天国のおかあちゃんへ

おかあちゃんへ。

こんな手紙、もう届かないのは分かっています。

それでも、生きているうちに言えなかったことを、今、書いておきたくなりました。

あなたが旅立ってから、ちょうど一年が経ちました。

机の上には、買ってきたばかりの、小さなショートケーキがあります。

今日は、あなたの誕生日だからです。

ろうそくは立てませんでした。立てるのが、まだ少しだけ、つらいのです。

だから代わりに、こうしてペンを持ちました。

一年経っても、書き出しの「おかあちゃんへ」の四文字で、もう、手が止まってしまいます。

まずは、長い闘病、本当におつかれさまでした。

二年です。あなたは二年も、あの病気と、たった一人で向き合っていました。

左の手が動かなくなっても、最後まで、治ることを諦めなかった。

その背中を、私はずっと、すごいと思って見ていました。

格好よかったよ。子どものために、あんなに必死になれる人を、私は他に知りません。

おかあちゃんは、駅前で小さな定食屋をやっていましたね。

カウンターが七席だけの、間口の狭い店でした。

朝の五時には、もう、だしの匂いが家じゅうに満ちていました。

私が起きていくと、いつも、かまどの前で、湯気の向こうに立っていました。

「おはよう。顔、洗ってきな」

その声で、私の一日は始まりました。

あなたの手は、いつも少しだけ、しょうゆとだしの匂いがしました。

その匂いが、私にとっての、家の匂いでした。

今でも、どこかの店から同じ匂いがすると、足が止まってしまいます。

あの店には、いろんなお客さんがいましたね。

仕事帰りに、毎晩のように来る、寡黙な大工さん。

いつも、ねぎを多めにしてくれと言う、近所のおばあさん。

あなたは、お客さん一人ひとりの、好みを全部、覚えていました。

「あの人は、最近顔色が悪い。少し、滋養のあるものを出してやろう」

そう言って、頼まれてもいない小鉢を、そっと付けることがありました。

代金は、取りませんでした。

「食堂ってのはね、腹だけじゃなくて、心も満たすところなんだよ」

それが、あなたの口ぐせでした。

私が小学生の頃、店を手伝わされたことがありましたね。

卵焼きを焼くのを、あなたに教わりました。

「あわてるな。弱火で、ゆっくり巻くんだ」

私が何度も焦がしても、あなたは、笑っているだけでした。

「焦げたところは、母さんが食べる。だから、好きなだけ失敗しな」

焦げた卵焼きを、あなたは、おいしそうに食べていました。

私の失敗を、いつも、あなたが引き受けてくれていたのだと、今になって分かります。

小学校の運動会の朝、私が熱を出したことがありましたね。

おかあちゃんは、店を半日閉めて、私の枕元にいてくれました。

暖簾を下ろすのを、あなたはとても嫌がる人だったのに。

「店なんて、また開けりゃいい。お前の運動会は、今日きりだろう」

そう言って、額の手ぬぐいを、何度も冷たいのに替えてくれました。

私は結局、運動会には出られませんでした。

でも、あの日の、あなたの手のひらの冷たさだけは、今も覚えています。

思春期の頃、私はあなたに、ずいぶん反抗もしました。

「定食屋の息子だってだけで、恥ずかしい」

今思えば、どうしてあんなことを言えたのか。

あなたは、一瞬だけ、悲しそうな顔をして、それから、こう言いました。

「そうか。でも母さんは、この店でお前を育てたんだ。それだけは、忘れんでくれ」

私は、その夜、自分の言葉を、布団の中で恥じました。

謝れないまま、何年も経ってしまいました。

私が高校を出て、家を離れるとき。

おかあちゃんは、駅のホームまで来て、何も言わずに、いなり寿司の包みを押しつけました。

「電車で食べな。腹が減ると、心細くなるからね」

包みは、まだ、ほんのり温かかった。

あなたは、いつも、言葉の代わりに、温かいものを持たせる人でした。

あのいなり寿司を、私は、涙で味も分からないまま、食べたのです。

おかあちゃんが倒れたという電話を受けたのは、私が二十六のときでした。

駆けつけた病室で、あなたは、いつもより小さく見えました。

それでも、私の顔を見るなり、こう言いました。

「仕事はどうした。こんなとこ、来てる場合か」

自分の心配より先に、私の心配をする人でした。

最後まで、そういう人でした。

入院しても、あなたが気にしていたのは、店のことばかりでした。

「常連さんたちは、ちゃんと、どこかで食べてるかね」

「暖簾、しまいっぱなしで、傷んでないかね」

あの七席のカウンターは、あなたにとって、もう一つの家族だったのですね。

常連の大工さんが、一度だけ、お見舞いに来てくれました。

何も言わずに、あなたの好きな大福を置いて、すぐ帰っていきました。

あなたは、その大福を見て、声を出さずに、泣いていました。

先生に呼ばれたのは、ある木曜日のことでした。

もう、長くはありません、と告げられました。

私は、その言葉を、あなたには伝えられませんでした。

動かない手でリハビリを続けるあなたを見ていたら、どうしても言えなかった。

