音叉を耳元で鳴らすと、いまでも、彼女の指がそっと鍵盤に降りる、あの音が聞こえてくる気がします。澄んだ振動が空気に溶けていくほんの一瞬に、私は何度でも、あの春の午後へと連れ戻されるのです。
私は調律師です。一日中、ピアノの狂いを、ただ黙って聴いている。長くこの仕事をしていると、人より少しだけ、失われていくものや、聞こえなくなっていくものに、敏感になるのかもしれません。
彼女のことを話すには、初めて彼女のピアノに触れた、あの古い音楽教室の午後まで、時間を戻さなければなりません。
※
出会いは、街外れにある、蔦の絡んだ古い音楽教室でした。そこに、もう誰のものでもなくなった、一台のアップライトピアノが置かれていました。
持ち主だった老婦人が亡くなり、その姪だという彼女が、形見のピアノの調律を頼んできたのです。少し癖のある、けれど芯のある音のするピアノでした。
「祖母みたいに上手には、とても弾けないんですけど」と、彼女は鍵盤を撫でながら、はにかむように言いました。指の先が、どこか所在なげに揺れていたのを覚えています。
私が半日かけて音を整え終えると、彼女は椅子に座り、ためらいがちに、一つの旋律を奏で始めました。それは、ひどく拙くて、けれど、まっすぐで、嘘のない音でした。
「どうですか、この子の調子は」と、彼女が肩越しに振り返ります。
「いい音です。あなたの弾き方が、優しいからでしょう」と、私は思わず正直に答えてしまいました。職人としての評価ではなく、ただ、そう感じたままを口にしていたのです。
彼女は耳まで赤くして、それから、こらえきれないように、声を上げて笑いました。その笑い声の余韻が、私の中で、ずいぶん長いあいだ、消えずに残っていました。
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それから、私たちは少しずつ、近づいていきました。彼女は昼間、図書館で本の整理をして、夜になると、あの古いピアノを弾きに教室へ来るのでした。
私は仕事の帰りに教室へ寄り、後ろの椅子で、彼女の練習をそっと聴くようになりました。うまく弾けない箇所にさしかかると、彼女はいつも、ふっと肩をすくめて、照れたように笑うのです。
「先生に聴かれてると思うと、緊張しちゃう」と、彼女が鍵盤の上で手を止めます。
「私は先生ではありません。ただの、音を直す人です」と、私は答えました。
「じゃあ、いつか私の音も、直してくれますか」と、彼女はいたずらっぽく微笑みました。
「あなたの音は、直すところなんて、どこにもありませんよ」
そんな、他愛もない言葉のやりとりが、私には、一日のうちで何より大切な時間になっていました。雨の夜も、雪の降る晩も、私はあの教室の灯りを目指して歩きました。
季節がひとつ巡るころには、私はもう、彼女のいない夜を、うまく想像できなくなっていたのです。
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夏の終わりに、二人で、海辺の町の小さな音楽祭へ出かけたことがありました。古い教会で、地元の人たちが、たどたどしくピアノやヴァイオリンを奏でる、ささやかな催しでした。
演奏が終わると、彼女は潮風の中で、目を細めて言いました。「上手でも下手でもなくて、ただ、好きで弾いてるって、伝わってくるね。ああいう音が、わたしは好き」
その横顔を見ながら、私は、この人とずっと一緒にいたい、と、はっきり思ったのです。波の音が、まるでその気持ちを後押しするように、足元で繰り返し砕けていました。
帰りの列車で眠ってしまった彼女の、私の肩にもたれた頭の重みを、いまでも覚えています。あの重みこそが、私の幸福のかたちでした。
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彼女には、繰り返し弾こうとする、一つの旋律がありました。亡くなったおばあさまが、子守唄がわりに教えてくれたという、古い、名もない短い曲です。
「これだけは、ちゃんと弾けるようになりたいの」と、彼女はよく言っていました。「おばあちゃんが、わたしのために作ってくれた、たった一つの曲だから」
何度つかえても、彼女はその子守唄を、根気強く、最初から弾き直しました。私はその音を、誰よりもそばで、聴き続けていました。
いつか、その曲を完璧に弾き終えた日に、指輪を渡そう。私は、ひそかにそう決めていたのです。
私は、指輪を用意しました。彼女の誕生石である、淡い水色のアクアマリンを、小さな台座にあしらった、ごく控えめな指輪です。
派手なものは、きっと彼女には似合わない。あの海辺の朝の空のような色を、私は選びました。渡すなら、彼女がいちばん好きな曲を弾き終えた、あの満ち足りた一瞬がいい。そう、心に決めていました。
けれど私は、その機会を、永遠に逃すことになります。ちょうどそのころから、彼女の様子が、少しずつ、おかしくなっていったのです。
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最初は、本当に些細なことでした。練習に来る曜日を間違える。さっき弾いたばかりの曲を、もう一度、初めてのように弾き始める。
「あれ、わたし、これ、もう弾いたっけ」と、彼女は不思議そうに首をかしげました。私は、少し疲れているのだろうと、そのときは軽く考えていました。
