付き合って三年になる彼女に、ある日とつぜん別れを告げられました。
「ほかに好きな人ができたの。ごめんね」
喫茶店のテーブルで、彼女はそれだけ言うと、伝票を残して先に出ていきました。
私はしばらく、冷めていくコーヒーを見ていることしかできませんでした。
信じられませんでした。その前の週まで、私たちは何ひとつ変わらず、笑い合っていたのです。
私は時計の修理を仕事にしています。城下町の外れにある、間口の狭い小さな店です。父から受け継いだ、古い作業台と、拡大鏡と、無数の小さな工具。それだけが私の世界でした。
彼女、真澄さんと出会ったのも、その店でした。
※
三年前の春、彼女は一本の腕時計を持って、店に入ってきました。
「これ、直せますか。祖母の形見なんです」
文字盤の古びた、小さな婦人ものの時計でした。長いあいだ止まったままだったのでしょう。針は、三時十五分を指したまま動きませんでした。
「時間はかかりますが、必ず動かします」
私がそう言うと、彼女はほっとしたように微笑みました。その笑顔を、今でもよく覚えています。
時計を直すあいだ、彼女は何度も店に通ってきました。修理の進み具合を聞きに来ているのか、それとも別の理由なのか、私にはわかりませんでした。
「まだ、直りませんか」
彼女は、そう言いながら、いつも作業台の前の丸椅子に腰かけて、私が工具を動かすのを、飽きずに眺めていました。
「そんなに、おばあさまの時計が大事ですか」
「大事です。祖母が、いつも左手につけていましたから。祖母の時間そのものみたいで」
止まった時計を、大切に抱えてくる人でした。あとになって思えば、彼女は、時間というものの重さを、誰よりもよく知っていたのかもしれません。
やがて時計が動きだしたころには、私たちは、時計とは関係なく会うようになっていました。
真澄さんは、町の図書館で働いていました。物静かで、少し意地っぱりで、けれど笑うと、目もとがふっとやわらかくなる人でした。
「あなたの手、好き」
あるとき、彼女がそう言いました。
「小さいものを、こわさないように扱う手だから」
私は照れて、うまく返事ができませんでした。ただ、この人と、ずっと一緒にいたいと、そのとき静かに思ったのです。
つき合いはじめてからの日々を、私は今でも、ひとつひとつ数えることができます。
夏には、二人で城跡の石垣にのぼって、町のむこうに沈む夕日を眺めました。彼女は膝を抱えて、いつまでも黙って空を見ていました。
「時計って、どうして時間を計れるの」
あるとき、彼女がそう聞きました。私は、ぜんまいや歯車の仕組みを、身ぶりをまじえて話しました。彼女は、わかったようなわからないような顔で、それでも楽しそうに聞いてくれました。
「じゃあ、止まった時計は、どうなるの」
「手をかけてやれば、また動く。ほとんどの時計は、そうなんだ」
「ふうん」
彼女は、そのとき、なぜか少しさびしそうな顔をしました。今にして思えば、あれは、自分の心臓のことを、考えていたのかもしれません。
秋には、彼女の作ったお弁当を持って、遠くの海まで足をのばしました。潮の香りのなかで、二人で並んで、冷たいおにぎりを食べました。あんなに何でもない一日が、こんなにも遠く、まぶしく思い出されるとは、あのころは思いもしませんでした。
その海辺で、彼女は一度だけ、こんなことを言いました。
「もし、私が急にいなくなっても、あなたは、ちゃんと前を向いてね」
私は笑って、縁起でもないことを言うな、とたしなめました。彼女も、それきり笑って、話はそこで終わりました。
あの言葉が、あんな意味を持っていたのだと気づいたのは、ずっとあとになってからのことです。彼女はあのころ、すでに、自分の体のことを、静かに覚悟していたのかもしれません。
※
だからこそ、あの別れが、どうしても飲み込めませんでした。
電話をかけても、着信は拒否されていました。図書館へ行っても、彼女はいつも席をはずしていました。
やがて、彼女が図書館を辞めたと聞きました。
徹底的に、避けられていました。まるで、私という人間を、自分の人生からきれいに消してしまおうとするかのように。
私は打ちのめされ、そして、仕事にのめり込みました。朝から晩まで、小さな歯車の世界に閉じこもって、余計なことを考えないようにしていました。
どれだけ小さな部品を並べても、彼女の残した言葉の意味だけは、どうしても組み上がりませんでした。
あんなに穏やかだった人が、なぜ、あんなにあっさりと去っていったのか。私のどこが、いけなかったのか。夜になると、答えの出ない問いばかりが、頭のなかで空回りしました。
半年が過ぎるころには、彼女のことを、少しずつ思い出さない日も増えていました。
※
そんなある日、店の電話が鳴りました。
知らない番号でした。出てみると、若い女性の声で、こう言われました。
「姉が、あなたに会いたがっています」
真澄さんの、妹さんでした。
