冬の海は、夏よりもずっと青く見えます。
波の音だけが続く浜辺に立つと、指先はあっという間に冷えてしまいます。
それでも私は毎年、この季節になるとここへ来ます。
コートのポケットから、小さな青いかけらを取り出しました。
海に磨かれた硝子のかけらです。角が取れて、すりガラスのように曇っています。
手のひらの上で、冬の光をわずかに返しています。
これはもう二十年も、私のお守りでした。
そして生涯でただ一度だけ、私の手を離れたことがあります。
その一度のことを、私は今も忘れられずにいます。
※
私が育ったのは、北国の小さな港町でした。
冬になると鉛色の雲が低く垂れ込め、海は荒れ、家々は潮風で白く霞みます。
夏の観光客が引き上げたあとの浜は、いつもがらんとしていました。
漁船の帰りを告げる汽笛が、夕方になると町のどこにいても届きました。
千夏とは、生まれた家が三軒しか離れていませんでした。
物心ついたときには、もう隣にいた人です。
祖父は元漁師で、船を降りたあとは浜辺で貝や流木を拾って日を過ごしていました。
祖父の指はごつごつとして、いつも潮と煙草の匂いがしました。
ある雪の日、祖父が私の手のひらに、青い硝子のかけらをのせてくれました。
「これはな、海が何年もかけて磨いたもんだ」
「割れた硝子の、尖ったところが全部取れるまで、波がずっと転がしてたんだ」
冷たくて、けれど不思議とあたたかい色でした。
「拾えるのは、めったにないぞ」と祖父は笑いました。
「だからな、見つけたら人にやれ。宝物は、独り占めするもんじゃない」
そのときはまだ、その言葉の意味がよく分かりませんでした。
私はそのかけらに細い紐を通し、首から下げるお守りにしました。
千夏はそれを見て、うらやましそうに言いました。
「いいなあ、それ。海の宝物みたいだね」
「あたしにも拾えるかな」
その日から私たちは、学校の帰りによく浜を歩くようになりました。
寄せては返す波の縁を、うつむいて青いものを探すのです。
けれど海硝子はそう簡単には見つかりません。
割れた瓶が波にさらわれ、砂に転がされ、角が取れて色を失うまでには、長い長い時間がかかるのだそうです。
「気の長い話だね」と千夏が唇をとがらせました。
「うん。だから見つけたら、宝物なんだ」と私は答えました。
※
雪の深い町でしたから、冬の通学路はいつも往生しました。
ある朝、私は手袋を片方なくして、赤くかじかんだ手を上着に突っ込んでいました。
それに気づいた千夏が、黙って自分の手袋を片方、私に押しつけました。
「はい。片っぽずつな」
「いいよ、悪い」
「いいから。二人で一組。おそろいだと思えば」
千夏の手袋は毛糸が薄くて、けれど内側にぬくもりが残っていました。
私たちはそれぞれ片手だけ手袋をして、もう片方をポケットに入れて歩きました。
白い息が、二つ並んで前へ流れていきました。
その帰り道のことを、なぜだか私はずっと覚えています。
※
忘れられない朝があります。
大きな台風が町を通り過ぎた、その翌朝のことでした。
海はまだ重くうねっていましたが、空だけは嘘のように晴れていました。
浜には、嵐が沖から運んできたものが、そこら中に打ち上げられていました。
流木、貝殻、割れた浮き玉、そして無数の硝子のかけら。
「今日はきっと、宝物の日だよ」
千夏は長靴のまま、砂に膝をついて夢中で探しました。
濡れた砂の匂いと、まだ塩辛い風の匂いがしました。
やがて千夏が、小さく声を上げました。
手のひらには、めったに見ない赤いかけらがのっていました。
「赤なんて、初めて見た」
「それ、すごいよ。大事にしなよ」と私が言うと、千夏は首を横に振りました。
「ううん。これは半分こ」
割ることなんてできないのに、そう言って笑うのです。
結局その赤いかけらは、千夏が持って帰りました。
私は、それでよかったのだと思っています。
※
その冬、祖父が静かに息を引き取りました。
眠るように逝った、穏やかな最期でした。
私は葬儀のあいだ、涙をこらえるのに精いっぱいでした。
帰り道、千夏が黙って隣を歩いてくれました。
「おじいちゃん、宝物みたいな人だったね」
千夏がぽつりと言いました。
「うん」とだけ、私は答えました。
それ以上は、声にならなかったのです。
千夏は立ち止まり、私の手にそっと何かをのせました。
あの日、半分こだと言った赤いかけらでした。
「元気出して、っていうお守り」
「……いいのか」
「うん。でも、また今度返してもらうから」
貸し借りばかりの二人でした。
けれど、そのぬくもりだけは、はっきりと手のひらに残りました。
※
千夏は絵を描くのが好きな子でした。
授業中でも、ノートの隅にいつも海や鳥を描いていました。
色鉛筆の減り方が、私のとはまるで違いました。
一度、私を描いたことがあると言って、けれど見せてくれませんでした。
「下手だから、恥ずかしい」
そう言って、スケッチブックを胸に抱えてしまうのです。
夏には、二人で港の祭りに行きました。
