
彼女が認知症を患ったのは、三十一歳の秋だった。
最初は、ただの物忘れだと思っていた。鍵の置き場所を忘れ、約束の時間を間違え、同じ話を三度繰り返した。
そのころ俺は、エメラルドの指輪を用意していた。彼女の誕生石を選び、あとは渡してプロポーズするだけだった。
夜中の台所の米袋
指輪を買ったのは、その年の夏だった。商店街の奥にある小さな宝石店で、店主の老人が、手袋をはめたまま小箱を開けてくれた。
「緑はね、見る人の心を落ち着かせる色なんですよ」
老人の言葉に背中を押され、俺は給料の三か月分には届かない値段を、迷わず支払った。
帰り道、澪の笑顔ばかりが浮かんだ。海が好きな人だった。休みのたびに港へ行き、波を眺めながらサンドイッチを食べた。
「いつか世界一遠くて近い場所で、大事なものをもらいたいな」
海を指さして、彼女は一度だけそう言った。意味を尋ねると、「内緒」と笑って、はぐらかされた。
その言葉を、俺は小箱と一緒に、胸の奥にしまった。
それから数か月後の、ある夜のことだった。台所の物音で目を覚ますと、時計は午前二時を指していた。
明かりのついた台所に、彼女が立っていた。まな板の上には、湿った米袋が置かれている。
「昼ご飯の準備をしなくちゃ」
「澪、まだ夜中だよ」
「でも、みんなが帰ってくるから」
彼女は笑顔でそう答えた。鍋の中は空のままで、火もついていなかった。
その何日かあとには、彼女は俺の顔を見て、こう言うようになった。
「私ね、あなたの妹なの」
冗談だと思って笑った。けれど彼女の目は、少しも笑っていなかった。
さすがに異常だと思って、翌週に病院へ連れて行った。検査の待合室で、彼女は壁の時計を何度も見上げていた。
診断は、若年性の認知症だった。医師は穏やかな声で、これから起こりうることを順に説明してくれた。
俺は、手のひらに爪が食い込むほど拳を握っていた。説明の半分も、頭に入らなかった。
帰り道、助手席の彼女は、窓の外の海を見ながらぽつりと言った。
「世界一遠くて近い場所って、あそこのことだよ」
俺は、そのときはまだ、その言葉の意味をうまく掴めなかった。
右手を握る毎日
俺は、仕事を辞めることにした。上司は何度も引き留めてくれたが、迷いはなかった。
彼女を一人にして、会社の机に座っている自分が、どうしても想像できなかった。
二人きりの生活が始まった。朝は一緒に歯を磨き、昼は近所の川沿いを歩き、夜は同じ鍋をつついた。
毎日、彼女の右手を握りしめて過ごした。握ると、ほんの少しだけ、彼女の指に力が戻るような気がした。
爪の形も、指の節の丸みも、俺はもう目を閉じてでも描ける。それなのに、彼女のほうが、俺の手の形を忘れていくのだった。
夕方になると、決まって彼女は落ち着かなくなり、玄関のドアノブに手をかけた。「帰らなきゃ」と繰り返す。
どこへ帰るのかと尋ねても、答えはなかった。俺は上着を着せて、近くの公園まで、ゆっくりと一緒に歩いた。
ブランコの鎖が風で揺れる音を聞くと、彼女の肩から、ふっと力が抜けた。帰りたい場所は、もしかすると、どこでもなかったのかもしれない。
何かを話しかけると、彼女は笑ったり、泣いたり、時には怒ったりもした。けれど、そのどれもが俺に向けられた感情なのかどうかは、わからなかった。
ある日、彼女は洗面所の鏡に映る自分を見て、不思議そうに首をかしげた。
「この人、誰?」
「澪だよ。俺の、大事な人だよ」
「ふうん」
彼女は納得したのか、していないのか、鏡の中の自分に小さく手を振った。
その夜、俺は風呂場で、水の音に紛れて声を殺した。
上着の内ポケットには、指輪の小箱が入っていた。毎日持ち歩いていたのに、渡せる日は、なかなか訪れなかった。
夜、眠れないときは、携帯で日々の暮らしを綴ったブログを読んだ。
『妻の青い点は自転車屋で止まる』を読み終えたとき、俺は誰もいない部屋で、小さく頷いていた。
『毎月二日の千円は返さなくていい』という話にも、何度か救われた。
人の優しさは、思いがけない場所に、静かに置かれている。そう信じなければ、前に進めない日があった。
雨の降る休日、彼女は窓辺に座って、古い童謡を小さく口ずさんでいた。歌詞は抜け落ちて、旋律だけが、ところどころ途切れながら続いた。
俺は台所で湯を沸かしながら、その歌を聞いていた。急須に注いだ湯が、静かな湯気になって立ちのぼる。
