母の四十九日が済んで、私はひとりで、雪の残る実家の納戸を片づけていました。
線香の匂いのしみついた古い簞笥の、いちばん下の引き出し。その奥から、一冊の薄い本が出てきました。角のすり切れた、横浜のガイドブックでした。
表紙には、山下公園の写真。海の色が、日に焼けて少し白っぽくなっていました。どうして雪国の母の簞笥に、横浜の案内書があるのだろう。私はその場に座り込んだまま、しばらく動けませんでした。
表紙をめくると、かすかに、母の使っていた化粧水の匂いがしました。母は、ふだん化粧などしない人でしたが、その安い化粧水の匂いだけは、私の子どもの頃から、少しも変わっていませんでした。匂いというのは、ふしぎなものです。理屈より先に、胸のいちばん柔らかいところを、まっすぐに突いてきます。
この話を、うまく書けるかどうかわかりません。それでも、書いておかなければ、私は一生、あの赤い線の意味から目をそらして生きてしまう気がするのです。
※
私は五年ほど前から、横浜へ単身赴任をしていました。
越後の田舎町で生まれ育った私にとって、海のある大きな街での暮らしは、はじめ、少しよそよそしいものでした。連休になると、妻が新幹線で出てきて、狭い社宅を片づけたり、作り置きのお菜をこしらえたりしてくれました。
母には、何度も声をかけていました。
「母さんも、たまには横浜に出てこいよ。海、見せてやるから」
けれど母は、そのたびに、電話の向こうで笑って、
「いいわいいわ。あんな人混み、わたしにはとても歩けん」
と言うのでした。
「中華街もあるし、うまいもん食わせるよ」
「気持ちだけで、じゅうぶん。嫁さんが行くんだから、わたしまで行ったら、かえって邪魔になるでしょう」
母は、人混みが苦手なのだと、私はそう思い込んでいました。だから、それ以上は無理に誘いませんでした。忙しさにかまけて、誘う回数も、年ごとに減っていきました。
いま思えば、私は「誘った」という事実だけで、どこか安心していたのだと思います。母が来ないのは母の都合で、自分はちゃんと声をかけている。その体裁の裏で、本当は、母を面倒に思う気持ちが、なかったとは言えません。
一度だけ、母が「行ってみようかね」と言ったことがありました。
妹が里帰りしていた春のことです。電話口で、母は少しはずんだ声で、
「桜の頃なら、人も少ないかね。港の見える公園とか、あるんだろう」
と言いました。私はそのとき、ちょうど仕事が立て込んでいて、つい、
「今はちょっと忙しいから、また落ち着いたらな」
と答えてしまったのです。
母は、「そうかね、忙しいなら仕方ないね」と、あっさり引き下がりました。私は、その「また今度」が、二度と来ないことになるとは、思ってもいませんでした。人生には、次があると、なんの根拠もなく信じていたのです。
※
母は、小柄で、無口な人でした。
言葉の少ない人でしたが、それは、思いが薄いからではありませんでした。むしろ逆で、母は、いちばん大事なことほど、口に出さずにしまい込む人でした。愛しているとも、寂しいとも、母が言うのを、私は聞いたことがありません。母の思いは、いつも、言葉ではなく、水筒や、お菜や、柱の絵はがきの形をして、そこにありました。
若いころに父と所帯を持ってからは、畑と、内職の封筒貼りで、私と妹を育ててくれました。ぜいたくというものを、私は母がしているのを、一度も見たことがありません。新しい服を買っても、「もったいない」と言って、しまい込んだまま着ないような人でした。
小学生の頃、遠足の前の晩に、私が「みんなは新しい水筒を持ってくる」とこぼしたことがあります。
次の朝、枕元には、新しい水筒が置いてありました。あとで知ったのですが、母はその晩、封筒貼りの内職を、夜通し余分にこなして、そのお金で買ってくれたのだそうです。母の指は、糊で荒れて、ところどころ、あかぎれていました。
「母さん、指、痛くないの」
子どもの私がそう聞くと、母は、
「これくらい、なんともないわ。あんたが喜ぶ顔のほうが、ずっと大事」
と言って、笑いました。母はいつも、自分の痛みを、うんと小さく数える人でした。
旅行にも、ほとんど行きませんでした。私が子どもの頃、一度だけ、隣県の温泉に日帰りで連れていってくれたことがあります。母はそのとき、旅館の絵はがきを一枚だけ買って、それを何年も、茶の間の柱に画鋲で留めていました。たった一枚の絵はがきを、母は宝物のように眺めていたのです。
そういう人でしたから、横浜のような遠い街は、母にとってはもう、別の国のようなものなのだろうと、私は勝手に決めていました。
けれど、いま思えば、母は「遠い街」に憧れがなかったわけでは、決してなかったのです。