けれど、ある冬の夜のことです。彼女が突然、深夜に私の部屋を訪ねてきて、こう言ったのです。「お昼ごはん、まだ作ってなかったよね。今から、作るね」
時計の針は、午前二時を指していました。私が「もう真夜中だよ」と言うと、彼女はきょとんとして、それから、私の顔をまじまじと見て、言いました。
「ねえ……あなた、どなたでしたっけ」
その一言で、私の背筋を、冷たいものが、すうっと走り抜けていきました。窓の外では、粉雪が、音もなく降り続けていました。
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病院での診断は、若年性の認知症でした。医師は、進行を完全に止めることはできないと、できるだけ穏やかに、けれどはっきりと、告げました。
私はまだ、彼女に指輪を渡していませんでした。プロポーズの言葉さえ、伝えられていなかった。それなのに、彼女の記憶は、私が両手で砂を握るよりもずっと速く、指の間からこぼれ落ちていったのです。
やがて彼女は、一人では、ほとんど何もできなくなりました。私は調律の仕事を半分に減らし、彼女の家で過ごす時間を増やしていきました。
彼女の右手を握って、ただ、隣に座っている。気がつけば、それが私の一日のすべてになっていました。手のひらの温もりだけが、私たちを繋ぐ、最後の糸のようでした。
ときどき、彼女はあの古いピアノの前に座り、鍵盤にそっと指を置きました。けれど、もう、旋律にはなりませんでした。ばらばらの音が、ぽつり、ぽつりと、静かな部屋に落ちていくだけです。
それでも私は、その不揃いな音を、世界でいちばん美しい音楽だと思って、目を閉じて聴いていました。
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日々の介護は、けっして、きれいごとばかりではありませんでした。食事をこぼし、夜中に何度も目を覚まし、私を別の誰かと取り違えて怯えることもありました。
それでも私は、彼女の髪を梳かし、冷たくなった指を一本ずつ温めるたびに、不思議と、満たされた気持ちになるのでした。誰かをこれほど深く想える幸福を、私はそれまで知らなかったのです。
「ごめんね、こんなになっちゃって」と、ごくたまに、彼女が正気に戻ったように、つぶやくことがありました。
「謝らないでください。あなたがそこにいてくれるだけで、私は十分です」と、私はそのたびに答えました。
「ねえ」と、ある晴れた日の午後、彼女がふいに私を見て言いました。「あなたのこと、わたし、知ってる気がする。どこかで、会ったよね。どこだったかな」
「春の、音楽教室です」と、私は答えました。「あなたのおばあさまの、ピアノを直したんですよ」
「そう。春の……音楽教室……」と、彼女は確かめるように繰り返し、それきり、糸がふつりと切れたように、黙ってしまいました。
覚えていてくれた、わずか一瞬の光は、すぐにまた、深い闇へと紛れていきました。それでも私は、その一瞬のために、何時間でも待っていられる気がしました。
私は、彼女の好きだった曲の録音を、毎日、部屋に流しました。音楽が流れているあいだだけ、彼女は不思議と穏やかな顔をして、窓の外の空を、いつまでも眺めていました。
その横顔の中に、私は、初めて会った日の面影を、必死で探し続けていました。
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半年が過ぎたころ、私の貯金は、とうとう底をつきました。仕事を減らした分、暮らしは少しずつ、立ち行かなくなっていったのです。
そのころ、長く疎遠だった彼女のご両親が、遠い海沿いの町から、訪ねてきました。お父さんは、深く頭を下げてから、絞り出すように言いました。
「娘を、私たちのところで看たい。君は、まだ若い。これからの人生が、いくらでもある。どうか娘のことは、もう、忘れてやってくれないか」
その言葉に、悪意はありませんでした。むしろ、見ず知らずに近い私を思いやる、親としての、精一杯の優しさでした。だからこそ、私は、何一つ、言い返すことができませんでした。
彼女は、ご両親に手を引かれて、海沿いの町へと、去っていきました。別れの日、彼女は私に向かって、小さく手を振りました。まるで、通りすがりの知らない人に、挨拶でもするみたいに。
その手の振り方が、いつまでも、私の胸に刺さって抜けませんでした。
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それから一年、私は、彼女のいない町で、また調律の仕事に戻りました。けれど、どんなに丁寧に音を整えても、私自身の中の、欠けてしまった一音だけは、どうしても戻りませんでした。
机の引き出しの奥には、渡せなかったアクアマリンの指輪が、ずっと、静かに眠っていました。ときどき取り出しては、海の色をした石を、ただ、見つめていました。
ある朝、私はとうとう、その指輪をポケットに入れ、海沿いの町へ向かう、始発の列車に乗りました。渡したい。直接、この手で。たとえ、彼女がもう、私を覚えていなくても。
列車の窓を、景色が、後ろへ後ろへと流れていきます。その一つひとつが、彼女と過ごした日々のように思えて、私は、何度も目頭を押さえました。
