あの子は僕の友達なんです

注射の日、いちばん後ろに並ぶ子がいた。

体重が軽いから後ろに回されるのではない。自分から、必ず列の最後尾へ下がるのだ。

その子の名を、私は六十年経ったいまでも、正しく書ける。

昭和三十四年、私は二十六歳で、瀬戸内の灘手島にひとりだけの医者だった。

島には診療所が一軒、分校がひとつ。人口は四百に満たない。

本土から連絡船が一日に二便。時化れば来ない。来なければ、その日の医療は私の鞄の中身がすべてだった。

赴任してすぐ、島の年寄りに言われたことがある。

「先生、この島ではな、血ぃは出すもんじゃないんよ」

「といいますと」

「血ぃは、その人の寿命が溜まっとるところじゃけん。減らしたら、その分だけ短うなる」

私は医者として、それは違うと丁寧に説明した。年寄りは「そうかね」と笑って、それきりその話をしなかった。

島ではよくあることだった。表では頷き、裏では昔のとおりにする。

私はその頃、まだそれを「遅れている」と思っていた。

私がこの島に来た年の冬、風邪が分校じゅうに回ったことがある。

薬が足りず、連絡船も三日止まった。

そのとき祐三の祖母が、干した枇杷の葉を袋いっぱい持ってきた。

「先生、これは薬じゃないんよ。ただの葉っぱじゃ。じゃけん、飲ませても構わんじゃろ」

私は医者の顔をして受け取り、湯を沸かして子どもたちに配った。

効いたかどうかはわからない。ただ、あの三日間、教室は静かに温かかった。

島の年寄りは、こちらの理屈を否定しない。否定しないまま、自分たちの持っているものをそっと置いていく。

そういう置き方を、私はこの島で覚えた。

分校の子どもは全部で十九人。私は月に一度、健康診断のために教室へ通った。

体重を量り、耳の中を見て、注射をする。

注射の日は、必ず一人だけ最後に残る子がいた。

祐三という、六年生の男の子だった。

痩せていて、日に焼けていて、口数が少ない。父親は本土の造船所へ働きに出ていて、祖母と二人で暮らしていた。

「祐三、なんでいつも最後なんじゃ」

「順番を、ゆずりよるんです」

「ぜんぶの子に、ゆずりよるんか」

「はい」

そう答えて、腕をまくる。針が入るあいだ、祐三は決まって天井の節穴を見ていた。

痛がりはしない。ただ、終わったあとで少し長く息を吐く。

私はそれを、恥ずかしがりの子の癖だと思っていた。

教室にはもうひとり、私がよく憶えている子がいた。

ミネという名の、五年生の女の子だ。

父親が漁で片腕を悪くしてから、この子が朝の網の始末を手伝っていた。手のひらが、大人の女の人のように硬かった。

祐三とミネは、家が隣同士だった。

帰り道はいつも二人で、ただし並んで歩かない。祐三が先を歩き、五、六歩あけてミネがついていく。

「なんで並ばんのじゃ」

「先生、こいつ、歩くのがのろいけん」と祐三が言う。

「のろないもん」とミネが言う。

「のろい」

「のろない」

それだけの言い合いを、坂の下まで続けながら帰っていく。私は診療所の窓から、その二つの背中をよく見ていた。

のちに知ったが、祐三が先を歩くのには理由があった。

島の坂道には、夏になると蝮が出る。先に人が歩けば、蝮は音で逃げる。

誰に教わったのでもなく、その子はそうしていた。

もうひとつ、私が憶えている場面がある。

その年の六月、分校の運動会があった。

島の運動会は、子どもより見物の年寄りのほうが多い。砂の混じった校庭に茣蓙が敷かれて、麦茶と煮しめが回ってくる。

徒競走で、ミネが転んだ。

片手で網の始末をしている子だから、走るときも左右の腕の振りが揃わない。砂に手をついて、膝から先が真っ赤になった。

そのとき、隣の組を走っていた祐三が、コースを外れて戻ってきた。

私は診療所の鞄を持って走ったが、着いたときには祐三のほうが先にいた。