だから、希望を持たせるような嘘ばかりを、言い続けてしまいました。

「春になったら、また一緒に店を開けような」

その嘘が、正しかったのか、今でも、分かりません。

白状します。あの頃、私も、いっぱいいっぱいでした。

仕事と、看病と、これからのことで、頭がぐちゃぐちゃで。

ある晩、あなたが弱音をこぼしたとき、私はつい、ひどいことを言いました。

「つらいのは、おかあちゃんだけじゃないんだよ」

言った瞬間に、しまった、と思いました。

あなたは、ただ、「そうだね、ごめんね」と、小さく笑いました。

謝るのは、私のほうだったのに。

あの一言を、私は今も、後悔しています。

取り消せるものなら、何を引きかえにしても、取り消したい。

あなたは、最期まで、私のあの言葉を、責めませんでした。

最期の数日は、もう、ほとんど話せなくなっていました。

私は、枕元で、昔の思い出ばかりを、ひとりで話し続けました。

運動会の朝のこと。駅のいなり寿司のこと。焦げた卵焼きのこと。

だしの匂いのする、あなたの手のこと。

聞こえていましたか。

一度だけ、あなたの指先が、私の手を、かすかに握り返した気がしました。

あれは、気のせいではなかったと、私は信じています。

あなたが旅立ったのは、明け方でした。

窓の外が、ゆっくりと白んでいくところでした。

ちょうど、あなたが毎朝、だしを引いていた時間です。

私と、お父ちゃんと、それから、あなたの古い友達が四人。

みんなで、あなたを見送りました。

通夜にも、葬式にも、驚くほど大勢の人が来てくれました。

みんな、あなたの定食屋の、常連さんたちでした。

「和子さんには、本当に世話になった」

知らない人が、私の手を握って、そう泣いてくれました。

あの寡黙な大工さんは、焼香のあと、ずっと、うつむいたままでした。

そのとき、私は、少しだけ、やきもちを焼いたのです。

おかあちゃんは、私だけのおかあちゃんじゃ、なかったんだな、と。

こんなに大勢の人を、あなたは、あの小さな店で、温めていたんだな、と。

だしの匂いのする、あの手で。

その手は、私の額だけでなく、たくさんの人の心を、冷ましたり、温めたりしていたのです。

あなたが「心も満たすところだ」と言った意味が、その日、ようやく分かりました。

結婚してからの六年、いろんな思い出を、ありがとう。

孫の顔を、もっと見せたかった。

うちの子たちは、まだ、あなたがいないことを、よく分かっていないみたいです。

ときどき、「おばあちゃんは?」と聞かれて、私は、うまく答えられません。

「遠いところで、みんなのごはんを作ってるよ」

そう答えると、子どもは、なぜか、納得した顔をします。

お父ちゃんは、相変わらずです。

あなたがいた頃と同じように、毎朝、仏壇に、いちばん熱いお茶を供えています。

「あいつは、ぬるいのが嫌いだったからな」

そう言って、湯気の立つ湯のみを、そっと置いています。

無口なお父ちゃんなりの、あなたへの手紙なのだと思います。

今日のケーキ、分かりますか。

あなたが、いつも誕生日に買っていた、あの店のショートケーキです。

いちばん大きないちごが乗っているのを、選んできました。

あなたは、いつも、そのいちごを、私にくれましたね。

今日は、私が食べます。あなたの分も、ちゃんと、味わって食べます。

たまには、夢でもいいから、会いに来てください。

でも、向こうにも、きっと、たくさんお友達がいるんでしょうね。

だから、私のところに来るのは、まだ、ずっと先でいいです。

二年も苦しんだぶん、今は、ゆっくり、休んでいてください。

今まで、本当に、ありがとう。

だしの匂いのするあなたの手に、もう一度だけ、頭をなでてほしかった。

大好きだよ、おかあちゃん。

このケーキを食べ終わったら、私は、また、ちゃんと前を向きます。

いつか、私も小さな店を持って、誰かの心を満たせる人になれたら。

それが、あなたに育ててもらった私の、たった一つの恩返しだと思うから。

届かない手紙を、それでも書いてよかったと、今、思っています。

あの店を始めたのは、私が生まれてすぐの頃だと、聞きました。

お父ちゃんの稼ぎだけでは心もとないからと、あなたが、一人で始めたのですね。

「子どもに、ひもじい思いだけは、させたくなかった」

のちに、あなたは、そう言っていました。

七席のカウンターは、あなたが、私のために守り続けた、戦いの場所だったのです。

私が腹いっぱい食べられたのは、あなたが、誰かのために汗をかいていたからでした。

一度、あなたが、病院を抜け出したことがありましたね。

看護師さんが、青い顔で私に電話をくれました。

あなたは、よろよろと、あの店の前に立っていました。

動かない手で、暖簾を、なでていました。

「ちょっと、店の様子を、見たくなってね」

私が叱ると、あなたは、子どものように、ごめんごめんと笑いました。

あの店が、あなたの命そのものだったことを、私は、そのとき思い知りました。

連れ帰る車の中で、あなたは、ずっと窓の外を見ていました。

