妻の携帯には、送信済みが一通しかない。
買い替えを勧めても、妻は首を横に振る。
「これ、まだ動くもの」
充電器のコードは何度も継いであって、テープが黒く硬くなっている。
その一通が届いたのは、十九年前の、六月のことだった。
※
私は農業機械の営業をしている。
信濃川沿いの、田んぼしかない町で、田植機とコンバインを売って歩く仕事だ。
春と秋は家に帰れない。
泊まりの多い仕事だ、と妻には言ってあった。
それは本当だったし、同時に、都合のいい嘘の入れ物でもあった。
※
妻とは見合いだった。
隣の集落の米農家の三女で、当時二十四。
見合いの席で、妻はほとんど喋らなかった。
帰り際、私が「田んぼ、何町歩あるんですか」と聞いたら、初めて顔を上げて、
「一町二反です」
と、はっきり答えた。
笑うと目が糸になる人だ、と思ったのを覚えている。
見合いの帰り、義父になる人が、私を田んぼの畦まで連れて行った。
六月の田は、水の面が空の色をそのまま持っていた。
「うちの三番目は、機械が苦手だ」
義父はそう言って、煙草に火をつけた。
「そのかわり、手でやることは、何年でも続ける」
当時の私は、その言葉を、褒め言葉として聞き流した。
意味がわかるまでに、二十年かかった。
結婚してからも、妻は無口だった。
喋らない代わりに、よく動いた。
朝は四時に起きて、実家の育苗ハウスを手伝ってから、うちの朝飯を作った。
「あんた、味噌汁、しょっぱいのと薄いの、どっちがいい」
「どっちでもいい」
「そう」
それで会話が終わる。
そういう夫婦だった。
※
妻の一日は、うちの台所より先に、実家の育苗ハウスから始まった。
四月の朝、ハウスの中は湯気のような温度になる。
妻はそこで苗箱を並べ、水をやり、うちに戻って米を研いだ。
苗箱は一枚三キロある。
それを一日に二百枚運ぶ日もあると、義父から聞いた。
妻の手は、指の関節のところがいつも荒れていた。
冬でもハンドクリームを塗らない。
「塗ると、苗箱が滑るから」
そう言って、妻は寝る前に手を湯につけるだけだった。
私はその手を、一度もちゃんと見たことがなかった。
※
三年目の秋、県外の展示会で、ある女性と知り合った。
取引先の事務をしている人で、話がよく通った。
月に二度、出張の帰りに寄るようになった。
それが四年続いた。
私はずるく立ち回った。
レシートを分け、電話の履歴を消し、車の走行距離まで気にした。
妻は何も言わなかった。
深夜に帰っても、台所の電気だけがついていて、鍋の火が弱く残っていた。
「おかえりなさい」
それだけ言って、妻は味噌汁を温め直した。
その声を聞くたびに、私は自分の靴下を脱ぐ手が少し遅くなった。
※
妻は機械というものを、生き物のように扱った。
炊飯器の蓋を閉めるとき、必ず両手を使う。
電話は受話器を両手で持ち、耳から離して大きな声で喋る。
「そんなに離したら、聞こえないべ」
「近いと、耳が痛くなるの」
ビデオデッキの録画は、最後まで覚えなかった。
私が設定してやると、妻は本当に嬉しそうに、「あんた、ほんとに機械が好きだねえ」と言った。
好きなのではなく、仕事だ、と私は言った。
妻は「同じことだねえ」と笑った。
※
四年目の一月、妻の誕生日を忘れた。
思い出したのは三日後で、私は駅前で花を買って帰った。
妻は花瓶を出しながら、「あら」とだけ言った。
怒られたほうがましだった。
その花は、二週間、台所の窓辺にあった。
枯れても、妻はしばらく捨てなかった。
※
泊まりの前の晩、妻は必ず私の鞄に握り飯を入れた。
「駅で買うと高いから」
塩だけの、大きな握り飯を二つ。
私はその握り飯を、何度か、別の人の部屋で食べた。
あの味を思い出すたびに、いまでも腹の底が冷える。
※
別れを告げられたのは、四年目の春だ。
