七海の赤い自転車

七海が、五歳の夏に死んだ。

夕方、店先の丸椅子に腰かけて、鼻歌をうたっていた子だった。

私が客の自転車のチェーンに油を差して、ほんの少しだけ背を向けた。

振り返ったとき、七海は椅子から滑り落ちて、土間にうずくまっていた。

名前を呼んで抱き起こしても、もう、私の腕の中で、ぐったりと力を失っていた。

頬を叩いても、肩を揺すっても、あの子はもう、目を開けなかった。

直接の死因は心臓の発作だったと、ずいぶん後になってから、医者に聞かされた。

生まれてこのかた、風邪ひとつ大きくは患わなかった子だ。

その健やかな子が、何の前ぶれもなく倒れたものだから、病院も警察も、不審に思ったらしい。

私は、娘の通夜の晩に、事情聴取というものを受けた。

何を訊かれて、何を答えたのか、今となっては、ほとんど覚えていない。

ただ、刑事の机の上で、古い蛍光灯が、じいじいと鳴っていたことだけを、妙にはっきりと覚えている。

その音を聞きながら、私は、これは現実なのだと、何度も自分に言い聞かせていた。

私は、海沿いの古い商店街で、小さな自転車屋をやっている。

間口の狭い、油と錆の匂いの染みついた、薄暗い店だ。

死んだ親父から継いだ店で、色あせた看板の文字は、もう半分しか読めない。

女房とは、七海がまだ二つになったばかりの年に、別れた。

理由を今さら並べてみても、もう、どうにかなるものではない。

ただ、七海だけは、何があっても、手放したくなかった。

親権でずいぶん揉めたが、最後は、女房のほうが折れた。

それからは、店の二階の四畳半で、男ひとりと、女の子ひとりの暮らしが始まった。

朝は、私が握った不格好なおにぎりを、七海は文句ひとつ言わずに頬張った。

海苔がいつも端からはがれて、米粒がぽろぽろと畳に落ちた。

それでも七海は「とうさんのおにぎり、おいしい」と、律儀に言ってくれた。

髪を結ってやるのは、何度やっても下手くそで、左右の高さが、まるで揃わなかった。

近所のおかみさんに、こっそりやり方を教わったこともある。

それでも、不器用な指は、細い髪をうまくまとめられなかった。

母親のいないこの子を、せめて、女の子らしくしてやりたかった。

だから、服を買うときだけは、私は面倒がらずに、何度も棚の前を行ったり来たりした。

安物の中から、いちばん明るい色のものを選んでやるのが、私のささやかな意地だった。

夜、二階の窓を開けると、潮の匂いと、隣の家のテレビの音が、いっしょに流れ込んできた。

七海は、その匂いの中で、私の腕を枕にして、すぐに寝息を立てた。

小さな、規則正しい寝息だった。

その寝息を聞いていると、別れた女房のことも、店の借金のことも、不思議と、どうでもよくなった。

この子さえいれば、それでよかった。

本当に、それだけで、よかったのだ。

風呂は、二階の小さな浴室で、毎晩いっしょに入った。

私が頭を洗ってやると、七海は目をぎゅっとつぶって、律儀に息を止めた。

湯船の中で、あの子は、その日あった出来事を、順番に話して聞かせた。

保育園で誰が転んだとか、給食の何が嫌いだとか、たわいもない話ばかりだ。

私は相槌を打ちながら、その小さな声を、ただ、いつまでも聞いていた。

店の隅に、赤い子供用の自転車が一台、天井から吊るしてあった。

客が下取りに出していった中古を、私が冬のあいだ、一から組み直したものだ。

錆を一本ずつ落とし、すり減ったタイヤを替え、ブレーキを調整し、補助輪をつけた。

塗装のはげたフレームは、自分で赤いペンキを塗り直した。

ベルだけは、どうしても新品をおごってやりたくて、問屋に頼んで取り寄せた。

銀色の、よく澄んだ音の鳴るベルだった。

組み上がった自転車を土間に下ろした朝、七海は、声も出さずに、ただ目を輝かせた。

それから、おそるおそるサドルに手を触れて、「七海の?」と、小さな声で訊いた。