その子は、ミネを起こそうとはしなかった。

ミネの前にしゃがんで、こちらに背を向けて、じっとしていた。

「祐三、どかんか。手当てをする」

「もうちょっと待ってください」

「なんでじゃ」

「いま、みんなが見よるけん」

その子は、泣いている顔を人に見せないよう、自分の背中で隠していた。

年寄りたちが「祐三、ええぞ」と声をかけ、誰かが笑い、笑いのあいだにミネが立ち上がった。

膝の血は、私が診るまでもない浅い傷だった。

祐三はそのあと、自分の競走に戻ることもなく、砂の上に座っていた。

島の子は、こういうことを、誰にも教わらずにやる。

私はそれを見て、この島で医者を続けようと思ったのだったと、いまになって思い当たる。

その年の九月、島に台風が来た。

連絡船は前日から止まり、風は夜半に最も強くなった。

明け方、診療所の戸を叩く音で起きた。分校の裏手の崖が落ちて、逃げ遅れた家が一軒、土をかぶったという。

台風の夜のことを、私は順番どおりには思い出せない。

憶えているのは断片ばかりだ。

雨戸が一枚だけ外れて、朝まで壁を叩き続けていたこと。診療所の薬棚から硝子の瓶が二本落ちて、ヨードの匂いが翌日まで残っていたこと。

そして、崖が落ちた音を、私は聞いていない。

風の音が大きすぎて、島の誰も、その音を聞いた者がいなかった。

掘り出されたミネを診療所へ運んだのは、島の男たちだった。

戸板の四隅を持って、坂を上がってきた。

戸板から落ちる砂の音が、板の間でしばらく続いていた。私はその音を、いまでも雨の日に思い出す。

ミネの家だった。

父親と祖母は軽い怪我で済んだ。ミネは、崩れた壁の下から掘り出された。

腹と太ももを深く切っていた。血が、砂の上に思っていたより早く広がった。

私は止血をして、輸液をして、それから時計を見た。

連絡船は動かない。海上保安部の船が来るまでには、少なく見ても五時間かかる。

血が足りなかった。

この島には保存血もなければ、冷蔵の設備もない。あるのは、私の鞄の中の採血の道具と、生きている人間の体だけだった。

島の人を集めて、その場で血液型を調べた。

血液型を調べているあいだ、島の大人たちは黙って腕を出した。

誰ひとり、断らなかった。

合わないと告げるたび、その人は「すまんの」と言って下がっていった。

自分の血の型が合わないことを謝る人を、私はあの日、十六人見た。

ミネの父親は、悪くしたほうの腕まで差し出した。

「先生、こっちからでもええ。両方から採ってくれてええ」

「型が違いますけん」

「違ういうことが、あるんかいの」

その人は、自分の腕を長いこと見ていた。

親が子に何もしてやれないという顔を、私はその日、はじめて正面から見た。

大人の男が七人、女が十一人。適合したのは、たった二人だった。

一人は八十二歳の年寄りで、心臓が悪かった。

もう一人が、祐三だった。

私は、子どもから採ることをためらった。

いまなら体重から量を計算して、迷わず声をかける。だがそのときの私は、二十六歳で、島でひとりで、失敗すれば二人を失うという考えばかりが頭にあった。

それでも、時間がなかった。

教室に子どもたちを集めて、私は黒板の前に立った。

「ミネさんが、怪我をしとる。血が足らん。誰かの血を、少しだけ分けてもらわんといけん」

教室が静かになった。

波の音と、割れた窓を打つ風の音だけがしていた。

「少しだけじゃ。ほんの少しだけでええ」

誰も動かなかった。

子どもたちは私を見ず、みんな床の同じあたりを見ていた。

そのあいだに、たしか一分も経っていない。だが私には、ずいぶん長い時間に感じられた。

やがて、いちばん後ろで、細い腕が上がった。

おそるおそる、肘から先だけを上げるような手の挙げ方だった。

注射のとき、いつも列のいちばん後ろに並ぶ子が、その日だけは、いちばん先に手を挙げた。

