
動物園のおにぎりの味を、私は三十年近く、誰にも話さなかった。
今年の二月、母が旅立った。
その人のことを、私は長いあいだ、心のなかで「紀子さん」と呼んでいた。
私が五歳のとき、実の母は癌で亡くなった。
それから二年、父と、二つ上の姉と、三人で暮らした。
実の母の記憶は、断片しか残っていない。
薬の匂いのする病室。
白い手の甲に刺さった、細い針。
そして、一度だけ家族で出かけた、河原のピクニック。
敷物の真ん中に、母の握ったおにぎりが並んでいた。
海苔はしっとりと湿って、米にぴたりと貼りついていた。
塩は、少し強かった。
「汗をかいたあとは、これくらいがちょうどいいの」
母はそう言って、まだ小さかった私の口に、一つ押し込んだ。
麦茶の水筒の蓋が、陽に当たって眩しかったことまで覚えている。
その味を、七歳になっても、私の舌ははっきりと覚えていた。
ここに載っている家族の話を、私はこの数か月、何本も読んだ。
きょうだいの時間を綴った11年後のぼくが伝えたいことや、大切な家族のような短い話に、何度も足が止まった。
それで、自分の話も、ようやく書いてみる気になった。
通夜の晩、親戚が帰った座敷で、私は祭壇の写真を長いこと見ていた。
遺影のなかの紀子さんは、少し照れたように笑っていた。
去年の秋、孫の運動会の芝生の上で、私が携帯電話で撮った一枚だ。
線香の煙が、天井の梁のあたりで、ゆっくり渦を巻いていた。
座敷には、冷めた煮物と、手つかずの寿司桶が残っていた。
その桶の端に、誰かが置いたおにぎりが、ラップにくるまれて一つだけ転がっていた。
私はそれを、手に取れなかった。
日曜日に来た人
七歳の春、小学一年生の日曜日だった。
朝から父が落ち着かなかった。
いつもは着ない襟のあるシャツを着て、何度も洗面所の鏡の前に立っていた。
「今から、二人に会ってほしい人がいるんだ」
父は玄関で、私と姉を見ないまま言った。
連れてこられたのは、父より少し若い、目尻の下がった女性だった。
紙袋を両手で抱えて、玄関の三和土に立っていた。
中身はカステラだった。
切り分ける前から、甘い匂いが居間いっぱいに広がった。
姉はすぐに打ち解けた。
折り紙の話で笑い、その人の膝の近くまで、にじり寄っていった。
私は、台所の入口の柱に背中をつけたまま、動けなかった。
子どもなりに、父がこの人と一緒になるつもりなのだと分かっていた。
分かっていたから、余計に近づけなかった。
その夜、三人で食べた夕飯の途中で、父が箸を置いた。
「父さん、あの人と結婚してもいいかな」
姉が、先に「いいよ」と言った。
私は、味噌汁の椀を持ったまま、立ちのぼる湯気を見ていた。
父の背中が、いつもよりずいぶん小さく見えた。
ここで首を振れば、この人はまた一人になってしまう。
そう思ったら、言葉が喉の奥で固まった。
「……いいよ」
自分の声が、他人の声のように聞こえた。
こうして、うちは四人家族になった。
私はそれを、「四人家族に戻った」とは、どうしても思えなかった。
新しい母は、私を「悠くん」と呼んだ。
私は、その人を呼ばないことにした。
用があるときは、すぐ近くまで行って、服の端を引いた。
それでも、その人は一度も叱らなかった。
秋の参観日には、いちばん後ろの壁際に、白いブラウスで立っていた。
他の母親たちの輪には入らず、ただ静かに、私の背中を見ていた。
先生に当てられて、私は計算をまちがえた。
振り返ると、その人は、小さく両手を握って「大丈夫」と口だけで言った。
私は、前を向き直って、黒板の端を睨んだ。
嬉しいのか、悔しいのか、自分でも分からなかった。
そして、その人の作るおにぎりだけは、いつも形が少し崩れていた。
煮物も味噌汁も上手なのに、おにぎりだけは、握るそばから三角が丸くなった。
