おかあちゃんへ。
こんな手紙、もう届かないのは分かっています。
それでも、生きているうちに言えなかったことを、今、書いておきたくなりました。
あなたが旅立ってから、ちょうど一年が経ちました。
机の上には、買ってきたばかりの、小さなショートケーキがあります。
今日は、あなたの誕生日だからです。
ろうそくは立てませんでした。立てるのが、まだ少しだけ、つらいのです。
だから代わりに、こうしてペンを持ちました。
一年経っても、書き出しの「おかあちゃんへ」の四文字で、もう、手が止まってしまいます。
※
まずは、長い闘病、本当におつかれさまでした。
二年です。あなたは二年も、あの病気と、たった一人で向き合っていました。
左の手が動かなくなっても、最後まで、治ることを諦めなかった。
その背中を、私はずっと、すごいと思って見ていました。
格好よかったよ。子どものために、あんなに必死になれる人を、私は他に知りません。
おかあちゃんは、駅前で小さな定食屋をやっていましたね。
カウンターが七席だけの、間口の狭い店でした。
朝の五時には、もう、だしの匂いが家じゅうに満ちていました。
私が起きていくと、いつも、かまどの前で、湯気の向こうに立っていました。
「おはよう。顔、洗ってきな」
その声で、私の一日は始まりました。
あなたの手は、いつも少しだけ、しょうゆとだしの匂いがしました。
その匂いが、私にとっての、家の匂いでした。
今でも、どこかの店から同じ匂いがすると、足が止まってしまいます。
あの店には、いろんなお客さんがいましたね。
仕事帰りに、毎晩のように来る、寡黙な大工さん。
いつも、ねぎを多めにしてくれと言う、近所のおばあさん。
あなたは、お客さん一人ひとりの、好みを全部、覚えていました。
「あの人は、最近顔色が悪い。少し、滋養のあるものを出してやろう」
そう言って、頼まれてもいない小鉢を、そっと付けることがありました。
代金は、取りませんでした。
「食堂ってのはね、腹だけじゃなくて、心も満たすところなんだよ」
それが、あなたの口ぐせでした。
私が小学生の頃、店を手伝わされたことがありましたね。
卵焼きを焼くのを、あなたに教わりました。
「あわてるな。弱火で、ゆっくり巻くんだ」
私が何度も焦がしても、あなたは、笑っているだけでした。
「焦げたところは、母さんが食べる。だから、好きなだけ失敗しな」
焦げた卵焼きを、あなたは、おいしそうに食べていました。
私の失敗を、いつも、あなたが引き受けてくれていたのだと、今になって分かります。
小学校の運動会の朝、私が熱を出したことがありましたね。
おかあちゃんは、店を半日閉めて、私の枕元にいてくれました。
暖簾を下ろすのを、あなたはとても嫌がる人だったのに。
「店なんて、また開けりゃいい。お前の運動会は、今日きりだろう」
そう言って、額の手ぬぐいを、何度も冷たいのに替えてくれました。
私は結局、運動会には出られませんでした。
でも、あの日の、あなたの手のひらの冷たさだけは、今も覚えています。
思春期の頃、私はあなたに、ずいぶん反抗もしました。
「定食屋の息子だってだけで、恥ずかしい」
今思えば、どうしてあんなことを言えたのか。
あなたは、一瞬だけ、悲しそうな顔をして、それから、こう言いました。
「そうか。でも母さんは、この店でお前を育てたんだ。それだけは、忘れんでくれ」
私は、その夜、自分の言葉を、布団の中で恥じました。
謝れないまま、何年も経ってしまいました。
私が高校を出て、家を離れるとき。
おかあちゃんは、駅のホームまで来て、何も言わずに、いなり寿司の包みを押しつけました。
「電車で食べな。腹が減ると、心細くなるからね」
包みは、まだ、ほんのり温かかった。
あなたは、いつも、言葉の代わりに、温かいものを持たせる人でした。
あのいなり寿司を、私は、涙で味も分からないまま、食べたのです。
※
おかあちゃんが倒れたという電話を受けたのは、私が二十六のときでした。
駆けつけた病室で、あなたは、いつもより小さく見えました。
それでも、私の顔を見るなり、こう言いました。
「仕事はどうした。こんなとこ、来てる場合か」
自分の心配より先に、私の心配をする人でした。
最後まで、そういう人でした。
入院しても、あなたが気にしていたのは、店のことばかりでした。
「常連さんたちは、ちゃんと、どこかで食べてるかね」
「暖簾、しまいっぱなしで、傷んでないかね」
あの七席のカウンターは、あなたにとって、もう一つの家族だったのですね。
常連の大工さんが、一度だけ、お見舞いに来てくれました。
何も言わずに、あなたの好きな大福を置いて、すぐ帰っていきました。
あなたは、その大福を見て、声を出さずに、泣いていました。
先生に呼ばれたのは、ある木曜日のことでした。
もう、長くはありません、と告げられました。
私は、その言葉を、あなたには伝えられませんでした。
動かない手でリハビリを続けるあなたを見ていたら、どうしても言えなかった。
