最後まで泣けなくて
僕は先月7月22日に父方の祖母を亡くしました。72歳。あと1週間生きていれば73歳でした。
普段から僕は祖母を「ばあば」と呼んでいました。高校生にもなってこんな呼び方恥ずかしいし、先生なんかに話すときは祖母と呼ばなきゃと思っても、お互いその呼び方で慣れているので、今更変える理由もありませんでした。変えたくありませんでした。
それでもやはり、昔のように話すのはどこか気恥ずかしくて、ばあばの家へ行っても、質問されるまで話すことができませんでした。それが唯一の後悔です。
ばあばは悪くない。いつも帰り際に持って帰るのが大変なほど大量のお菓子を笑顔で僕と妹に持たせてくれました。「どうせ家近いんだから毎週来てよ〜」と行くたんびに言ってくれました。
それなのにどう返していいか分からず、愛想笑いでごまかしてしまった。ただこっちも笑顔で「また来るよ」と言えば良かっただけなのに。
実は亡くなる1年程前にもばあばは入院している時期がありました。その時は数週間の入院で、家に帰ってこれたんです。だからって安心すべきじゃなかった。
「またいつでも行ける」「行けば会える」と、パパもお母さんも、もちろん僕もそう思ってしまったんです。
そして1年後、入院したのが大体亡くなる1週間前なので、7月14、15日辺りでした。心配で心配で、それでも学校があるからと言って、結局お見舞いへ行ったのは亡くなる2日前、7月20日でした。
肺がんと診断され、とても苦しそうに呼吸をしているばあば。しかし人工呼吸器を気管へ挿管するとなると行きたい所へも行けない、話すこともできないで余計苦しくなるという話もあって、マスクを付けるタイプの人工呼吸器でした。
モルヒネ(薬の1種で眠って楽になれるような効果のもの)を投与するだったので話すことはできました。途中途中深く息を吸いながらも、いつものように優しい笑顔で話し、僕とお母さんを迎えてくれました。パパと妹は僕が学校へ行っている間に既にお見舞いに来ていたので、この日は2人だけです。
入室して早5分。15分という限られた面会時間の中で他愛もない会話が続きます。ばあばが「今日は雨降ったみたいだね」というと、今度はお母さんが「結構降りましたよー」と、耳が良くないばあばのために少し大きな声で言います。
僕も何か話さなきゃ。そう焦っていると、ばあばが寝ているベッドに近づくよう手招きされました。意図も分からずただ近寄ると、手を握られました。自分が小さかったあの時を最後に握ることのなかったばあばの手は、昔とは違って細くて、皺がたくさんで、小さく震えていました。思わず両手で支えてしまうほどに。
少しの間沈黙が流れた後、この日でさえも先に口を開いたのはばあばで「背、高くなったんじゃないの?」と言われました。「そうかな。でも少しなら伸びたかも」と、照れくさくてハッキリ「でしょ、伸びたでしょ!」なんてとても言えませんでした。せっかくばあばが褒めてくれたのに。
そこからはいたたまれない気持ちになり、上手く話せなかったのでお母さんとばあばの会話を聞きながら、ばあばと左手をさすり続けました。そして帰る時間になり、僕とお母さんで「お大事に。また来ます」と言って部屋を出ようとした時に、ばあばが僕の名前を呼んで「学校頑張ってね」と優しく言葉をかけてくれました。「うん!」と無駄に元気な返事だけを残して帰りました。それがばあばと僕の最後のやり取りでした。
その後は現実的な話しをすると、あまりお金が無いので、お通夜が無しになって家族葬という形で火葬が行われた。7月27日。今でも思い出す、親族がすすり泣く声、焼けたお骨の匂い、見たことの無かった父の涙。
悲しいはずなのに終始僕は泣けなかった。思えばお見舞いの時から泣いていなかったんです。理由は分からない。胸は相変わらずいつ張り裂けてもおかしくないほど苦しいのに。火葬の間も親族や隣の従姉妹の泣き声に責められているような気持ちになった。自分だけが泣けない、それが悔しくもありました。でもその悔しさでさえ泣けなくて。
ばあばへ、ごめんなさい。今まで素直に話せなくて、素直に感謝を伝えられなくて、話せてはいたのに「ばあば」という自分から呼ぶことが少なくなって。最後まで泣けなくて。
投稿者: 普通の高校生さん