彼女に振られた理由

付き合って三年になる彼女に、ある日とつぜん別れを告げられました。

「ほかに好きな人ができたの。ごめんね」

喫茶店のテーブルで、彼女はそれだけ言うと、伝票を残して先に出ていきました。

私はしばらく、冷めていくコーヒーを見ていることしかできませんでした。

信じられませんでした。その前の週まで、私たちは何ひとつ変わらず、笑い合っていたのです。

私は時計の修理を仕事にしています。城下町の外れにある、間口の狭い小さな店です。父から受け継いだ、古い作業台と、拡大鏡と、無数の小さな工具。それだけが私の世界でした。

彼女、真澄さんと出会ったのも、その店でした。

三年前の春、彼女は一本の腕時計を持って、店に入ってきました。

「これ、直せますか。祖母の形見なんです」

文字盤の古びた、小さな婦人ものの時計でした。長いあいだ止まったままだったのでしょう。針は、三時十五分を指したまま動きませんでした。

「時間はかかりますが、必ず動かします」

私がそう言うと、彼女はほっとしたように微笑みました。その笑顔を、今でもよく覚えています。

時計を直すあいだ、彼女は何度も店に通ってきました。修理の進み具合を聞きに来ているのか、それとも別の理由なのか、私にはわかりませんでした。

「まだ、直りませんか」

彼女は、そう言いながら、いつも作業台の前の丸椅子に腰かけて、私が工具を動かすのを、飽きずに眺めていました。

「そんなに、おばあさまの時計が大事ですか」

「大事です。祖母が、いつも左手につけていましたから。祖母の時間そのものみたいで」

止まった時計を、大切に抱えてくる人でした。あとになって思えば、彼女は、時間というものの重さを、誰よりもよく知っていたのかもしれません。

やがて時計が動きだしたころには、私たちは、時計とは関係なく会うようになっていました。

真澄さんは、町の図書館で働いていました。物静かで、少し意地っぱりで、けれど笑うと、目もとがふっとやわらかくなる人でした。

「あなたの手、好き」

あるとき、彼女がそう言いました。

「小さいものを、こわさないように扱う手だから」

私は照れて、うまく返事ができませんでした。ただ、この人と、ずっと一緒にいたいと、そのとき静かに思ったのです。

つき合いはじめてからの日々を、私は今でも、ひとつひとつ数えることができます。

夏には、二人で城跡の石垣にのぼって、町のむこうに沈む夕日を眺めました。彼女は膝を抱えて、いつまでも黙って空を見ていました。

「時計って、どうして時間を計れるの」

あるとき、彼女がそう聞きました。私は、ぜんまいや歯車の仕組みを、身ぶりをまじえて話しました。彼女は、わかったようなわからないような顔で、それでも楽しそうに聞いてくれました。

「じゃあ、止まった時計は、どうなるの」

「手をかけてやれば、また動く。ほとんどの時計は、そうなんだ」

「ふうん」

彼女は、そのとき、なぜか少しさびしそうな顔をしました。今にして思えば、あれは、自分の心臓のことを、考えていたのかもしれません。

秋には、彼女の作ったお弁当を持って、遠くの海まで足をのばしました。潮の香りのなかで、二人で並んで、冷たいおにぎりを食べました。あんなに何でもない一日が、こんなにも遠く、まぶしく思い出されるとは、あのころは思いもしませんでした。

その海辺で、彼女は一度だけ、こんなことを言いました。

「もし、私が急にいなくなっても、あなたは、ちゃんと前を向いてね」

私は笑って、縁起でもないことを言うな、とたしなめました。彼女も、それきり笑って、話はそこで終わりました。

あの言葉が、あんな意味を持っていたのだと気づいたのは、ずっとあとになってからのことです。彼女はあのころ、すでに、自分の体のことを、静かに覚悟していたのかもしれません。

だからこそ、あの別れが、どうしても飲み込めませんでした。

電話をかけても、着信は拒否されていました。図書館へ行っても、彼女はいつも席をはずしていました。

やがて、彼女が図書館を辞めたと聞きました。

徹底的に、避けられていました。まるで、私という人間を、自分の人生からきれいに消してしまおうとするかのように。

私は打ちのめされ、そして、仕事にのめり込みました。朝から晩まで、小さな歯車の世界に閉じこもって、余計なことを考えないようにしていました。

どれだけ小さな部品を並べても、彼女の残した言葉の意味だけは、どうしても組み上がりませんでした。

あんなに穏やかだった人が、なぜ、あんなにあっさりと去っていったのか。私のどこが、いけなかったのか。夜になると、答えの出ない問いばかりが、頭のなかで空回りしました。

