毎週増える新しい消しゴム

鉛筆と参考書(フリー写真)

私の筆箱には、いつも新しい消しゴムが入っていました。

減ってくると、次の週には、また角の立ったものに替わっているのです。

同じ銘柄の、同じ薄い水色。

包み紙には、値札のシールが一度も貼られていませんでした。

私はそれを、ずっと自分で買っていたつもりでいました。

高校生になったいまでも、あの薄い水色を見ると、手が止まります。

あれは、母が数えていたものでした。

けれど、それを知ったのは、十五の秋になってからです。

それまでの私は、母のことを、ただ厳しいだけの人だと思っていました。

母はとても厳しい人でした。

身の回りのことは、小学生のうちから全部やらされていました。

勉強も部活も、一番でないと気が済まない人でした。

中学の定期テストで二番を取ったとき、母は本気で怒りました。

「二番は、敗者の一番よ」

そう言い放って、答案をこたつの上に置きました。

点数を見てもいない。順位の欄しか見ていないのです。

九十四点でも、二位なら同じでした。

「で、一番は何点やったん」

母が必ず最初に聞くのは、それでした。

私が答えると、母は小さく息を吐いて、答案を裏返しました。

母はいつも、私を誰かと比べました。

私よりも上にいる、名前のない誰かです。

どれだけ良い点を取っても、母が笑うことはありませんでした。

一番、一番、一番。

その二文字が、家じゅうに貼りついているようでした。

二年生の秋には、頭の後ろに、十円玉くらいの丸い禿ができました。

皮膚科では、円形脱毛症だと言われました。

声も、朝いちばんは出にくくなっていました。

けれど私は、そのどれも、母には言えませんでした。

髪は、後ろで一つにまとめれば隠れました。

声は、朝の会で「はい」とだけ言えば足りました。

隠すというのは、慣れてしまえば簡単なことです。

言えば、また比べられると思ったからです。

比べられるくらいなら、黙っているほうがましでした。

そのころの私にとって、家は休む場所ではありませんでした。

玄関を開けるときに、いちばん息を吸い込んでいた気がします。

学校でも家でも、同じ顔をしていなければなりませんでした。

どちらか一方でも気を抜いたら、全部こぼれてしまう気がしたのです。

二番は敗者の一番

母は、毎晩きまって私の筆箱を開けました。

私が風呂に入っているあいだに、机の上で中身を並べ直すのです。

鉛筆の向きを揃え、定規の位置を直し、蓋を閉める。

部屋に戻ると、筆箱はいつも、少し違う場所に置かれていました。

斜めに置いたはずのものが、机の縁と平行になっているのです。

一ミリの違いに気づく自分が、少し嫌でもありました。

几帳面な人だな、と私は思っていました。

その几帳面さが、母の厳しさの一部だとも思っていました。

「勉強するのに、机が散らかってたら話にならんでしょう」

母の口癖です。

だから、筆箱の中まで並べ直すのだと、私は納得していました。

母は、市役所の窓口で働いていました。

世間体をとても気にする人で、参観日には必ずきちんとした服で来ました。

近所の人と話すときの声は、家の中とは別人のように明るいのです。

私は、その使い分けが少し苦手でした。

けれど、その明るい声が、母の仕事なのだとも思っていました。

窓口というのは、一日じゅう知らない人に頭を下げる仕事です。

帰ってきた母の肩は、いつも少し下がっていました。

それでも家に入る前に、玄関の前で一度、肩を上げ直すのです。

私はその癖を、二階の窓から何度も見ていました。

母もまた、家に入る前に息を吸う人でした。

父は単身赴任で、月に一度しか帰ってきませんでした。

だから家の中は、母と私の、二人ぶんの息だけでできていました。

そしてもうひとつ、私には大きな問題がありました。

学級長に選ばれてから、教室で私は前に立つことが増えました。

多感な時期の中学生というのは、出る杭を打ちたくなるものです。

最初は、持ち物がなくなる程度のことでした。

次に、机に書かれるようになりました。

油性ではなく、鉛筆やシャープペンで書かれるのです。

消せるものを選ぶあたりが、かえって嫌でした。

油性で書かれれば、誰かに気づかれます。

鉛筆なら、私が消してしまえば、なかったことになります。

相手もそれをわかっていたのだと思います。

「消せばええやん」と言われたことも、一度だけありました。

私は毎朝、誰よりも早く登校して、それを消しました。

机の天板。教科書の余白。ノートの表紙。

力を入れて消すと、紙がうっすら毛羽立ちます。

角の立った消しゴムなら、一文字ずつ丁寧に消せます。

減って丸くなると、まわりの字まで巻き込んでしまうのです。

だから私は、いつも角を探して、持ち替えながら消していました。

毛羽立った場所を見れば、何が書いてあったか、私にはわかりました。

それでも、消せば、誰にも知られずに一日が始まります。

消しゴムは、一週間ももちませんでした。

月曜に角が四つ。金曜には、どこも角ではなくなっている。

その減り方を、私は当たり前だと思っていました。

教科書を新しくしてもらったことも、一度だけあります。

「落として汚した」と言ったら、母は何も聞かずに買ってくれました。