後日、私は、妹さんと病院の廊下で会いました。姉によく似た、けれど、もっと快活な人でした。
「姉は、あなたのことを話すとき、いつも少しだけ、得意そうでした」
妹さんは、そう言って、目もとをぬぐいました。
「あの人の手は、こわれたものを直すのが仕事なんだって。私の壊れた時計も、きっと直してくれるって。……姉は、そう言っていたんです」
その言葉に、私は、返す言葉を失いました。彼女は、心のどこかで、私に直してほしかったのかもしれません。自分の、止まりかけた時間を。
「姉のこと、これから、きっと大変だと思います」
妹さんは、まっすぐ私を見て言いました。
「それでも、そばにいてくれますか」
私は、迷わずうなずきました。
「直しかけの時計を、途中で放り出す職人が、どこにいますか」
妹さんは、くしゃりと顔をゆがめて、それから、深く頭を下げました。
言葉の意味を、すぐには理解できませんでした。会いたがっている。別れを告げたのは、彼女のほうなのに。
妹さんは、少しためらってから、静かに続けました。
「姉は、心臓の病気なんです。ずっと前から」
息が、止まるかと思いました。
真澄さんは、生まれつき心臓に重い病を抱えていたのだそうです。だましだまし暮らしてきたけれど、一年ほど前から急に悪くなった。手術をしなければ、もう長くはもたない。けれど、その手術も、成功する確率は五分五分だと。
「姉が入院したのは、あなたと別れた、すぐあとでした」
妹さんの声が、わずかに震えていました。
「あなたに、迷惑をかけたくなかったんです。自分のことで、あなたの人生を、めちゃくちゃにしたくないって。だから、わざと嫌われようとしたんです」
ほかに好きな人ができた。あの言葉は、嘘だったのです。
私を突き放すために、彼女は、いちばん嫌われる嘘を、わざわざ選んだのでした。
電話を切ったあと、私はしばらく、作業台の前から動けませんでした。
あの日、喫茶店で伝票を残して出ていった彼女の、まっすぐな背中を思い出しました。あれは、私に追いかけさせないための、精いっぱいの強がりだったのです。
やさしさというには、あまりに不器用で、あまりに一人よがりな。けれど、それが彼女の、精いっぱいの愛し方だったのだと、私はようやく気づきました。
※
私は店を閉め、その足で病院へ走りました。
教えられた病室は、面会も制限された、特別な区画にありました。ガラス越しにしか、会うことができません。
ガラスの向こうのベッドに、真澄さんはいました。
半年見ないあいだに、彼女はずいぶん痩せて、白いシーツのなかに、今にも溶けて消えてしまいそうでした。
私の姿に気づいた彼女は、大きく目を見開き、それから、はっきりと顔をそむけました。
「帰って」
ガラス越しの、くぐもった声でした。
「なんで来たの。もう、関係ないでしょう」
私は、こみ上げるものを抑えきれませんでした。
「関係ないわけ、ないだろう」
気づけば、大きな声が出ていました。
「なんで、一人で抱え込んだんだ。俺は、そんなに頼りなかったか」
彼女は、そむけた横顔のまま、答えませんでした。ただ、握りしめた手の甲が、小さく震えていました。
意地をはっているのだと、すぐにわかりました。この期に及んで、まだ、私を巻き込むまいとしているのです。
その頑なさが、愛おしくて、そして、どうしようもなく悲しくて、私はガラスに額を押し当てて泣きました。
ガラスは、冷たく、かたく、私と彼女のあいだを、どこまでも隔てていました。
それでも私は、その冷たいガラスに手のひらを当てて、言いました。
「明日も来る。あさっても来る。おまえが何と言おうと、来るからな」
彼女は、答えませんでした。けれど、そむけた頬を、一筋の涙がつたっていくのが、ガラス越しにも見えました。
※
その日から手術までの二週間、私は毎日、病院に通いました。
けれど彼女は、かたくなに、私のほうを見ようとはしませんでした。
それでも私は、通うのをやめませんでした。ガラスの前に立って、たわいもない話をし、返事がなくても、また明日、と言って帰る。その繰り返しでした。
店であったこと、直した時計のこと、町のうわさ。私は、ひとりで話し続けました。
三日目に、彼女がほんの少し、こちらを向きました。四日目に、私の話に、小さくうなずきました。五日目には、ぽつりと、
「……ばかみたい」
とだけ、言いました。それが、半年ぶりに聞いた、彼女の私への言葉でした。
その一言が、どれほどうれしかったか。私は帰り道、誰もいない夜道で、声をあげて泣きました。
六日目には、彼女のほうから、小さな声で話しかけてくれました。
「お店、開けてなくて、大丈夫なの」
それは、半年前まで、毎日のように交わしていた、なんでもない会話でした。けれど私には、世界じゅうのどんな言葉より、あたたかく響きました。
「大丈夫だよ。時計は、待っててくれるから」
「時計は待ってくれても、お客さんは待ってくれないでしょう」
