七海の赤い自転車

七海の赤い自転車

七海が、五歳の夏に死んだ。

夕方、店先の丸椅子に腰かけて、鼻歌をうたっていた子だった。

私が客の自転車のチェーンに油を差して、ほんの少しだけ背を向けた。

振り返ったとき、七海は椅子から滑り落ちて、土間にうずくまっていた。

名前を呼んで抱き起こしても、もう、私の腕の中で、ぐったりと力を失っていた。

頬を叩いても、肩を揺すっても、あの子はもう、目を開けなかった。

直接の死因は心臓の発作だったと、ずいぶん後になってから、医者に聞かされた。

生まれてこのかた、風邪ひとつ大きくは患わなかった子だ。

その健やかな子が、何の前ぶれもなく倒れたものだから、病院も警察も、不審に思ったらしい。

私は、娘の通夜の晩に、事情聴取というものを受けた。

何を訊かれて、何を答えたのか、今となっては、ほとんど覚えていない。

ただ、刑事の机の上で、古い蛍光灯が、じいじいと鳴っていたことだけを、妙にはっきりと覚えている。

その音を聞きながら、私は、これは現実なのだと、何度も自分に言い聞かせていた。

※

私は、海沿いの古い商店街で、小さな自転車屋をやっている。

間口の狭い、油と錆の匂いの染みついた、薄暗い店だ。

死んだ親父から継いだ店で、色あせた看板の文字は、もう半分しか読めない。

女房とは、七海がまだ二つになったばかりの年に、別れた。

理由を今さら並べてみても、もう、どうにかなるものではない。

ただ、七海だけは、何があっても、手放したくなかった。

親権でずいぶん揉めたが、最後は、女房のほうが折れた。

それからは、店の二階の四畳半で、男ひとりと、女の子ひとりの暮らしが始まった。

朝は、私が握った不格好なおにぎりを、七海は文句ひとつ言わずに頬張った。

海苔がいつも端からはがれて、米粒がぽろぽろと畳に落ちた。

それでも七海は「とうさんのおにぎり、おいしい」と、律儀に言ってくれた。

髪を結ってやるのは、何度やっても下手くそで、左右の高さが、まるで揃わなかった。

近所のおかみさんに、こっそりやり方を教わったこともある。

それでも、不器用な指は、細い髪をうまくまとめられなかった。

母親のいないこの子を、せめて、女の子らしくしてやりたかった。

だから、服を買うときだけは、私は面倒がらずに、何度も棚の前を行ったり来たりした。

安物の中から、いちばん明るい色のものを選んでやるのが、私のささやかな意地だった。

夜、二階の窓を開けると、潮の匂いと、隣の家のテレビの音が、いっしょに流れ込んできた。

七海は、その匂いの中で、私の腕を枕にして、すぐに寝息を立てた。

小さな、規則正しい寝息だった。

その寝息を聞いていると、別れた女房のことも、店の借金のことも、不思議と、どうでもよくなった。

この子さえいれば、それでよかった。

本当に、それだけで、よかったのだ。

風呂は、二階の小さな浴室で、毎晩いっしょに入った。

私が頭を洗ってやると、七海は目をぎゅっとつぶって、律儀に息を止めた。

湯船の中で、あの子は、その日あった出来事を、順番に話して聞かせた。

保育園で誰が転んだとか、給食の何が嫌いだとか、たわいもない話ばかりだ。

私は相槌を打ちながら、その小さな声を、ただ、いつまでも聞いていた。

※

店の隅に、赤い子供用の自転車が一台、天井から吊るしてあった。

客が下取りに出していった中古を、私が冬のあいだ、一から組み直したものだ。

錆を一本ずつ落とし、すり減ったタイヤを替え、ブレーキを調整し、補助輪をつけた。

塗装のはげたフレームは、自分で赤いペンキを塗り直した。

ベルだけは、どうしても新品をおごってやりたくて、問屋に頼んで取り寄せた。

銀色の、よく澄んだ音の鳴るベルだった。

組み上がった自転車を土間に下ろした朝、七海は、声も出さずに、ただ目を輝かせた。

それから、おそるおそるサドルに手を触れて、「七海の?」と、小さな声で訊いた。

「ああ、七海のだ」と答えると、あの子は、その場で飛び跳ねた。

