猫が選んだ場所

古書店の帳場に置いた座布団の隅が、いつの間にか毛羽立っていた。指でなぞると、十六年ぶんの抜け毛が、糸くずのように薄く絡んでくる。

そこは、灯(あかり)の指定席だった。

わたしが背表紙の埃を払い、値づけの台帳をめくるあいだ、灯はその隅に前足をきちんとそろえて座り、夕方の光が棚を一段ずつ渡っていくのを、飽きもせずに眺めていた。陽が傾くにつれて灯の毛がほのかに金色に染まり、わたしはその横顔を盗み見るのが好きだった。

小さな港町の、坂の途中にある古書店。父が遺した店だ。

客は一日に数えるほどしか来ない。潮風で建てつけの悪くなった硝子戸が、ときどき思い出したように、からからと鳴る。

それでも灯がいる帳場は、いつもどこか満ちていた。猫が一匹いるというだけで、この店は、ちゃんと店でいられた。

灯と出会ったのは、わたしが父からこの店を継いだばかりの、雨の多い春のことだった。

父は、わたしが店の仕事を覚えきる前に、あっけなく逝ってしまった。引き継ぎの言葉も、相場の見方も、半分も聞けないままだった。

がらんとした店にひとり残されて、わたしは毎晩、父の文机の前で途方に暮れていた。

そんなある夕方、裏路地の塀の陰に、潰れかけた段ボールがひとつ置かれているのを見つけた。

底に、子猫が一匹だけ残されていた。きょうだいはもらわれていったのだろう。最後の一匹は、痩せて、目やにで片方の瞼がくっついていた。

指を差し出すと、子猫は震えながらも、その小さな額を、そっとわたしの指先に押しつけてきた。

灯をともしたばかりの店先のように、ぽっと、胸の奥があたたかくなった。あの感触を、いまでもはっきりと覚えている。

だから、灯と名づけた。暗い路地の底で、わたしを待っていてくれた、小さな灯。

父を喪ったばかりのわたしには、その小さな体温が、どれほどの支えだったか知れない。

棚の並べ方も、客との間合いも、何もかもが手探りだった。けれど、足もとに灯がいるというだけで、わたしは少しずつ前を向けた。

値づけに迷って夜更けまで台帳をめくる晩、灯は帳場の隅で丸くなり、ときどき薄目を開けては、まだ起きているのか、というふうにわたしを確かめた。

おまえが見ていてくれるなら、もう少しだけ続けられる。声には出さず、わたしは何度そう思ったか知れない。

父は無口な人で、本のことばかりを愛していた。客が来なくても、一日じゅう棚の前で背表紙を撫でては、満足そうにしていた。

わたしは子どものころ、そんな父が少し苦手だった。本より自分を見てほしいと、いつも思っていた。

店を継ぐと決めたのは、義務感からだった。父の死後、誰も継がなければこの店は消える。ただそれだけの理由だった。

だから最初の数か月、わたしはこの古い店を、どこか他人のもののように感じていた。

その距離を、少しずつ縮めてくれたのが、灯だった。灯がいる場所は、もう他人の店ではなかった。

灯は、けっして賢い猫ではなかった。

客が広げた古地図の上に平気で乗り、叱られても悪びれず、欠伸をひとつしてまた座布団へ戻る。

買い取りの査定の最中に空き箱へ潜り込み、大事な初版本の見返しに毛をつけて、わたしを青ざめさせたこともあった。

それでも不思議と、灯を嫌う客はひとりもいなかった。むしろ、灯目当てに通ってくる人さえいた。

近所の小学生の女の子は、学校帰りに毎日のように店を覗き、帳場の灯にだけ、その日あったことを小声で報告して帰った。

「灯ちゃん、今日ね、逆上がりができたんだよ」

灯は、わかっているのかいないのか、ただ尻尾の先を、ゆっくりと一度だけ振った。

週に一度、決まった時間に来る老人もいた。戦争のころの写真集ばかりを探している人で、口数の少ない、背の高い人だった。