「わし、やります」

祐三だった。

診療所の板の間に、ミネと並べて寝かせた。

血液型を確かめ直し、腕の内側を消毒して、針を入れる。

祐三は天井を見ていた。分校の節穴と違って、診療所の天井には何もない。それでも、じっと一点を見ていた。

祐三の腕から血が落ちていくあいだ、私は瓶の目盛りだけを見ていた。

ガラスの内側を、暗い色のものがゆっくり伝っていく。

その音のなさが、あの日はやけに耳についた。

板の間の向こうでは、ミネの祖母が正座をしたまま動かなかった。

手を合わせるでもなく、泣くでもなく、ただ孫の足のほうを見ていた。

薬缶の湯が鳴りはじめて、誰も止めに立たなかった。

あの日の記憶には、そういう、誰も動かない時間がいくつも挟まっている。

五分ほど経って、その子が空いているほうの手で顔を覆った。

肩が、小さく上下していた。

「痛いか」

首を横に振る。

「気分が悪いか」

また、首を横に振る。

しばらくすると、指の隙間から涙が落ちて、板の間に丸い染みを作った。

私は針の位置を確かめ、脈を見た。異常はない。

それでもその子は、しゃくり上げるように泣き続けた。声は一度も出さなかった。声を出さないように、自分の口を手のひらで押さえていた。

私は、この子は怖いのだと思った。

怖いのに我慢しているのだと思って、頭に手を置いた。

祐三はそれで少しだけ落ち着き、また天井を見た。

そして、こう聞いた。

「先生。わし、いつごろ、いかんようになりますか」

私は、意味がわからなかった。

「いかんようになる、いうんは」

「ぜんぶ抜いたら、わし、動かんようになるんでしょう。それが、いつごろか、聞いときたいんです」

板の間の風の音が、急に遠くなった。

この子は、自分の血を全部渡すのだと思っていた。

思ったうえで、手を挙げていた。

私は針を抜きかけて、やめた。抜けば、この子が「役に立たなかった」と思う。それだけは避けたかった。

膝をついて、目の高さを合わせた。

「祐三。血は、少しだけもらうんじゃ。三合徳利の、ほんの底くらいじゃ。ひと月もせんうちに、体がまた作る」

「作るんですか」

「作る。人間の体は、そういうふうにできとる」

祐三は、しばらく黙っていた。

それから、天井のほうを向いたまま、はじめて声を出して泣いた。

子どもらしい、大きな声だった。

あとで祖母から聞いた話では、その子の祖父は戦地から帰らず、島には「あの人は血を抜かれて帰らんかった」という言い方だけが残っていたという。

島の年寄りが私に言った「血ぃは寿命が溜まっとるところ」も、たぶん同じ根から出ていた。

その子は、島の言い伝えのほうを信じていた。

信じたまま、いちばん先に手を挙げていた。

私は、どうしても聞いておきたかった。

「祐三。そう思うとったのに、なんで手を挙げたんじゃ」

その子は、汗で貼りついた前髪の下から私を見て、少しだけ不思議そうな顔をした。

それから、当たり前のことを言うように答えた。

「あの子、わしの友達じゃけん」

それだけだった。

説明も、ためらいも、恩着せがましさも、何ひとつなかった。

私は医者として、その日、輸血をした。

だが本当にその子から受け取ったのは、血ではなかったと思っている。

あの日、私は自分の判断について、長く考えた。

子どもから採るという判断そのものは、いまも間違っていなかったと思う。

間違っていたのは、説明のほうだ。

私は「少しだけ血を分けてもらう」と黒板の前で言った。医学の言葉としては正しい。だが島の子には、別の意味に届いていた。

言葉は、こちらの正しさで届くのではない。

聞く人がそれまで生きてきた土地の言葉に、そのつど翻訳されて届く。

それを教わったのが、あの板の間だった。