あなたが旅立ったあと、私は一度だけ、あの店の鍵を開けました。

かまどの前に立つと、まだ、かすかに、だしの匂いが残っている気がしました。

気のせいだったのかもしれません。

それでも私は、しばらく、湯気のない湯気の向こうに、あなたの背中を探していました。

カウンターの七席は、しんと、静まりかえっていました。

「おかえり」と言ってくれる声は、もう、ありませんでした。

私は、暖簾だけを、そっと外して、持ち帰りました。

今は、うちの玄関に、かけてあります。

私の誕生日には、毎年、特別な親子丼を作ってくれましたね。

お店では出さない、ふわふわの、あなただけの味でした。

「今日はお前が主役だから、いちばんいい卵を使ったよ」

鶏肉も、いつもより、ずっと大きく切ってありました。

あの丼を、私はもう、一生、食べられないのですね。

何度、同じものを作ろうとしても、あの味には、どうしても、なりません。

きっと、足りないのは、卵でも鶏肉でもないのだと思います。

あなたの手は、冬になると、いつも、あかぎれだらけでした。

冷たい水で、毎日、米をとぎ、野菜を洗っていたからです。

私が「痛くないの」と聞くと、あなたは、笑って言いました。

「これは、母さんの勲章だよ」

ばんそうこうを巻いたその手で、あなたは、何百人もの腹を満たしてきました。

私が、いちばん、なでてほしかったのも、その、ごつごつした手でした。

一度だけ、あなたに、孫を抱いてもらえましたね。

上の子が生まれて、すぐの頃でした。

もう、腕に力が入らなくなっていたあなたは、ベッドの上で、そっと頬を寄せました。

「ああ、あったかい。お前を抱いた日と、おんなじだ」

そう言って、あなたは、長いあいだ、目を閉じていました。

あの一枚の写真を、私は、今も財布に入れて持ち歩いています。

三世代が、一つの布団の上に、寄り添っている写真です。

最期を看取ってくれた、あなたの古い友達、四人のこと。

みんな、若い頃からの、長い付き合いの方たちでしたね。

一人は、あなたが嫁に来る前から、姉妹のように育った人。

一人は、店の常連から、いちばんの親友になった人。

その人たちが、かわるがわる、あなたの手を握っていました。

「和子、よう頑張ったね。もう、ゆっくりおし」

私の知らない、若い頃のあなたを、その人たちは知っていました。

あなたが、私のおかあちゃんになる、ずっと前のあなたを。

そのことが、なぜか、私には、とても、ありがたく思えたのです。

実は、迷っていることがあります。

あの七席の店を、私が、もう一度、開けてみようかと。

会社を辞めて、いちから、料理を覚え直して。

無謀だと、笑われるかもしれません。

でも、玄関のあの暖簾を見るたびに、思うのです。

あなたが守ったあの場所を、このまま、閉じたままにはしたくない、と。

もし開けたら、いちばんに、あの大工さんを呼ぼうと思います。

「お待たせしました」と、あなたの代わりに、言ってみたいのです。

雪の降る日、店には、よく、おでんの匂いが満ちていました。

帰りの遅くなった客のために、あなたは、種を切らさないようにしていました。

「こんな日に、あったかいもんが食べられないと、人は寂しくなるからね」

湯気で曇った窓を、私は、指でこすって、外を眺めるのが好きでした。

その窓の向こうを、湯気の匂いに引かれて、また一人、客が入ってきます。

あなたの店は、雪の夜の、小さな灯台のようでした。

おかあちゃん。

あなたがくれたものは、結局、いつも、温かいものでした。

温かいごはん。温かい手のひら。温かい言葉。

私は、それを、今度は、誰かに渡していく番なのだと思います。

あなたが、何百人にもそうしてきたように。

だから、もう、泣いてばかりはいられません。

このケーキを食べたら、明日、不動産屋に、あの店のことを聞きに行きます。

あなたは、最期まで、退院した日のことを、話していました。

「退院したら、まず、お前の好きな親子丼を作ってやる」

「それから、暖簾を出して、常連さんに、ただいまって言うんだ」

その日が来ないことを、私は知っていました。

だから、ただ、うなずくことしか、できませんでした。

「うん、楽しみにしてる」

嘘をついたのは、あの一度だけ、許してください。

あなたを、最後まで、笑わせていたかったのです。

ペンを置く前に、もう一つだけ。

あなたが教えてくれた、いちばん大切なことを、書いておきます。

「腹がふくれると、人は、たいていのことは、なんとかなる」

あなたは、よく、そう言って笑っていましたね。

つらいことがあると、私は今でも、温かいごはんを炊きます。

湯気の向こうに、まだ、あなたがいる気がするのです。

おかあちゃん。あなたの息子に生まれて、本当に、よかった。

湯気は、しばらくすると、消えてしまいます。

でも、その温かさだけは、ちゃんと、私の中に残っています。

あなたが残してくれたものは、たぶん、そういうものなのだと思います。

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