あの靴、まだあるか

秋の午後、ベンチでのひととき

高校二年の夏、俺は初めてスタメンに選ばれた。

地区予選まであと三日という放課後だった。嬉しくてたまらなかったけど、一つだけ問題があった。バスケットシューズの底がベロンと剥がれかけていたのだ。

「やべえ、これ走ったら確実に脱げるな」

靴の裏を指でめくりながら俺がそう呟くと、隣のロッカーで着替えていた健一がこっちを見た。

「サイズ同じだろ。俺の使えよ」

健一は自分のバッシュを差し出した。白地に青いラインが入った、当時みんなが欲しがっていたモデルだった。健一が三ヶ月間コンビニでバイトして買ったやつだ。

「いいのかよ。お前だって次の試合あんだろ」

「俺は控えだから。それに、お前がスタメンで出るなら、俺の靴で点取ってくれた方が嬉しいって」

健一はそう言って笑った。少し悔しそうな目をしていたはずなのに、その時の俺にはそれが見えなかった。

健一とは小学三年の時からの付き合いだった。

同じクラスになった初日、たまたま席が隣で、お互い手を挙げるのが苦手な性格だった。体育の時間になるとどちらからともなく目を合わせて、一緒に走り出すような間柄だった。

放課後はいつも二人で、団地の裏手にあるバスケットゴールでシュートの練習をした。ゴールと言ってもガタガタの板にリングがついているだけの代物で、ボードに当たるたびに錆びたボルトがギシギシ鳴った。