あのとき何も聞かれなかったことを、私は幸運だと思っていました。

いま思えば、母はその一冊を、袋から出して裏表紙まで見ていました。

落として汚した教科書に、あんな消し跡はつきません。

洗面所の蛇口の水

そんなある日のことです。

帰ろうとして机の中に手を入れると、教科書が一冊もありませんでした。

血の気が引きました。

廊下も、下駄箱も、体育館の裏も探しました。

見つけたのは、一階の洗面所でした。

掃除用具の匂いがする、いちばん奥の流しです。

夕方の廊下には、もう誰も残っていませんでした。

水の音だけが、タイルに跳ねていました。

蛇口は、いちばん強いところまで回されていました。

帰る間際にわざわざ回した人がいる、ということです。

蛇口から水が勢いよく出ていて、その真下に、私の教科書が積んでありました。

何冊かは、もう水を吸って膨らんでいました。

表紙の名前の欄が、にじんで読めなくなっていました。

一冊だけ、机の落書きを消した跡のあるページが開いていました。

毛羽立った紙に水が染みて、そこだけ色が濃くなっていました。

消したはずのものが、いちばん濃く残っていたのです。

私は、蛇口を閉めることもせずに、しばらく突っ立っていました。

頭に浮かんだのは、いじめた相手の顔ではありませんでした。

お母さんに怒られる。

それだけでした。

濡れた教科書を袋に詰めて、私は家へ向かいました。

家に着かないでほしい、と本気で思いました。

けれど、道は必ず家に着くようにできています。

門の前まで来て、私は足を止めました。

母の車が、家の前に停まっていたのです。

その日は水曜日で、母が帰るのは、いつも七時過ぎでした。

時計は、まだ四時にもなっていませんでした。

今日に限って、なぜ。

そう思いながら、私は袋の口を握り直しました。

手が冷たくて、うまく力が入りませんでした。

門扉の掛け金を上げる音が、やけに大きく響きました。

家の中は静かで、テレビの音もしませんでした。

玄関を開けて、私は廊下に袋を置きました。

ずぶ濡れで、ところどころ破れた教科書を、母の前に並べました。

そして、その場に額をつけました。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

それしか言えませんでした。

頭の中は真っ白でした。

母が、私の前に座る気配がしました。

殴られる、と思って、私は肩に力を入れました。

その瞬間、母の腕が、私を包みました。

背中に回された手が、震えていました。

ぐっ、ぐっ、という、押し殺した声が聞こえました。

「ごめんね。ごめんね」

泣いていたのは、私ではなく、母のほうでした。

「気付いてあげられなくて、ごめんね」

その言葉を聞いた瞬間、私の中の何かが、ほどけました。

悲しかったのだ、と、そのとき初めてわかりました。

悔しかったのだ、と。

私は、久しぶりに母の腕の中で泣きました。

母の車のある午後

それから私は、学校へ行かなくなりました。

世間体ばかり気にしていた母が、職場を休んでまで、家にいてくれました。

昼間、二人で洗濯物を干しました。

夕方、二人でスーパーへ行きました。

母は、私に何も聞きませんでした。

朝は起こさず、昼になると、二人ぶんのうどんを茹でました。

テレビは点けず、洗濯機の音だけがしていました。

母は、私が食べ終わるまで、自分の箸を持ちませんでした。

食べ残しても、何も言いませんでした。

誰にやられたのかも、いつからなのかも、一度も聞きませんでした。

代わりに、どうでもいい話ばかりしました。

スーパーの卵が安いこと。父の単身赴任先の天気のこと。

隣の家の犬が、また脱走したこと。

そういう話をしているあいだだけ、私は息を吸えました。

三日目の夕方、母が庭の物置から脚立を出してきました。

「雨樋、詰まっとると思うんよ。押さえといて」

私は言われたとおり、脚立の脚を両手で押さえました。

母は落ち葉を掻き出しながら、何度も「まだ持っとる?」と聞きました。

「持っとる」

「ほな、もうちょっと」

それだけのやりとりを、十回はした気がします。

あれは雨樋の掃除ではなかったのだと、いまはわかります。

私に、持っていてほしかったのだと思います。

それからしばらくして、私は母の鞄の中に、書類の控えを見つけました。

休職願、と書いてありました。

提出日の欄の日付を見て、私は指が止まりました。

教科書が濡れた、あの水曜日よりも、十日ほど前の日付でした。

母は、あの日より前に、休むと決めていたのです。

車が家にあったのも、その日だけではありませんでした。

あとで聞くと、母はその一週間、毎日四時前に帰っていたそうです。

私が帰ってくる前に家にいて、私が玄関を開ける音を待っていた。

言葉をかけるでもなく、ただ、いつでも受け止められる場所にいた。

職場には、体調が悪いと言って早退していたそうです。

世間体を気にする人が、一週間、そうし続けたのです。

窓口の人が毎日早退すれば、職場では必ず何か言われます。

母は、そのことを一度も私に話しませんでした。

知ったのは、母の同僚の方が家に寄ってくれたときです。

「お母さん、机の上のもん全部片づけてから帰りよったよ」

その方は、それだけ言って帰りました。