半年が過ぎるころには、彼女のことを、少しずつ思い出さない日も増えていました。

そんなある日、店の電話が鳴りました。

知らない番号でした。出てみると、若い女性の声で、こう言われました。

「姉が、あなたに会いたがっています」

真澄さんの、妹さんでした。

後日、私は、妹さんと病院の廊下で会いました。姉によく似た、けれど、もっと快活な人でした。

「姉は、あなたのことを話すとき、いつも少しだけ、得意そうでした」

妹さんは、そう言って、目もとをぬぐいました。

「あの人の手は、こわれたものを直すのが仕事なんだって。私の壊れた時計も、きっと直してくれるって。……姉は、そう言っていたんです」

その言葉に、私は、返す言葉を失いました。彼女は、心のどこかで、私に直してほしかったのかもしれません。自分の、止まりかけた時間を。

「姉のこと、これから、きっと大変だと思います」

妹さんは、まっすぐ私を見て言いました。

「それでも、そばにいてくれますか」

私は、迷わずうなずきました。

「直しかけの時計を、途中で放り出す職人が、どこにいますか」

妹さんは、くしゃりと顔をゆがめて、それから、深く頭を下げました。

言葉の意味を、すぐには理解できませんでした。会いたがっている。別れを告げたのは、彼女のほうなのに。

妹さんは、少しためらってから、静かに続けました。

「姉は、心臓の病気なんです。ずっと前から」

息が、止まるかと思いました。

真澄さんは、生まれつき心臓に重い病を抱えていたのだそうです。だましだまし暮らしてきたけれど、一年ほど前から急に悪くなった。手術をしなければ、もう長くはもたない。けれど、その手術も、成功する確率は五分五分だと。

「姉が入院したのは、あなたと別れた、すぐあとでした」

妹さんの声が、わずかに震えていました。

「あなたに、迷惑をかけたくなかったんです。自分のことで、あなたの人生を、めちゃくちゃにしたくないって。だから、わざと嫌われようとしたんです」

ほかに好きな人ができた。あの言葉は、嘘だったのです。

私を突き放すために、彼女は、いちばん嫌われる嘘を、わざわざ選んだのでした。

電話を切ったあと、私はしばらく、作業台の前から動けませんでした。

あの日、喫茶店で伝票を残して出ていった彼女の、まっすぐな背中を思い出しました。あれは、私に追いかけさせないための、精いっぱいの強がりだったのです。

やさしさというには、あまりに不器用で、あまりに一人よがりな。けれど、それが彼女の、精いっぱいの愛し方だったのだと、私はようやく気づきました。

私は店を閉め、その足で病院へ走りました。

教えられた病室は、面会も制限された、特別な区画にありました。ガラス越しにしか、会うことができません。

ガラスの向こうのベッドに、真澄さんはいました。

半年見ないあいだに、彼女はずいぶん痩せて、白いシーツのなかに、今にも溶けて消えてしまいそうでした。

私の姿に気づいた彼女は、大きく目を見開き、それから、はっきりと顔をそむけました。

「帰って」

ガラス越しの、くぐもった声でした。

「なんで来たの。もう、関係ないでしょう」

私は、こみ上げるものを抑えきれませんでした。

「関係ないわけ、ないだろう」

気づけば、大きな声が出ていました。

「なんで、一人で抱え込んだんだ。俺は、そんなに頼りなかったか」

彼女は、そむけた横顔のまま、答えませんでした。ただ、握りしめた手の甲が、小さく震えていました。

意地をはっているのだと、すぐにわかりました。この期に及んで、まだ、私を巻き込むまいとしているのです。

その頑なさが、愛おしくて、そして、どうしようもなく悲しくて、私はガラスに額を押し当てて泣きました。

ガラスは、冷たく、かたく、私と彼女のあいだを、どこまでも隔てていました。

それでも私は、その冷たいガラスに手のひらを当てて、言いました。

「明日も来る。あさっても来る。おまえが何と言おうと、来るからな」

彼女は、答えませんでした。けれど、そむけた頬を、一筋の涙がつたっていくのが、ガラス越しにも見えました。

その日から手術までの二週間、私は毎日、病院に通いました。

けれど彼女は、かたくなに、私のほうを見ようとはしませんでした。

それでも私は、通うのをやめませんでした。ガラスの前に立って、たわいもない話をし、返事がなくても、また明日、と言って帰る。その繰り返しでした。

店であったこと、直した時計のこと、町のうわさ。私は、ひとりで話し続けました。

三日目に、彼女がほんの少し、こちらを向きました。四日目に、私の話に、小さくうなずきました。五日目には、ぽつりと、

「……ばかみたい」

とだけ、言いました。それが、半年ぶりに聞いた、彼女の私への言葉でした。

その一言が、どれほどうれしかったか。私は帰り道、誰もいない夜道で、声をあげて泣きました。

六日目には、彼女のほうから、小さな声で話しかけてくれました。

「お店、開けてなくて、大丈夫なの」

それは、半年前まで、毎日のように交わしていた、なんでもない会話でした。けれど私には、世界じゅうのどんな言葉より、あたたかく響きました。

「大丈夫だよ。時計は、待っててくれるから」

「時計は待ってくれても、お客さんは待ってくれないでしょう」

意地っぱりで、心配性で、やっぱり彼女は、私の知っている真澄さんでした。私は、この人が生きて、こうして憎まれ口をたたいてくれることの幸せを、かみしめました。

手術の前夜、私は、あの時計を持っていきました。彼女が最初に店へ持ってきた、祖母の形見の、あの腕時計です。別れたあと、修理代を受け取りに来ないまま、店に残されていたものでした。