新しく好きな人ができた、と彼女は言った。
独り身の人にそう言われて、責める資格が私にあるはずもない。
「良かったな」
そう言って、私は先に店を出た。
駐車場で、しばらく車のキーを回せなかった。
四年というのは、思っていたより長い時間だった。
胸の真ん中に、丸く抜けた穴が残った。
※
その穴を埋めるために、私は妻に優しくした。
白々しいほどに優しくした。
早く帰り、土産を買い、昔の話をした。
見合いの日の話をしたら、妻は湯呑みを持ったまま、
「あんた、あのとき、田んぼの広さしか聞かんかったね」
と言って、目を糸にした。
結婚してから、久しく見ていない笑い方だった。
※
六月の初め、私は妻に携帯電話を買ってきた。
折り畳みの、いちばん簡単なやつだ。
表向きの理由は、田んぼに出ているときに連絡がつかないと困る、というものだった。
本当の理由は、違う。
四年間ずっと鳴っていた着信音が、ある日から一度も鳴らなくなった。
その静けさに、私は耐えられなかった。
妻を、その代わりにしようとしたのだ。
我ながら、汚い動機だと思う。
※
携帯を渡した日、妻は箱の蓋を開けるのに時間をかけた。
「これ、上、どっち」
「どっちでもいいって」
「わからんもの、こわい」
取り出してからも、しばらく両手で持って、裏返して見ていた。
説明書を、声に出して読んでいた。
「でんげんぼたんを、ながおしします」
読み上げる声が、ひどく丁寧だった。
私は台所で麦茶を飲みながら、その声を背中で聞いていた。
メールの打ち方を教えた夜のことは、よく覚えている。
妻は指の腹でボタンを押すので、なかなか反応しなかった。
「押してるのに、出ないよ」
「爪の先で押すんだって」
「爪、短いもの」
確かに、妻の爪は深く切ってあった。
苗箱を運ぶから、伸ばせないのだと後で知った。
変換もうまくいかなかった。
「かき」と打つと牡蠣になり、妻は本気で困った顔をした。
「うちの柿は、海のじゃないんだけど」
絵文字を教えたら、妻はそれを「顔の絵」と呼んだ。
「顔の絵は、いい。恥ずかしい」
改行の仕方も教えたが、妻は途中で首を振った。
「そこは、もういい。覚えきらん」
※
それから十日、妻からのメールは来なかった。
私は待った。
待っている自分に呆れながら、それでも一日に何度も画面を開いた。
三日目には、少し苛立った。
あれだけ教えたのに、なぜ一通も寄越さないのか、と。
いま思えば、その苛立ちこそが、私の四年間そのものだった。
欲しいときに欲しいものが来ないと、腹を立てる。
そういう人間になっていた。
※
携帯を教えた夜から、妻は寝るのが遅くなった。
私が布団に入ってしばらくすると、台所の電気がつく音がする。
何をしているのかと一度聞いた。
「明日の下ごしらえ」
それだけだった。
鉛筆が紙をこする音を、私は水の音だと思っていた。
耳を澄ませなかったのは、私が、自分のことしか考えていなかったからだ。
※
六月十四日の、昼前だった。
私は柏尾の農協の駐車場で、コンバインの見積書を書いていた。
助手席に置いた携帯が鳴った。
知らない番号ではなかった。
妻からの、初めてのメールだった。
何気なく開いた。
「はしめて めえるします せんが ひけない もつと ちやんと ならておけは よかた でも いまは すこく しあわせて おもう」
見積書の上に、ペンを落とした。
線が引けない、というのは、改行のことだ。
あの夜、妻が「そこは、もういい」と言った、あの改行のことだ。
だから一行に、全部つなげて書いてある。
濁点も、小さい文字も、ところどころ抜け落ちている。
それでも、最後まで打ってある。
駐車場の車の中で、私は声を出さずにいるのが精一杯だった。
※
しばらくして、後輩が車の窓を叩いた。