それからというもの、七海は、その自転車にまたがるのが、何より好きになった。

まだ補助輪は外せなかったが、海沿いの一本道を、危なっかしくこいでいた。

私は店の表で工具を握ったまま、その小さな背中を、いつまでも目で追った。

夕日が、赤い自転車と、あの子の影を、長く長く道に伸ばしていた。

店には、昔からの常連が、ぽつぽつと顔を出した。

誰もが、七海の名を呼んで、飴玉のひとつもくれてやった。

あの子は、店の看板娘のような顔をして、客にぺこりと頭を下げた。

「とうさん、もうすぐ、ほじょりん、とれる?」

あの子は、こぎ疲れた頬を上気させて、よく、そう訊いた。

「ああ、夏が終わる頃にはな」と、私はいつも答えた。

「夏が終わったら、海沿いをぜんぶ、自分でこげるようになるさ」と。

その夏が終わる前に、七海は、いなくなった。

補助輪は、つけたままだった。

外してやる約束を、私は、果たせなかった。

※

店のレジの脇に、七海の貯金箱が置いてあった。

口の欠けた、古いブリキの菓子缶だ。

客に渡しそびれた一円玉や五円玉を、私は時々、その缶に放ってやった。

七海も、道で拾った十円玉を、得意げな顔で、そこへ入れた。

「とうさん、また、ひろった」と、てのひらを開いて見せた。

缶がいっぱいになったら、夏祭りに着ていく浴衣を買おうと、私たちは約束していた。

「はまかぜまつり、ゆかた、きていくの」

七海は、缶を振って中の音を確かめながら、そう言うのが癖だった。

赤い金魚の浴衣がいい、と、あの子は決めていた。

店先のガラスに映る自分の姿を見て、もう着たつもりで、くるりと回ってみせた。

浜風祭りというのは、この小さな町の、年に一度の、ささやかな盆踊りだ。

夏の夕暮れになると、浜辺に組まれた櫓の上から、浜風音頭という古い唄が流れてくる。

録音の、少しかすれた唄声が、潮風に乗って、商店街の隅々まで届く。

七海は、その唄を、どうにかして覚えようと、一生懸命だった。

けれど、五歳の舌は、肝心のところで、どうにも回らない。

「はまかぜぇ、おんどぉで、ねえ、とうさん」

「はぁ、ま、かぜ、だよ」と直してやっても、また「はまかぜぇ」と、けらけら笑った。

櫓の下で見よう見まねの盆踊りの手つきを、店の中で、何度も繰り返していた。

その、舌足らずの唄と、ぎこちない手つきが、私は、どうしようもなく、好きだった。

油まみれの薄暗い店の中で、その唄だけが、いつも、光のようだった。

※

七海が倒れたのも、櫓から、その浜風音頭が流れ始めた、あの夕方だった。

丸椅子の上で、足をぶらぶらさせながら、あの子は、いつものように、あの唄をうたっていた。

「はまかぜぇ……」

その続きを、私は、ついに、聞かなかった。

気づいたときには、あの子は、もう、土間に崩れ落ちていた。

救急車のサイレンと、櫓から流れる祭りの唄が、夕暮れの道で、奇妙に重なって聞こえた。

運ばれていく車の中で、私は、あの子の小さな手を、ずっと握り続けていた。

その手は、まだ、温かかった。

温かいのに、どこにも、力が、入っていなかった。

病院の白い廊下で、私は、ただ立ち尽くしていた。

医者が首を横に振ったとき、足の下の床が、すうっと消えたような気がした。

※

葬式には、別れた女房が、新しい連れ合いを伴って、やって来た。

その無神経に腹を立てる気力さえ、もう、私には残っていなかった。

私は、ただ機械のように、線香を絶やさぬよう、手を動かしていた。

棺の、あまりの小ささだけが、やけに目について、離れなかった。

近所のおかみさんたちは、口を覆って、声を殺して泣いていた。

商店街の人々が、こんなにもたくさん、あの子の顔を覚えていてくれたのかと、ぼんやり思った。

魚屋の親父が、人目もはばからず、子供のように泣いていた。

七海の頬は、眠っているときと、何ひとつ、変わらなかった。

今にも「とうさん」と、目を開けて、起き上がりそうな気がした。

