「あれな、うちが教えたんよ」

母は最初、点が二つ並んだ記号の意味がわからなかったそうです。

それでも三日かけて覚えて、私に送るときだけ、必ず末尾につけるようになった。

「文字だけやと、怒っとるように見えるけん、って」

あの冬、私は文字だけの文が怖かった。

それを、母は誰にも言わずに、記号ひとつで解決しようとしていたのです。

不器用な人でした。

けれど、その不器用さの向きは、いつも私のほうを向いていました。

亡くなった親が残した記録の意味に、あとから気づく話は世の中にたくさんあります。母のビデオテープのように、映像や文字で残るものはまだ幸せなのかもしれません。母の場合、残っていたのは「短さ」でした。

迎えに行っていたのは、どちらだったのか

駐輪場の話を、私は思い出しました。

工場の駐輪場には、夜のあいだ自転車を置く人のための届出簿があります。

総務の人に頼んで、古い綴りを見せてもらいました。

母の名前が、十九回ありました。

そのうち十七回が、雨の降らなかった日でした。

そして十九回のすべてが、私が高校へ通っていた三年間に集まっていました。

大学に入って家を出てからは、一度もありません。

「迎えに来て」は、母が楽をするための言葉ではなかったのです。

私に、夜、外へ出る用事を作るための言葉でした。

学校へ行けなかった娘が、原付にまたがって、暗い川沿いを走って、誰かのために出かけていく。

その用事を、母は月に一度か二度、自分の足で作っていました。

自転車を置いて帰る不便を、十九回、引き受けて。

私は迎えに行っているつもりでした。

迎えられていたのは、私のほうでした。

最後の四文字

受信箱のいちばん下に、最後のメールがあります。

亡くなる二日前。

「もう直ぐ?」

四文字です。

病院にいた母が、見舞いに向かう私を待っていた、それだけのことだと思っていました。

けれど今回、私は初めて、その一通の送信元の番号を見ました。

母の番号ではありませんでした。

下四桁が、まるで違うのです。

私は六年間、一度もそこを見ていませんでした。

母の名前で表示されていなかったことにすら、気づいていなかったのです。

その番号に、私はかけませんでした。

かわりに、当時の同室の方を探しました。

田坂さんという方で、今は松山の施設におられます。

面会の部屋で名乗ると、田坂さんは私の顔を見て、すぐに言いました。

「ああ、まだ細いねえ」

母が、娘は細いと何度も言っていたそうです。

田坂さんの話

あの日、母はもう指がうまく動かなかったのだそうです。

抗がん剤の副作用で、指先の感覚がなくなっていました。

それでも、送りたい文があった。

田坂さんは自分の携帯を差し出して、代わりに打ちましょうかと言いました。

母は少し考えて、頼みました。

そのとき初めて、母は「痛い」と言ったそうです。

手を伸ばした拍子に、背中が痛んだのだと。

「あんなに我慢する人が、あの一回だけ言うたんよ」

田坂さんは、そう言って笑いました。

母が口で言った文は、もっと長かったそうです。

田坂さんが打ち終えて画面を見せると、母は首を振って、削っていったのだと。

削って、削って、残ったのが四文字でした。

「長いと、あの子が病室で泣くけん、って」

それから母は、宛名の欄だけは自分で押しました。

動かない指で、何度も押し直して、私の名前を選んだそうです。

「そこだけは、貸してくれんかった」

そのとき私は、母がどんな顔で番号を押していたのかを想像しました。

指の感覚がないというのは、たぶん、押した気がしないということです。

押したかどうか、画面を見て確かめるしかない。

それを何度も繰り返して、ようやく私の名前にたどり着いた。

その時間に比べたら、四文字を打つ手間など、たかが知れています。

それでも母は、打つほうを人に頼み、選ぶほうを自分に残しました。

どちらを人に渡すかで、その人がわかるのだと思います。

田坂さんの部屋には、小さな仏壇のような棚があって、湯呑みがふたつ並んでいました。

ひとつは自分の分、もうひとつは、同じ病室にいた人たちの分だと言われました。

「名前は忘れてしまうけどな、湯呑みは覚えとる」

