指輪の記憶

彼女が認知症を患った。
以前から物忘れがひどくなっていたが、ある日の夜中、突然「昼ご飯の準備をする」と言い出し、台所に立ち始めた。
そのうえ、「私はあなたの妹なの」と口にするようになり、さすがに異常だと思って病院に連れて行った。
診断は認知症だった。
※
俺たちは結婚の約束をしていた。
「給料三ヶ月分」とまではいかないけれど、指輪も用意していた。
あとはこれを渡してプロポーズするだけだった。
けれど、彼女はもう、俺のことをほとんど覚えていない。
日常のことも、自分の名前さえ危うくなり、一人では何もできなくなっていた。
俺は仕事を辞め、彼女の介護に専念することを決めた。
二人きりの生活。
毎日、彼女の右手を握りしめながら、過ごした。
何かを話しかけると、彼女は笑ったり、泣いたり、時には怒ったりもしたけれど、そのどれもが、俺に向けられた感情なのかどうかは分からなかった。
※
やがて貯金も尽き、生活に困るようになった頃、彼女の両親がこう言ってきた。
「娘を引き取りたい」
彼女の父親は、穏やかな声でこうも言った。
「君もまだ若い。これからの人生を生きなさい。娘のことは忘れてくれ」
でも、忘れられるわけがなかった。
どこにいても、何をしていても、頭の中は彼女のことばかり。
四六時中ひとつのことしか考えられない人間の気持ちなんて、きっと誰にも分からない。
※
一年が過ぎたある日、彼女の実家を訪ねてみた。
けれど、家には誰もいなかった。
町から姿を消していたのだ。
それでも俺は諦めなかった。
調べていくうちに、彼女の家族が北陸の町で暮らしていることを知った。
すぐに向かった。
海沿いに建つ、静かな家だった。
インターホンを押すと、彼女の母親が出てきた。
俺の顔を見るなり、彼女は目を丸くして驚いた。
「彼女に渡したいものがあるんです。直接、彼女に会わせてください」
そう伝えると、母親は少し黙ってからこう言った。
「海で待っていてください」
そして、家の奥へと姿を消した。
※
しばらくして、母親に連れられた彼女が現れた。
寝巻き姿のまま、どこかぼんやりとした表情。
その姿は、かつて俺が知っていた彼女とは違っていた。
言葉にできないほど、胸が締めつけられた。
浜辺に二人で座った。
彼女の母親は気を利かせて、そっとその場を離れてくれた。
彼女は、海を眺めながら、何かを呟いていた。
「世界一遠くて近い場所…」
「音の響きが聞こえない…」
彼女の言葉は、まるで夢の中の言葉のようで、意味をなしているようで、なしていなかった。
※
俺は彼女の左手を取り、そっとポケットから取り出した指輪を差し出した。
それは、彼女の誕生石であるエメラルドの指輪だった。
どれだけ時間がかかっても、俺はこの日のためにそれを用意していた。
そっと彼女の薬指にはめてやると、彼女は一瞬だけ、笑顔を浮かべた。
そして、言葉もなく涙を流した。
理由は、彼女自身にも分からないようだった。
でも、確かに泣いていた。
それを見ていた俺も、堪えきれずに泣いた。
彼女を強く、強く抱きしめた。
たぶん、二時間くらいはそうしていた。
その間、彼女は何も言わなかったけれど、どこかで俺を少しだけ思い出してくれた気がした。
彼女の腕が、ほんの少しだけ俺を抱き返してくれたように思えた。
その感触だけで、俺は救われた。
たとえ彼女の記憶から俺が消えてしまっても、この手の中の温もりだけは、永遠に俺の中に残るだろう。