「先輩、見積書、雨に濡れたんすか」
助手席の書類の右下が、丸く波打っていた。
私は「エアコンの水だ」と言って、書き直した。
書き直した見積書は、その日のうちに契約になった。
仕事だけは、いつも通りできる自分が、いちばん嫌だった。
※
その晩、家に帰ると、妻は玄関の電気を消し忘れていた。
「メール、来たわ」
「届いた?」
「届いた」
「よかった」
妻はそれだけ言って、台所へ戻った。
手が濡れたまま、前掛けで拭いていた。
私は靴を脱ぎながら、その背中を見ていた。
何か言おうとして、何も言えなかった。
※
妻は台所のカレンダーを、月が替わっても捨てずに、たたんで茶箪笥の引き出しにしまっていた。
紙が惜しいのだろうと、私はずっと思っていた。
実際、妻は包装紙も紐も、何ひとつ捨てない人だった。
その引き出しを開けたのは、メールの翌週だ。
判子を探していて、いちばん下の段まで手を入れた。
カレンダーの束が出てきた。
厚みがあった。
何気なく一枚めくって、裏を見た。
※
カレンダーの裏には、五十音が、九枚分、書き写してあった。
鉛筆で、大きく、あ行から順に、何度も。
文字の並びの横に、小さな数字が振ってある。
携帯のボタンの番号だ。
「あ」の隣に1、「か」の隣に2、そうやって、五十音の全部に番号が振ってあった。
覚えられないから、書いて、指の場所を先に頭に入れようとしたのだ。
三枚目からは、単語の練習になっていた。
「ごはん」「たんぼ」「あめ」「かえり」。
六枚目には、日付が入っていた。
六月三日。
私が携帯を買ってきた、次の日だ。
つまり妻は、私が教えた夜から、毎日これを書いていた。
十日間、一度も送らずに、練習だけを続けていた。
※
九枚目の紙の隅には、「きようも おかえりなさい」と、鉛筆で何度も書いてあった。
何度も、何度も。
薄くなった線の上を、また鉛筆でなぞった跡がある。
けれど、その言葉は、結局あの一通には書かれなかった。
代わりに妻が選んだのは、「いまは すこく しあわせて おもう」だった。
私はカレンダーを持ったまま、畳に座り込んだ。
紙の下のほうには、消しゴムで消しきれなかった跡がいくつも残っていた。
消したのは、たぶん、うまく書けなかった文字だ。
うまく書けない文字を、この人は誰にも見せずに消していた。
私が家にいない夜に、台所の電気の下で、ひとりで。
その十日間、私が考えていたのは、鳴らない着信音のことだけだった。
四年のあいだ、私が線を引いていたのは、家のこちらとあちらだった。
妻が引けないと言った線は、たった一本の改行だ。
※
その年の暮れ、農協の職員に、思いがけないことを言われた。
「奥さん、六月に窓口へ来られましたよ」
「うちの、が」
「携帯のメールの打ち方を教えてくださいって。三日続けて」
職員は笑っていた。
「もう覚えられました、って最後に言って帰られました」
私はその場で、返す言葉を持てなかった。
妻は、家で九枚の紙を書き、家を出て、窓口で三日教わっていた。
たった一通のために。
※
カレンダーのことを、私は妻に言えなかった。
言えば、妻は恥ずかしがって、あの九枚を捨ててしまう気がした。
代わりに、盆に妻の実家へ行ったとき、義母に遠回りに聞いた。
義母は縁側で豆をむきながら、あっさりと言った。
「あの子は、字を書くのが、ずっと恥ずかしかったんよ」
妻は三女で、中学を出てすぐ家の田んぼに入った。
上の二人は町の高校へ行き、妻だけが残った。
「行きたい言うたことは、一度もなかったねえ」
義母は豆の筋を取りながら続けた。
「そのかわり、あの子、家の帳面だけは自分でつけたがったのよ。字がへたでも」
私は縁側の柱に背を預けて、庭を見ていた。
「もつと ちやんと ならておけは よかた」
