君のための手話

公開日: ちょっと切ない話 | 恋愛

公園

待ち合わせ場所で彼女を待っていると、ふと目に留まったのは、大学生くらいの若いカップルだった。

男の子が女の子の正面に立ち、何かを必死に伝えるように、両手を忙しなく動かしている。

――手話だった。

その男の子は、ようやく手話を覚えたこと。
覚えるのがとても大変だったこと。
そして、女の子を驚かせたくて、ずっと内緒にしていたことを伝えていた。

女の子は、彼がそんなふうに勉強していたことを知らなかったらしく、本当に驚いた様子で、何度も目を見開いた。

でもすぐに、その驚きは大きな笑顔へと変わった。

嬉しくて仕方がないのだろう。
彼の手を握りしめると、二度、三度と、嬉しそうにその場で跳ねるように飛び跳ねた。

その光景を、俺はほんの少し離れた場所から、ただ静かに見ていた。

悪趣味な盗み見だと分かってはいた。
けれど、その時の俺には、どうしても目をそらせなかった。

手話を覚えたばかりの自分にとって、それはまるで、見知らぬ外国の街角で突然耳にした日本語に、思わず反応してしまうような気持ちだった。

申し訳なさを感じながらも、目の前の光景にどうしようもなく心が惹かれた。

きっと、俺はにやけていたに違いない。
遠くから見たら、ちょっと怪しい人だったかもしれない。

でも、それは本当に心が温かくなるような、微笑ましい風景だった。

服の裾が軽く引っ張られる感覚に振り返ると、そこには彼女が立っていた。

いつの間にか到着していたらしく、俺の様子を見ていたらしい。

「何を見てたの?」
「そんな嬉しそうな顔して」
「もっと早く私に気づきなさいよ」

と、彼女は頬をぷくっと膨らませながら、ものすごい勢いで手話を繰り出してきた。

俺はすぐに手話で「ごめんなさい」と伝えた。

それから、少し昔のことを思い出していただけだと続けた。

彼女は、何のことかと首を傾げた。
知りたそうな顔をして、じっと俺を見つめてくる。

でも、俺は照れくさくなって、笑ってごまかした。

本当はこう伝えたかった。

――今、目の前にいる君を驚かせたくて、必死に手話を勉強していた頃のことを思い出していたんだ。

でも、それはあまりにも照れくさくて、言葉にできなかった。

だから俺は、ただ彼女の手を取って、笑ってみせた。

きっと、あの時の気持ちは、今も変わっていない。
君のために伝えたいことが、まだたくさんあるんだ。

関連記事

暗い道

最後の夜に残された想い

一年間、同棲していた彼が、突然この世を去った。 理由は交通事故だった。 それも、私たちが大喧嘩をした、その日の夜のことだった。 本当に、あまりにも突然すぎて、現実と…

桜

失われた春

あれは今から1年半前、大学3年になったばかりの春のことでした。 大学の授業が終わり、帰り支度をしているときに、携帯電話が鳴りました。 着信画面に映ったのは、彼の親友からの…

赤ちゃんの手

天国に持っていく思い出

「天国にどのシーンを持って行きたい?」と高校生の時、何気なく母に尋ねたことがあります。 「アンタが生まれた瞬間かな」と、母は即答しました。 私たち家族は決して裕福ではあり…

手紙を書く手(フリー写真)

寂しい音

ある書道の時間のことです。 教壇から見ていると、筆の持ち方がおかしい女子生徒が居ました。 傍に寄って「その持ち方は違うよ」と言おうとした私は、咄嗟にその言葉を呑み込みまし…

電車内から見る駅のホーム(フリー写真)

おとうさんという言葉

その日は約束の時間ぎりぎりに、舞浜駅のホームから階段を降りた。 雑踏の中には元妻と、ミニリュックを背負った小学3年生の息子が待っていた。 半年ほど見ない間に一回り大きくなっ…

ビール(フリー写真)

恐かった父

私の父は無口で頑固で本当に恐くて、親戚中が一目置いている人でした。 家に行ってもいつもお酒を飲んでいて、その横で母が忙しなく動いていた記憶があります。 ※ 私が結婚する事にな…

夕焼け(フリー素材)

大きな下り坂

夏休みに自転車でどこまで行けるかと小旅行。計画も、地図も、お金も、何も持たずに。 国道をただひたすら進んでいた。途中に大きな下り坂があって、自転車はひとりでに進む。 ペダル…

アプリコット色の子犬

涙を拭いてくれたハナ

結婚して子どもができた後、ペットショップで、トイプードルでアプリコット色の子犬と出会い、一目惚れした。 子どもの環境にも良いと言い訳して家族に迎えた。 元々はチワワ好きだ…

桜(フリー写真)

優しい彼の嘘

私には付き合って一年の彼氏がいました。 その彼氏(Sとします)には持病があり、心臓を患っていました。 一緒にご飯を食べていると胸を押さえて苦しがったり、偶に倒れたり、何度も…

男の子の横顔

あした かえるね

私の甥っ子は、母親である妹が病気で入院したとき、しばらくの間、私たち家族のもとで過ごすことになりました。 「ままが びょうきだから、おとまりさせてね」 そう言って、小さな…