以来、私は説明の前に必ず一度、こう聞くようになった。

「いま言うたことを、あんたの言葉で、言い直してみてくれますか」

この一手間を省かなかったおかげで、防げた行き違いが、三十八年のあいだにいくつもある。

ミネは助かった。

三日目に目を開けて、最初に「祐三は」と聞いた。

祐三は貧血で二日ほど寝ていたが、四日目には診療所の前の石段に座って、釣り糸を垂らしていた。

ミネが歩けるようになった秋の終わり、私は診療所の窓から、また二つの背中を見た。

祐三が先を歩き、五、六歩あけてミネがついていく。

ただ、その日は少し違った。

坂の途中でミネが立ち止まり、何か言った。祐三が振り返る。ミネがもう一度何か言うと、祐三は口をとがらせて、それから歩調をゆるめた。

二人は、はじめて並んで坂を下りていった。

私はその後ろ姿を、いまでもいちばんよく憶えている。

祐三が本土へ出る春、私は港まで見送りに行った。

連絡船の乗り口で、その子は一度だけ振り返って、私に頭を下げた。

「先生、あの血、もう作れましたか」

「とっくに作れとる」

「ほんまですか」

「医者が言うんじゃけん、ほんまじゃ」

祐三は少し笑って、荷物を持ち直した。

船が出るとき、桟橋の端にミネが立っていた。

手は振らなかった。祐三も振らなかった。

ただ、船が見えなくなるまで、その子はそこを動かなかった。

私は結局、その島に三十八年いた。

本土の病院から誘われたこともあったが、断った。理由をうまく言えたことがない。

ただ、あの日以来、私は健康診断の注射のとき、必ず列のいちばん後ろを見るようになった。

後ろに下がる子が、何を思って下がっているのか。私はそれを、あの日まで一度も考えたことがなかった。

祐三は中学から本土へ出て、造船の仕事に就いた。

ミネは看護婦になり、二十代の終わりに島へ帰ってきて、私の診療所で二十年働いた。

ミネが最初に配属された病室で、患者に輸血の説明をするときの言い方を、私は横で聞いていたことがある。

「少しだけです。ほんの少しだけ。ひと月もせんうちに、体がまた作りますけん」

私が板の間で祐三に言った言葉と、そっくり同じだった。

教えた憶えはない。

あとで聞くと、ミネは三日目に目を開けたあの日、祖母から全部聞いていたのだという。

診療所は十年前に閉じた。いまは公民館になっている。

去年の夏、島の同窓会に呼ばれて、久しぶりに連絡船に乗った。

公民館の板の間は、そのまま残っていた。

公民館の窓から、分校の跡地が見える。

校舎はもうない。基礎のコンクリートだけが、夏草の中に四角く残っている。

十九人が黙って床を見ていた教室は、いまは風の通り道になっていた。

七十を過ぎた祐三が、その板の間を指さして笑った。

「先生、わし、ここで泣いたじゃろう」

「泣いた」

「かっこ悪いのう」

「かっこ悪ないよ」

同窓会の帰り、桟橋でミネにも会った。

もう七十に近いのに、歩き方だけは昔のままで、少しだけ左に傾く。

「先生、わたし、あの日のこと、祐三に一度も礼を言うとらんのです」

「六十年、言うとらんのか」

「言うたら、あの人が困るけん」

私は、それでいいと思った。

この島の人は、大事なことを口に出さない。出さないまま、坂を先に歩く。

私は本当にそう思っている。

あの日、あの教室で、十九人の子どもが黙っていた一分足らずのあいだに、自分の一生を差し出す計算を済ませた子がいた。

計算を済ませたうえで、手を挙げた。

いちばん後ろに並ぶ子が、いちばん先に。

私は六十年、医者として、それより勇気のあるものを見たことがない。

灘手島の坂は、いまも夏になると蝮が出る。

祐三は帰省するたび、その坂を、いちばん先に歩くのだそうだ。

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