気付かないふり

その古い電蓄が店先に運ばれてきたのは、潮の匂いが濃く立ちこめる、春先の午後のことでした。

港町の外れで、私は父から継いだ小さな電気店を守っておりました。

店といっても、間口は二間ほど。棚にはトランジスタラジオや真空管が並び、油と埃と、海風の塩が入り混じった匂いが、いつも染みついておりました。

ラジオを直し、レコード盤の針を替え、壊れたものが立てる小さな悲鳴に耳を澄ます。それが私の仕事でした。

父はその年の冬に亡くなり、私は二十四で、この店にひとり残されておりました。

正直に申せば、店を継ぐ自信などありませんでした。

父の手つきを思い出しては、その半分もできない自分に、うんざりしていたころです。

父はこの店を、四十年、ひとりで守ってきました。

不器用な人で、口数も少なく、褒め言葉など一度ももらった覚えがありません。

けれど、直せない機械はないと、町の人はみな父を頼りにしておりました。

「壊れたものにも、まだ鳴りたい音が残っとる。それを聴いてやるのが、俺らの仕事や」

それが、父の口癖でした。

その言葉の意味を、私は父が死ぬまで、本当にはわかっておりませんでした。

葵さんと出会って、私はようやく、その言葉を思い出したのです。

「これ、亡くなった父の形見なんです。もう一度、鳴らせるでしょうか」

そう言って戸口に立っていたのが、葵さんでした。

私より二つ三つ年上の、声のやわらかな人でした。

電蓄を受け取ろうと手を伸ばした時、彼女の指先がふいに宙をさまよいました。

私の手の位置を、探っていたのです。

目が見えていないのだと気づいたのは、その瞬間でした。

私はうろたえて、思わず彼女の手に自分の手を添えました。

手のひらは、冷たい海風に触れたあとのように、少し冷えておりました。

「すみません、そこに段差があります。ゆっくりで大丈夫です」

「ありがとう。慣れているから、平気」

そう言って彼女は笑いました。相手を困らせまいとする、静かな笑みでした。

その笑い方に、私はなぜだか、胸の奥を軽く握られたような心地がしました。

電蓄はずいぶん古い型で、部品はもうどこにも売っておりませんでした。

モーターは焼きつきかけ、盤を回す速度も安定しません。

私は毎晩、作業台に向かい、錆びた接点を一つずつ磨き、断線した配線を丹念にたどりました。

父が遺した道具箱の、使い込まれたドライバーの柄が、手のひらになじんでいきました。

葵さんは三日に一度、様子を見に来ました。

そして、直しかけの機械に耳を近づけて、じっと聴くのです。

「まだ、右の音が眠っているみたい」

彼女はそう言いました。

私には、右も左も、ただの雑音にしか聞こえませんでした。

「どうして、わかるんですか」

「見えないぶん、音がよく見えるの。あなたが直した音は、少しずつ目を覚ましていくのよ」

その言い方が、私にはひどく眩しく思えました。

目の見えない人のほうが、私よりもよほど深く世界を見ている。そんな気がしたのです。

ある日、彼女は私に、音の聴き方を教えてくれました。

「目を閉じてごらんなさい。ほら、遠くで鳴っているのは、漁協の氷を砕く機械の音。その手前が、軒先の風鈴。いちばん近いのが、あなたの息の音」

言われるまま目を閉じると、雑然としていたはずの音が、確かに層になって立ちのぼってきました。

店の匂いさえ、いつもより濃く感じられました。

「すごい。世界って、こんなに音でできていたんですね」

「でしょう。父が、そうやって私に景色を見せてくれたの」

ある晩、彼女は父の思い出を、ぽつりぽつりと話してくれました。

「父はね、この電蓄で古い歌ばかりかけていたの。私の目が見えなくなってからは、毎晩ここに座らせて、音で景色を教えてくれた。あれは海の音、あれは汽笛、あれはお前の泣いている声だって」