境内の砂利を踏む音、焼きとうもろこしの匂い、遠くで鳴る太鼓。
千夏は金魚すくいの前でしゃがみ込み、いつまでも動きませんでした。
「一匹も取れないね」と私が笑うと、千夏はむきになりました。
帰り道、防波堤の上で花火が上がるのを二人で見ました。
火薬の匂いが風に流れ、千夏の横顔が一瞬だけ赤く染まりました。
そのとき、胸の奥で何かがことりと音を立てたのを、今でも覚えています。
※
中学に上がると、千夏はぐんと大人びました。
背が伸び、髪を伸ばし、笑うと目尻に小さなしわができるようになりました。
そのころ私は、自分の気持ちにようやく名前がついたのを感じていました。
けれど、口に出せるはずもありませんでした。
千夏には、隣町の中学に通う付き合っている相手がいる、という話だったからです。
背が高くて、運動ができて、私とは何もかもが違う人だと聞いていました。
それを千夏自身の口から聞かされたとき、私はただ「そうなんだ」とだけ言いました。
胸の奥が重くなって、しばらく声が出ませんでした。
一度、放課後の駅で、千夏がひとり長いこと立っているのを見たことがあります。
「誰か待ってるの」と聞くと、千夏は少しあわてて笑いました。
「うん、まあね」
けれど電車が何本行っても、千夏の相手は現れませんでした。
私はそれを、見なかったことにしました。
家に帰って、お守りの青いかけらを、意味もなく何度も握りました。
※
それでも千夏は、何かあると私に相談を持ちかけてきました。
恋愛のことなど何ひとつ知らない私に、です。
正直に言えば、その話を聞くのはつらいことでした。
けれど千夏の困った顔を見ると、私はいつも黙って隣に座ってしまうのです。
ある冬の夕暮れ、私たちは港の防波堤に腰かけていました。
沖に漁り火が一つ、また一つと点っていく時間でした。
「彼とね、最近うまくいってないんだ」
千夏はそう言って、膝を抱えました。
潮の匂いが強くて、風が耳を切るように冷たい日でした。
私は気のきいた言葉を、何ひとつ返してやれませんでした。
話が途切れたとき、千夏がふと私の胸元を見ました。
「……ねえ、そのお守り、まだ持ってたんだ」
「うん。ずっと」
「ちょっと見せて」
千夏は身を寄せて、私の首から紐ごとそれを外してしまいました。
青いかけらを夕陽にかざして、目を細めています。
その横顔を、私はただ見ていることしかできませんでした。
そして、千夏はいたずらっぽく笑いました。
「これ、仲直りのしるしに、彼にあげてこようかな」
私は思わず声を上げました。
「おい、それは……」
「大丈夫だって。大事にしてくれるよ」
千夏は立ち上がり、防波堤の先で振り返って手を振りました。
風にさらわれそうな声で、そう言い残して。
私の宝物は、こうして私の手を離れていきました。
追いかけることも、引き止めることも、私にはできませんでした。
あとで彼とどうなったのか、それとなく聞いてみたことがあります。
けれど千夏は、いつも決まって話をそらすのでした。
「いつか返すよ」とだけ、笑って。
※
春が来る少し前のことでした。
千夏は、家の近くの交差点で車にはねられて、あっけなく逝ってしまいました。
知らせを受けたとき、私は玄関先で立ったまま、しばらく動けませんでした。
雪解けの水が軒から滴る音だけが、やけに大きく聞こえていました。
葬儀の日も、私はどこか現実の外にいるようでした。
ふつうに手を振って別れた人が、もういない。
その事実が、どうしても身体に入ってこないのです。
焼香の煙の向こうで、千夏の母親が深く頭を下げていました。
どうしても気持ちの収まりがつかず、私はその母親に頼みました。
「千夏の……部屋を、見せてもらえませんか」
母親はためらいながらも、静かにうなずいてくれました。
小さいころからよく上がり込んでいた家です。
それでも、その日の廊下はひどく長く感じられました。
※
千夏の部屋には、懐かしい匂いが残っていました。
日に焼けたカーテン、描きかけの海の絵、閉じられたスケッチブック。
机の上には、まだ乾ききらない絵の具のにおいがありました。
私は立ち尽くして、その一つひとつを見ていました。
ふと、棚の上に古びた菓子の缶があるのに気づきました。
蓋には、幼い字でこう書いてありました。
『たからものボックス』
きっと、小さなころからずっと使っていたのでしょう。
角がへこみ、塗装のあちこちが剥げていました。
私はそっと蓋を開けました。
中には、小さな消しゴムや、短くなった鉛筆、色あせた写真が詰まっていました。
友達とピースをしている写真、砂浜で笑っている写真。
祭りの夜に二人で買った、色あせた金魚すくいのポイもありました。
そして、その一番上に、青い硝子のかけらがありました。
彼にあげると言って、私の首から外していったはずのお守りです。
胸の奥が、どくりと鳴りました。
手が震えて、うまく取り出せませんでした。
よく見ると、缶の中の消しゴムの角や、鉛筆の端に、薄く名前が書かれていました。
