
父の部屋に入ったのは、葬儀から三日後のことだった。
窓際に置かれた古時計が、狂いもなく時を刻んでいた。
私はそれをしばらく眺めてから、引き出しを開けた。
※
父はピアノに関して、一言も褒めたことがなかった。
私が調律師になると告げた日も、「そんな仕事で食えるのか」と背中を向けた。
以来、ほとんど連絡を取らなかった。
港町のこの家に戻るのも、十二年ぶりだった。
※
引き出しの奥に、小さなICレコーダーが入っていた。
見覚えがない。
ラベルに、几帳面な父の字で「聴いてほしい」とだけ書いてあった。
※
再生ボタンを押すと、最初に流れてきたのはピアノの音だった。
私が幼いころ弾いていた、シューマンの小品。
音は古く、録音状態も悪い。
けれど確かに、それは私の音だった。
※
「お前が初めてこの曲を弾いた日だ」
父の声がした。
「俺はその日、こっそり録っておいた。何十年も聴いた。仕事でくたびれた夜も、これを聴くと眠れた」
※
私は床に座り込んだ。
窓の外で、港の汽笛が遠く鳴った。
※
「調律師になりたいと言ったとき、反対したのはお前が心配だったからじゃない。うれしくて、どんな顔をすればいいかわからなかったからだ。俺はずっと、音楽が好きだったから」
知らなかった。
父が音楽を好きだったなど、一度も聞いたことがなかった。
※
「この時計はな、お前が生まれた日に買ったんだ。音がいいだろう。時を刻む音が、ピアノの倍音に似てると思って」
古時計の針が、静かに動いていた。
私はそれをずっと、ただの古道具だと思っていた。
※
録音の最後、父は少し咳をしてから言った。
「一度、お前の仕事を見に行きたかった。音を整える仕事というのは、きっといい仕事だ。俺には、わからなかったことが多すぎた」
そこで音声は途切れた。
※
私はレコーダーを胸に抱いて、長いこと泣いた。
声を出さずに泣いた。
港の夕陽が、部屋の壁をゆっくりと染めていった。
※
翌朝、私は古時計を分解した。
調律師の手で、丁寧に油を差し、埃を拭い、螺子を締め直した。
音を整えるのは、ピアノだけじゃない。
父が選んだこの時計の音を、私が引き継ぐ。
※
時計はまた、静かに時を刻み始めた。
父の声に似た、低くて温かい音で。