その人は、棚の前で長いこと迷ったあと、決まって帳場へ寄り、灯の喉を、ごく自然な手つきで撫でていった。

「猫というのは、店の格を決めるものなんだ」と、ある日その人がぽつりと言った。

「あんたの店は、この子のぶんだけ、あたたかいよ」

わたしは、はじめてこの店を継いでよかったと思えた。父ではなく、灯のおかげで、そう思えた。

一度だけ、大きな台風が町を抜けた夜があった。

明け方近く、ひときわ強い風が吹いて、店の硝子戸が割れた。破片が帳場の畳まで飛び散り、灯は風の唸る音に怯えて、棚の最も奥へ逃げ込んでしまった。

わたしは懐中電灯を片手に、半刻ものあいだ、灯を呼び続けた。

「灯、出ておいで。もう大丈夫だから」

「ほら、わたしがここにいるよ。こわくないよ」

やっと暗がりから這い出してきた灯は、わたしの胸に額を深く埋めて、長いこと動かなかった。

心臓が、わたしの手のひらにまで伝わるほど、速く打っていた。やがてその鼓動が、少しずつ、少しずつ、落ち着いていった。

あの夜、灯が押しつけてきた額の温度を、いまでもはっきり、手のひらが覚えている。

こわいとき、この子はわたしを選ぶ。そのことが、なぜだか、わたしには誇らしかった。

思えば、灯が姿を消したのは、あのときが最初ではなかった。

灯がまだ若かったころ、一度だけ、丸一日、家に帰らなかったことがある。

あのときもわたしは半狂乱で町じゅうを探した。そして翌朝、灯は何事もなかったような顔で、店の前にちょこんと座っていた。

「どこに行っていたの。心配したんだから」

わたしが叱ると、灯は欠伸をひとつして、悠々と帳場の座布団へ戻っていった。

あのときは、笑い話で済んだ。だから今度も、きっと帰ってくる。わたしは自分に、必死でそう言い聞かせていた。

季節が、いくつも巡った。

わたしは少しずつ店主らしくなり、常連も増え、灯は少しずつ、歳をとっていった。

かつては難なく跳び乗れた帳場に、いつからか踏み台を要するようになった。

よく眠るようになり、よく日向を選ぶようになった。冬は、石油ストーブの前を一日じゅう動かない。

あの女の子は中学生になり、店に来る回数は減った。それでも、ときどき制服姿で覗いては、昔と同じように灯へ報告して帰った。

それでも灯は、夕方になると、必ずあの隅に座り直し、光が棚を渡っていくのを、子猫のころとまったく同じ目で眺めた。

その背中を見るたび、わたしは、時間というものの優しさと残酷さを、同時に思った。

灯がいる。ただそれだけで、過ぎていく一日が、惜しいほどいとおしかった。

灯と暮らした年月は、わたしに、待つということを教えてくれた。

本は、急いては値がつけられない。客は、急いては来ない。猫は、なおさら、こちらの都合では動かない。

灯の隣で台帳をめくるうち、わたしはいつしか、父が背表紙を撫でていた気持ちが、少しわかるようになっていた。

急がず、惜しまず、目の前のものを、ただ大切にする。それが、この店のやり方だった。父の、やり方だった。

灯は、父に代わって、それをわたしに教えてくれたのだと思う。

十六年目の冬、灯は急に、食べなくなった。

いちばんの好物だった煮干しにも、見向きをしない。抱き上げると、皮の下の骨の形が、はっきりと手のひらに伝わってきた。

わたしは灯を籠に入れ、坂の下の動物病院へ走った。

獣医さんは、レントゲンの白い影を長いこと見つめたあとで、静かに切り出した。

「できるだけ、痛くないようにしてあげましょう」

「もう、長くはありません。覚悟をしておいてください」

その言葉を、わたしはうまく受け取ることができなかった。ただ、診察台の上で小さく丸まる灯ばかりを見ていた。

帰り道、抱いた籠の中の灯は、わたしを見上げて、小さくひとつ鳴いた。