ふと、手が止まった。この家の中で、彼女が確かに生きている音は、いま、あの旋律だけなのだと思った。
やがて貯金も尽き、暮らしに行き詰まるようになった。そんな頃、彼女の両親が訪ねてきた。
「娘を、引き取りたいんだ」
お父さんは、深く頭を下げた。お母さんは、隣で何も言わず、膝の上のハンカチを握りしめていた。
「君もまだ若い。これからの人生を生きなさい。娘のことは、忘れてくれ」
穏やかな声だった。だからこそ、断る言葉が見つからなかった。
彼女を連れていく車を、玄関先から見送った。助手席の彼女は、窓の外の俺に気づかないまま、前を向いていた。
車が角を曲がっても、俺はしばらく、その場から動けなかった。
部屋に戻ると、テーブルの上に彼女のマグカップだけが残されていた。縁に、薄い口紅の跡がついている。
洗わずに、棚の奥へしまった。洗ってしまえば、彼女の痕跡がまたひとつ消えてしまう気がしたからだ。
その夜から、広すぎる部屋の静けさが、耳の奥でずっと鳴り続けた。
でも、忘れられるわけがなかった。どこにいても、何をしていても、頭の中は彼女のことばかりだった。
四六時中、ひとつのことしか考えられない人間の気持ちなんて、きっと誰にもわからない。食事をしても味がせず、眠っても夢の中で彼女を探していた。
北陸の海沿いの家
一年が過ぎたある日、俺は彼女の実家を訪ねてみた。けれど家には誰もいなかった。
表札は外され、郵便受けには広告だけが詰まっていた。町から、姿を消していたのだ。
それでも、俺は諦めなかった。共通の知人に聞き、古い年賀状を探し、役所の窓口にも足を運んだ。
調べていくうちに、彼女の家族が北陸の海沿いの町で暮らしていることを知った。
すぐに電車に乗った。乗り換えを二度重ね、日本海が窓に見えたころには、日が傾き始めていた。
車窓に、灰色の空と、波頭の白い線が流れていく。内ポケットのエメラルドの指輪が、体温でほんのり温まっていた。
渡せるのか、渡せないのか。渡したところで、彼女に意味は届くのか。同じ問いが、レールの継ぎ目の音に合わせて、頭の中で何度も繰り返された。
海沿いに建つ、静かな家だった。庭先に、潮風で色の褪せた洗濯物が揺れている。
インターホンを押すと、彼女の母親が出てきた。俺の顔を見るなり、目を丸くして立ちすくんだ。
「彼女に渡したいものがあるんです。直接、彼女に会わせてください」
母親は少し黙ってから、静かに言った。
その横顔には、一年分の疲れが滲んでいた。きっと、この人も眠れない夜を、いくつも越えてきたのだろう。
「海で待っていてください」
そして、家の奥へと姿を消した。
俺は言われたとおり、砂浜へ降りていった。波の音と、遠くの船の汽笛だけが、夕暮れの空気に溶けていた。
ポケットの中で、小箱を何度も握り直した。指輪の角が、手のひらに小さな痕を残した。
エメラルドの指輪を握る手
しばらくして、母親に連れられた彼女が現れた。寝巻き姿のまま、どこかぼんやりとした表情だった。
かつて俺が知っていた彼女とは、違って見えた。言葉にできないほど、胸が締めつけられた。
二人で、浜辺に並んで腰を下ろした。母親は気を利かせて、そっとその場を離れてくれた。
彼女は、海を眺めながら、何かを呟いていた。
「世界一遠くて近い場所…」
「音の響きが聞こえない…」
言葉は、夢の中の言葉のようで、意味をなしているようで、なしていなかった。
けれど、俺ははっとした。それは、彼女がかつて海を指して言った、あの言葉だった。
波打ち際で、白い泡が生まれては消えていく。遠いのに、触れるほど近い。海のことだったのだと、ようやくわかった。
俺は彼女の左手を取り、ポケットから小箱を取り出した。それは、彼女の誕生石である、エメラルドの指輪だった。
どれだけ時間がかかっても、俺はこの日のために、それを用意していた。
そっと彼女の薬指にはめてやると、彼女は一瞬だけ、笑顔を浮かべた。
そして、言葉もなく涙を流した。理由は、彼女自身にもわからないようだった。でも、確かに泣いていた。
それを見ていた俺も、堪えきれずに泣いた。彼女を強く、強く抱きしめた。たぶん、二時間くらいはそうしていた。
彼女の腕が、ほんの少しだけ俺を抱き返してくれたように思えた。その感触だけで、俺は救われた。
たとえ彼女の記憶から俺が消えてしまっても、この手の中の温もりだけは、永遠に俺の中に残るだろう。