父が「ごはんの粒が悪いんだな」と笑うと、その人は黙って皿を下げた。
その冬は、夜中にトイレへ起きると、台所の灯りが点いていることが何度もあった。
半開きの引き戸の向こうから、塩の匂いと、ごはんの湯気の気配がした。
私は寝ぼけたまま、見なかったことにして布団へ戻った。
風邪をひいた夜のことも、覚えている。
熱で頭が重く、喉が焼けるように痛かった。
姉は隣の部屋で眠っていて、父は出張で家にいなかった。
眠ったふりをしていると、冷たい手拭いが額に載った。
手拭いは、何度も取り替えられた。
そのたびに、水の音と、畳をすべる足袋の音がした。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「……寝てた」
「そう。それならいいの」
朝方、目を開けると、その人は座布団も敷かずに、畳に横になっていた。
手拭いを絞った水が、洗面器の縁をつたっていた。
私は声をかけず、自分の布団の端を、そっとその人の肩にかけた。
それが、私の最初の「ありがとう」だったのだと思う。
動物園のおにぎり
八月の終わりの金曜日の夜だった。
「明日は、みんなで動物園に行こう」
夕飯の席で、父が言った。
動物園など、ほとんど行ったことがなかった。
私は嬉しくて、返事をする前に箸を落とした。
姉が笑い、父が笑い、あの人も、少しだけ笑った。
その夜は、遠足の前みたいに眠れなかった。
翌朝は、目覚ましより先に目が覚めた。
階段を下りると、居間の電灯が点いていて、父が薬入れをひっくり返していた。
「どうしたの」
「姉ちゃんが、熱を出したみたいなんだ」
二階をのぞくと、姉は布団を頭までかぶっていた。
額に手を当てると、たしかに熱い。
父は体温計を、長いこと見つめていた。
「父さんは家に残って、美和を看てる。悠は、お母さんと二人で行っておいで」
お母さん、という言葉が、耳のなかで浮いた。
私は何も言えなかった。
あの人は台所から顔を出して、小さくうなずいた。
バスの座席に、二人で並んで座った。
窓の外を、見慣れない街並みが流れていった。
あの人は、膝の上に風呂敷包みを抱えていた。
私たちは、動物園の門をくぐるまで、ひとことも話さなかった。
象の前では、藁と土の混じった獣の匂いが、鼻の奥に残った。
キリンの前では、蝉の声が頭の上から降ってきた。
どこにいても、会話は続かなかった。
「大きいね」
「うん」
それだけだった。
売店の前で、あの人はソフトクリームを一つ買って、私に差し出した。
「半分こにする?」
「……いらない」
本当は食べたかった。
けれど、口が勝手にそう答えてしまった。
あの人は、少しだけ眉を下げて、一人でそれを食べた。
白いクリームが、溶けて指をつたっていた。
正午を過ぎて、木陰のベンチに並んで座った。
風呂敷がほどかれて、アルミホイルの包みが、膝の上に現れた。
「お弁当、作ってきたの」
あの人はそう言って、おにぎりを一つ、私の手に載せた。
形は、やはり少し崩れていた。
海苔が、ごはんにぴたりと貼りついていた。
指で触れると、しっとりと湿っていた。
一口かじった。
海苔が歯に当たって、すぐにほどけた。
塩が、少しだけ強かった。
その瞬間、河原の風が吹いた。
敷物の端を押さえた母の白い手が、目の前に見えた。
「汗をかいたあとは、これくらいがちょうどいいの」
そう言って笑った母の顔まで、はっきりと見えた。
気がつくと、涙がぼろぼろと膝に落ちていた。
止めようとした。
止めようとするほど、喉が震えた。
あの人は、手を伸ばしかけて、空中で止めた。
「ごめんね。お塩、多かった?」
「……違う」
「うん」
「違うんだ」
私は、おにぎりを両手で持ったまま、息をひそめて泣いた。
あの人は何も聞かなかった。
ただ隣で、風呂敷の端を、何度も畳み直していた。
しばらくして、私は初めて、自分から口を開いた。