彼女は少女のころ、高い熱の出る病で光を失ったのだと、静かに打ち明けました。

その声に湿り気はなく、ただ乾いた砂のように穏やかでした。

「泣かなかったんですか。見えなくなった時」

「泣いたわ。でも、父のほうがもっと泣いていたから、私が泣くのはやめたの」

私はかける言葉を持たず、直しかけの電蓄の埃を、意味もなく拭いておりました。

拭いても拭いても、埃はまた、指の先に薄く積もっていきました。

その帰り道、私は初めて、彼女を家まで送りました。

坂の途中の、古い平屋でした。

玄関を上がると、物という物が、きちんと同じ場所に収まっておりました。

「見えないから、少しでも動くと、わからなくなるの。だから、みんな決まった場所にいてもらうのよ」

棚の上には、父親の写真が、伏せずに立ててありました。

「写真、見えないのに飾るんですね」

「見えなくても、そこにいてくれるだけで、いいの」

私はその言葉を、長いあいだ、忘れられませんでした。

見えることと、そばにいることは、別のものなのだと、彼女に教わった気がしたのです。

帰りぎわ、彼女は湯呑みにお茶を淹れてくれました。

手探りとは思えないほど、こぼさず、まっすぐに注いでくれました。

ほうじ茶の香りが、狭い部屋に、やわらかく広がりました。

夏には、港町の小さな祭りがありました。

私は葵さんの手を引いて、屋台の並ぶ参道を歩きました。

「ここは焼きとうもろこし。その隣が、金魚すくい。水の跳ねる音がするでしょう」

「聞こえる。子どもの笑い声も」

私はラムネを二本買い、一本を彼女の手に握らせました。

「冷たい。ビー玉が、からんって鳴った」

彼女は一口飲んで、少し驚いたように目を見開きました。

「甘い。それに、しゅわしゅわして、鼻の奥がくすぐったい」

その言い方がおかしくて、私は声を上げて笑いました。

やがて、川の向こうで花火が上がりました。

低く、腹に響く音が、地面から立ちのぼってきました。

「見えなくても、この音は好き。胸の真ん中で、光が咲くみたいだから」

彼女はそう言って、空の見えない目を、まっすぐ夜空へ向けました。

私はその手を、そっと握り直しました。

握り返してくる指の力が、返事のように思えました。

火薬の匂いと、川面をわたる風と、遠いお囃子の音。

あの夏の夜のすべてを、私は今も、そらで思い出すことができます。

秋の終わり、大きな時化の夜がありました。

雨戸を叩く風の音がすさまじく、店の看板が、みしみしと軋んでおりました。

停電で、町じゅうの灯りが一斉に消えました。

私はろうそくを灯し、途方に暮れて座り込んでおりました。

そんな時、店の戸を叩く音がしました。

葵さんでした。合羽の裾から、雨の雫が滴っておりました。

「どうして、こんな夜に」

「あなた、停電の日は決まって、お父さんのことを思い出して沈むでしょう。声でわかるの」

私は言葉を失いました。

暗闇の中では、私のほうが、よほど何も見えていなかったのです。

「私、店を継ぐ自信がないんです。父の半分も、できていない」

「半分もできているなら、上等じゃない」

彼女は、暗がりの中で笑いました。

「音でわかるの。あなたの直した機械は、ちゃんと生き返っている。お父さんの音と、同じくらい優しい」

ろうそくの炎が、風で小さく揺れました。

その灯りの中で、私は初めて、この店を守っていけるかもしれないと思えたのです。

雨の匂いと、蝋の匂いと、彼女の濡れた髪の匂いが、ひとつに混ざっておりました。

冬の入り口の、風の強い夜でした。

ようやく直った電蓄を届けたその帰り、私は柄にもなく、彼女を防波堤まで誘いました。

今でも、よくあんな勇気が出たものだと思います。

海は真っ暗で、波の砕ける音だけが、足元から絶え間なく立ちのぼっておりました。

潮の匂いが、いつもより冷たく、鋭く感じられました。

遠くで、汽笛が長く尾を引きました。

「あの汽笛、覚えてる。父が、あれは船が港に帰ってくる合図だって教えてくれた」

「帰る船の音、ですか」

「そう。だからこの音を聞くと、まだ帰る場所があるって、思えるの」

潮を含んだ風が、彼女の髪をひとふさ、さらっていきました。

私はその横顔を見つめながら、胸の奥が痛いほど熱くなるのを感じました。

言うなら、今しかない。そう思いました。

「葵さん。私は、あなたが好きです」

波の音が、一瞬だけ遠のいた気がしました。

彼女はしばらく、黙っていました。

それから、そっと言いました。

「もう少し、近くに来てくれる」

私は言われるまま、一歩、踏み出しました。

彼女の両手が、ゆっくりと私の頬に触れました。

指先が、目のあたりを、頬骨を、唇の輪郭を、確かめるようになぞりました。

その手のひらが思いのほか温かくて、私は不意に、涙がこぼれてしまいました。

泣くのは格好悪いと、いつも彼女に言っていたのに。

声を殺しても、鼻をすする音で、泣いているのは伝わっていたはずです。

けれど彼女は、気付かないふりをしてくれました。

ただ静かに、私の頬を伝う涙を、指の腹でぬぐってくれただけでした。

その夜の潮の匂いを、私はきっと一生忘れません。

年が明けて、彼女に手術の話が持ち上がりました。

角膜の提供者が見つかったのだと、彼女は電話越しに教えてくれました。

声は弾んでいるようで、けれどどこか、怯えてもいました。

「もし見えるようになったら、いちばん最初に、あなたの顔を見たい」

「私の顔なんて、たいしたものじゃありませんよ」

「ううん。もう指で全部覚えたから、答え合わせがしたいの」

手術のため、彼女は遠くの街の病院へ移りました。

彼女が遠くの街へ発つ、前の晩のことでした。

葵さんは店に来て、もう一度、私の顔を指でなぞりました。