中学でも同じバスケ部に入った。俺はそこそこ背が伸びて試合に出られるようになったが、健一は最後まで控えのままだった。

でも健一は文句を言わなかった。練習後に二人で自販機のカルピスウォーターを買い、ぬるくなるまで体育館の裏で飲みながら喋る時間が、俺は一番好きだった。

「お前がコート走ってるの見てるとさ、なんか俺まで走ってる気分になるんだよな」

健一はそう言って、紙パックのストローを噛んだ。その横顔を、俺は今でも覚えている。

結局、あの地区予選で俺は十八点取った。健一の靴は足にぴったりで、まるで自分のもののようだった。

試合後、汗でぐっしょりになった靴を返そうとしたら、健一は首を振った。

「やるよ。お前が履いた方がそいつも嬉しいだろ」

「馬鹿言うなよ、三ヶ月バイトして買ったやつだろ」

「だからだよ。三ヶ月分の価値がある試合だったってことだ」

健一はにやりと笑って、俺の肩を叩いた。あの時の手の温度を、俺はずっと忘れなかった。

高校を卒業して、俺は東京に出た。

就職先がうまくいかず、転々とした末にタクシーの運転手に落ち着いた。毎晩知らない街を走り、知らない人を乗せ、知らない場所で降ろす。それの繰り返し。

健一は地元に残り、工場で働いていると風の噂で聞いた。

年賀状のやり取りは三年で途絶えた。携帯の番号も変わり、連絡先が分からなくなった。正確に言えば、調べようと思えばいつだって調べられたのに、そうしなかっただけだ。

深夜の首都高を流している時、助手席に誰も乗っていない時間に、ふと健一の顔が浮かぶことがあった。

「元気にしてるかな」

口に出したことも何度かある。でもそれだけだった。思い出すだけで、行動には移さなかった。忙しいという言い訳は便利で、使えば使うほど楽になった。

四十二歳の秋、深夜の新宿で一人の女性客を乗せた。

「すみません、武蔵野中央病院までお願いします」

バックミラー越しに見たその顔に、どこか見覚えがあった。小さな目と、少し上を向いた鼻先。

「あの…もしかして、香織ちゃん? 健一の妹の」

女性は驚いた顔をした後、目を潤ませた。

「真人くん? 嘘でしょ、こんなところで」

香織ちゃんは健一より五つ下で、小学生の頃、俺たちが公園でバスケをしていると、いつも麦茶を持って来てくれた子だった。

「兄が入院してるの。胃がんで。見つかった時にはもう遅くて」

香織ちゃんの声が震えた。

「お兄ちゃん、ずっと真人くんに連絡したがってたんだけど、連絡先が分からないって」

ハンドルを握る手に、力が入った。

翌日、病室のドアを開けた。

ベッドの上にいたのは、別人のように痩せた男だった。頬の肉がそげ落ち、腕には点滴の管が刺さっていた。

でも、俺を見た瞬間に浮かんだ笑顔は、あの頃と何一つ変わっていなかった。

「よう。タクシーの運転手やってんだって? 格好いいな」

「格好良くねえよ。お前こそ、なんで連絡くれなかったんだよ」

「したかったよ。でもお前、忙しいだろうと思ってさ」

健一はそう言って、窓の外を見た。秋の日差しが、健一の薄くなった髪を照らしていた。

「なあ、あの靴、まだ持ってるか?」

「靴?」

「高校の時、お前にやったバッシュ。白に青のライン入ってたやつ」

俺は一瞬、息が詰まった。あの靴。三ヶ月バイトして買って、俺に笑顔で差し出した靴。

「…ごめん。引っ越し何回もして、たぶんどっかで」

「そっか」

健一は笑った。少し寂しそうだったけど、すぐにいつもの顔に戻った。

「まあ、靴は走るためにあるんだから。お前が走ったんなら、それでいいよ」

俺はその言葉に何も返せなかった。代わりに自販機でカルピスウォーターを二本買ってきて、一本を健一に渡した。

「あるんだな、ここにも」

「どこにでもあるよ、こんなもん」

二人で笑った。紙パックのストローを噛む健一の横顔は、十七歳の夏と同じだった。

それから二週間、仕事が終わるたびに病院に通った。

毎回、大した話はしなかった。テレビのバスケの試合を二人で見たり、最近の車の話をしたり、昔の先生が太ったらしいぞと笑ったり。取り戻すように話して、取り戻せないことに気付かないふりをした。

三週間目の朝、香織ちゃんから電話が来た。

「お兄ちゃんが、今朝」

その先は聞こえなかった。もう聞こえなくても分かった。

通夜の帰り、香織ちゃんが俺を呼び止めた。

「これ、お兄ちゃんのスマホ。真人くんに見てほしいものがあるの」

香織ちゃんがLINEの下書きフォルダを開いた。

そこには、俺宛の未送信メッセージが並んでいた。日付はすべて五月十四日。俺の誕生日だった。

「誕生日おめでとう。元気にしてるか? 今年こそ飲みに行こうぜ」

「東京、楽しいか? こっちは何も変わらんよ。カルピスウォーター、まだ売ってた」

「三十になったな。お前のことだから夜遅くまで働いてんだろ。体だけは気を付けろよ」

「四十か。お互いおっさんだな。会いたいけど、邪魔しちゃ悪いと思って。また来年にする」

全部で三十二通あった。十八歳のあの夏から、亡くなる年まで、毎年欠かさず書かれていた。

一通も、送信されていなかった。

最後の一通は、病室のベッドの上で打たれたものだった。

「真人、来てくれてありがとう。カルピスウォーター、うまかったよ。一つだけ聞きたかったことがある。あの靴、本当はまだ持ってるんじゃないか? お前、昔から嘘が下手だったから。持ってても持ってなくても、どっちでもいい。お前があの試合で走ってくれたこと、俺はずっと誇りに思ってた。ありがとな」

俺はスマホを握りしめたまま、通夜の会場の廊下にしゃがみ込んで声を上げて泣いた。

送れなかったのは健一だけじゃない。俺だって三十二年間、「元気か」のたった三文字が言えなかったのだ。

翌週、実家の物置を隅々まで探した。

段ボールを何箱もひっくり返し、埃にまみれながら探し続けた。もう無いだろうと思っていた。何度も引っ越して、そのたびに荷物を減らしてきたのだから。

でも、一番奥の、一番古い段ボールの底に、それはあった。

白地に青いラインの入ったバスケットシューズ。黄ばんで、片方の紐が切れていて、底のゴムはもうカチカチに固まっていた。

俺は両手でその靴を持ち上げた。あの夏、健一が「お前が履いた方がそいつも嬉しいだろ」と笑いながら差し出した時と同じ重さが、手のひらに残っていた。

その靴を持って、健一の墓に行った。

「持ってたよ、ばか。ちゃんと持ってた」

空は十一月の秋晴れだった。抜けるように高い空で、雲一つなかった。

健一が好きだった、あの放課後の空と同じ色だった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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