
母の四十九日が済んで、私はひとりで、雪の残る実家の納戸を片づけていました。
線香の匂いのしみついた古い簞笥の、いちばん下の引き出し。
その奥から、一冊の薄い本が出てきました。
角のすり切れた、横浜の母のガイドブックでした。
表紙には、山下公園の写真。
海の色が、日に焼けて少し白っぽくなっていました。
どうして雪国の母の簞笥に、横浜の案内書があるのだろう。
私はその場に座り込んだまま、しばらく動けませんでした。
表紙をめくると、かすかに、母の使っていた化粧水の匂いがしました。
母はふだん化粧などしない人でした。
けれど、その安い化粧水の匂いだけは、私の子どもの頃から少しも変わっていませんでした。
匂いというのは、ふしぎなものです。
理屈より先に、胸のいちばん柔らかいところを、まっすぐに突いてきます。
この話を、うまく書けるかどうかわかりません。
それでも書いておかなければ、私は一生、あの赤い線の意味から目をそらして生きてしまう気がするのです。
私は五年ほど前から、横浜へ単身赴任をしていました。
越後の田舎町で生まれ育った私にとって、海のある大きな街での暮らしは、はじめ少しよそよそしいものでした。
連休になると、妻が新幹線で出てきて、狭い社宅を片づけてくれました。
作り置きのお菜も、こしらえてくれました。
母には、何度も声をかけていました。
「母さんも、たまには横浜に出てこいよ。海、見せてやるから」
けれど母は、そのたびに、電話の向こうで笑うのでした。
「いいわいいわ。あんな人混み、わたしにはとても歩けん」
「中華街もあるし、うまいもん食わせるよ」
「気持ちだけで、じゅうぶん。嫁さんが行くんだから、わたしまで行ったら、かえって邪魔になるでしょう」
母は、人混みが苦手なのだと、私はそう思い込んでいました。
だから、それ以上は無理に誘いませんでした。
忙しさにかまけて、誘う回数も、年ごとに減っていきました。
いま思えば、私は「誘った」という事実だけで、どこか安心していたのだと思います。
母が来ないのは母の都合で、自分はちゃんと声をかけている。
その体裁の裏で、本当は、母を面倒に思う気持ちがなかったとは言えません。
一度だけ、母が「行ってみようかね」と言ったことがありました。
妹が里帰りしていた、春のことです。
電話口の母は、少しはずんだ声をしていました。
「桜の頃なら、人も少ないかね。港の見える公園とか、あるんだろう」
私はそのとき、ちょうど仕事が立て込んでいました。
だから、つい、こう答えてしまったのです。
「今はちょっと忙しいから、また落ち着いたらな」
母は、「そうかね、忙しいなら仕方ないね」と、あっさり引き下がりました。
私は、その「また今度」が、二度と来ないことになるとは、思ってもいませんでした。
人生には次があると、なんの根拠もなく信じていたのです。
母のガイドブック
母は、小柄で、無口な人でした。
言葉の少ない人でしたが、それは思いが薄いからではありませんでした。
むしろ逆で、いちばん大事なことほど、口に出さずにしまい込む人でした。
愛しているとも、寂しいとも、母が言うのを私は聞いたことがありません。
母の思いは、いつも言葉ではなく、水筒や、お菜や、柱の絵はがきの形をして、そこにありました。
若いころに父と所帯を持ってからは、畑と、内職の封筒貼りで、私と妹を育ててくれました。
ぜいたくというものを、母がしているのを、私は一度も見たことがありません。
新しい服を買っても、「もったいない」と言って、しまい込んだまま着ないような人でした。
小学生の頃、遠足の前の晩に、私がこぼしたことがあります。
「みんなは新しい水筒を持ってくるのに」
次の朝、枕元には、新しい水筒が置いてありました。
あとで知ったのですが、母はその晩、封筒貼りの内職を夜通し余分にこなしたそうです。
そのお金で、水筒を買ってくれたのでした。
母の指は、糊で荒れて、ところどころあかぎれていました。
「母さん、指、痛くないの」
子どもの私がそう聞くと、母は笑って答えました。
「これくらい、なんともないわ。あんたが喜ぶ顔のほうが、ずっと大事」
母はいつも、自分の痛みを、うんと小さく数える人でした。
旅行にも、ほとんど行きませんでした。
私が子どもの頃、一度だけ、隣県の温泉に日帰りで連れていってくれたことがあります。
母はそのとき、旅館の絵はがきを一枚だけ買いました。
それを何年も、茶の間の柱に画鋲で留めていました。
たった一枚の絵はがきを、母は宝物のように眺めていたのです。
そういう人でしたから、横浜のような遠い街は、母にとって別の国のようなものだろうと、私は勝手に決めていました。
けれど、母は「遠い街」に憧れがなかったわけでは、決してなかったのです。
あの絵はがきを、母は色があせても捨てませんでした。
テレビで旅番組が流れると、畑仕事の手を止めて、じっと画面を見ていることもありました。
父が「行きたいのか」と聞くと、母はきまってこう答えたそうです。
