指輪の記憶

公開日: ちょっと切ない話 | 恋愛 | 悲しい話

浜辺

彼女が認知症を患った。

以前から物忘れがひどくなっていたが、ある日の夜中、突然「昼ご飯の準備をする」と言い出し、台所に立ち始めた。

そのうえ、「私はあなたの妹なの」と口にするようになり、さすがに異常だと思って病院に連れて行った。

診断は認知症だった。

俺たちは結婚の約束をしていた。

「給料三ヶ月分」とまではいかないけれど、指輪も用意していた。

あとはこれを渡してプロポーズするだけだった。

けれど、彼女はもう、俺のことをほとんど覚えていない。

日常のことも、自分の名前さえ危うくなり、一人では何もできなくなっていた。

俺は仕事を辞め、彼女の介護に専念することを決めた。

二人きりの生活。

毎日、彼女の右手を握りしめながら、過ごした。

何かを話しかけると、彼女は笑ったり、泣いたり、時には怒ったりもしたけれど、そのどれもが、俺に向けられた感情なのかどうかは分からなかった。

やがて貯金も尽き、生活に困るようになった頃、彼女の両親がこう言ってきた。

「娘を引き取りたい」

彼女の父親は、穏やかな声でこうも言った。

「君もまだ若い。これからの人生を生きなさい。娘のことは忘れてくれ」

でも、忘れられるわけがなかった。

どこにいても、何をしていても、頭の中は彼女のことばかり。

四六時中ひとつのことしか考えられない人間の気持ちなんて、きっと誰にも分からない。

一年が過ぎたある日、彼女の実家を訪ねてみた。

けれど、家には誰もいなかった。

町から姿を消していたのだ。

それでも俺は諦めなかった。

調べていくうちに、彼女の家族が北陸の町で暮らしていることを知った。

すぐに向かった。

海沿いに建つ、静かな家だった。

インターホンを押すと、彼女の母親が出てきた。

俺の顔を見るなり、彼女は目を丸くして驚いた。

「彼女に渡したいものがあるんです。直接、彼女に会わせてください」

そう伝えると、母親は少し黙ってからこう言った。

「海で待っていてください」

そして、家の奥へと姿を消した。

しばらくして、母親に連れられた彼女が現れた。

寝巻き姿のまま、どこかぼんやりとした表情。

その姿は、かつて俺が知っていた彼女とは違っていた。

言葉にできないほど、胸が締めつけられた。

浜辺に二人で座った。

彼女の母親は気を利かせて、そっとその場を離れてくれた。

彼女は、海を眺めながら、何かを呟いていた。

「世界一遠くて近い場所…」

「音の響きが聞こえない…」

彼女の言葉は、まるで夢の中の言葉のようで、意味をなしているようで、なしていなかった。

俺は彼女の左手を取り、そっとポケットから取り出した指輪を差し出した。

それは、彼女の誕生石であるエメラルドの指輪だった。

どれだけ時間がかかっても、俺はこの日のためにそれを用意していた。

そっと彼女の薬指にはめてやると、彼女は一瞬だけ、笑顔を浮かべた。

そして、言葉もなく涙を流した。

理由は、彼女自身にも分からないようだった。

でも、確かに泣いていた。

それを見ていた俺も、堪えきれずに泣いた。

彼女を強く、強く抱きしめた。

たぶん、二時間くらいはそうしていた。

その間、彼女は何も言わなかったけれど、どこかで俺を少しだけ思い出してくれた気がした。

彼女の腕が、ほんの少しだけ俺を抱き返してくれたように思えた。

その感触だけで、俺は救われた。

たとえ彼女の記憶から俺が消えてしまっても、この手の中の温もりだけは、永遠に俺の中に残るだろう。

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