いつもの、おまえが見ていてくれるなら、の、あの鳴き方だった。

わたしは坂の途中で立ち止まり、籠を抱えたまま、しばらく動くことができなかった。冷たい雨が、頬と見分けがつかなかった。

それから数日、灯は帳場の座布団の隅から、ほとんど動かなくなった。

わたしは店を半分閉めたようにして、灯のそばに座り続けた。スポイトで水をやり、好きだった鰹節をほぐして、口もとへ運んだ。

灯は、ほんの少しだけ舐めると、また目を閉じた。それでも、わたしの手の匂いを確かめるように、鼻先をすり寄せてきた。

夜、灯の浅い呼吸の音を聞きながら、わたしは灯と過ごした十六年を、ひとつずつ数えるように思い返した。

もっと撫でておけばよかった。もっと、そばにいればよかった。後悔ばかりが、暗い天井に浮かんでは消えた。

――最期まで、この子のそばにいよう。

そう心に決めた、その明け方のことだった。

いつも猫のために細く開けてある帳場の戸の、その隙間から、灯の姿が、ふっと消えていた。

座布団の隅には、ぬくもりだけが、まだかすかに残っていた。

わたしは店じゅうを探した。棚の裏、台所の床下、二階の納戸、父の遺した文机の陰まで。

名を呼びながら、声がかすれるまで探した。それでも、灯はどこにもいなかった。

そのとき、父が生きていたら言っただろう言葉が、ふいに耳の奥で蘇った。

――猫はな、死ぬ前に、自分の最期の場所を探して、ひとりで旅に出るものなんだ。

幼いころは、ただの古い言い伝えだと思って聞き流していた。けれどいまは、その言葉が、刃のように胸を刺した。

行かないでくれ。最期くらい、わたしに、そばにいさせてくれ。

わたしは、外へ飛び出した。

坂を駆け下り、漁港の防波堤を歩き、神社の長い石段を上り、町じゅうに灯の名を呼び続けた。

潮の匂いと、十二月の冷えた風。指先の感覚が、すぐになくなった。それでも足は止まらなかった。

古い家並みのあいだの細い路地を、何度も行き来した。側溝を覗き、軒下を覗き、停めてある軽トラックの下まで覗いた。

探しながら、思い出ばかりが、次から次へと胸をよぎった。

はじめて額を押しつけてきた、あの裏路地の段ボールの底。

硝子の割れた夜の、速い鼓動と、額の温度。

日向で丸くなる背中。光を眺める、あの小さな後ろ姿。女の子の報告に、尻尾を一度だけ振る仕草。

涙でにじんで足もとが見えず、石段で膝を擦り剥いても、わたしは名を呼ぶのをやめなかった。

「灯。お願いだから、帰ってきて」

「もう叱ったりしないから。地図の上に乗っても、箱に入ってもいいから」

声は、坂の上の、暮れていく空に、ただ吸い込まれていくばかりだった。

探し回ったあの夜、わたしは、灯がいなくなって初めて、灯がどれほど自分を支えていたかを知った。

足もとにあたたかい体温があること。夜中に薄目で確かめてくれる誰かがいること。

それが当たり前になりすぎて、わたしは、ありがとうを言いそびれたまま、十六年を過ごしてしまっていた。

日が、すっかり暮れた。

街灯がひとつ、またひとつと灯っていく。海のほうから、漁を終えた船の戻る音が、低く響いてきた。

わたしはとうとう坂を上りきり、店の前まで戻ってきた。足は、棒のようになっていた。

灯のいない店に入るのが、こわかった。あの座布団の、ぽっかりと空いた隅を見るのが、何よりこわかった。

戸に手をかけた、ちょうどそのときだった。足もとで、かすかな、土を擦るような音がした。

振り返ると、店の脇の細い路地の奥から、何かがこちらへ向かって、ゆっくりと来る。

泥にまみれ、わたし以上にぼろぼろになった、小さな影だった。

わたしは目をこすった。何度もこすった。涙のせいで、像がうまく結ばなかった。

けれど、間違いなかった。それは、灯だった。

