彼女の面影
彼女が痴呆になりました。
以前から物忘れが激しかったが、ある日の夜中に突然、昼ご飯と言って料理を始めた。
更に、私は貴方の妹なのと言ったりするので、これは変だと思い病院へ行ったら、痴呆症だと言われた。
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俺と彼女は結婚する約束をしていた。給料三ヶ月分とは言えないけど、もう指輪も用意していた。
後はこれを渡してプロポーズをするだけだった。
でも、彼女はもう殆ど俺のことを覚えていない。
一人では何も出来なくなり、俺が介護するしかなかった。
仕事も辞め、彼女と二人きりで家に引き篭もって、毎日毎日、俺は彼女の右手を握り続けた。
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やがて貯金も底を付き、いよいよ生きて行くためのお金が無くなった。
その頃から彼女の両親が、
「娘を引き取りたい」
と言ってきた。
彼女の父親に、
「君もまだ若いんだから、これからの人生を生きなよ。娘のことは忘れてくれ」
と言われた。
でも、俺は忘れられなかったよ。新しい職場でも、考えるのはいつも彼女のことばかり。
四六時中、一つのことしか考えられない人間の気持ちは、なかなか理解を得られないと思う。
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一年が経った頃、彼女の実家を訪ねてみた。
でも、家には誰も居なかった。彼女も彼女の両親も、町から消えていた。
彼女の家族が北陸の町で暮らしていることを知り、すぐにそこへ行ったよ。
海沿いの家に住んでいてさ、家に行くと彼女の母親は驚いていたよ。
俺は、
「彼女に渡したい物がある。直接渡したい」
と告げた。そしたら、
「海で待っててください」
と彼女の母親は言って奥に消えたよ。
※
浜辺で待っていると、寝巻き姿の彼女を母親が連れて来てさ。
彼女の姿はもう、酷かったよ。言葉に出来ないほどに。
俺と彼女は浜辺に二人で座った。彼女の母親は気を利かせてくれたのか、どこかへ行った。
彼女は何やら訳の解らないことばかり言っていたよ。
何だったかな。
「世界一遠くて近い場所」とか「音の響きが聞こえない」とか、そんなことだ。
※
俺は彼女の左手を持って、ポケットからある物を取り出した。
彼女の誕生石であるエメラルドの指輪だ。
俺がそっとそれを填めてやると、彼女は嬉しそうな表情をした後、暫く黙り、そして泣いた。
自分でも何で泣いたのか解らないみたいだった。
それを見ていたら俺も泣けてきちゃった。
俺は彼女を抱き締めておいおい泣いたよ。
多分、二時間ほどそうしていたんじゃないかな。
彼女に少し強く抱き締められているような気がしたよ。