あの一行は、改行の練習の話ではなかったのだ。
三十年前に置いてきたものの話だった。
※
あの日から十九年が経った。
妻はいまも、田んぼの帳面を自分でつけている。
数字だけは、驚くほど正確だ。
米の等級も、肥料の袋数も、一度も間違えたことがない。
妻はいまも、メールを打つのが遅い。
返事は三十分かかることもあるし、来ないこともある。
けれど、必ず何か送ってくる。
「あめ ふりそう」
「ゆふはん なにか いる」
濁点は、いまだにときどき抜ける。
私はそのまま読む。
直してやったことは、一度もない。
※
一昨年、妻が腰を痛めて、二週間入院した。
病室で、妻は私の携帯を借りて、実家の母にメールを打とうとした。
点滴の管が邪魔で、指が思うように動かない。
「あんた、打って」
「なんて」
「げんきです、って」
私はその通りに打った。
妻は画面を見て、「ちがう」と言った。
「なにが」
「わたしの字じゃない」
結局、妻は三十分かけて、自分で四文字だけ打った。
「けんきてす」
送信した後、妻は満足そうに枕に頭を戻した。
私はその夜、病院の駐車場で、久しぶりに声を出した。
※
別れた人を、町で一度だけ見かけた。
三年ほど経ったころ、隣の市のスーパーの駐車場で、子どもを抱いていた。
私は車から降りずに、そのまま出口へ向かった。
何も思わなかった、と言えば嘘になる。
けれど、あのとき私の頭に浮かんだのは、家の台所の、弱い火のことだった。
※
先週、妻と二人で田んぼの水を見に行った。
畦に立って、妻は水口の板を指で押さえながら言った。
「あんた、ここの水、去年より早いね」
「そうか」
「そうだよ。うちの田んぼだもの」
帰りの車で、妻は窓の外を見ていた。
信号で止まったとき、妻の膝の上の手が、少し日に焼けているのが見えた。
その手を握るのに、私は十九年かかった。
※
去年、妻の財布から、小さく折りたたんだ紙が落ちた。
開くと、色の変わったカレンダーの裏だった。
五十音と、ボタンの番号。
十九年、持ち歩いていたことになる。
「まだ覚えられんの」と聞いたら、妻は少し笑った。
「覚えたよ。お守り」
私はその紙を、そっと畳んで返した。
財布に戻す妻の指を、今度はちゃんと見た。
※
子どもは、できなかった。
妻は一度もそのことを口にしない。
正月は二人で、妻の実家に顔を出して、あとは炬燵にいる。
妻はみかんの皮を、いつも同じ形に剥く。
四つに割って、白い筋を丁寧に取ってから、私の膝に置く。
筋を取るのが上手だね、と言ったら、妻は「あんた、筋が嫌いだから」と答えた。
私は、そんなことを言った覚えがない。
言った覚えのないことを、この人は二十三年、憶えている。
※
いま妻は、メールを打つとき老眼鏡を上げて、画面を腕いっぱいに遠ざける。
「近いと、見えんの」
「離しても見えんべ」
「離すと、字の形でわかるの」
字の形でわかる、というのが、どういうことか私にはわからない。
ただ、九枚の紙を思い出すたびに、たぶんそういうことなのだろうと思う。
あの人は、言葉を、形として憶えた人だ。
※
去年の秋、収穫のあとに、私は初めて妻に礼を言った。
言葉にしてしまうと、ひどく短かった。
「長いこと、ありがとうな」
妻は籾を計る手を止めずに、こう答えた。
「なに、急に」
それきり、何も言わなかった。
けれど、その晩の味噌汁は、いつもより少ししょっぱかった。
※
妻の携帯の送信済みは、いまも一通のままだ。
消してしまうと二度と打てないから、と妻は言う。
本当は、私が消させないのだ。
あの一行を、私は月に一度は開く。
線の引けない、たった一行を。
この人を大切にする、という言葉を、私は口に出したことがない。
だから毎晩、玄関で靴を脱ぐ前に、心の中でその一行を読み直している。