けれど、開かなかった。

私は、結局、その晩、一度も、まともには泣けなかった。

涙よりも先に、ただ、信じられない、という気持ちが、胸をふさいでいた。

あの子の使っていた、小さな黄色い茶碗が、流しの隅に、まだ伏せてあった。

私は、それを、どうしても、片づけられずにいた。

※

初七日が済んだ晩のことだ。

私は店のシャッターを、半分だけ下ろして、ひとり、暗がりに座っていた。

客の来ない店で、油の匂いだけが、いつもと同じように、立ちこめていた。

工具も、自転車も、何ひとつ、昨日と変わらず、そこにあった。

変わったのは、ただ、あの子がいない、ということだけだった。

すると、また、櫓のほうから、浜風音頭が流れてきた。

祭りは、あの子がいなくなっても、何ごともなかったように、続いていた。

「はまかぜぇ、おんどぉ」

耳の奥で、あの舌足らずの唄が、突然、はっきりと、よみがえった。

その一節がよみがえった瞬間、私は、子供のように声を上げて泣いた。

油で汚れた手で顔を覆って、半分閉じたシャッターの内側で、いつまでも、いつまでも泣いた。

いい歳をした男が、こんな声で泣くものかと、自分でも思った。

それでも、どうしても、止まらなかった。

泣きながら、私は、あの子の名前を、何度も、何度も呼んだ。

誰も、答えなかった。

櫓の唄だけが、暗い店先に、淡々と流れ続けていた。

※

ひとしきり泣いたあと、私は、レジの脇の貯金箱を、そっと手に取った。

ブリキの缶を逆さにして、中のものを、てのひらに空けてみた。

一円玉と、五円玉と、十円玉が、ぱらぱらと、乾いた音を立ててこぼれ落ちた。

膝の上で、私は、それを一枚ずつ、ゆっくりと数えた。

四百二十円だった。

あの子の貯金箱は、四百二十円で、止まったままだ。

赤い金魚の浴衣を買うには、まるで、足りない。

もし神様がいるのなら、なぜ、こんな半端な額で、この子の時間を止めたのか。

私には、どうしても、わからなかった。

わからないまま、私は、その小銭を、もう一度、缶に戻した。

一枚も、使う気には、なれなかった。

その缶は、今も、レジの脇に、あのときのまま置いてある。

※

補助輪は、夏の終わりに、外してやるはずだった。

赤い金魚の浴衣を着せて、櫓の下を、手をつないで、ゆっくり歩くはずだった。

七五三には、母親のいないこの子のために、私が小さな草履を選んでやるはずだった。

いつか成人式には、この不器用な手で、私が振袖を見立ててやるはずだった。

その「はずだった」が、店じゅうに、油の匂いのように染みついて、もう、消えてくれない。

見えるはずだった未来と、二度と来ない未来とが、私の中で、いつも背中合わせに並んでいる。

※

それでも、私は、店を畳まなかった。

今日も、私は、他人の自転車のチェーンに、黙って油を差している。

赤い子供用の自転車は、あのときのまま、店の隅に、吊るしてある。

時々、私はそれを下ろして、チェーンを拭き、空気を入れ、ベルを磨く。

リン、と、あの澄んだ音が、誰もいない店先に、ひとつだけ、響く。

いつ、あの子が乗りに来てもいいように。

近くにいるようで、遠い。

遠いようで、すぐ、そこにいる。

シャッターの隙間から、今年もまた、浜風音頭が流れてくる季節になった。

私は手を止めて、その唄に、そっと耳をすます。

客が来れば、私は変わらず、パンクを直し、タイヤに空気を入れる。

「娘さんは、元気かい」と、昔の常連に訊かれることも、たまにある。

そのたびに、私は、ただ静かに笑って、小さく首を横に振る。

どこかで、舌足らずの声が、いっしょにうたっている気がするからだ。

七海。

自転車は、いつでも乗れるように、磨いてあるからな。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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