秘密で手話を
待ち合わせた彼女を待っていて見かけたのは、大学生風のカップルだった。
男の子が女の子の正面に立って、何かしきりに手を動かしていた。手話だ。
彼はやっと手話を覚えたこと、覚えるのは結構大変だったこと、女の子を驚かせようとして、その日まで秘密にしていたことを伝えていた。
女の子の方は、彼が勉強していることを知らなかったこと、本当に驚いたこと、嬉しいと思っていることを伝えた。
その内もどかしくなったのか、彼の手を握って二度三度、嬉しそうにその場でほんの少し飛び跳ねてみたりしていた。
悪趣味な盗み聞きだとは分かっていたけど、その時ようやく手話を使いこなせるようになったばかりの俺には、それは例えば外国の街で突然耳に入って来た日本語が気になるように、申し訳ないけどどうしても気になる光景だった。
多分、俺はにやけていたと思う。怪しい奴に見えたかもしれない。
でもそれは微笑ましく、こちらまで心が温かくなる光景だった。
※
服の裾が引っ張られる感覚に振り返ると、そこに俺の彼女が来ていた。
何を見ていたのかとか、顔が嬉しそうだとか、もっと早く私に気付けとか、微妙に頬を膨らませて、物凄い勢いで手話を繰り出す彼女。
俺は手話でごめんなさいと伝え、ちょっと昔を思い出していたことを伝えた。
それでも彼女は少し首を傾げ、その『昔』を知りたそうな表情だったけど、俺は笑って誤魔化した。
『今、目の前に居る女の子を驚かそうと、秘密で手話を勉強していた頃の事だ』
……とは、恥ずかしくて言えなかった。