「いいわいいわ、うちが好きだから」
そして、また手を動かしはじめるのでした。
欲しがらないことと、欲しくないことは、違います。
母はただ、自分の望みを、いつも家族の望みの、うしろに置く人でした。
私はそのことに、母が生きているあいだ、ついに気づいてやれませんでした。
母から電話がかかってくると、たいていは短い用件でした。
畑のこと。妹の子どものこと。父の血圧のこと。
最後に決まって、「体だけは、こわさんようにね」と言って、電話は切れました。
私はいつも、生返事のような相槌を打っていました。
朝の土間の静けさ
母が倒れたのは、去年の冬の朝でした。
畑に出ようとして、土間で崩れるように倒れたのだと、あとで父から聞きました。
脳梗塞でした。
救急車が着いたときには、もう意識はなかったそうです。
私が横浜から駆けつけたときには、母はすでに、白い布の下で眠っていました。
顔にかけられた布を、私はそっとめくりました。
母は、ほんとうに、眠っているだけのように見えました。
いまにも目を開けて、「ああ、来たの。遠かったろう」と言いそうな、おだやかな顔でした。
私は、その頬に、そっと手をあてました。
まだ、かすかに、あたたかい気がしました。
気のせいだったのかもしれません。
あたたかいと思いたかっただけなのかもしれません。
それでも、その感触を、私は一生忘れないだろうと思いました。
母の体温を、私が最後に確かめた、たった一度の瞬間でした。
間に合いませんでした。
最後の言葉も、聞けませんでした。
「体だけはこわさんように」と、いつも私を気づかっていた母のほうが、先にあっけなく逝ってしまったのです。
母は遠慮の人でした。
最後の最後まで、誰にも迷惑をかけまいとするように、朝の土間で、ひとりで逝きました。
その遠慮深さが、いまではたまらなく切ないのです。
葬儀のあいだ、私はどこか、現実の感じがしませんでした。
涙も、思ったほどは出ませんでした。
ただ、棺のなかの母の顔が、ずいぶん小さく見えたことだけを、妙にはっきりと覚えています。
火葬場の煙突から、白い煙が、冬の空へ細くのぼっていきました。
父は、その煙を見上げたまま、一言も口をききませんでした。
横浜の社宅に戻っても、しばらくは何も手につきませんでした。
母のいない世界が、こんなにも静かなものだとは、思っていませんでした。
夜、電話が鳴らないことに、私はなかなか慣れませんでした。
あの「体だけは、こわさんようにね」という、少ししわがれた声を、もう一度でいいから聞きたいと思いました。
けれど、その静けさの本当の意味を知るのは、もう少しあとのことでした。
赤い線と息子と
そうして、四十九日ののち、私は母のガイドブックを見つけたのです。
手に取ると、本は何度も繰り返し開かれたらしく、背の糊がゆるんでいました。
ぱらぱらと、ほどけてしまいそうでした。
ページのあちこちに、赤鉛筆で、線が引いてありました。
引き出しの奥には、ほかにもいくつかのものが入っていました。
私が子どもの頃に描いた、へたな似顔絵。
妹の結婚式の、小さな写真。
そして、私が横浜から一度だけ送った、社宅の窓から見えた花火の絵はがき。
それらはみな、母の宝物のしまい場所に、大切に並べられていました。
母の世界は、けっして広くはありませんでした。
畑と、家と、家族。
ただそれだけの、小さな世界でした。
けれど、その小さな引き出しのなかに、母は自分の愛したものだけを、そっと集めていたのです。
山下公園。赤レンガ倉庫。中華街の大通り。港の見える丘公園。
どれも、私が電話で「見せてやる」と言った場所ばかりでした。
線は、一本ではありませんでした。
同じ場所に、何度も重ねて引かれていました。
赤鉛筆の芯が、紙にめり込むほど強く引かれた線もありました。
母は、この本を、いったい何度開いたのでしょう。
畑仕事を終えた夜、父が寝静まったあとの茶の間で、ひとり、この頁を繰っていた母の背中。
それを想像すると、私はいてもたってもいられませんでした。
母は、行きたかったのです。
人混みが苦手だからではなく、私の暮らす街を、この目で見てみたかったのです。
ページをめくる指が、震えました。
中華街の頁の隅に、母の細い字で、小さくこう書いてありました。
「息子と、肉まん」
べつの頁には、「息子と、船に乗る」。
また別の頁には、「息子と、あかいレンガ」。
行きたい場所の一つひとつに、母は私の名前を書き添えていたのです。
ひとりで行きたいのではありませんでした。
私と、いっしょに歩きたかった。
それだけのことを、母は口に出せずに、この一冊のなかにだけ、そっと隠していたのでした。
「息子と」。「息子と」。「息子と」。
どの頁にも、その三文字が繰り返し書かれていました。
母が横浜で見たかったのは、海でも、中華街でもなかったのかもしれません。
母が見たかったのは、その景色の隣に立っている、私の顔だったのだと思います。
どこへ行くかではなく、誰と行くか。
母にとっては、それがすべてだったのです。