帰り際、田坂さんは廊下の途中まで送ってくれました。

そして、思い出したように付け加えました。

「あの人な、送信の音がしたあと、すぐ寝たふりしよったよ」

返事が来るのを、待っていないふりをしていたのだそうです。

私はあの夜、すぐには返さなかったと思います。

仕事の途中で、あとで打とうと思ったまま、病院へ向かってしまった。

四文字に、私は一文字も返していません。

松山からの帰りのバスで、そのことをずっと考えていました。

強い母でいさせてしまった

お医者さんから危ないと聞いて、私は病室でこらえきれずに泣きました。

母は、私の手を軽く叩いて励ましてくれました。

あのとき、私は母に励まされる側でいることを、当たり前だと思っていました。

朦朧としてからようやく漏れた「痛い」の一言を、私は最期の弱音だと思っていました。

違ったのです。

あれは二度目でした。

一度目は、私に四文字を送るために出た「痛い」でした。

ごめんね。

強い母さんで、最後までいさせてしまって。

母が見せた涙の話を読んだことがありますが、私の母は、涙を見せる代わりに文字を削る人でした。

私が立っている台

今、私は検反の台に立っています。

白い光の下を、タオルが流れていきます。

一日に何百枚も見ます。

傷は、たいてい端にあります。

真ん中の派手な傷は誰でも見つけますが、端の一ミリは、見ようと決めていないと見えません。

母は、その端を見る人でした。

検反の台の光は、少し青みがかっています。

その色でないと、白の中の白が見えません。

一日立っていると、夕方には自分の手のひらまで青く見えてきます。

母の手は、いつも少し乾いていました。

タオルを触る手にクリームを塗るわけにいかないからです。

冬になると、親指の付け根が割れて、そこにだけ絆創膏を巻いていました。

私も今年、同じところが割れました。

父はそれを見て、何も言わずに絆創膏の箱を洗面所に置いていきました。

父も、言葉の短い人です。

青野さんが言うには、母は台の高さを一段だけ低くしていたそうです。

背が低かったからではありません。

低くすると、隣の台の人の手元が見えるのだと。

誰かが遅れていたら、黙って自分のほうに一枚引く。

そういう位置に、母はずっと立っていました。

私は先月、自分の台を一段下げました。

青野さんは何も言いませんでした。

ただ、その日の帰りに「ようやったね」と、一度だけ肩を叩かれました。

八十七行の余白

母のメールを、私は日付順に紙へ書き写してみました。

六年前の受信箱は、いつ壊れるかわかりません。

ノートの一行に一通ずつ、日付と本文を並べていきます。

全部で八十七通ありました。

八十七行が、どれも右側を大きく空けたまま並んでいます。

紙の上で見ると、余白のほうが多いのです。

母が削った分の空白が、そこにそのまま残っているように見えました。

私は最後の行の右に、鉛筆で薄く線を引きました。

削られたところに、いつか自分の言葉を足せる日が来るような気がしたからです。

まだ、一文字も足せていません。

下書きに残した十文字

古い携帯は、また引き出しに戻しました。

捨てられないものが増えていくのは、少し困ります。

それでも、あの受信箱だけは、私の中で意味が変わりました。

短かったのではありません。

短くしてもらっていたのです。

今の携帯の下書きに、私は一通だけ残しています。

宛先はありません。

「かあさん、さみしいよ」

数えると、ちょうど九文字でした。

十文字には、まだ足りません。

足りないまま、しばらく置いておこうと思います。

名前を呼んでほしい。

心配してほしい。

玄関で靴を履けなかった朝に戻れたら、私は今度こそ、母に長い返事を打つでしょう。

三行でも、四行でも。

会いたいなあ。

まだ、泣かせてね。

この話を書きながら、父からの保護メールという記事のことを思い出しました。親から届く短い文には、たいてい削られた部分があるのだと思います。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

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