「ああ、七海のだ」と答えると、あの子は、その場で飛び跳ねた。

それからというもの、七海は、その自転車にまたがるのが、何より好きになった。

まだ補助輪は外せなかったが、海沿いの一本道を、危なっかしくこいでいた。

私は店の表で工具を握ったまま、その小さな背中を、いつまでも目で追った。

夕日が、赤い自転車と、あの子の影を、長く長く道に伸ばしていた。

店には、昔からの常連が、ぽつぽつと顔を出した。

誰もが、七海の名を呼んで、飴玉のひとつもくれてやった。

あの子は、店の看板娘のような顔をして、客にぺこりと頭を下げた。

「とうさん、もうすぐ、ほじょりん、とれる?」

あの子は、こぎ疲れた頬を上気させて、よく、そう訊いた。

「ああ、夏が終わる頃にはな」と、私はいつも答えた。

「夏が終わったら、海沿いをぜんぶ、自分でこげるようになるさ」と。

その夏が終わる前に、七海は、いなくなった。

補助輪は、つけたままだった。

外してやる約束を、私は、果たせなかった。

店のレジの脇に、七海の貯金箱が置いてあった。

口の欠けた、古いブリキの菓子缶だ。

客に渡しそびれた一円玉や五円玉を、私は時々、その缶に放ってやった。

七海も、道で拾った十円玉を、得意げな顔で、そこへ入れた。

「とうさん、また、ひろった」と、てのひらを開いて見せた。

缶がいっぱいになったら、夏祭りに着ていく浴衣を買おうと、私たちは約束していた。

「はまかぜまつり、ゆかた、きていくの」

七海は、缶を振って中の音を確かめながら、そう言うのが癖だった。

赤い金魚の浴衣がいい、と、あの子は決めていた。

店先のガラスに映る自分の姿を見て、もう着たつもりで、くるりと回ってみせた。

浜風祭りというのは、この小さな町の、年に一度の、ささやかな盆踊りだ。

夏の夕暮れになると、浜辺に組まれた櫓の上から、浜風音頭という古い唄が流れてくる。

録音の、少しかすれた唄声が、潮風に乗って、商店街の隅々まで届く。

七海は、その唄を、どうにかして覚えようと、一生懸命だった。

けれど、五歳の舌は、肝心のところで、どうにも回らない。

「はまかぜぇ、おんどぉで、ねえ、とうさん」

「はぁ、ま、かぜ、だよ」と直してやっても、また「はまかぜぇ」と、けらけら笑った。

櫓の下で見よう見まねの盆踊りの手つきを、店の中で、何度も繰り返していた。

その、舌足らずの唄と、ぎこちない手つきが、私は、どうしようもなく、好きだった。

油まみれの薄暗い店の中で、その唄だけが、いつも、光のようだった。

七海が倒れたのも、櫓から、その浜風音頭が流れ始めた、あの夕方だった。

丸椅子の上で、足をぶらぶらさせながら、あの子は、いつものように、あの唄をうたっていた。

「はまかぜぇ……」

その続きを、私は、ついに、聞かなかった。

気づいたときには、あの子は、もう、土間に崩れ落ちていた。

救急車のサイレンと、櫓から流れる祭りの唄が、夕暮れの道で、奇妙に重なって聞こえた。

運ばれていく車の中で、私は、あの子の小さな手を、ずっと握り続けていた。

その手は、まだ、温かかった。

温かいのに、どこにも、力が、入っていなかった。

病院の白い廊下で、私は、ただ立ち尽くしていた。

医者が首を横に振ったとき、足の下の床が、すうっと消えたような気がした。

葬式には、別れた女房が、新しい連れ合いを伴って、やって来た。

その無神経に腹を立てる気力さえ、もう、私には残っていなかった。

私は、ただ機械のように、線香を絶やさぬよう、手を動かしていた。

棺の、あまりの小ささだけが、やけに目について、離れなかった。

近所のおかみさんたちは、口を覆って、声を殺して泣いていた。

商店街の人々が、こんなにもたくさん、あの子の顔を覚えていてくれたのかと、ぼんやり思った。

魚屋の親父が、人目もはばからず、子供のように泣いていた。

七海の頬は、眠っているときと、何ひとつ、変わらなかった。