翌日ぶんの仕事を先に終わらせてから、早退していたということです。

「なんで、何も言わんかったん」

あるとき、私はそう聞きました。

母は、洗い物の手を止めずに答えました。

「あんたが自分で言うまで、待とう思うてね」

「待っとったら、遅かったやろ」

「うん。遅かった」

母は、そこで初めて、こちらを向きました。

「せやから、謝ったんよ」

「気付いてあげられんかった、やない」

「気付いとったのに、動かんかった。それを謝ったんよ」

私は、何も返せませんでした。

「二番は敗者の一番」という言葉のことも、あとで知りました。

あれは、母の父の口癖だったそうです。

母は高校を一年で辞めて、働きに出た人でした。

名前のない誰かと比べていたのではありません。

比べていたのは、進めなかった自分自身でした。

それを娘に重ねてしまったことを、母は長く恥じていたのだと思います。

祖父の葬儀のとき、母は一度も泣きませんでした。

その理由を、私はいまなら少しだけわかる気がします。

泣けない人が、泣かないまま娘を抱きしめたのが、あの夕方でした。

母は、自分が受けたのと同じ言葉を、そのまま私に渡していました。

渡しながら、別のものも、毎週ひとつずつ渡していたのです。

その二つが同じ人の手から出ていたことを、私は長いあいだ知りませんでした。

新しい消しゴムの角

ある日、私は自分の机の引き出しを整理していました。

奥のほうから、包み紙のついたままの消しゴムが、いくつも出てきました。

同じ銘柄の、同じ薄い水色。

数えると、七つありました。

私は、それを買った記憶が、ひとつもありませんでした。

文房具屋に行った覚えも、レジで払った覚えもないのです。

どれにも、値札のシールが貼られていませんでした。

新しい消しゴムを、誰かが毎週、私の筆箱に足していたのです。

私は、母の部屋の鏡台の引き出しを開けました。

小さな紙袋の中に、剥がした値札のシールが、几帳面に重ねてありました。

日付の順に並んでいました。

いちばん古いものは、二年生の五月でした。

シールの裏に、鉛筆で小さく日付が書き足してあるものもありました。

母の字です。市役所の書類に書くときと同じ、角ばった数字でした。

数えると、日付は毎週月曜に集まっていました。

日曜の買い物のときに、まとめて買っていたのでしょう。

そして月曜の朝、筆箱に一つずつ足していた。

机に落書きをされるようになった、ちょうどその月です。

母が毎晩、筆箱を開けていた理由が、そこでわかりました。

母が見ていたのは、消しゴムの角の減り方でした。

鉛筆はほとんど減らないのに、消しゴムだけが、一週間でなくなる。

勉強では、そんな減り方はしません。

母は、私の点数の話を一度もしないまま、毎晩それを数えていたのです。

順位の欄しか見ないと思っていた母が、見ていたのはそこでした。

「二番は敗者の一番」と怒鳴った日の夜も、筆箱には角の立った一つが入っていました。

怒ったあとで、母は台所で包み紙を剥がしていたことになります。

怒鳴ることと、消しゴムを足すことが、母の中では並んでいたのです。

私には、どちらか片方しか見えていませんでした。

筆箱の消しゴムは、一度も私が買ったものではありませんでした。

貼り直されたシール

私はいま、県内で一番の進学校に通っています。

母が望んだからではなく、自分で行きたいと思って決めました。

目標のある勉強は、思っていたよりも、ずっと楽しいものでした。

母はもう、順位の話をしません。

答案を見せると、点数のところを指して「ここ、惜しいなあ」と言います。

それだけです。

順位の紙は、見もせずに引き出しへ入れます。

あの二文字は、もう家のどこにも貼りついていません。

先週、私は久しぶりに文房具屋へ行きました。

同じ銘柄の、同じ薄い水色の消しゴムを、七つ買いました。

値札のシールを、ひとつずつ剥がしました。

剥がしてから、母の筆入れに、そっと入れておきました。

母は市役所に戻って、また窓口に座っています。

何か言うだろうかと思いましたが、その晩は何も言いませんでした。

次の朝、台所に、新しい消しゴムがひとつ、置いてありました。

私の筆箱のほうに戻されていたのです。

包み紙には、値札のシールが、きれいに貼り直してありました。

貼り直すには、一度剥がしたシールを、また濡らさなければなりません。

母がそこまでしたのは、これは自分で買ったものだと私に思わせないためです。

私が母にしたことを、母がそのまま返してきたのだと気づきました。

三年前の母と、同じことを、私が先にしてしまったわけです。

その朝、私たちは消しゴムの話を一言もしませんでした。

母のことを書いた話は、彼女を「苦手」と言った母の話や、競艇に通っていた父の話にも書き残しています。

あの日、抱きしめてくれた母の腕の力を、私は忘れません。

けれど、いま思い出すのはそれよりも、四時前に停まっていた車のほうです。

母はあの一週間、何も言わずに、ただ先に帰って待っていました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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