注射の日、いちばん後ろに並ぶ子がいた。
体重が軽いから後ろに回されるのではない。自分から、必ず列の最後尾へ下がるのだ。
その子の名を、私は六十年経ったいまでも、正しく書ける。
昭和三十四年、私は二十六歳で、瀬戸内の灘手島にひとりだけの医者だった。
島には診療所が一軒、分校がひとつ。人口は四百に満たない。
本土から連絡船が一日に二便。時化れば来ない。来なければ、その日の医療は私の鞄の中身がすべてだった。
赴任してすぐ、島の年寄りに言われたことがある。
「先生、この島ではな、血ぃは出すもんじゃないんよ」
「といいますと」
「血ぃは、その人の寿命が溜まっとるところじゃけん。減らしたら、その分だけ短うなる」
私は医者として、それは違うと丁寧に説明した。年寄りは「そうかね」と笑って、それきりその話をしなかった。
島ではよくあることだった。表では頷き、裏では昔のとおりにする。
私はその頃、まだそれを「遅れている」と思っていた。
※
私がこの島に来た年の冬、風邪が分校じゅうに回ったことがある。
薬が足りず、連絡船も三日止まった。
そのとき祐三の祖母が、干した枇杷の葉を袋いっぱい持ってきた。
「先生、これは薬じゃないんよ。ただの葉っぱじゃ。じゃけん、飲ませても構わんじゃろ」
私は医者の顔をして受け取り、湯を沸かして子どもたちに配った。
効いたかどうかはわからない。ただ、あの三日間、教室は静かに温かかった。
島の年寄りは、こちらの理屈を否定しない。否定しないまま、自分たちの持っているものをそっと置いていく。
そういう置き方を、私はこの島で覚えた。
※
分校の子どもは全部で十九人。私は月に一度、健康診断のために教室へ通った。
体重を量り、耳の中を見て、注射をする。
注射の日は、必ず一人だけ最後に残る子がいた。
祐三という、六年生の男の子だった。
痩せていて、日に焼けていて、口数が少ない。父親は本土の造船所へ働きに出ていて、祖母と二人で暮らしていた。
「祐三、なんでいつも最後なんじゃ」
「順番を、ゆずりよるんです」
「ぜんぶの子に、ゆずりよるんか」
「はい」
そう答えて、腕をまくる。針が入るあいだ、祐三は決まって天井の節穴を見ていた。
痛がりはしない。ただ、終わったあとで少し長く息を吐く。
私はそれを、恥ずかしがりの子の癖だと思っていた。
教室にはもうひとり、私がよく憶えている子がいた。
ミネという名の、五年生の女の子だ。
父親が漁で片腕を悪くしてから、この子が朝の網の始末を手伝っていた。手のひらが、大人の女の人のように硬かった。
祐三とミネは、家が隣同士だった。
帰り道はいつも二人で、ただし並んで歩かない。祐三が先を歩き、五、六歩あけてミネがついていく。
「なんで並ばんのじゃ」
「先生、こいつ、歩くのがのろいけん」と祐三が言う。
「のろないもん」とミネが言う。
「のろい」
「のろない」
それだけの言い合いを、坂の下まで続けながら帰っていく。私は診療所の窓から、その二つの背中をよく見ていた。
のちに知ったが、祐三が先を歩くのには理由があった。
島の坂道には、夏になると蝮が出る。先に人が歩けば、蝮は音で逃げる。
誰に教わったのでもなく、その子はそうしていた。
※
もうひとつ、私が憶えている場面がある。
その年の六月、分校の運動会があった。
島の運動会は、子どもより見物の年寄りのほうが多い。砂の混じった校庭に茣蓙が敷かれて、麦茶と煮しめが回ってくる。
徒競走で、ミネが転んだ。
片手で網の始末をしている子だから、走るときも左右の腕の振りが揃わない。砂に手をついて、膝から先が真っ赤になった。
そのとき、隣の組を走っていた祐三が、コースを外れて戻ってきた。
私は診療所の鞄を持って走ったが、着いたときには祐三のほうが先にいた。
