夫婦の最期の時間

老夫婦(フリー写真)

福岡市の臨海地区にある総合病院。

周囲の繁華街はクリスマス商戦の真っ只中でしたが、病院の玄関には大陸からの冷たい寒気が、潮風となって吹き込んでいたと思います。

そんな夕暮れ時、心肺停止状態の老人を乗せた救急車がERに到着しました。

老人は86歳。確認すると瞳孔は完全に散大し、医学的には死亡確認が出来る状態となっていました。

茶色く朽ちたような身体に、パリッと糊の利いた白いシャツが印象的でした。

一緒に救急車に乗って来た80歳の妻の話では、その老人は自宅の居間でテレビを視ていたはずだが、妻が買い物から帰って来た時には息をしていなかったとのことでした。

恐らく心臓発作を起こされたのでしょう。

また長らく肺気腫を患っていたようで、まあ、老衰による死と受け止めても良い状態でした。

僕は救急当直だったので、救急部医長の指示の元、心臓マッサージを開始しました。

しかし、これは患者の妻が死を受け容れるまでのデモンストレーションでもありました。

そこに居る医療スタッフの誰もが、妻が心臓マッサージについて

「もう結構です。ありがとうございました」

と言うのを待っていたのです。

救急の現場ではよくある光景でした。

しかし、その腰は折れ、何かに捉まっていなければ立ってすら居られないような妻が5分後に下した判断は、経験の長い救急部医長に言わせても初めてのことだったそうです。

妻は心臓マッサージをしている僕の傍によろよろと歩いて来て、こう言ったのです。

「あのぅ、すいまっせん。あたしにやらせてはもらえんとでしょうか。すいません。お願いします。教えてください」

僕は呆気に取られて、医長を振り返りました。

医長もびっくりした顔をしていましたが、一言、

「教えて差し上げなさい」

と僕に指示しました。

看護婦が背の低い老婆のために、急いで足台を持って来ました。

台に登った老婆に、僕は手の置き場所と、力加減とタイミングを手短に教えると、

「よぅわかりました。これで良かですか?」

と言って、弱々しくはあるけれども正確なタイミングで心臓マッサージを開始したのです。

僕が小さく頷き、

「お上手ですよ。それで結高です」

と言うと、老婆は満足そうに、何と微笑みすら溢して、夫に語り掛け始めたのです。

「お父さん。あんたは、なあんも自分のことができんかったけん、あたしが、ずっと一緒におってやったとよ。

しまいにゃ心臓すらあたしが動かしちゃらんといかんごとなって、情けなか人やねぇ。

でもね、あたしは幸せやった。楽しかった。覚えとるね、姪浜であんたが喧嘩した時のこと……」

心臓マッサージを続けながら、夫に訥々(とつとつ)と語り出した老婆に、救急部のスタッフたちは呆然としました。

一体何が始まったのかと、他の仕事をしていた看護婦たちも集まって来たほどです。

しかし医長は片手を振って、スタッフたち全員に病室を出ろと合図しました。

アンビューバッグ(人工呼吸をするための器具)を押していた看護婦もその場を外されました。

僕も老婆の後ろで呆気に取られていましたが、ハッと気が付き急いで外に出ました。

こうして、病室は妻と真の意味で死を迎えつつある夫だけとなったのでした。

それから10分ほど経過した頃でしょうか。

病室のドアが開き、妻が出て来ました。

そして救急部のスタッフたち全員に繰り返し深々と頭を下げ、老婆は言いました。

「御迷惑をお掛けしました。もう結構です」

老婆の目には、涙の跡が残されてはいましたが、しかし満足そうな微笑みを浮かべていました。

恐らくたった今、逝ったばかりの老人もそうに違いないと思いました。

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