意地っぱりで、心配性で、やっぱり彼女は、私の知っている真澄さんでした。私は、この人が生きて、こうして憎まれ口をたたいてくれることの幸せを、かみしめました。
手術の前夜、私は、あの時計を持っていきました。彼女が最初に店へ持ってきた、祖母の形見の、あの腕時計です。別れたあと、修理代を受け取りに来ないまま、店に残されていたものでした。
ガラス越しに、私はその時計を掲げて見せました。
「これ、預かったままだった。退院したら、受け取りに来てくれ」
彼女は、ちらりとこちらを見て、そして、初めて、ほんの少しだけ、うなずいたように見えました。
※
手術は、朝から始まり、昼を過ぎても終わりませんでした。
私は手術室の前の廊下で、あの時計を握りしめて、ただ待ちました。
手のひらのなかで、秒針が、こつ、こつ、と時を刻んでいます。その規則正しい音だけが、私をかろうじて、正気につなぎとめていました。
どうか、この針が、彼女の心臓の代わりに、動き続けてくれますように。
私は、意味のないことだとわかっていながら、そう祈らずにはいられませんでした。時計の針と、手術室のなかの彼女の鼓動が、どこか遠くでつながっているような気がして、私はただ、その小さな音に、すがっていたのです。
手術は、成功しました。
けれど、油断はできないと医師は言いました。しばらくは、慎重に経過を見なければならない、と。
私は、それからも毎日、通い続けました。そして、彼女は、ゆっくりと、けれど確かに、回復していったのです。
回復に向かってもなお、彼女は、ときおり頑なな顔を見せました。私の負担になることを、心から恐れているようでした。
「私といたら、あなたは、ずっと心配ばかりすることになる」
あるとき、彼女がそう言いました。私は、首を横に振りました。
「心配できる相手がいることが、どれだけ幸せか。おまえは、わかってない」
彼女は、それきり、黙りこみました。けれど、その目もとが、少しだけ、やわらいだのがわかりました。
※
退院の日が来ました。
私は、あの時計を持って、彼女を迎えに行きました。
「退院、おめでとう」
時計を差し出すと、彼女は、両手でそっと受け取りました。文字盤のなかで、針は、今はもう、きちんと時を刻んでいます。
「もう、意地をはらなくていい」
私は言いました。
「これからのことは、全部知ったうえで、そばにいたいんだ。俺と、一緒に生きてくれないか」
彼女は、しばらく時計を見つめていました。
それから、顔を上げて、涙でいっぱいの目で私を見ました。
「私、これから先も、どうなるか、わからないんだよ」
「知ってる」
私はうなずきました。
「知ったうえで、言ってる」
彼女の肩が、震えました。
「……ばかね」
「ああ。俺は、ばかだよ」
私は彼女を抱きしめました。腕のなかの彼女は、驚くほど軽くて、けれど、その胸のおくで、心臓が、確かに、力づよく打っていました。
止まっていた時計が、また動きだしたときと、同じ音でした。
私の両親は、はじめ、この結婚に反対しました。体の弱い相手と、これから先、どうやって生きていくのか、と。
けれど、私の決意が変わらないと知ると、最後には、静かに折れてくれました。式の日、母は、真澄さんの手をとって、ただ、ありがとう、ありがとう、と繰り返していました。
真澄さんの両親は、私の手を、両手で強く握って、頭を下げました。
「こんな体の娘を、もらってくれて、ありがとう」
私は、とんでもない、と首を振りました。もらったのは、私のほうです。あきらめかけていた時間を、もう一度、動かしてもらったのは。
結婚してから、真澄さんは、あの祖母の時計を、毎日つけるようになりました。
「これをつけていると、祖母と、あなたと、二人に守られてる気がするの」
手首の細い彼女が、そう言って笑うのを見るたびに、私は、あの日、店を飛び出して病院へ走った自分を、心のなかでそっとほめてやりたくなるのです。
※
あれから、三年が過ぎました。
真澄さんは、今も無理のきかない体ですが、あいかわらず意地っぱりで、私はすっかり、その尻に敷かれています。
店の作業台には、いつも二つのお茶が並ぶようになりました。
朝、店を開けると、彼女が、少し眠そうな顔でお茶をいれてくれます。私は拡大鏡をのぞき、彼女はそのとなりで、静かに本を読んでいます。
ただ、それだけの時間が、どれほど得がたいものか。一度それを失いかけた私には、痛いほどよくわかるのです。
ときどき、彼女はふと手を止めて、私の手もとをのぞきこみます。
「その手が、私を直してくれたんだよね」
そう言って、いたずらっぽく笑うのです。私は、照れくさくて、いつもうまく返事ができません。
時計は、放っておけば、いつか必ず止まります。けれど、誰かが手をかけてやれば、また動きだす。
人の縁も、きっと同じなのだと思います。一度は止まりかけた私たちの時間を、もう一度動かしてくれたのは、あの、痩せた手が握りしめていた、小さな意地だったのですから。
私は今日も、拡大鏡をのぞきこみ、誰かの止まった時間を、そっと動かしています。