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彼女の家は、潮の香りの濃い、小さな漁村の外れにありました。訪ねると、お母さんが、驚いた顔で、私を迎えてくれました。
「彼女に、どうしても渡したいものがあるんです。一目だけ、ほんの一目だけで構いません。会わせていただけませんか」と、私は玄関先で、深く頭を下げました。
お母さんは、しばらく黙って私を見ていましたが、やがて、静かに言いました。「……浜で、待っていてください。連れていきますから」
私は、冷たい風の吹く浜辺で、寄せては返す波の音を聞きながら、彼女を待ちました。灰色の空の下、海だけが、変わらずそこにありました。
やがて、寝間着の上に厚い上着を羽織った彼女が、お母さんに付き添われて、砂を踏みしめながら、ゆっくりと歩いてきました。
一年で、彼女は、すっかり変わっていました。痩せて、表情は薄く、その視線は、どこか遠い沖のあたりを、あてもなく漂っていました。
お母さんは、気を利かせてくれたのか、私たち二人を浜辺に残して、そっと家のほうへ戻っていきました。
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私と彼女は、二人並んで、冷たい砂の上に腰を下ろしました。彼女は、訳の分からないことを、ぽつり、ぽつりと、つぶやいていました。
「ここはね、世界でいちばん、遠くて、近い場所なの」と、彼女は海を見て言いました。
「音がね、響かないの。海の音は、ちゃんと聞こえるのに、わたしの音だけ、どこにも響かないの」
私は、その言葉の意味を、問い返しはしませんでした。ただ、深くうなずいて、彼女の隣で、同じ海を見ていました。
すると彼女は、波の音にまぎれて、小さく、何かを口ずさみ始めました。たどたどしい、けれど確かに、あの子守唄の旋律でした。
名前も、私のことも忘れてしまった彼女が、おばあさまの曲だけは、まだ覚えていたのです。私は、声を失いました。
そして、彼女の左手を、そっと、両手で包みました。あの、ピアノを優しく弾いていた、細くて、温かい指です。
私は、ポケットからアクアマリンの指輪を取り出し、その薬指に、震える手で、ゆっくりとはめました。海の色をした小さな石が、曇り空の下で、淡く、けれど確かに、光りました。
※
彼女は、自分の指にはまった指輪を、しばらく、じっと見つめていました。
それから、ふいに、ぽろぽろと、大粒の涙を、こぼし始めたのです。声も上げず、ただ、静かに、とめどなく。
自分でも、どうして泣いているのか、分からないようでした。記憶を失っても、心のいちばん奥に、ほどけずに残っているものが、あるのかもしれません。
その涙を見ていたら、私も、もう、こらえきれませんでした。私は、彼女の細い肩を、そっと抱き寄せました。
波の音だけが、二人を、やわらかく包んでいました。どれくらい、そうしていたでしょう。たぶん、二時間ほどだったと思います。
腕の中で、彼女が、ほんの少しだけ、私を抱き返してくれたような気がしました。言葉も、名前も、もう、何も要りませんでした。
その腕の、かすかな力の中に、あの春の午後の面影が、確かに、まだ、生きていたのです。
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去年の春、私は一人で、もう一度あの海辺の町を訪ねました。彼女がどうしているのかは、ここには書きません。ただ、あの浜辺だけは、何も変わらずに、そこにありました。
私は、波打ち際に立ち、目を閉じて、あの子守唄を、小さく口ずさんでみました。風が、その頼りない旋律を、沖のほうへと運んでいきます。
砂浜にしゃがんで、私は、貝殻を一つ拾いました。彼女が好きだった、淡い水色をした、小さな貝殻です。あのアクアマリンと、同じ色をしていました。
それをポケットにしまって、私は、来た道を引き返しました。胸の奥が、痛いほど締めつけられて、それでいて、なぜか、温かいのです。
愛するということは、相手に覚えていてもらうことではないのだと、いまの私は知っています。たとえ忘れられても、こちらが覚えている限り、その人は、確かに生きている。
音は、すぐに聞こえなくなりました。けれど、消えたわけではないのです。私はそう信じています。どこか、世界でいちばん遠くて近い場所で、彼女が、その続きを弾いてくれている。そんな気が、するのです。
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あれから、ずいぶんと、年月が流れました。私はいまも、人のピアノの音を整えながら、一人で暮らしています。
道具箱の隅には、あの日の音叉が、一本だけ、入っています。仕事の合間に、ときどき、それをそっと鳴らしてみるのです。
澄んだ音が、すうっと空気に溶けて、やがて、耳には聞こえなくなります。けれど、聞こえなくなったあとも、その振動は、確かにそこに、残り続けているのです。
目には見えず、耳にも届かず。それでも、決して、消えてはいない。彼女の面影も、きっと、そういうものなのだと、私はいま、静かに思っています。
音叉を握りしめると、いまでも、彼女の指が鍵盤にそっと降りる、あの優しい音が、私の胸の奥で、確かに聞こえてくるのです。