だから、希望を持たせるような嘘ばかりを、言い続けてしまいました。
「春になったら、また一緒に店を開けような」
その嘘が、正しかったのか、今でも、分かりません。
白状します。あの頃、私も、いっぱいいっぱいでした。
仕事と、看病と、これからのことで、頭がぐちゃぐちゃで。
ある晩、あなたが弱音をこぼしたとき、私はつい、ひどいことを言いました。
「つらいのは、おかあちゃんだけじゃないんだよ」
言った瞬間に、しまった、と思いました。
あなたは、ただ、「そうだね、ごめんね」と、小さく笑いました。
謝るのは、私のほうだったのに。
あの一言を、私は今も、後悔しています。
取り消せるものなら、何を引きかえにしても、取り消したい。
あなたは、最期まで、私のあの言葉を、責めませんでした。
※
最期の数日は、もう、ほとんど話せなくなっていました。
私は、枕元で、昔の思い出ばかりを、ひとりで話し続けました。
運動会の朝のこと。駅のいなり寿司のこと。焦げた卵焼きのこと。
だしの匂いのする、あなたの手のこと。
聞こえていましたか。
一度だけ、あなたの指先が、私の手を、かすかに握り返した気がしました。
あれは、気のせいではなかったと、私は信じています。
あなたが旅立ったのは、明け方でした。
窓の外が、ゆっくりと白んでいくところでした。
ちょうど、あなたが毎朝、だしを引いていた時間です。
私と、お父ちゃんと、それから、あなたの古い友達が四人。
みんなで、あなたを見送りました。
通夜にも、葬式にも、驚くほど大勢の人が来てくれました。
みんな、あなたの定食屋の、常連さんたちでした。
「和子さんには、本当に世話になった」
知らない人が、私の手を握って、そう泣いてくれました。
あの寡黙な大工さんは、焼香のあと、ずっと、うつむいたままでした。
そのとき、私は、少しだけ、やきもちを焼いたのです。
おかあちゃんは、私だけのおかあちゃんじゃ、なかったんだな、と。
こんなに大勢の人を、あなたは、あの小さな店で、温めていたんだな、と。
だしの匂いのする、あの手で。
その手は、私の額だけでなく、たくさんの人の心を、冷ましたり、温めたりしていたのです。
あなたが「心も満たすところだ」と言った意味が、その日、ようやく分かりました。
※
結婚してからの六年、いろんな思い出を、ありがとう。
孫の顔を、もっと見せたかった。
うちの子たちは、まだ、あなたがいないことを、よく分かっていないみたいです。
ときどき、「おばあちゃんは?」と聞かれて、私は、うまく答えられません。
「遠いところで、みんなのごはんを作ってるよ」
そう答えると、子どもは、なぜか、納得した顔をします。
お父ちゃんは、相変わらずです。
あなたがいた頃と同じように、毎朝、仏壇に、いちばん熱いお茶を供えています。
「あいつは、ぬるいのが嫌いだったからな」
そう言って、湯気の立つ湯のみを、そっと置いています。
無口なお父ちゃんなりの、あなたへの手紙なのだと思います。
今日のケーキ、分かりますか。
あなたが、いつも誕生日に買っていた、あの店のショートケーキです。
いちばん大きないちごが乗っているのを、選んできました。
あなたは、いつも、そのいちごを、私にくれましたね。
今日は、私が食べます。あなたの分も、ちゃんと、味わって食べます。
たまには、夢でもいいから、会いに来てください。
でも、向こうにも、きっと、たくさんお友達がいるんでしょうね。
だから、私のところに来るのは、まだ、ずっと先でいいです。
二年も苦しんだぶん、今は、ゆっくり、休んでいてください。
今まで、本当に、ありがとう。
だしの匂いのするあなたの手に、もう一度だけ、頭をなでてほしかった。
大好きだよ、おかあちゃん。
このケーキを食べ終わったら、私は、また、ちゃんと前を向きます。
いつか、私も小さな店を持って、誰かの心を満たせる人になれたら。
それが、あなたに育ててもらった私の、たった一つの恩返しだと思うから。
届かない手紙を、それでも書いてよかったと、今、思っています。
あの店を始めたのは、私が生まれてすぐの頃だと、聞きました。
お父ちゃんの稼ぎだけでは心もとないからと、あなたが、一人で始めたのですね。
「子どもに、ひもじい思いだけは、させたくなかった」
のちに、あなたは、そう言っていました。
七席のカウンターは、あなたが、私のために守り続けた、戦いの場所だったのです。
私が腹いっぱい食べられたのは、あなたが、誰かのために汗をかいていたからでした。
一度、あなたが、病院を抜け出したことがありましたね。
看護師さんが、青い顔で私に電話をくれました。
あなたは、よろよろと、あの店の前に立っていました。
動かない手で、暖簾を、なでていました。
「ちょっと、店の様子を、見たくなってね」
私が叱ると、あなたは、子どものように、ごめんごめんと笑いました。
あの店が、あなたの命そのものだったことを、私は、そのとき思い知りました。