その子は、ミネを起こそうとはしなかった。
ミネの前にしゃがんで、こちらに背を向けて、じっとしていた。
「祐三、どかんか。手当てをする」
「もうちょっと待ってください」
「なんでじゃ」
「いま、みんなが見よるけん」
その子は、泣いている顔を人に見せないよう、自分の背中で隠していた。
年寄りたちが「祐三、ええぞ」と声をかけ、誰かが笑い、笑いのあいだにミネが立ち上がった。
膝の血は、私が診るまでもない浅い傷だった。
祐三はそのあと、自分の競走に戻ることもなく、砂の上に座っていた。
島の子は、こういうことを、誰にも教わらずにやる。
私はそれを見て、この島で医者を続けようと思ったのだったと、いまになって思い当たる。
※
その年の九月、島に台風が来た。
連絡船は前日から止まり、風は夜半に最も強くなった。
明け方、診療所の戸を叩く音で起きた。分校の裏手の崖が落ちて、逃げ遅れた家が一軒、土をかぶったという。
台風の夜のことを、私は順番どおりには思い出せない。
憶えているのは断片ばかりだ。
雨戸が一枚だけ外れて、朝まで壁を叩き続けていたこと。診療所の薬棚から硝子の瓶が二本落ちて、ヨードの匂いが翌日まで残っていたこと。
そして、崖が落ちた音を、私は聞いていない。
風の音が大きすぎて、島の誰も、その音を聞いた者がいなかった。
掘り出されたミネを診療所へ運んだのは、島の男たちだった。
戸板の四隅を持って、坂を上がってきた。
戸板から落ちる砂の音が、板の間でしばらく続いていた。私はその音を、いまでも雨の日に思い出す。
ミネの家だった。
父親と祖母は軽い怪我で済んだ。ミネは、崩れた壁の下から掘り出された。
腹と太ももを深く切っていた。血が、砂の上に思っていたより早く広がった。
私は止血をして、輸液をして、それから時計を見た。
連絡船は動かない。海上保安部の船が来るまでには、少なく見ても五時間かかる。
血が足りなかった。
この島には保存血もなければ、冷蔵の設備もない。あるのは、私の鞄の中の採血の道具と、生きている人間の体だけだった。
島の人を集めて、その場で血液型を調べた。
血液型を調べているあいだ、島の大人たちは黙って腕を出した。
誰ひとり、断らなかった。
合わないと告げるたび、その人は「すまんの」と言って下がっていった。
自分の血の型が合わないことを謝る人を、私はあの日、十六人見た。
ミネの父親は、悪くしたほうの腕まで差し出した。
「先生、こっちからでもええ。両方から採ってくれてええ」
「型が違いますけん」
「違ういうことが、あるんかいの」
その人は、自分の腕を長いこと見ていた。
親が子に何もしてやれないという顔を、私はその日、はじめて正面から見た。
大人の男が七人、女が十一人。適合したのは、たった二人だった。
一人は八十二歳の年寄りで、心臓が悪かった。
もう一人が、祐三だった。
※
私は、子どもから採ることをためらった。
いまなら体重から量を計算して、迷わず声をかける。だがそのときの私は、二十六歳で、島でひとりで、失敗すれば二人を失うという考えばかりが頭にあった。
それでも、時間がなかった。
教室に子どもたちを集めて、私は黒板の前に立った。
「ミネさんが、怪我をしとる。血が足らん。誰かの血を、少しだけ分けてもらわんといけん」
教室が静かになった。
波の音と、割れた窓を打つ風の音だけがしていた。
「少しだけじゃ。ほんの少しだけでええ」
誰も動かなかった。
子どもたちは私を見ず、みんな床の同じあたりを見ていた。
そのあいだに、たしか一分も経っていない。だが私には、ずいぶん長い時間に感じられた。
やがて、いちばん後ろで、細い腕が上がった。
おそるおそる、肘から先だけを上げるような手の挙げ方だった。