父が語った電話の日
父に、このガイドブックのことを聞きました。
父は、しばらく黙ってから、ぽつりと言いました。
「あれはな、お前が横浜に行った年に、駅前の本屋で買ってきたんだ」
「じゃあ、本当は、来たかったのか」
「来たかったさ。だけどな」
父は、湯呑みを両手で包んだまま、目を伏せました。
父の手も、いつのまにか、母のように節くれだっていました。
二人で長い年月を、この雪深い里で、寄り添って生きてきたのです。
「嫁さんが行くんだから、自分まで行ったら、お前らの邪魔になる。息子夫婦の時間を、年寄りが取っちゃいかん。そう言って、我慢してたんだ」
父は、そこで言葉を切りました。
「行きたいって、口が裂けても言わん人だったからな」
私は、返す言葉がありませんでした。
母は、私が「お義理で誘っている」ことを、たぶんわかっていたのだと思います。
「なあ」
父が、ふいに言いました。
「母さんな、お前から電話がかかってくる日は、朝から、そわそわしてたぞ」
「そわそわ」
「ガイドブック出してきて、今日はどこの話をしようかって、下調べみたいなことしてな」
私は、うつむくことしかできませんでした。
私にとっては、月に一度の、事務的な電話でした。
母にとっては、それが行けない旅の、いちばん近い場所だったのです。
同じ一本の電話を、私たちはまるで違う重さで受け取っていました。
母が亡くなったと知ったときよりも、葬式で棺を見たときよりも。
私はこのとき、いちばん泣きました。
畳に本を伏せて、子どものように声をあげて泣きました。
父は、何も言わずに、私の背中に、ごつごつした手を置いてくれました。
山下公園のベンチ
雪の実家に、いまも母のガイドブックはあります。
茶の間の、あの絵はがきが留めてあった柱の下の、小さな棚に置きました。
私は横浜の勤めを辞めて、去年、この田舎町に戻ってきました。
父をひとりにはできませんでした。
なにより、この家に流れていた時間の続きを、私が引き受けなければいけない気がしたのです。
先日、妹の子ども、母の孫を連れて、私は横浜へ行ってきました。
あのガイドブックを、かばんに入れて。
赤い線の引かれた場所を、一つずつ、順番にまわりました。
中華街で肉まんを買い、船に乗り、赤レンガ倉庫の前に立ちました。
海風は少し塩の匂いがして、母が歩きたかった街は、思っていたよりずっと、あたたかい光に満ちていました。
山下公園のベンチに座って、私は海を見ました。
かもめが、ゆっくりと弧を描いていました。
母が見たかったのは、こういう景色だったのだと思うと、目の奥がじわりと熱くなりました。
潮の匂い。子どもの笑い声。船の汽笛。
そのどれもを、母はこの目でたしかめたかったのです。
「ばあば、来られてよかったね」
姪が、足をぶらぶらさせながら、そう言いました。
私は、うまく返事ができませんでした。
母は、ここには来られませんでした。
来られないまま、逝ってしまいました。
それでも、母の願いを書いた一冊が、いまこうして母のかわりに、この街の風にあたっている。
それだけでも、来た甲斐があったと、私は思いたかったのです。
帰りの新幹線で、姪はすぐに眠ってしまいました。
窓の外を、田んぼと、山と、雪の残る里が、次々と流れていきました。
母が生まれ、母が一生を過ごした、あの小さな世界へ、私たちは帰っていくのです。
私は膝の上のガイドブックを、そっと両手で包みました。
ずいぶん軽い一冊でした。
けれど、この軽さのなかに、母のかなえられなかった願いのすべてが詰まっているのだと思うと、どんな重い荷物よりも、大切に抱えていられました。
「ばあば、ここに来たかったんだって」
そう言うと、幼い姪は、よくわからないなりに、こくんとうなずきました。
私は、中華街の頁を開いて、母の字の下に、鉛筆でそっと書き足しました。
「息子と孫、肉まん食べたよ」
これから先、私は赤い線の引かれた場所を、一つずつ母のかわりにまわろうと決めています。
港の見える丘公園も、赤レンガ倉庫の奥も、まだ残っています。
ひとつ行くたびに、母の字の下に、私の字で、報告を書き足すつもりです。
それは、母への償いにはなりません。
生きているうちに連れていってあげられなかった事実は、どうやっても変えられないからです。
それでも、母がひとりで歩いた心のなかの旅の続きを、今度は私が、この足で歩いていく。
せめてそれだけは、母にしてあげられる、たった一つのことのように思うのです。
生きているあいだに、一度でいい、本気で母を呼べばよかった。
その後悔は、たぶん一生消えません。
それでも、消えない後悔をかかえたまま、私は母の行きたかった道を、これからも少しずつ歩いていこうと思うのです。
似た想いは、お母さんの看病がしたいよや友人のマグカップの物語にも綴られています。
つたない話を、最後までお読みくださって、ありがとうございました。
どうか、大切な人を「お義理」で誘うことのないよう。
あなたの誘いが、いつも本気でありますように。