
石井三曹がその手紙を受け取ったのは、東日本大震災の混乱が続くある日のことだった。
少女は突然、母親と思しき女性の運転する車から降りて来て、偶然近くを歩いていた三曹のもとへ駆け寄り、小さな封筒を差し出した。
名前も名乗らず、そのまま走り去って行った少女の姿に、石井三曹は言葉を失った。
封筒には、まだ拙い字で丁寧に書かれた手紙が入っていた。
その一文字一文字に込められた気持ちは、言葉以上に温かく、深かった。
「胸がいっぱいになりました……」
そう語る石井三曹の目には、涙が光っていた。
「震災から一ヶ月が経とうとしていたあの頃、私たちも疲れがピークに達していました。でも、あの手紙がすべてを救ってくれたんです。『明日からも頑張ろう』と、隊員全員が勇気をもらいました。そして改めて、自分たちの行動が人々の希望になっているのだと実感できました」
この手紙は、やがて第十四旅団長・井上武陸将補のもとに届けられ、女川の指揮所から各派遣部隊へと広く伝わっていった。
手紙を受け取った旅団長は、感極まりながらこう語った。
「全身の血が逆流するほどの衝撃でした。『絶対に全員を捜し出してやる』という思いが込み上げました。うみちゃんは、どれほどの思いでこの手紙を書いてくれたのだろうかと……」
“うみちゃん”と名乗った少女の手紙には、哀しみと祈り、そして未来への願いが詰まっていた。
彼女の言葉は、隊員たちの心を震わせ、折れそうな気持ちを支える光となった。
ある隊員は手紙をコピーして手帳に挟み、災害派遣活動に出るたびにそれを見て、気持ちを奮い立たせていた。
北海道から派遣された第一高射特科群の中隊指揮所にも、手紙のコピーがボードに貼られ、隊員たちの士気を支えていた。
震災から49日を迎えた4月28日。
飯野川第二小学校の体育館で、大川小学校の児童たちの合同慰霊祭が執り行われた。
祭壇には、74人の幼い笑顔が並び、未だ行方不明の6人の子どもたちの写真も添えられていた。
その日もなお、第十四旅団の隊員たちは、うみちゃんの手紙を胸に抱きながら、行方不明の児童の捜索を続けていた。
あの小さな手紙には、少女の澄んだ声が確かに息づいていた。
※
じえいたいさんへ。
げん気ですか。
つなみのせいで、大川小学校のわたしの、
おともだちがみんな、しんでしまいました。
でも、じえいたいさんが
がんばってくれているので、
わたしもがんばります。
日本をたすけてください。
いつもおうえんしています。
じえいたいさんありがとう。
うみより
※
涙で文字が滲むようなこの手紙は、今もなお、誰かの心に届いている。
そして、それはきっと、日本という国の希望の形そのものだったのかもしれない。