注射のとき、いつも列のいちばん後ろに並ぶ子が、その日だけは、いちばん先に手を挙げた。
「わし、やります」
祐三だった。
※
診療所の板の間に、ミネと並べて寝かせた。
血液型を確かめ直し、腕の内側を消毒して、針を入れる。
祐三は天井を見ていた。分校の節穴と違って、診療所の天井には何もない。それでも、じっと一点を見ていた。
祐三の腕から血が落ちていくあいだ、私は瓶の目盛りだけを見ていた。
ガラスの内側を、暗い色のものがゆっくり伝っていく。
その音のなさが、あの日はやけに耳についた。
板の間の向こうでは、ミネの祖母が正座をしたまま動かなかった。
手を合わせるでもなく、泣くでもなく、ただ孫の足のほうを見ていた。
薬缶の湯が鳴りはじめて、誰も止めに立たなかった。
あの日の記憶には、そういう、誰も動かない時間がいくつも挟まっている。
五分ほど経って、その子が空いているほうの手で顔を覆った。
肩が、小さく上下していた。
「痛いか」
首を横に振る。
「気分が悪いか」
また、首を横に振る。
しばらくすると、指の隙間から涙が落ちて、板の間に丸い染みを作った。
私は針の位置を確かめ、脈を見た。異常はない。
それでもその子は、しゃくり上げるように泣き続けた。声は一度も出さなかった。声を出さないように、自分の口を手のひらで押さえていた。
私は、この子は怖いのだと思った。
怖いのに我慢しているのだと思って、頭に手を置いた。
祐三はそれで少しだけ落ち着き、また天井を見た。
そして、こう聞いた。
「先生。わし、いつごろ、いかんようになりますか」
私は、意味がわからなかった。
「いかんようになる、いうんは」
「ぜんぶ抜いたら、わし、動かんようになるんでしょう。それが、いつごろか、聞いときたいんです」
板の間の風の音が、急に遠くなった。
この子は、自分の血を全部渡すのだと思っていた。
思ったうえで、手を挙げていた。
※
私は針を抜きかけて、やめた。抜けば、この子が「役に立たなかった」と思う。それだけは避けたかった。
膝をついて、目の高さを合わせた。
「祐三。血は、少しだけもらうんじゃ。三合徳利の、ほんの底くらいじゃ。ひと月もせんうちに、体がまた作る」
「作るんですか」
「作る。人間の体は、そういうふうにできとる」
祐三は、しばらく黙っていた。
それから、天井のほうを向いたまま、はじめて声を出して泣いた。
子どもらしい、大きな声だった。
あとで祖母から聞いた話では、その子の祖父は戦地から帰らず、島には「あの人は血を抜かれて帰らんかった」という言い方だけが残っていたという。
島の年寄りが私に言った「血ぃは寿命が溜まっとるところ」も、たぶん同じ根から出ていた。
その子は、島の言い伝えのほうを信じていた。
信じたまま、いちばん先に手を挙げていた。
※
私は、どうしても聞いておきたかった。
「祐三。そう思うとったのに、なんで手を挙げたんじゃ」
その子は、汗で貼りついた前髪の下から私を見て、少しだけ不思議そうな顔をした。
それから、当たり前のことを言うように答えた。
「あの子、わしの友達じゃけん」
それだけだった。
説明も、ためらいも、恩着せがましさも、何ひとつなかった。
私は医者として、その日、輸血をした。
だが本当にその子から受け取ったのは、血ではなかったと思っている。
あの日、私は自分の判断について、長く考えた。
子どもから採るという判断そのものは、いまも間違っていなかったと思う。
間違っていたのは、説明のほうだ。
私は「少しだけ血を分けてもらう」と黒板の前で言った。医学の言葉としては正しい。だが島の子には、別の意味に届いていた。
言葉は、こちらの正しさで届くのではない。
聞く人がそれまで生きてきた土地の言葉に、そのつど翻訳されて届く。