あの日帰り温泉の絵はがきを、母は色があせても捨てませんでした。テレビで旅番組が流れると、畑仕事の手を止めて、じっと画面を見ていることもありました。父が「行きたいのか」と聞くと、母はきまって、「いいわいいわ、うちが好きだから」と笑って、また手を動かしはじめたそうです。
欲しがらないことと、欲しくないことは、違います。母はただ、自分の望みを、いつも家族の望みの、うしろに置く人だったのです。私はそのことに、母が生きているあいだ、ついに気づいてやれませんでした。
母から電話がかかってくると、たいていは短い用件でした。畑のこと、妹の子どものこと、父の血圧のこと。最後に決まって、
「体だけは、こわさんようにね」
と言って、切れました。私はいつも、生返事のような相槌を打っていました。
※
母が倒れたのは、去年の冬の朝でした。
畑に出ようとして、土間で崩れるように倒れたのだと、あとで父から聞きました。脳梗塞でした。救急車が着いたときには、もう、意識はなかったそうです。
私が横浜から駆けつけたときには、母はすでに、白い布の下で眠っていました。
顔にかけられた布を、私はそっとめくりました。母は、ほんとうに、眠っているだけのように見えました。いまにも目を開けて、「ああ、来たの。遠かったろう」と言いそうな、おだやかな顔でした。私は、その頬に、そっと手をあてました。まだ、かすかに、あたたかい気がしました。気のせいだったのかもしれません。
あたたかいと思いたかっただけなのかもしれません。それでも、その感触を、私は一生忘れないだろうと思いました。母の体温を、私が最後に確かめた、たった一度の瞬間でした。
間に合いませんでした。最後の言葉も、聞けませんでした。「体だけはこわさんように」と、いつも私を気づかっていた母のほうが、先に、あっけなく逝ってしまったのです。
母は、遠慮の人でした。最後の最後まで、誰にも迷惑をかけまいとするように、朝の土間で、ひとりで逝きました。その遠慮深さが、いまでは、たまらなく切ないのです。
葬儀のあいだ、私はどこか、現実の感じがしませんでした。涙も、思ったほどは出ませんでした。ただ、棺のなかの母の顔が、ずいぶん小さく見えたことだけを、妙にはっきりと覚えています。
横浜の社宅に戻っても、しばらくは、何も手につきませんでした。
母のいない世界が、こんなにも静かなものだとは、思っていませんでした。夜、電話が鳴らないことに、私はなかなか慣れませんでした。あの「体だけは、こわさんようにね」という、少ししわがれた声を、もう一度でいいから聞きたいと、何度も思いました。
けれど、その静けさの本当の意味を、私が思い知るのは、もう少し、あとのことでした。
※
そうして、四十九日ののち、私はあのガイドブックを見つけたのです。
手に取ると、本は、何度も繰り返し開かれたらしく、背の糊がゆるんで、ぱらぱらとほどけそうでした。ページのあちこちに、赤鉛筆で、線が引いてありました。
引き出しの奥には、ほかにも、いくつかのものが入っていました。
私が子どもの頃に描いた、へたな似顔絵。妹の結婚式の、小さな写真。そして、私が横浜から一度だけ送った、社宅の窓から見えた花火の絵はがき。それらは、みな、母の宝物のしまい場所に、大切に並べられていました。
母の世界は、けっして広くはありませんでした。畑と、家と、家族。ただそれだけの、小さな世界でした。けれど、その小さな引き出しのなかに、母は、自分の愛したものだけを、そっと集めていたのです。
山下公園。赤レンガ倉庫。中華街の、大通り。港の見える丘公園。どれも、私が電話で「見せてやる」と言った場所ばかりでした。
線は、一本ではありませんでした。同じ場所に、何度も、重ねて引かれていました。赤鉛筆の芯が、紙にめり込むほど、強く引かれた線もありました。
母は、この本を、いったい何度、開いたのでしょう。畑仕事を終えた夜、父が寝静まったあとの茶の間で、ひとり、この頁を繰っていた母の背中を想像すると、私は、いてもたってもいられませんでした。
母は、行きたかったのです。人混みが苦手だからではなく、私の暮らす街を、この目で見てみたかったのです。
ページをめくる指が、震えました。中華街の頁の隅に、母の細い字で、小さくこう書いてありました。
「息子と、肉まん」
べつの頁には、「息子と、船に乗る」。また別の頁には、「息子と、あかいレンガ」。
行きたい場所の一つひとつに、母は、私の名前を書き添えていたのです。ひとりで行きたいのではありませんでした。私と、いっしょに歩きたかった。それだけのことを、母は口に出せずに、この一冊のなかにだけ、そっと隠していたのでした。
「息子と」。「息子と」。「息子と」。
どの頁にも、その三文字が、繰り返し書かれていました。母が横浜で見たかったのは、海でも、中華街でも、ほんとうはなかったのかもしれません。母が見たかったのは、その景色の隣に立っている、私の顔だったのだと思います。どこへ行くかではなく、誰と行くか。母にとっては、それがすべてだったのです。