灯は、ふらつきながら、それでも一歩ずつ、わたしのほうへ歩いてきた。

後ろ足は、もう、ほとんど効いていないようだった。それでも灯は、前足だけで身体を引きずるようにして、近づいてくる。

わたしはその場に膝をつき、かすれきった声で、灯、と名を呼んだ。

すると灯は、どこにそんな力が残っていたのか、最後の力を振りしぼるようにして、わたしの腕の中へ飛び込んできた。

その身体は、朝よりも、さらに軽くなっていた。

けれど、押しつけられた額の温度だけは、あの台風の夜と、まったく同じだった。

わたしは帳場へ上がり、いつもの座布団の隅に腰を下ろして、灯を抱いたまま、もう動かなかった。

灯は、ようやくたどり着いた、というふうに、満足げに目を細めた。

その喉から、かすかに、ごろごろと、なつかしい音がした。

抱いた腕の中で、灯の身体から、ゆっくりと熱が引いていくのがわかった。

わたしは、その温度が完全になくなるまで、灯を抱きしめていた。最後の最後まで、わたしの体温を、灯に分けていたかった。

窓の外で、夜が白みはじめていた。新しい一日が、灯のいない一日が、静かに始まろうとしていた。

どれくらい、そうしていただろう。

硝子戸の外はすっかり夜で、店の柱時計の振り子の音だけが、やけに大きく聞こえていた。

灯は、わたしの腕の中で、眠るように、静かに息をひきとった。

最期まで、おまえは、わたしを見ていてくれた。

涙が、また止まらなくなった。けれどその涙は、外で半狂乱に名を呼んでいたときの涙とは、少しだけ、質が違っていた。

父の声が、三たび、耳の奥に蘇った。

――この子は、この店で暮らせて、幸せだったのかもしれないな。

そうかもしれない、と、わたしははじめて、心の底から思えた。

灯は、世界じゅうの、どんな場所でも、最期に選ぶことができたはずなのだ。

側溝の暗がりでも、神社の床下でも、誰にも見つからない、静かな場所でも、よかったはずなのに。

この子は、最期にもう一度だけ、わたしの腕を選んでくれた。

翌朝、わたしは店の小さな裏庭に、灯を埋めた。日のいちばんよく当たる、椿の根もとに。

土をかけながら、ありがとう、と、それだけを何度も繰り返した。ほかの言葉は、何も出てこなかった。

灯を埋めて、ひと月ほど経ったころだった。

店の戸が開いて、ひとりの若い女性が、おずおずと帳場をのぞいた。

見覚えのある面差しだった。かつて毎日、逆上がりの報告をしに来ていた、あの女の子だった。

就職して町を離れる前に、どうしても寄りたかったのだと、彼女は言った。

「灯ちゃんは、いますか」

わたしは、椿の根もとのことを、静かに話した。

彼女はしばらく黙ったあと、裏庭へまわり、小さな花束を、土の上にそっと置いた。

「灯ちゃん、わたし、ちゃんと大人になれたよ」

その背中を見ていて、わたしは、灯が遺していったものの大きさを、あらためて思い知った。

灯は、わたしひとりの灯ではなかったのだ。

灯を見送ってから、ずいぶんと時が経った。

店はいまも、坂の途中で、潮風に硝子戸を、からからと鳴らしている。

あの写真集の老人は、もう来ない。あの女の子は、町を出て、便りもない。

それでも、新しい客が、また帳場をのぞいていく。中には、灯がいたころの店を覚えていてくれる人もいる。

帳場の隅には、いまも、あの毛羽立った座布団が、そのまま置いてある。誰にも、片づけさせていない。

夕方になると、光が、静かに棚を一段ずつ渡っていく。子猫のころの灯が、ずっと眺めていた、あの光だ。

その光を、わたしは灯の代わりに、いつまでも、いつまでも眺めている。

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