「僕のお母さんもね、これと同じおにぎりを作ったんだ」
「そう」
「河原で食べたの。一回だけ」
「どんな河原だった?」
「芝生があって、橋があって、お母さんの帽子が飛んだ」
それから私は、堰を切ったように話した。
実の母の帽子のこと、橋の下の水の冷たさ、敷物の柄。
あの人は、うなずきながら、一つ残らず聞いていた。
「いい日だったんだね」
「うん」
「その話、またしてくれる?」
「……うん」
動物園を一周するころには、私はあの人の隣を歩いていた。
さっきのソフトクリームの店の前で、今度は私から「食べたい」と言った。
あの人は、はっとした顔をして、それから嬉しそうに財布を開いた。
二人で一つを、交互にかじった。
帰りのバスでは、あの人の肩にもたれて眠った。
目を覚ますと、あの人の手が、私の頭にそっと載っていた。
その手のひらは、少しだけ、塩の匂いがした。
台所の灯りの三十年
それからの毎日に、特別な出来事は何も起きなかった。
私はまだ「お母さん」とは呼べなかった。
けれど、服の端を引く代わりに、「ねえ」と声をかけるようになった。
あの人の握るおにぎりは、少しずつ形がそろっていった。
遠足の日も、部活の朝も、受験の前の夜食も、おにぎりだった。
海苔はいつも、ごはんにしっとりと貼りついていた。
塩は、ほんの少し強かった。
中学二年の夏、私は一度だけ、ひどいことを言った。
部活の仲間と食べる弁当に、おにぎりが三つ入っていたからだ。
「もう、おにぎりばっかりやめてくれよ。恥ずかしいんだ」
台所で洗い物をしていたあの人の手が、止まった。
「……そうね。ごめんね」
それだけ言って、水を止めた。
翌朝から、弁当箱のなかは、ごはんとおかずが別々になった。
おにぎりの形は、二度と弁当箱に入らなかった。
一か月が過ぎて、私は、胃のあたりが妙に寂しいことに気がついた。
それが何の寂しさなのか、分かった夜、私は台所の前で立ち尽くした。
「……あのさ」
「なあに」
「やっぱり、おにぎり、入れてほしい。一個でいいから」
あの人は、振り返らなかった。
肩だけが、小さく震えた。
「うん。すぐ作るね」
次の朝の弁当箱の隅に、小さなおにぎりが一つ、アルミホイルにくるまれて入っていた。
大学進学のとき、私は家を出た。
駅のホームで、あの人は紙袋を持たせてくれた。
中には、おにぎりが四つと、洗濯ばさみが二つ入っていた。
「洗濯ばさみ?」
「一人暮らしは、すぐ足りなくなるから」
電車が動き出すまで、あの人はホームで手を振り続けた。
結婚式の日、私は両親への手紙の代わりに、短い挨拶をした。
「二人の母に育てられました」と言うと、会場の隅で、紀子さんが口元を押さえた。
動物園のおにぎりの話は、そのときも、しなかった。
あの日のことを口に出したら、何かが壊れてしまう気がしたからだ。
披露宴のあと、父がこっそり寄ってきて、私の背広の襟を直した。
「悠」
「なに」
「おまえは、いい顔になったな」
それだけ言って、父は先に歩いていった。
三十代になって、私は結婚し、子どもが生まれた。
赤ん坊を抱き上げたあの人は、しばらく黙って、その顔を見ていた。
「悠くんにそっくり」
「そう?」
「目が、ちょっと離れてるところ」
そう言って笑う目尻に、細い皺が深く刻まれていた。
私は、その皺の数だけ、この人に何かを返せただろうかと考えた。
返せてなどいない、という答えだけが、胸の奥に沈んでいった。
それでも紀子さんは、赤ん坊の指を、一本ずつ確かめるように握っていた。
去年の秋、検診で膵臓に影が見つかった。
進行は早く、冬のはじめには、入院になった。
病室の窓から、冬枯れの桜の枝が見えた。
痩せた手の甲に、細い針が刺さっていた。
私はその光景を、前にも見たことがあると思った。
そう思ったとき、足が床に貼りついた。