ガラス越しに、私はその時計を掲げて見せました。

「これ、預かったままだった。退院したら、受け取りに来てくれ」

彼女は、ちらりとこちらを見て、そして、初めて、ほんの少しだけ、うなずいたように見えました。

手術は、朝から始まり、昼を過ぎても終わりませんでした。

私は手術室の前の廊下で、あの時計を握りしめて、ただ待ちました。

手のひらのなかで、秒針が、こつ、こつ、と時を刻んでいます。その規則正しい音だけが、私をかろうじて、正気につなぎとめていました。

どうか、この針が、彼女の心臓の代わりに、動き続けてくれますように。

私は、意味のないことだとわかっていながら、そう祈らずにはいられませんでした。時計の針と、手術室のなかの彼女の鼓動が、どこか遠くでつながっているような気がして、私はただ、その小さな音に、すがっていたのです。

手術は、成功しました。

けれど、油断はできないと医師は言いました。しばらくは、慎重に経過を見なければならない、と。

私は、それからも毎日、通い続けました。そして、彼女は、ゆっくりと、けれど確かに、回復していったのです。

回復に向かってもなお、彼女は、ときおり頑なな顔を見せました。私の負担になることを、心から恐れているようでした。

「私といたら、あなたは、ずっと心配ばかりすることになる」

あるとき、彼女がそう言いました。私は、首を横に振りました。

「心配できる相手がいることが、どれだけ幸せか。おまえは、わかってない」

彼女は、それきり、黙りこみました。けれど、その目もとが、少しだけ、やわらいだのがわかりました。

退院の日が来ました。

私は、あの時計を持って、彼女を迎えに行きました。

「退院、おめでとう」

時計を差し出すと、彼女は、両手でそっと受け取りました。文字盤のなかで、針は、今はもう、きちんと時を刻んでいます。

「もう、意地をはらなくていい」

私は言いました。

「これからのことは、全部知ったうえで、そばにいたいんだ。俺と、一緒に生きてくれないか」

彼女は、しばらく時計を見つめていました。

それから、顔を上げて、涙でいっぱいの目で私を見ました。

「私、これから先も、どうなるか、わからないんだよ」

「知ってる」

私はうなずきました。

「知ったうえで、言ってる」

彼女の肩が、震えました。

「……ばかね」

「ああ。俺は、ばかだよ」

私は彼女を抱きしめました。腕のなかの彼女は、驚くほど軽くて、けれど、その胸のおくで、心臓が、確かに、力づよく打っていました。

止まっていた時計が、また動きだしたときと、同じ音でした。

私の両親は、はじめ、この結婚に反対しました。体の弱い相手と、これから先、どうやって生きていくのか、と。

けれど、私の決意が変わらないと知ると、最後には、静かに折れてくれました。式の日、母は、真澄さんの手をとって、ただ、ありがとう、ありがとう、と繰り返していました。

真澄さんの両親は、私の手を、両手で強く握って、頭を下げました。

「こんな体の娘を、もらってくれて、ありがとう」

私は、とんでもない、と首を振りました。もらったのは、私のほうです。あきらめかけていた時間を、もう一度、動かしてもらったのは。

結婚してから、真澄さんは、あの祖母の時計を、毎日つけるようになりました。

「これをつけていると、祖母と、あなたと、二人に守られてる気がするの」

手首の細い彼女が、そう言って笑うのを見るたびに、私は、あの日、店を飛び出して病院へ走った自分を、心のなかでそっとほめてやりたくなるのです。

あれから、三年が過ぎました。

真澄さんは、今も無理のきかない体ですが、あいかわらず意地っぱりで、私はすっかり、その尻に敷かれています。

店の作業台には、いつも二つのお茶が並ぶようになりました。

朝、店を開けると、彼女が、少し眠そうな顔でお茶をいれてくれます。私は拡大鏡をのぞき、彼女はそのとなりで、静かに本を読んでいます。

ただ、それだけの時間が、どれほど得がたいものか。一度それを失いかけた私には、痛いほどよくわかるのです。

ときどき、彼女はふと手を止めて、私の手もとをのぞきこみます。

「その手が、私を直してくれたんだよね」

そう言って、いたずらっぽく笑うのです。私は、照れくさくて、いつもうまく返事ができません。

時計は、放っておけば、いつか必ず止まります。けれど、誰かが手をかけてやれば、また動きだす。

人の縁も、きっと同じなのだと思います。一度は止まりかけた私たちの時間を、もう一度動かしてくれたのは、あの、痩せた手が握りしめていた、小さな意地だったのですから。

私は今日も、拡大鏡をのぞきこみ、誰かの止まった時間を、そっと動かしています。

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