連れ帰る車の中で、あなたは、ずっと窓の外を見ていました。
※
あなたが旅立ったあと、私は一度だけ、あの店の鍵を開けました。
かまどの前に立つと、まだ、かすかに、だしの匂いが残っている気がしました。
気のせいだったのかもしれません。
それでも私は、しばらく、湯気のない湯気の向こうに、あなたの背中を探していました。
カウンターの七席は、しんと、静まりかえっていました。
「おかえり」と言ってくれる声は、もう、ありませんでした。
私は、暖簾だけを、そっと外して、持ち帰りました。
今は、うちの玄関に、かけてあります。
私の誕生日には、毎年、特別な親子丼を作ってくれましたね。
お店では出さない、ふわふわの、あなただけの味でした。
「今日はお前が主役だから、いちばんいい卵を使ったよ」
鶏肉も、いつもより、ずっと大きく切ってありました。
あの丼を、私はもう、一生、食べられないのですね。
何度、同じものを作ろうとしても、あの味には、どうしても、なりません。
きっと、足りないのは、卵でも鶏肉でもないのだと思います。
あなたの手は、冬になると、いつも、あかぎれだらけでした。
冷たい水で、毎日、米をとぎ、野菜を洗っていたからです。
私が「痛くないの」と聞くと、あなたは、笑って言いました。
「これは、母さんの勲章だよ」
ばんそうこうを巻いたその手で、あなたは、何百人もの腹を満たしてきました。
私が、いちばん、なでてほしかったのも、その、ごつごつした手でした。
※
一度だけ、あなたに、孫を抱いてもらえましたね。
上の子が生まれて、すぐの頃でした。
もう、腕に力が入らなくなっていたあなたは、ベッドの上で、そっと頬を寄せました。
「ああ、あったかい。お前を抱いた日と、おんなじだ」
そう言って、あなたは、長いあいだ、目を閉じていました。
あの一枚の写真を、私は、今も財布に入れて持ち歩いています。
三世代が、一つの布団の上に、寄り添っている写真です。
最期を看取ってくれた、あなたの古い友達、四人のこと。
みんな、若い頃からの、長い付き合いの方たちでしたね。
一人は、あなたが嫁に来る前から、姉妹のように育った人。
一人は、店の常連から、いちばんの親友になった人。
その人たちが、かわるがわる、あなたの手を握っていました。
「和子、よう頑張ったね。もう、ゆっくりおし」
私の知らない、若い頃のあなたを、その人たちは知っていました。
あなたが、私のおかあちゃんになる、ずっと前のあなたを。
そのことが、なぜか、私には、とても、ありがたく思えたのです。
実は、迷っていることがあります。
あの七席の店を、私が、もう一度、開けてみようかと。
会社を辞めて、いちから、料理を覚え直して。
無謀だと、笑われるかもしれません。
でも、玄関のあの暖簾を見るたびに、思うのです。
あなたが守ったあの場所を、このまま、閉じたままにはしたくない、と。
もし開けたら、いちばんに、あの大工さんを呼ぼうと思います。
「お待たせしました」と、あなたの代わりに、言ってみたいのです。
雪の降る日、店には、よく、おでんの匂いが満ちていました。
帰りの遅くなった客のために、あなたは、種を切らさないようにしていました。
「こんな日に、あったかいもんが食べられないと、人は寂しくなるからね」
湯気で曇った窓を、私は、指でこすって、外を眺めるのが好きでした。
その窓の向こうを、湯気の匂いに引かれて、また一人、客が入ってきます。
あなたの店は、雪の夜の、小さな灯台のようでした。
おかあちゃん。
あなたがくれたものは、結局、いつも、温かいものでした。
温かいごはん。温かい手のひら。温かい言葉。
私は、それを、今度は、誰かに渡していく番なのだと思います。
あなたが、何百人にもそうしてきたように。
だから、もう、泣いてばかりはいられません。
このケーキを食べたら、明日、不動産屋に、あの店のことを聞きに行きます。
あなたは、最期まで、退院した日のことを、話していました。
「退院したら、まず、お前の好きな親子丼を作ってやる」
「それから、暖簾を出して、常連さんに、ただいまって言うんだ」
その日が来ないことを、私は知っていました。
だから、ただ、うなずくことしか、できませんでした。
「うん、楽しみにしてる」
嘘をついたのは、あの一度だけ、許してください。
あなたを、最後まで、笑わせていたかったのです。
ペンを置く前に、もう一つだけ。
あなたが教えてくれた、いちばん大切なことを、書いておきます。
「腹がふくれると、人は、たいていのことは、なんとかなる」
あなたは、よく、そう言って笑っていましたね。
つらいことがあると、私は今でも、温かいごはんを炊きます。
湯気の向こうに、まだ、あなたがいる気がするのです。
おかあちゃん。あなたの息子に生まれて、本当に、よかった。
湯気は、しばらくすると、消えてしまいます。
でも、その温かさだけは、ちゃんと、私の中に残っています。
あなたが残してくれたものは、たぶん、そういうものなのだと思います。