今にも「とうさん」と、目を開けて、起き上がりそうな気がした。

けれど、開かなかった。

私は、結局、その晩、一度も、まともには泣けなかった。

涙よりも先に、ただ、信じられない、という気持ちが、胸をふさいでいた。

あの子の使っていた、小さな黄色い茶碗が、流しの隅に、まだ伏せてあった。

私は、それを、どうしても、片づけられずにいた。

初七日が済んだ晩のことだ。

私は店のシャッターを、半分だけ下ろして、ひとり、暗がりに座っていた。

客の来ない店で、油の匂いだけが、いつもと同じように、立ちこめていた。

工具も、自転車も、何ひとつ、昨日と変わらず、そこにあった。

変わったのは、ただ、あの子がいない、ということだけだった。

すると、また、櫓のほうから、浜風音頭が流れてきた。

祭りは、あの子がいなくなっても、何ごともなかったように、続いていた。

「はまかぜぇ、おんどぉ」

耳の奥で、あの舌足らずの唄が、突然、はっきりと、よみがえった。

その一節がよみがえった瞬間、私は、子供のように声を上げて泣いた。

油で汚れた手で顔を覆って、半分閉じたシャッターの内側で、いつまでも、いつまでも泣いた。

いい歳をした男が、こんな声で泣くものかと、自分でも思った。

それでも、どうしても、止まらなかった。

泣きながら、私は、あの子の名前を、何度も、何度も呼んだ。

誰も、答えなかった。

櫓の唄だけが、暗い店先に、淡々と流れ続けていた。

ひとしきり泣いたあと、私は、レジの脇の貯金箱を、そっと手に取った。

ブリキの缶を逆さにして、中のものを、てのひらに空けてみた。

一円玉と、五円玉と、十円玉が、ぱらぱらと、乾いた音を立ててこぼれ落ちた。

膝の上で、私は、それを一枚ずつ、ゆっくりと数えた。

四百二十円だった。

あの子の貯金箱は、四百二十円で、止まったままだ。

赤い金魚の浴衣を買うには、まるで、足りない。

もし神様がいるのなら、なぜ、こんな半端な額で、この子の時間を止めたのか。

私には、どうしても、わからなかった。

わからないまま、私は、その小銭を、もう一度、缶に戻した。

一枚も、使う気には、なれなかった。

その缶は、今も、レジの脇に、あのときのまま置いてある。

補助輪は、夏の終わりに、外してやるはずだった。

赤い金魚の浴衣を着せて、櫓の下を、手をつないで、ゆっくり歩くはずだった。

七五三には、母親のいないこの子のために、私が小さな草履を選んでやるはずだった。

いつか成人式には、この不器用な手で、私が振袖を見立ててやるはずだった。

その「はずだった」が、店じゅうに、油の匂いのように染みついて、もう、消えてくれない。

見えるはずだった未来と、二度と来ない未来とが、私の中で、いつも背中合わせに並んでいる。

それでも、私は、店を畳まなかった。

今日も、私は、他人の自転車のチェーンに、黙って油を差している。

赤い子供用の自転車は、あのときのまま、店の隅に、吊るしてある。

時々、私はそれを下ろして、チェーンを拭き、空気を入れ、ベルを磨く。

リン、と、あの澄んだ音が、誰もいない店先に、ひとつだけ、響く。

いつ、あの子が乗りに来てもいいように。

近くにいるようで、遠い。

遠いようで、すぐ、そこにいる。

シャッターの隙間から、今年もまた、浜風音頭が流れてくる季節になった。

私は手を止めて、その唄に、そっと耳をすます。

客が来れば、私は変わらず、パンクを直し、タイヤに空気を入れる。

「娘さんは、元気かい」と、昔の常連に訊かれることも、たまにある。

そのたびに、私は、ただ静かに笑って、小さく首を横に振る。

どこかで、舌足らずの声が、いっしょにうたっている気がするからだ。

七海。

自転車は、いつでも乗れるように、磨いてあるからな。

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