「そんな顔、しないの」
紀子さんは、ベッドの上で笑った。
「悠くんは、小さいころから、すぐ顔に出るんだから」
「……すみません」
「謝らなくていいのよ。ただね」
「うん」
「最後に一つだけ、あなたに握ってあげたかったな」
声が、掠れていた。
私は、うまく返事ができなかった。
「いいんだよ、母さん」
そう言った自分の声が、病室の天井に跳ね返った。
初めて、そう呼んだ。
紀子さんは、目を見開いて、それから静かに目を閉じた。
唇の端が、ゆっくりと上がった。
二月の、雪の降る朝、その人は眠るように旅立った。
引き出しの中のノート
葬儀の翌日、姉と二人で、実家の台所を片付けた。
食器棚の下段に、古い引き出しがあった。
開けると、輪ゴムで束ねた大学ノートが、一冊だけ入っていた。
表紙には、几帳面な字で「おにぎり」と書かれていた。
姉が横から覗き込んで、ふっと息をついた。
「やっぱり、取ってあったんだね」
「やっぱりって、何」
「悠は、知らなかったんだっけ」
姉は、ノートの端を指でなぞった。
「あの動物園の日、私、熱なんてなかったの」
「え?」
「体温計を、布団のなかでこすったの。お母さんに頼まれて」
「母さんに?」
「どうしても二人で行きたい、って。父さんにも、手を合わせて頼んでた」
私は、ノートを開いた。
一ページ目に、日付が書いてあった。
実の母が旅立ってから、二度目の冬だった。
「圭一さんに聞く。奥さんは、どんなおにぎりを握ったか」
次の行に、父の字で、短い返事があった。
「海苔は、にぎって十分待ってから巻く。塩は、指三本」
それから先は、失敗の記録だった。
「一回目。ごはんが潰れた」
「三回目。塩が足りない」
「七回目。三角にならない」
「九回目。圭一さん、少し笑った。形じゃなく、味を見てほしい」
夜中に書いたらしい、小さな字だった。
ページをめくるたびに、台所の灯りが、目の前に点った。
引き戸の隙間から漏れていた、あの塩の匂い。
崩れていたのは、毎晩練習していたからだった。
十二回目のページで、字が少し大きくなっていた。
「やっと形になった。海苔がしっとりしている。圭一さんが、黙って二つ食べた」
動物園の前日の日付だった。
その下に、余白に押し込むような小さな字で、一行だけ書き足してあった。
「あの子が泣いてしまったら、どうしよう。それでも、持っていく」
私はノートを閉じた。
手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。
「悠」
姉が、私の肩に手を置いた。
「泣いて、いいんだよ」
廊下の向こうで、父が咳払いをした。
いつからそこに立っていたのか、壁に背中を預けて、天井を見ていた。
「二つ食べたのは、おいしかったからじゃないんだ」
「……どういうこと」
「あの子の母さんの味に、似すぎていてな。涙が出そうで、黙って食うしかなかった」
そう言って父は、鼻の頭を乱暴にこすった。
その夜、私は一人で、実家の台所に立った。
炊飯器を開けると、白い湯気が顔に当たった。
手に水をつけ、塩を指三本分、つまんだ。
ごはんをひとすくい載せて、握った。
三角になる前に、形が丸く崩れた。
二つ目も、三つ目も、うまくいかなかった。
五つ目で、ようやく、それらしい形になった。
十分、待った。
海苔をそっと巻くと、ごはんの水気を吸って、すぐに色が濃くなった。
立ったまま、一口かじった。
塩は、少しだけ強かった。
海苔が、ごはんにぴたりと貼りついていた。
窓の外では、二月の雪が、街灯の下をゆっくり降りていた。
「……これで、合ってる?」
誰もいない台所に、声が落ちた。
答えはなかった。
けれど、口のなかの味が、はっきりと言っていた。
動物園のおにぎりは、河原のおにぎりと、同じ味だった。
どちらの母のおにぎりも、同じ味だった。