かすれて消えかけた、私の名前でした。
小学校のころ、二人でおそろいのように名前を書いた、あの文房具でした。
千夏は、それを一つも捨てずに、ここにしまっていたのです。
私が忘れてしまっていたものを、全部。
缶の底には、あの台風の朝の、赤いかけらもありました。
半分こだと言った、あのかけらです。
缶の隅には、小さく折りたたまれた紙が何枚も入っていました。
開いてみると、それは私に宛てた手紙でした。
けれど、どれも投函された跡はありませんでした。
「今日も、言えませんでした」
どの手紙も、決まってそんな一行から始まっていました。
季節の話、学校の話、他愛のない一日の記録。
そして最後は、いつも同じ言葉で結ばれていました。
「明日こそ、ちゃんと言います」
その明日は、とうとう来なかったのです。
※
棚の上のスケッチブックが、ふと目に留まりました。
見てはいけない気もしましたが、私は手に取りました。
ページをめくると、そこには海の絵の合間に、いくつもの横顔がありました。
防波堤に腰かけた少年、浜でうつむいて何かを探す少年。
どれも、私でした。
最後のページの一枚には、日付と一言だけが書き添えてありました。
『今日も言えなかった』
背後で、母親が小さく声を漏らしました。
「あの子、あなたのことばっかり話してた」
私は振り向けませんでした。
「彼氏なんて、ほんとはいなかったのよ」
「あなたに気をつかわせたくなくて、いるふりをしてただけ」
母親の声が、途中から涙に濡れていました。
私は青いかけらを握りしめたまま、その場にしゃがみ込みました。
あの防波堤の夕暮れ、千夏はこれを彼に渡したのではありませんでした。
自分の宝物の箱に、そっとしまっていたのです。
仲直りのしるしだと笑ったのは、本当は、手放したくなかったからでした。
言えなかったのは、私だけではなかったのです。
駅でひとり待っていた相手も、はじめからいなかったのでしょう。
こらえていたものが、一度にあふれて止まりませんでした。
割れて尖っていた何かが、ようやく角を失って、静かに崩れていくようでした。
「あの子ね、あなたが気をつかうのが分かってたの」
母親は、涙をぬぐいながら続けました。
「好きだって言えば、あなたはきっと、無理をして応えようとするって」
「だから、いないはずの彼氏を作って、線を引いてたのよ」
「不器用な子でした。ほんとうに」
私はうつむいたまま、何度もうなずくことしかできませんでした。
守られていたのは、私のほうだったのです。
※
今、私は浜辺で子どもたちに海硝子の話をすることがあります。
割れた瓶が、長い時間をかけて宝物に変わるのだという話です。
「拾ったら、独り占めしちゃだめだよ」
祖父の言葉を、私はそのまま渡します。
子どもたちは目を輝かせて、波の縁に散っていきます。
その小さな背中を見ていると、千夏の後ろ姿がよぎることがあります。
防波堤の先で振り返って、手を振ったあの姿が。
私はもう、あの日ほど若くはありません。
それでも、胸の底のかけらだけは、少しも角が取れてくれないのです。
※
それから何か月かして、千夏の母親が私の家を訪ねてきました。
風呂敷に包んだ、あのスケッチブックを差し出して。
「持っていて。あの子も、きっとそのつもりだったと思うから」
私は両手で、それを受け取りました。
あれから二十年が過ぎました。
私は今も、この港町で暮らしています。
青いかけらは、あの日から私の手に戻り、ふたたびお守りになりました。
赤いかけらも、一緒にポケットに入れて持ち歩いています。
冬になるとこうして浜に来て、波の縁を歩きます。
うつむいて、青いものを探しながら。
割れた硝子が宝物に変わるまでには、気の長い時間がかかります。
尖った痛みが丸くなるのも、きっと同じなのでしょう。
言えなかった言葉は、今も私の胸の底で、静かに転がり続けています。
それでも、憎らしいほど青いこの色を、私は手放せずにいます。
「いつか返すよ」と千夏は言いました。
あの言葉の続きを、私はまだ聞けていません。
祖父は言いました。宝物は、独り占めするものではないと。
だから私は、この話をあなたに渡します。
それでも、あの一冬の記憶があるだけで、私はまだ歩いていけます。
冷たい風の中でも、掌のかけらは、ほんのりと青く光ってくれるのです。
読んでくださって、ありがとうございました。
海は今も、割れたものを黙って磨いています。
私の掌の中で、青いかけらがひとつ、冬の光にまたたきました。
あの手袋のことを、私はときどき思い出します。
片方ずつ分け合えば、冷たさは半分になるのだと、千夏は知っていたのでしょう。
痛みも、きっと同じだったはずなのに。
私は結局、自分の片方を、あの子に渡せませんでした。
せめてこの話を読んでくださったあなたに、伝えたいことがあります。
言いそびれた言葉があるなら、どうか今日のうちに。
波が硝子を磨くほどの時間は、私たちには残されていないのかもしれません。