※
父に、このガイドブックのことを聞きました。
父は、しばらく黙ってから、ぽつりと言いました。
「あれはな、お前が横浜に行った年に、駅前の本屋で買ってきたんだ」
「じゃあ、本当は、来たかったのか」
「来たかったさ。だけどな」
父は、湯呑みを両手で包んだまま、目を伏せました。
父の手も、いつのまにか、母のように節くれだっていました。二人で、長い年月を、この雪深い里で、寄り添って生きてきたのです。
「嫁さんが行くんだから、自分まで行ったら、お前らの邪魔になる。息子夫婦の時間を、年寄りが取っちゃいかん。そう言って、我慢してたんだ。行きたいって、口が裂けても言わん人だったからな」
私は、返す言葉がありませんでした。
母は、私が「お義理で誘っている」ことを、たぶん、わかっていたのだと思います。
「なあ」
父が、ふいに言いました。
「母さんな、お前から電話がかかってくる日は、朝から、そわそわしてたぞ。ガイドブック出してきて、今日はどこの話をしようかって、下調べみたいなことしてな」
私は、うつむくことしかできませんでした。私にとっては、月に一度の、事務的な電話でした。母にとっては、それが、行けない旅の、いちばん近い場所だったのです。同じ一本の電話を、私たちは、まるで違う重さで受け取っていました。
母が亡くなったと知ったときよりも、葬式で棺を見たときよりも、私はこのとき、いちばん泣きました。畳に本を伏せて、子どものように声をあげて泣きました。
※
雪の実家に、いまも母のガイドブックはあります。
茶の間の、あの絵はがきが留めてあった柱の下の、小さな棚に置きました。私は横浜の勤めを辞めて、去年、この田舎町に戻ってきました。父を、ひとりにはできませんでしたし、なにより、この家に流れていた時間の続きを、私が引き受けなければいけない気がしたのです。
先日、妹の子ども――母の孫を連れて、私は横浜へ行ってきました。
あのガイドブックを、かばんに入れて。赤い線の引かれた場所を、一つずつ、順番にまわりました。中華街で肉まんを買い、船に乗り、赤レンガ倉庫の前に立ちました。海風は、少し塩の匂いがして、母が歩きたかった街は、思っていたよりもずっと、あたたかい光に満ちていました。
山下公園のベンチに座って、私は海を見ました。
かもめが、ゆっくりと弧を描いていました。母が見たかったのは、こういう景色だったのだと思うと、目の奥が、じわりと熱くなりました。潮の匂い。子どもの笑い声。船の汽笛。そのどれもを、母は、この目でたしかめたかったのです。
「ばあば、来られてよかったね」
姪が、足をぶらぶらさせながら、そう言いました。私は、うまく返事ができませんでした。母は、ここには来られませんでした。来られないまま、逝ってしまいました。それでも、母の願いを書いた一冊が、いまこうして、母のかわりに、この街の風にあたっている。それだけでも、来た甲斐があったと、私は思いたかったのです。
帰りの新幹線で、姪はすぐに眠ってしまいました。
窓の外を、田んぼと、山と、雪の残る里が、次々と流れていきました。母が生まれ、母が一生を過ごした、あの小さな世界へ、私たちは帰っていくのです。私は膝の上のガイドブックを、そっと両手で包みました。ずいぶん軽い一冊でした。けれど、この軽さのなかに、母のかなえられなかった願いの、すべてが詰まっているのだと思うと、私はそれを、どんな重い荷物よりも、大切に抱えていました。
「ばあば、ここに来たかったんだって」
そう言うと、幼い姪は、よくわからないなりに、こくんとうなずきました。
私は、ガイドブックの中華街の頁を開いて、母の字の下に、鉛筆でそっと書き足しました。「息子と孫、肉まん食べたよ」と。
これから先、私は、赤い線の引かれた場所を、一つずつ、母のかわりにまわろうと決めています。港の見える丘公園も、赤レンガ倉庫も、まだ残っています。ひとつ行くたびに、母の字の下に、私の字で、報告を書き足すつもりです。
それは、母への償いには、なりません。生きているうちに連れていってあげられなかった事実は、どうやっても、もう変えられないからです。
それでも、母がひとりで歩いた、心のなかの旅の続きを、今度は私が、この足で歩いていく。せめてそれだけは、母にしてあげられる、たった一つのことのように思うのです。
生きているあいだに、一度でいい、本気で母を呼べばよかった。その後悔は、たぶん、一生消えません。それでも、消えない後悔をかかえたまま、私は母の行きたかった道を、これからも少しずつ、歩いていこうと思うのです。
つたない話を、最後までお読みくださって、ありがとうございました。どうか、大切な人を「お義理」で誘うことのないよう、あなたの誘いが、いつも本気でありますように。