「これで、目が覚めなくても、あなたの顔は覚えていられる」

「そんな、縁起でもないことを言わないでください」

「ごめんね。でも、本当のことも、言っておきたかったの」

私は父の遺したレコードを、そっと針に載せました。

彼女の父が、毎晩かけていたという古い歌でした。

歌が流れると、彼女は目を閉じて、小さく口ずさみました。

「この歌のなかでは、父もまだ生きているの。だから、寂しくない」

私はその横顔を、まぶたに焼きつけるように見つめました。

もし彼女の目が開いた時、いちばん優しい顔で迎えてやりたい。ただ、それだけを思っておりました。

窓の外では、遠くの汽笛が、いつものように長く尾を引いておりました。

離れているあいだ、私は毎晩、彼女が置いていった古いレコードを一枚、店でかけました。

けれど針を落とすたび、その盤は少しだけ反っていて、途中で音が跳ねました。

反りをまっすぐに直す技術は、まだ私にはありませんでした。

跳ねた音のたびに、私の胸も、同じように跳ねました。

成功しなかったら彼女はどうなるのか。私は怖くて、調べることもできませんでした。

そんな勇気は、どこを探しても見つかりませんでした。

ただ、汽笛の音を思い出しては、帰る船を待つように、手術の成功を祈り続ける毎日でした。

私は、卓上の暦に、小さな印をつけて日を数えました。

手術まで、あと十日。あと五日。あと三日。

印が近づくほど、指先が冷たくなっていくのがわかりました。

夜、あの反ったレコードをかけると、決まって同じ場所で音が跳ねました。

その跳ねる一瞬が、彼女の目が開くか開かないかの、境目のように思えて、私は何度も針を戻しました。

「頼むから、まっすぐ鳴ってくれ」

誰もいない店で、私はレコードに、そう話しかけておりました。

店の電話が鳴るたびに、私は飛び上がるように受話器を取りました。

けれど、どれも彼女ではありませんでした。

春の初め、彼女は港町へ帰ってきました。

駅の改札を出てきた彼女は、白い杖を持たず、看護師さんの腕に、軽く手を添えているだけでした。

その目が、ふと、まっすぐに私をとらえました。

生まれて初めて、彼女と目が合ったのです。

彼女は立ち止まり、それから駆け出して、私の胸に飛び込んできました。

髪から、遠い街の病院の、消毒液のかすかな匂いがしました。

「やっと、会えた。ずっと、この顔に会いたかった」

「見えて、いるんですね」

「見えてる。あなたが思っていたより、ずっと優しい顔してる」

「手術のあいだ、怖くなかったですか」

「怖かった。でも、あなたに励まされたことを、ずっと思い出していたの。だから、耐えられた」

私はまた、みっともなく泣いてしまいました。

今度は隠すこともできず、声を上げて泣きました。

彼女は私の顔を両手で包んで、涙をのぞき込みました。

そして、いたずらっぽく、けれど自分も震える声で、言ったのです。

「もう、気付かないふりはできないからね」

私はその一言に、これまでの祈りのすべてが、報われた気がしました。

負けないくらい強く、彼女を抱きしめました。

改札の人混みの中で、私たちはしばらく、そうしておりました。

その日の夕方、私は彼女を、あの防波堤へ連れていきました。

彼女が、生まれて初めて自分の目で海を見る場所は、ここがいいと思ったのです。

西日が、海の面を一面、橙色に染めておりました。

彼女は長いあいだ、何も言わずに、その光を見つめておりました。

「どうですか。海は」

「……音で聞いていた海より、ずっと広い。それに、こんなに、まぶしいのね」

彼女の頬を、涙がひとすじ、伝い落ちました。

「父に、見せたかった。この色を」

「きっと、見えていますよ。あなたの目を通して」

汽笛が鳴りました。帰ってくる船の、合図でした。

彼女はその音のするほうへ、まっすぐに顔を向けて、微笑みました。

今度は、音の出どころと、光の見える方角が、彼女の中でひとつに重なったのです。

あれから、季節はいくつも巡りました。

去年の秋、私たちは、あの防波堤で祝言をあげました。

派手なことは、どちらも好きではありませんでした。

汽笛の鳴る海を背に、町の人が少しだけ集まってくれました。

彼女は白い着物を着て、まっすぐに私を見て、笑っておりました。

「今日は、あなたの顔が、いちばんよく見える」

私はまた、こらえきれずに泣いてしまいました。

彼女はもう、気付かないふりはせず、そっと私の涙を、指でぬぐってくれました。

私はあの反ったレコードを、時間をかけて、少しずつまっすぐに直しました。

湿らせ、重しを載せ、また乾かす。父の手帳に残っていた、古いやり方でした。

今では針を落としても、音は跳ねません。

汽笛のあとに続く、古い歌が、部屋いっぱいに、まっすぐ広がります。

彼女はときどき目を閉じて、その音に耳を澄ませます。

「見えるようになっても、やっぱり音のほうが、景色のきれいなときがあるの」

そう言って笑う横顔を、私はもう、いくらでも見ていられます。

あの日、防波堤に立った私たちを照らしていた西日の色を、彼女は今も、ときどき思い出したように話します。

音で聴いた海と、目で見た海。そのどちらもが本物なのだと、彼女は言います。

気付かないふりをしなくていい日々が、こんなにも静かで、あたたかいものだとは、あのころの私は知りませんでした。

店の匂いも、潮の匂いも、あの日のままです。

帰る場所のある船のように、私たちは今日も、この小さな港町で暮らしています。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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