それを教わったのが、あの板の間だった。
以来、私は説明の前に必ず一度、こう聞くようになった。
「いま言うたことを、あんたの言葉で、言い直してみてくれますか」
この一手間を省かなかったおかげで、防げた行き違いが、三十八年のあいだにいくつもある。
※
ミネは助かった。
三日目に目を開けて、最初に「祐三は」と聞いた。
祐三は貧血で二日ほど寝ていたが、四日目には診療所の前の石段に座って、釣り糸を垂らしていた。
ミネが歩けるようになった秋の終わり、私は診療所の窓から、また二つの背中を見た。
祐三が先を歩き、五、六歩あけてミネがついていく。
ただ、その日は少し違った。
坂の途中でミネが立ち止まり、何か言った。祐三が振り返る。ミネがもう一度何か言うと、祐三は口をとがらせて、それから歩調をゆるめた。
二人は、はじめて並んで坂を下りていった。
私はその後ろ姿を、いまでもいちばんよく憶えている。
祐三が本土へ出る春、私は港まで見送りに行った。
連絡船の乗り口で、その子は一度だけ振り返って、私に頭を下げた。
「先生、あの血、もう作れましたか」
「とっくに作れとる」
「ほんまですか」
「医者が言うんじゃけん、ほんまじゃ」
祐三は少し笑って、荷物を持ち直した。
船が出るとき、桟橋の端にミネが立っていた。
手は振らなかった。祐三も振らなかった。
ただ、船が見えなくなるまで、その子はそこを動かなかった。
※
私は結局、その島に三十八年いた。
本土の病院から誘われたこともあったが、断った。理由をうまく言えたことがない。
ただ、あの日以来、私は健康診断の注射のとき、必ず列のいちばん後ろを見るようになった。
後ろに下がる子が、何を思って下がっているのか。私はそれを、あの日まで一度も考えたことがなかった。
祐三は中学から本土へ出て、造船の仕事に就いた。
ミネは看護婦になり、二十代の終わりに島へ帰ってきて、私の診療所で二十年働いた。
ミネが最初に配属された病室で、患者に輸血の説明をするときの言い方を、私は横で聞いていたことがある。
「少しだけです。ほんの少しだけ。ひと月もせんうちに、体がまた作りますけん」
私が板の間で祐三に言った言葉と、そっくり同じだった。
教えた憶えはない。
あとで聞くと、ミネは三日目に目を開けたあの日、祖母から全部聞いていたのだという。
※
診療所は十年前に閉じた。いまは公民館になっている。
去年の夏、島の同窓会に呼ばれて、久しぶりに連絡船に乗った。
公民館の板の間は、そのまま残っていた。
公民館の窓から、分校の跡地が見える。
校舎はもうない。基礎のコンクリートだけが、夏草の中に四角く残っている。
十九人が黙って床を見ていた教室は、いまは風の通り道になっていた。
七十を過ぎた祐三が、その板の間を指さして笑った。
「先生、わし、ここで泣いたじゃろう」
「泣いた」
「かっこ悪いのう」
「かっこ悪ないよ」
同窓会の帰り、桟橋でミネにも会った。
もう七十に近いのに、歩き方だけは昔のままで、少しだけ左に傾く。
「先生、わたし、あの日のこと、祐三に一度も礼を言うとらんのです」
「六十年、言うとらんのか」
「言うたら、あの人が困るけん」
私は、それでいいと思った。
この島の人は、大事なことを口に出さない。出さないまま、坂を先に歩く。
※
私は本当にそう思っている。
あの日、あの教室で、十九人の子どもが黙っていた一分足らずのあいだに、自分の一生を差し出す計算を済ませた子がいた。
計算を済ませたうえで、手を挙げた。
いちばん後ろに並ぶ子が、いちばん先に。
私は六十年、医者として、それより勇気のあるものを見たことがない。
灘手島の坂は、いまも夏になると蝮が出る。
祐三は帰省するたび、その坂を、いちばん先に歩くのだそうだ。